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          ガラス湖
                                 すやまたけし


          ○
 彼はひとり、霧におおわれた山道を歩いていく。懐中電燈が、闇の中の道を心細く照らしだし、そのまわりの霧だけがミルク色にぼんやりと薄明るくなる。
 木々は深く眠り、時々、光におびえるかのように葉が揺れてざわめいた。
 山道をおおっていた霧が、少しずつ薄れていく。そして、夜空の星がよみがえりはじめる。青い満月が孤独に浮かんでいるのが見えた。
 湖の岸辺には、すでに村人たちが点々とたたずみ、みな、おし黙ったまま湖の中央にある小島を見つめていた。
 湖の岸辺のところどころに、かがり火が燃えていて、人々の黒い影が、静まりかえった湖面を背景に浮きあがっている。
 湖面は凍りつき、まわりの山の黒い影と夜空を映しだしていた。
 凍った湖面は実際、ガラスのように平坦で、磨きあげられたようになめらかだった。
 彼は湖の岸をゆっくりとまわり、石の門のところへやってきた。
 石の柱が二本、人間の両手をいっぱいに広げたほどの間隔をあけて立てられていた。それは湖に向けられた石の門のようでもあるし、忘れられた古代人の墓石か遺跡のようにも見えた。
 その門と向かいあうように、湖の真ん中の小島の岸辺に、同じような石柱が二本、立てられていた。
 その門の向こうには、石造りの建物がひとつ、静寂の中におごそかに建っていた。
 彼は不思議な男から教えられたことを思い返した。
 ある地方の深い山を入っていった村には、昔から言い伝えられている伝説がある。
 山奥にあるガラス湖と呼ばれる湖は、毎年、冬になると水面が鏡のように凍りつく。その後、はじめて満月が現われる真夜中、満二十歳の者がそのガラス湖の氷を渡り、島の神殿の中にある鏡を見ると、自分の未来の姿が映るということだった。
 彼は、それまで何の苦労もなく育ってきた。だが、二十歳になって、自分の将来に対して、いくらかの不安や疑問を感じるようになっていた。
 だから、その男の話を聞いて、自分の未来を見ることができるならば、見てみたいと思うようになった。
 そして、彼は冬休みを利用して、この山奥の寂しい湖にやってきたのだった。
 彼が、石柱の門の前に立つと、近くにいた数人の村人が、ちらりと視線を向けた。よそ者に対する警戒心や、軽蔑感はないようだった。未来の自分を見ようとする彼の気持ちを察するような、同情と寛容のいりまじったまなざしのようだった。
 村人たちは毎年、このガラス湖で、二十歳になった者たちが未来の自分の姿をかいま見るようすを、どのような興味を持って見守っているのだろうか、と彼は思った。
 または、自分たちが二十歳の時に神殿の鏡に映った未来の自分を見たときの記憶を、これから見ようとする二十歳の者たちに重ねようとしているのだろうか。
 彼らはみな、沈黙のベールを身にまとったまま、ガラス湖の中の小島の神殿のほうを見つめている。
 やがて、小島の神殿から、若い女性がゆっくりと出てくるのが見えた。
 彼女も二十歳なのだろう。そして、今、神殿の中の鏡に映る自分の未来の姿を見て、出てきたのだろう。
 彼女は向こう岸の石の門を通り、静かにガラス湖の凍った湖面を渡ってくる。
 こちらの岸に近づくとともに、かがり火に薄明るく照らされた彼女の表情がわかるようになる。
 どんな未来を、彼女は見たのだろうか。
 彼女は口をかたくとざしたまま、こちら側の岸の石柱の門の手前で待っている彼の横を通り過ぎていった。
 その時、彼は一瞬、彼女の横顔にほのかな微笑が浮かんでいるのを認めた。その女性は鏡に、明るい未来の自分の姿を見たのだろうか。
 しかし、彼は彼女にそのことを聞くわけにはいかなかった。もし、彼が聞いたとしても、彼女はそれに答えたりはしないだろう。
 自分が見た未来を、人に話したりしてはいけないのだ。
 彼女は無言のまま、ガラス湖を背にして、その場所を離れていった。
 次は、彼の番だった。
 彼はかわいたくちびるをなめ、唾液をのみこむと、意を決して足を踏みだした。
 こちら岸の石の門を通り、真正面に小島の石の門を見ながら、氷の張った湖面に足を乗せてみた。氷は充分に厚みがあり、思ったよりしっかりしていた。
 彼はすべらないように気をつけながら、ゆっくりと歩きだした。
 彼の足元の氷の表面は鏡のようになめらかで、夜空と彼の姿を映していた。
 彼の姿……。それは彼の現在の姿ではない。そのガラス湖の氷には、彼の過去の姿が映るのだ。
 岸から一歩、踏みだした時、その氷の面には、彼の生まれた時の姿が映っていた。彼は写真で知っていた自分の赤ん坊の時の姿を見た。まるまるとして健康そうな赤ん坊だった。
 彼が湖の中央の小島に向かって歩を進めるごとに、氷面に映る過去の姿も変化していく。 幼児の時の彼の姿が現われ、その氷に映る彼の姿は一歩ずつ切れ目なく連続的に成長していく。
 やがて、小学校にあがるころの彼になる。幸福な時だった。何の苦労もなく大きくなっていった。少年の時の彼の姿が、氷の表面で次第に大きくなっていく。
 中学生になり、高校生になる。彼はその自分の過去の姿を見て、懐かしい季節を思い出す。友人にも恵まれ、成績は心配なかった。母親はやさしく、父親の仕事もうまくいっていた。家庭は裕福で幸福だった。
 大学も希望通りの道を進めたし、何もかもうまくいっていた。彼はその移りゆく自分の過去の姿を見ながら歩いていく。
 氷に映る自分の姿が、やがて現在に近づいてくる。ついに、そのガラス湖の氷の面に映った姿が、今の自分に重なる。そして、小島の岸にたどりついた。
 小島の石の門を通り、彼は神殿への石畳の道を歩いていった。石造りの神殿はひっそりとして、神秘的だった。入口が彼の前にぽっかりと開いている。
 彼は思いきって、その中に足を踏みいれた。神殿の床は石が張られていて、彼の足音だけが響いた。壁面に開けられている窓から月の光が差し込んでいるのか、神殿の中は薄明るい。彼の目もその薄明かりになれてくる。
 目の前の壁に、等身大の鏡があった。彼は進みでて、その鏡の真正面に立った。
 鏡の中に、ぼんやりと彼の未来の姿が霧のように浮かびあがってくる。そして、徐々にその姿が鮮明になってくる。
          ○
 湖の小島を見ていた村人たちは、冷たい大気を引き裂く、鋭い叫び声を聞いた。神殿の中のその悲しい声はしばらくの間つづいた。
 しかし、それもやがて沈黙し、ガラス湖はふたたび冷ややかな静寂の輝きを取り戻した。
そして、その銀盤には、青白い満月が小さく映っていた。

[ おわり ]


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