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          金の糸
                                すやまたけし/文・絵/梅川紀美子



Copyright (C) 2002 Kimiko Umekawa

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 坂道を、マリンはゆっくりとした足どりであがっていく。
 目の前にそびえている山が近づいてくる。鳥が翼を広げたように、山嶺は左右へ広がっている。
 山を見て、私は小さな生き物だ、とマリンは思った。
 宇宙の底がのぞけそうに澄んだ青い空を背景に、稜線が山の形を鮮明に浮きだたせている。
 この目に映る風景、頬に触れる風、枯れ草の匂い、鳥の羽ばたき、この空の青さ、私は息をしている、生きている、と彼女は思った。
 冷たい空気は口の中で、かすかに鉄の味がした。枯れ葉が音をたてて舞った。自然を全身で感じている。この世界を心で感じている。
 私がいなくなっても、この山は、森は、空は、ありつづけるだろう。
 私は、どこかからやってきて、この地上に少しの間こうして置かれ、ふたたび、どこかへ帰っていく、消えていく。
 彼女は、先に逝ってしまったモーリのことを思った。彼はマリンをひとり残し、旅立ってしまった。
 彼は、今、どこにいるにいるのだろう。今も、どこかにいるような気がする。心の中だけでなく。
 世界を感じることがなくなる、自分が無になるとは、どういうことだろう。自分がいなくなるなんて。
 ただ、私が死んでも、モーリと同じところへ行けると思うと、死に対する恐れは小さくなる。彼はすでに、そこにいるのだから。彼と同じ道をたどるだけだと思うと怖くなくなる。
 私も、いつか、あなたのところへいく、また一緒になれる、とマリンは思った。
 マリンは空を仰ぐ。
 山の遙か上空を、ジェット機が右から左へ進んでいく。西へ向かう定期便の旅客機だ。水色の空に、白くて細い飛行機雲をひきながら。時間とともに飛行機雲はのびていく。確実に時を刻んでいる。
 坂は緩やかな傾斜ののぼり坂、もうすぐ、滑り止めの凹凸をつけた急坂だ。
 クモの糸のようなものが一本、風に流されて飛んでくるのに気がついた。金色に輝き、光をはねかえしながら、ゆっくりと近づいてくる。きれいだ。
 マリンは、前にも、この金の糸を見たことがある。
 この坂で、昔、そして、そのときは、ひとりではなかった。
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 マリンとモーリが、ふたりで坂道をあがっていくところだった。話している途中、偶然、同時に同じ言葉がふたりの口から出た。ふたりは顔を見あわせて、思わず、笑ってしまった。
 風はやさしかった。木々の葉が揺れた。
 ふと、モーリが青い空を指さして言った。
「あれっ、なに?」
「クモの糸?」
「でも、金色に輝いている」
「きらきら、光っている。天使の髪の毛?」
「まさか」
 美しい細い糸が、金色に光りながら、浮かんでいる。
 ふたりが見ているうちに、金の糸は、南のほうへ、町へ向かって風に流されていった。
「あれは、なんだろう。どこへいくのだろう」
「生きているみたい」
 不思議な金の糸だった。


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 おとめ座活動銀河。
 昔、私は青い大気の底に生きていた。

 さんかく座渦巻銀河。
 どこにいたのだろう。何をしていたのだろう。

 アンドロメダ銀河。
 曖昧で不透明な闇の向こう側に、かすかに忘れられた記憶として残っている。

 かじき座大マゼラン星雲。
 それが何であるのかはわからない。

 アワーグラス星雲。
 それを知りたくて、私はいっぱいにからだを広げる。大きく、大きく、そして、薄い薄い膜になる。

 おうし座かに星雲。
 恒星からの光の粒子を風のように受けて、帆をはらませた帆船が進むように宇宙をいく。

 へび座ワシ星雲。
 苦痛はない、悩みはない、不安もない。時間すらもない。

 おとめ座銀河団。
 透きとおった私は宇宙の一部という感覚、もしかしたら、宇宙は私の中にあるのかもしれない。時間さえも私とともにある。過去も未来も、一瞬も永遠も、渾然としてある。

 エッグ星雲。
 耳を傾けようとするものに、神は世界の仕組みを示してくれる。

 はくちょう座網状星雲。
 宇宙との一体感。幸福だ。しかし、何かが足りない、欠けている。より完全になるために飛翔する。

 オリオン座オリオン星雲。
 あのとき、私は本当の自分になれた。あの場所では、心が安らげた。今よりも幸福だった。

 みずがめ座らせん星雲。
 同じ時間を重ね、同じ風景を見て、一緒に道を歩いていた。

 りゅう座惑星状星雲、猫の目星雲。
 みんな、みんな、夢だったのだろうか。
 懐かしく美しい日々、懐かしく美しい世界。
 故郷へ帰ろう、遙か彼方の闇の向こうに。

 うさぎ座。
 海の底にいるヒトデが、夜空の星と出会った。ヒトデと星の間には、海と、青い空と、遠い距離がある。届かない想い。ある日、星は流れ星となって、この世に落ちてきた。星のかけらは海の底に沈み、ヒトデと一緒になった。それから、彼らは、永遠の時間をともに過ごした。

 冥王星、海王星、天王星。
 水色の空、木々の葉が緑に光り、季節の花が咲き、小鳥がさえずる、冬には白い花が舞う。川は時間のように流れている。

 土星、木星、火星。
 小さな雫、青い宝石、それはこの暗黒の宇宙の中で唯一、生命を感じさせる美しい星だった。青い海と、白いマーブル模様を作っている大気圏の雲が、美しい。
 私は、あの大気の底で生まれ、生きていた。遠い旅が終わる。私の心は、その青い地球とつながっていた。帰ってきた、故郷に。


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 地球にたどり着いたモーリの魂はあまりにも希薄で空虚なので、真空の宇宙空間を旅していたときと違い、青い濃密な大気にさえぎられて、それ以上、おりていけなくなった。しばらくの間、水面のような大気層の表面に浮かび、漂っていた。
 そこで、薄い膜のように広がっていた魂を、小さく小さく凝縮させた。密度を大気よりも大きくする。やがて、細い細い、一本の金色の糸になった。
 太陽の光をあびながら、薄青い大気の底へ向かって沈んでいった。気流に流されながら。
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 坂道をあがっていくマリンは、心の中でつぶやいた。
 いつか、この日、この今を思いだすことがあるだろう。
 ジェット旅客機が西の方へ過ぎていった。青い空に飛行機雲が細く残った。少しずつ、飛行機雲はほつれ、薄れていく。それだけ、時間がたったということだ。
 もうすぐ、この冬、初めての雪が降る。私はこの風景を忘れない。そして、私は死んだあともこの地上を懐かしく思いだすだろう。
 私は美しい世界に生きていた。そこは、魂の落ちつく場所、私の故郷。
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 金の糸は風に舞い、おりてきた。木々の枝をかすめ、電線を横切り、意志があるかのように、マリンをめざして。
 輝く細い糸は、彼女の頭のまわりを泳ぎ、そっと、髪の毛に触れた。そして、白いものが混ざっているマリンの髪に、よりそうようにとけこんだ。
 彼女は何気なく、てのひらを頭に持っていく。
 風でほつれた髪の毛を静かに撫でると、金色の細い糸はまるで、もともと彼女の髪の毛の一本であったかのようになじみ一緒になった。
 ずっと、ずっと、それは、彼女とともにあるだろう。マリンは、いつも、習慣のようにてのひらで触れるだろう。そのたびに、懐かしさを覚え、モーリを思い出すだろう。
 マリンは、今、モーリがそばにいてくれるような気がした。心の中だけでなく、自分のからだの一部としても。
 彼女は、モーリの笑顔を思い浮かべ、ほほえんだ。モーリも、彼女がほほえんだことを知り幸福になった。ふたりは、また、ひとつになった。ふたりの時間が動きだした。
          ○
 彼女よりずっとうしろ、距離をおいて坂道を歩いていく者がいた。彼は、前をいく女性が、だれかとふたりで、幸福そうに言葉を交わしながら坂道をあがっていくのを見た。
          ○
 飛行機雲が消えた空は青く、深く、この世界は美しかった。

[ おわり ]


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