風の呼び声
すやまたけし
○
村が燃えている。赤い炎が家々を包み、黒い煙が夕暮れの空に広がっていく。
旅の途中の青年が車をおり、燃えている村に近づいていった。荒野の中で一群の家々が音をたてて燃えさかり、すでに焼け落ちた家は黒くなった柱が斜めに傾き、元の姿をとどめていなかった。
村人たちが呆然と立ちつくし、自分たちの村が崩れて灰になっていくのを無言で見守っていた。青年は村人から、村に伝染病が流行して、それで村を焼いているのだということを教えられた。
暗くなった空を背景に、鮮烈な赤い炎が村を大地に帰していく。それは巨大な生物が息たえ、腐敗して土に帰っていく姿を思い起こさせた。
○
青年が民宿にたどりついた時には、あたりはすっかり暗くなっていた。さっきの村から車で三十分ほど走ったところで、ぽつんと明かりをともした小さな宿を見つけて、青年は泊まることにした。
その宿の裏手は森になっていて、いつから吹きはじめたのか、風で大きく揺れてざわめいている。青年が車から出ると、強い風が彼を襲った。電線が鳴っているのか、風の鳴き声が耳元をかすめていく。彼は体をちぢめて、風に逆らいながら、宿の玄関にやっとたどりついた。
その宿は老夫婦が経営していた。行楽シーズンには満室になるということだったが、その季節は客も少なく、その日の宿泊客は彼ひとりだった。
宿の婦人の作ってくれた暖かい夕食をとり、青年は二階の部屋に案内されて休んだ。
その夜、外は強風が吹き荒れていた。風の鳴き声が彼の耳にしみこむように、一晩中、吹きつづけていた。
○
青年が旅から帰ってから一か月ほどがたった。都会の高層ビルの会社で、彼は時間を気にしながら図面に線を引いていた。この二、三日、風邪気味で思うように仕事がはかどらない。退社時間が近づいているのに、その日の分は終わりそうになかった。
同僚が帰りじたくをはじめたころ、青年に電話がはいった。彼は、こんな忙しい時に、と思いながら受話器を受けとった。
遠い声が彼に話しはじめた。
「もしもし、……さんですね。私はこの前お泊まりいただいた宿の者です」
青年はその声から、やさしそうな宿の主人の顔を思い出した。
「宿帳から、あなたのお名前とご住所と勤め先の電話番号がわかりました。ぜひともご本人にお話ししなければと思いまして。ええ、急用なんです」
青年は机の上の図面を気にしながらも、宿の主人の話を聞くことにした。
「いかがですか。お体の調子が悪かったりしませんか。えっ、やはり、風邪をひいていますか。数日前からですか。背中がスースーしたり、寒気は。ああ、そうですか、妻もそうだったし、私もそうです。あなたも……どうやらあなたも私たちと同じ病気にかかったようです。はい、そうです。病気です。どんなと言われても……それを信じていただけるかどうか。はい、わかりました。あなたは私たちの宿に来る前に、村におよりになりましたね。そうです、村を焼いていた。その村です。風土病とでも言うのでしょうか。ここらへんでは恐風病と呼ばれている伝染病です。その病原菌が蔓延して、それで村を燃やしていたわけです。ところが完全ではなく、風下のこのあたりまで伝染してきたようです。そうです。強い風でしたし、運も悪かったようです。妻も風邪をひいたかと思ったら、やはり感染していました。残念ながら今朝……はい、そうです。私も妻とまったく同じで、今とても息が苦しいんです。はい、あなたもすでに病状が現れているようです」
青年は電話の主が、か細い声で息も苦しそうになっている理由がわかった。電話が非常に遠くに聞こえる。しかも、誰かがいたずらして電線を揺すっているかのように、雑音がはいるし、声も波をうっている。
「そうです。たぶん、あなたもこちらでその病気にかかったのでしょう。私はもう駄目なようです。寒くて、寒くて、息も苦しい」
男の声はしだいに小さくなっていく。青年は励ましながら、その病気についてもっと知りたくて尋ねた。しかし、宿の主人の声は力弱くなり、青年の声も聞こえないのか息づかいだけが受話器を通して聞こえてくるばかりだった。風の鳴る音がしている。そして、ついに力つきたのか向こうの受話器が何かにあたる音がして、声がとだえた。
青年は受話器を耳にしたまま、相手のようすをうかがった。遠い遠い距離、電線が風にうなっている。その音が青年の耳の奥にまで吹きこんでくるような気がした。心までが寒くなってくる。
大きな声で何度も何度も相手に呼びかけてみた。しかし、返事はなかった。風の音だけがしている。青年はあきらめて受話器を置いた。
大変な病気らしい。青年は仕事どころではないと思った。まわりを見ると、もう同僚たちはとっくに帰ったあとで、広い部屋には彼がひとり取り残されているだけだった。
悪寒がひどくなってきた。背中を冷たい水が流れているような気がする。寒い、寒い。
胸の中に穴があいて、そこを冷たい風が通り抜けていく。さっき電話の向こうで鳴っていた風の音が、耳の底で耳鳴りのように吹き荒れている。心の中の荒涼とした原野を北風が吹き過ぎていく。
○
青年は会社から逃げるように、夕暮れの街に飛びだした。初夏の街はまだ薄明るく、空気も暖かかったが、彼は寒くて歯があわないほどだった。腕を胸の前であわせて身震いしながら、病院を捜して歩きまわった。
すれ違っていく人の波は、彼のことを振り返りもしないで黙々と過ぎていく。
林立する高層ビルの谷間を風が吹き抜けていく。青年はふらふらと歩調を乱しながら、風を避けてビルの影にはいっていった。息が苦しくなってくる。大きくあえいで、彼は体をおりまげてアスファルトの舗道に手をついた。
ビルの影になったその場所は暗かった。青年はまわりにそびえる高層ビルを見あげ、この街はあの荒野の村のように燃えて大地に帰ることはないだろうと思った。寒い。耳元では、遠くからの風の鳴る音がつづいてる。あの風の音だ。電話の時に聞こえていた電線の鳴る音だ。どこかで灰色の空を風が流れ、電線がもの悲しくうなりつづけている。風が遥かな空から彼を呼び、風が彼の心の中で鳴りつづけている。
青年はうずくまり、寒さに震えた。風が彼の皮膚の隙間から、心の中に向かってしみこんでいくようだ。
風の渦が青年の体の中で彼を強く揺すった。彼は息をするのもつらくなってきた。
風が彼を呼んでいる。青年は自分がもろく崩れていくのを感じた。風が体の中から彼を壊していく。そして都会の石の森の中で彼はさらさらと砂のように崩れ落ち、一陣の風になって舞い上がった。
高層ビルの上を風になった彼が青ざめながら吹き過ぎていく。車のテール・ランプの赤い色が、夕闇ににじんであざやかに見える。
帰り道を急ぐ者たちの中で、ビルを吹き抜けていく風のもの悲しい鳴き声に気づき立ち止まる者はいなかった。
[ おわり ]
| トップページへ | 「帆船の森」目次へ | 前 へ | 次 へ |
Copyright (C) 1998 Takeshi Suyama. All Rights Reserved.