香りの伝言
すやまたけし
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カオリは、初夏の夕暮れの街を歩いていく。定時に帰れるのはひさしぶりのことだ。前日までは、新商品の開発の仕事に追われていて、残業で忙しかった。
カオリは調香師だった。ある会社の研究所に勤めていて、化粧品や、食品や、芳香剤などに使う香りを調合するのが仕事だった。
カオリは子供のころから、人一倍、香りに対する興味と敏感さを持っていた。自分の名前がカオリだったので、人より香りというものを自然に意識するようになったのかもしれないと、彼女は考えたことがある。また、実際、彼女の鼻は繊細で感覚もゆたかだった。
調香師という仕事があると知った時には、彼女は「これこそはわたしの天性の仕事だ」と思った。
車と人々のざわめく街角を歩いている時だった。ふと、カオリは鼻先をかすめていくかすかな香りに気がついた。彼女は足をとめて、鼻を澄ませた。その香りはあまりにも弱かったので、一瞬、カオリは仕事の香りの残香ではないかと思った。仕事で、毎日、調合の際にいろいろな匂いをかいでいると、何も匂いがない場所でも、無意識の底にきざみこまれた匂いの記憶が、ふとしたはずみによみがえってくることがある。カオリはまた、職業病が出たのかなと思った。しかし、もう一度、注意深く鼻を動かしてみると、やはりその微弱な香りをかぐことができた。
バラの花の香りだ、しかも、悲しそうな香りだ、とカオリは思った。
匂いには、いろいろな表情がある。言葉にしなくても、絵画や音楽が人の思いを伝えるように、匂いも人の感情や気持ちを伝えることができる。楽しい匂い、悲しい匂い、怒りの匂い、淋しい匂いなど、匂いにはいろいろある。
カオリは時々、同僚のコーコと香りで会話をすることがある。カオリが休みに海を見にいったとする。その海のイメージと気分を匂いにして調合したものをコーコに渡す。すると、その匂いからコーコは海を思い浮かべ、さわやかな気持ちを味わうことができた。
また、ある時、コーコが、調合した匂いをそっとカオリに渡したことがあった。カオリはその匂いをかいでみる。胸が痛くなるような、切なく悲しい匂いだった。カオリはその匂いから、コーコが失恋したことを知った。さっそく、カオリは楽しくなるような匂いを調合して、コーコに黙って手渡した。コーコはその匂いをかいで、カオリに心から感謝した。言葉によるなぐさめや同情よりも、カオリの匂いによる励ましのほうが、コーコにはずっとうれしかった。
カオリは思う。コーコとだけではなく、他の人たちとも匂いによって言葉をかわせたらどれだけ素晴らしいだろう。しかし、ほとんどの人々は、カオリやコーコのように匂いに対する繊細な感覚を持っていなかったし、ふたりのように興味や関心を示さなかった。
カオリはふたたび、街の中を流れているかすかなバラの悲しい香りをかいでみる。足ばやに歩いている人々は、誰もこの香りに気がつかないのだろう。顔の高さぐらいのところを、香りのリボンが、風の流れに乗って漂っている。カオリは、その香りの流れてくる方向を確かめてみようとした。しかし、十階、二十階のビルが立ちならんでいる通りには、どこにもバラの花など咲いていなかった。花屋も見あたらなかった。
あのビルの角の向こうのほうからだ、とカオリは見当をつけて、帰りの地下鉄の駅とは反対の方角へ向かっていった。彼女は風の流れにそって、オフィス・ビル街を抜け、かすかなバラの花の香りをたどって歩いていく。香りは少しずつ、増していくようだった。
人々の流れはとぎれ、表通りの車の音も遠ざかっていく。少し行くと、カオリは静かな屋敷町にまぎれこんだ。カオリは、そのあたりに来たのははじめてだった。都会の真ん中にこのような閑静な住宅街があるのが、カオリには不思議に感じられた。緑に囲まれた落ち着いた雰囲気の屋敷がならんでいる。しかし、新しいマンションや会社のビルが、ところどころに建ちはじめている。何年かすれば、このあたりの様相も大きく変わってしまうのだろう。
悲しい香りは、はっきりと感じられるようになった。カオリは、どの家の庭にバラの花が咲いているのだろう、と捜してみるのだが、どこにもバラの花は見つからなかった。彼女は鼻をアンテナのようにして、香りの漂ってくる方向を見定めようとする。
確かに、このあたりからだ、とカオリが立ち止まったのは、あるマンションの前だった。
しかし、何百ものバラの花が咲き誇っているような香りがするのに、どこにもバラの花は見つからなかった。
バラの香りは、カオリに懐かしさと切ない思いを伝えている。この気持ちをある人に伝えてと言っている。マンションの道路に面した一部に、緑の植えこみがあった。カオリはその裏側にまわってみた。
植えこみの影になっているところに、バラの枝と葉がか弱そうにのびている。そして、彼女はその枝に小さなつぼみがいくつかついているのを見つけた。カオリに訴えかけるような香りは、そのつぼみが発しているのだった。カオリは目をとじ、鼻を澄ませて、そのバラの思いを静かに読みとった。
カオリはしばらくの間、そこにしゃがみこんで香りの思いを受けとめていたが、やがて、そっと大切そうに、そのバラのつぼみのついた数本の枝をつみとった。そして、そのマンションのななめ向かいに書店があるを見つけて、何かわかるのではないかと思い、入っていった。
書店で店番をしていた女性は、カオリの手にしているバラのつぼみを見て、懐かしそうに話しかけてきた。そして、カオリは彼女からそのバラにまつわる話を聞いたのだ。
マンションが建った場所は、数年前までは屋敷があって、老婦人と彼女の息子の家族が住んでいた。その老婦人はバラの花が好きで、毎年この季節になると庭にバラの花が咲き乱れ、あたり一面にその香りが漂った。しかし、その老婦人が病気で亡くなると、息子とその家族は屋敷を売り払って、引っ越していったということだった。
そのあと、ブルドーザーとショベルカーによって屋敷も庭も崩され、土地は整地し直され、現在のマンションが建てられた。おそらく、バラの株が幸運と偶然から、土の中に残っていたのだろうと思われた。
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次の日の休みに、カオリは書店の女性に教えてもらった墓地にやってきた。彼女が手に持っているバラのつぼみは、柔らかく開きはじめていた。
今は亡き老婦人の墓の前に来ると、カオリは日だまりのようにやさしいバラの香りに包まれた。懐かしい過去の美しい思い出が、彼女の心の中に伝わってくる。
カオリは、持ってきたバラを老婦人の墓にそなえ、両手をあわせて静かに拝んだ。
やさしい老婦人が、いとおしそうにバラの花に話しかけている姿がまぶたに浮かぶ。バラの花も、懐かしい人にめぐり会えて、喜んでいるようだった。
カオリは、その時、墓の前にそなえたバラから漂ってくる新しい香りを感じた。その香りは、「ありがとう」と言っているようだった。カオリはその何とも言えない暖かい匂いを、生まれてはじめてかいだような気がした。そして、しっかりとその香りを心にきざみつけた。
カオリは、明日、研究所に行ったら、その「ありがとう」の香りを調合して、コーコに贈ってあげようと思った。
[ おわり ]
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