「化粧」:推理その2『女心と化粧の厚さ』/推理その3『奪われた?男の化粧』/推理その4『命がけの肉体改造』

推理その1:「初めて化粧をした人類」
神が、地上の生きとし生けるものを創造したとき、美と醜が存在した。その真意のほどは知らないが、威風堂々バランスのとれた肉体とみごとな毛並みを授かった百獣の王もいれば、同じ哺乳類でありながら身体にまで浅ましさが刻印されたハイエナのような生き物もあった。
伝承によると、神は自らの姿に似せて人を創造したというが、これはかなり眉唾ものである。というのも、生まれたままの人類は、体毛も貧相なら肉体的に秀でたところもなく、ただ地味なばかりの見劣りのする生き物だったのだ。初期人類はサバンナと森の境界域に暮らし、木の実や果実を拾い集め、水辺の昆虫やカメ、ネズミなど手に入れやすい小動物を餌に飢えを凌いでいた。運がよければ大型動物が食べ残した屍肉にありつけるが、それさえもハイエナに先を越され、自らが餌食となる恐怖に怯えながら、目立たぬ身体で鳴りをひそめて落穂を拾うがごとく、食物連鎖の片隅で残飯を漁っていたのである。このような貧相な生き物に似せて神々は創造できない。神が地上に創造したままの人類は、まだ神を想像することができなかった。
さて、人類の進化を神はどこまで予測しただろうか。この地上に、現実に存在する人類は、とんでもない挙に出る。やつらは集団行動を巧みに操り、やつらより遥かに身体能力に秀でた大型獣を捕獲した。その行動は本能に備わったレベルを超え、狩猟効率の飛躍的な向上をもたらし、収穫物をホームベースに集めて集団で分配することで、高栄養の安定的確保も実現した。やつらの群は火を囲み、肉を焼き、肉の美味さを味わい、上等な蛋白質が大脳皮質と言語の発展を促し、群は社会を形成していく。やつらは神の意志を超えて、地上の力関係を覆していったのである。そしてついに、与えられた身体にまで手をつけた。
考古学が示すところでは、3〜4万年前の遺跡から石器などの道具とともに装飾品や彫像が出土し、南ドイツの遺跡からは頭部がライオンの姿をした人の小像が発見されている。これは人がライオンの毛皮を被っていたことを想像させる。およそ防寒が目的とは考えられず、毛皮の持つ美しさや強さの象徴こそが装いの主眼であっただろう。また数々の遺跡から顔料の使用も示唆されている。毛皮や羽、色素を用いて、ヒトでありながら、ヒトにあらざる装いを凝らしているのだ。ここに地球史上初めて自ら身体を加工する生物が出現した。人類は『装い』という手段を使って、艶やかさを獲得したのである。
このように進化した生き物が、野心を抱かないはずがない。彼等はますます強さに憧れ、美しさを追い求めた。やがて彼等は、自然や神々を畏れ敬うだけでは飽き足らず、神との交信さえ試みる。祭壇を設え、ご馳走をならべ、司祭は声高らかに神々に語りかけた。この時の司祭は、もはや裸の人類ではない。神がいつから衣服を身に着けていたか知らないが、神とのコミュニケーションを求めた人類は、神と向かい合うに相応しい装いを凝らしていた。ここにいたって初めて人類は、自らの姿に似た神を創造できたのだ。
さて、化粧の話である。振り返れば、あまりにも長い歴史をもつ化粧。人が歩んできた化粧の世界を、恐る恐る、少しだけ覗いてみよう。
電車の中で化粧をする少女の姿は、東京ではもはや日常風景となっている。初めて目にした時は、まず、驚いた。そして、首を傾げた。彼女らの視界には、そこに人は存在していない。人を魅せる化粧には、工程は見せないという約束事があったのだが、彼女達は化粧の醸し出す秘め事のイメージを打ち砕き、不精なオバサンよろしくシルバーシートに鎮座していた。
ルール違反として断罪される彼女たちだが、少し知恵がある少女なら反論するだろう。映画の中だって、女優が化粧をするシーンがあるじゃないかと。しかも、「魅力的」といった評判まである。しかしその後には、女優の嘲りが返ってくる。「私はあのシーンを魅せているの」と。化粧をする姿が見苦しいわけではない。日本画はもとより、「化粧する女」は芸術の一つのテーマだ。舞妓の化粧姿を撮る写真家は、髪を結い上げ、丁寧に塗ったおしろいの顔に、緊張した面持ちで最後の仕上げに紅をひく、その一瞬にシャッターを合わせるだろう。そこには秘匿の美しさを覗き見る魅惑と緊迫感がある。舞妓もまた魅せているのであり、無防備に見せているのではない。おしろい半ばの顔は、決して撮らせない。
大人の一方的な少女たちへの断罪は、さらに加わる。「なに、その厚化粧」というのだ。不細工な女を表現するときは、厚化粧をさせるのが手っ取り早い。厚化粧というだけで、充分その効果を発揮する。再び知恵ある少女は反論するだろう。「舞妓さんの化粧は濃いじゃないか」と。そのとおりだ。しかも舞妓は少女より若いかもしれない。「若いうちは素顔で充分きれいなのよ」などとオバサンは言うが、少女は納得できない。それは、そもそも少女とオバサンで化粧に求めているものが違っているからだ。
オバサンたちが絶対に理解できないのがガングロ化粧だ。ちっともきれいじゃなく、第一あそこまで描いてしまうと、どの子だかわからない。しかしながら、ガングロと舞妓の化粧には大きな共通点がある。
舞妓には、化粧から仕種、衣装、髪型まで詳細な決まり事がある。髪は丸く愛らしい「割れしのぶ」に結い、化粧は顔から首、襟足の一面に鬢付け油を伸ばしたうえに練りおしろいを刷毛でたっぷり塗り、白塗りが終わると目元に紅をさし、眉も赤で描く。口紅は下唇だけにおちょぼ口に少しだけ塗り、「おぼこく」仕上げる。赤い長襦袢に赤に金糸の刺繍が入った衿、振袖には肩上げがあり、だらりの帯をしめて、「おぼこ」という丸い高下駄を履く。お座敷では常に控えめに振舞い、旦那衆との話を盛り上げるのは芸妓になったお姉さんの仕事で、舞妓ははにかみ、微笑み、幼子の頼りなさを漂わせて、本当の幼子にはあるまじき酒宴の席に彩りを添える。全てが旦那衆の心地よさのために、長い歴史をかけて創り上げてきた虚構の世界であり、舞妓はそこに配置されるひとつの役所なのだ。
完成された雅の世界で、舞妓はあくまでも舞妓として振舞う。化粧はカンバスに描くがごとく、素の顔に舞妓の顔を描く。舞妓に仕上がったときには、素がだれであったかは問題にならない。ここに化粧の持つ仮面性がある。雅な世界とガングロを同列にしてはお叱りもあるだろうが、ガングロも同様にガングロを描く。舞妓にとって化粧は非日常世界への支度であり、ガングロ娘も日常からのささやかな脱出を求めて顔を塗る。ガングロ娘が目指すのは美しく装うことではない。「化ける」ことが目的なのだ。化けること、それは別の人間、別の存在に変身することであり、化粧の原点である。
遡ること7万年、旧石器時代の人骨には目や口の周辺に染料の痕跡が見つかっている。日本では古墳時代の埴輪などから、顔全体に朱を塗る風習があったとされている。朱には魔除けの霊力があると信じられた。卑弥呼が神と交信していた時代には、目を隈取ることで邪気の侵入を防ぎ、神の言葉を話す巫女の口は火の色に染められていた。化粧をするものは神の代弁者であり、特別の存在だった。
時代を下り平安になると、富を集め、広い寝殿造りに暮らすこととなった貴族たちに中国から白粉(おしろい)がもたらされ、労働から離れて薄暗い奥座敷で過ごす彼等の顔を白化粧が引き立てた。この頃には呪術的な色彩は薄れてくるが、恋に身をやつす貴族は、丁寧に眉を抜き、高価な白粉を惜しみなく塗り、額に人にはあらぬ形の眉を描いた。この頃には、魅惑という大きな目的が化粧に付け加わるが、異様な厚化粧は特権階級の象徴であり続けた。
さらに時代が下ると、町人が経済力を有してくる。豊かな上方商人の妻や娘は、成り上がりの常よろしく貴族を真似て化粧に手を染めた。もちろん高価な白粉をたっぷり塗り、黒光りするほど濃く紅をひいた。
薄化粧が登場するのは江戸以降である。交通の要に位置した江戸は、開幕後経済の中心地としても栄え、町人文化も花咲くが、上方商人ほどの財を手に入れるのは江戸も後期を待つこととなる。活気とそこそこの経済力を持った江戸っ子は、白粉を慎重に伸ばし、大事に紅をつけた。着物も金糸銀糸などは高嶺の花、地味なものを身に着けた。しかしそれだけでは将軍様のお膝元というプライドが許さない。そこで江戸っ子のやせ我慢は「粋」という文化を編み出していく。
こうして化粧が大衆化してくると、経済的事情から薄化粧となり、薄化粧には素地が残るところから、素をきれいに粧うための化粧が生まれていった。江戸の女は肌に気を遣ったのだ。
さて、男性諸氏が恋人や妻に日頃求めるのは、「粧う」化粧でこそあれ、「化ける」それではないだろう。女は、化粧をせずにはやっていられないときに、鎧さながらの化粧を施す。薄化粧が恋心なら、厚化粧はいわば戦闘服だ。「化ける」と「粧う」を間違えた女がパロディなのは言うまでもない。傍らに座る女のファンデーションの厚みの中に、女の本当の心が隠されているかもしれない。
化粧は女のするもの、と私たち教わってきた。しかしその常識は、歴史的には嘘である。明治政府が国民国家の精神的支柱として崇めた明治天皇は、断髪に髭の軍服姿で閲兵式に臨む凛々しい姿が強調されてきたが、それ以前は化粧の似合う少年だったようだ。維新直後に天皇に謁見した西欧人は、顔を真っ白に塗った女のような天皇の姿を書き記している。宮廷の化粧法だ。徳川によって権力から遠ざけられた300年間も、公家たちは化粧の習慣を維持していた。天皇もしかりである。しかし明治政府には、天皇と化粧という事実を抹殺しなければならない事情があったのである。
男の化粧は平安貴族に始まり、連綿と続いてきた。質実剛健を美徳とした武士も、最初から野暮だったわけではない。平氏の武士は化粧をしていたらしく、源平入り乱れて戦った戦乱期には、平氏の落ち武者は化粧をしているからすぐ分かったというエピソードが残っている。敗走という生死の際に、白塗りの武者というのはいかにも軟弱そうで、泥臭い関東武士を中心とした源氏は平氏の姿を嘲ったものだが、源氏が負けた時には日焼けした顔を百姓侍と馬鹿にされていたのである。
実は、戦というのは見栄えが非常に大切なのだ。武勇には、カッコよさが求められる。血まみれで転がり悶える負のイメージだけでは、だれも志願などしない。戦とは、勲なし名を馳せる檜舞台である。腕が立とうとみすぼらしくては、覇者の名誉を獲得できない。戦争にはこういうトリックがある。
実際、源氏平氏に関わらず、戦場に赴く武士たちはとてもお洒落だったようだ。馬具から武具、鎧兜はできる限りに最高のものを設え、そのグッズも自慢の種で、手入れを怠るはずもなかった。戦法が一騎打ちから集団戦に変化するにつれ、動員された足軽などは衣装といえないほどになっていたが、武将は見た目にも威厳を保った。そして、いざ決戦という日、老いた武将は鏡に向かった。万一この首が敵の武将に渡った時、なんだこんな老人が大将かと思われたのでは当方の戦意にも影響し、親方様にも申し訳ないと、かつらをかぶり、若作りの化粧を施した。死化粧である。化粧にはこんな使い方もあったのだ。
お歯黒もまた、女だけのものではなかった。平安貴族はもとより、武士も鉄槳(カネ)で歯を染めていた。武士の場合は主君に仕えたときに染めたらしく、歯が黒ければ主君がいる証拠で、二君にまみえずという意思表明だったようだ。実際にはお歯黒の武士も、口をすすいで主君を渡り歩くこともなかったわけではないようだが。
このように公家も武士も、自らのステイタスを表す道具として化粧を活用してきた。しかし、徳川時代になると男の化粧は廃れていく。そこには関東武士を基盤とした経済事情や精神文化もあっただろうが、それ以上に、戦のない、戦の禁じられた武家社会に男の化粧は馴染まなかったのだろう。時代は雅よりも質素を、武勇よりも秩序を、男の美徳として押し付けていく。武士は大人しい武家となり、活力も町人に及ばなくなっていった。江戸期の300年は、町人文化が武家文化を半ばなし崩しにしたことで救われたのかもしれない。町奴は化粧をしていた証拠こそないが、市中には伊達者たちが溢れ、三味を爪弾き、幕府を茶化してもいたのである。
さて、日本で最終的に男から化粧を奪ったのは、西欧化だった。富国強兵、国民軍の創設の中で、男たちは三々五々に歩くことも許されず、行進の仕方を叩き込まれていく。可憐な明治天皇も偉勲ある姿へとファッションを転換させる。男が化粧などもってのほかとされ、派手な着流し姿の「はぐれ雲」は東京から放逐された。偶然かどうかは知らないが、男色が人にあるまじき行為として全面否定されるのもこの頃である。
では、一足先に近代化を走った西欧はどうだったのか。17世紀のフランスでは宮廷を中心に男たちは華麗な衣装を身に纏っていた。太陽王と呼ばれたルイ14世は、かつらをかぶり、フリルを多用した色鮮やかな上衣に豪華なキュロットを身につけている。彼の治世はヴェルサイユの宮廷文化が最も華やいだ時代であり、慎重160センチ足らずという小柄な王が好んでハイヒールを履いたことから、宮廷の女たちにもハイヒールが流行していったと言われている。おそらく化粧や香水にも凝っていただろう。また、王はプロの男性ダンサーに舞台衣装を着けてダンスを踊らせ、時には自らも一緒になって踊った。華美であり優雅であることが、この時代のステイタスであったのだ。
しかし、男のお洒落が絶頂に達した時、終焉の序曲も始まっていた。やがて、売春を生活の糧とするパリの洗濯女や、マイスターの道も閉ざされた徒弟男は、手に手に銃を取り、バスチーユを、ヴェルサイユを襲撃し、ルイ王朝は崩壊する。百年の闘争を経て市民社会が定着したとき、男のファッションはどれも同じようなカラススタイルとなっていた。というのも、華美な姿は権力者の象徴であり、民衆を不当に収奪した結果ととらえられたのだ。民主主義こそが絶対真理とされる社会では、労働こそが尊敬され、多忙であることが美徳とされる。革命期を生き延びてブルジョアジーに転身を遂げた貴族も、富はあくまでも自らの労働と才能の産物であるという顔を装わなければならなかった。労働の妨げとなるフリルは断念し、一見、そのへんの中産階級と変わらない、ただ服地が高価なだけの背広で身を隠した。自らダンスに興じることもなくなり、歌舞音曲はコンサートホールで楽しむばかり。お洒落の快楽を女に譲り、男はめかした女を連れて歩くことで間接的にステイタスを主張した。そのことが女性への敬意を高めたのか、所有欲を増長したのかは知らないが、見るからに訓化された男性の姿がポピュラーになったようだ。
こうしてハイクラスのファッションが抑制される一方で、みすぼらしかっただけの下層には、ささやかながらお洒落を楽しむ余裕が生まれる。大量生産が安価な衣服を供給し、カラフルなシャツを着ることも、いいかげんな服装でいる気楽さも覚えていった。ただし、針の穴から秩序の階段を目指す上昇志向の男は、カラススタイルによる「誠意」の表明をよぎなくされる。自由という言葉の氾濫ほどには、男は自由にならなかった。
近代化の怒涛は、男たちから外見上の艶やかさを奪ってしまったようだ。それが単に外見だけならいいのだが、長い尾羽を切り取られたオス鳥でないことを祈るばかりである。
グラマーな女と胸の小さい女ではどちらが魅力的かと聞くと、多くの男は「それぞれに」と答える。自分の彼女の前では違う台詞も吐くのだろうが、女の胸が話題になる時、男は必ずニヤつく。それほど男の関心を引いてやまない「オッパイ」だが、昔々からそうだったわけではない。
女性の胸がセクシーポイントとして意識されたのは、日本では日も浅く、戦後にブラジャーが普及してからだと言われている。それ以前は待合室で授乳するお母さんの姿は当たり前の風景で、特別に胸を隠すでもなければ、男の視線が集まるでもなかった。地方の温泉などでは混浴も多く、男も女も手拭で前は隠したものの、胸に対する意識はもっとさりげなかったようだ。
そういう意識の違いから、日本ではブラジャーの浸透に時間がかかった。和装が一般的だった女性に対して、それがいかに女の動きを不自由にしており、家庭の中に閉じ込める封建的思想の現われであるかが喧伝され、自由闊達な新しい女性像として洋装が奨励され、洋服もより肉体にフィットした活動的なデザインになるにつれ、下着としてのブラジャーが必須アイテムとなる。また、女の胸を子育ての象徴から解放し、自らの性の象徴とみなそうという思想も盛り込まれた。こうしてブラジャーは、女の側から、自己主張として登場したのである。
このブラジャー効果は、女性の自由度を高めたかどうかは疑わしいが、男性に対しては覿面だった。胸を包み隠し、そのラインを見せたことで、男の想像力を掻き立て、みごとに視線を集めたのだ。おかげで、それまで和装でさほど体のラインなど気にせずにいられた女たちは、胸の形、尻の形に神経を使わなければならなくなってしまったのである。
西欧でもブラジャーやパンティはフェミニズムの主張を反映して登場する。それまで中上流階級の女は、骨が変形するほど激しくコルセットで腰を締め上げていた。バスト100センチ、ウエスト40センチが理想体型とされていたほどで、現代人の目から見れば、そのスタイルは醜悪でさえある。彼女たちはよく気絶したらしい。娘にコルセットの締め方を厳しく言うのは母親の役目であった。ちょうど中国で、幼い娘の足を纏足布で血が滲むほど締め上げるのが母親の役目であったように。かわいそうな娘は、悲鳴を上げ、涙を流しながら、上流階級の登竜門として耐え忍んだのである。
フェミニストは訴えた。それらの行為は残酷であると。あるがままの女性の肉体を謳歌しようと。そうして、コルセットを脱ぎ捨て、闊歩する女性のためのファッションや下着が作られていった。ただし、ここで一つ、フェミニストの大きな見落としがあったのだが、それは後で気付くこことなる。
ところで、外着で楽なのはどんな服装だろうか。スーツは肩が懲り、ジーンズも座敷での飲み食いは苦しい。ゴムウエストのパンツやスカートという手もあるが、恰好のいいものではない。意外に着慣れてみると楽なのが、和服だ。自然に背筋が伸びて肩の力が抜ける。和服が苦しいというのは、着崩れを直せない人のために美容師が一寸の隙もなく着付けるためで、ゆったり目に締めた帯なら飲み食いも平気、コツを覚えれば階段の上り下りも裾が絡みつくでもない。ウエストサイズの変化にも柔軟で、愛用の着物は中年太りにびくともしない。草履や下駄は水虫や外反母趾には無縁で、鼻緒さえ足に馴染ませておけば歩くのも苦にならない。実際、昔の日本人は和服で雑巾掛けをし、現代人よりよほど歩いていた。コルセットも纏足も強要されなかった日本女性は幸いである。そのぶんだけ日本では、礼儀作法、立ち居振舞いが厳しく言われたが、身体は傷つけずに済んだ。西欧が女性美を形で表現する文化なら、日本は動きで魅了する文化ではなかったか。
そんな話は今は昔、躍動的で体のラインを美しく見せるファッションが、女たちを肉体改造へと駆り立てている。十代の少女が過激なダイエットに走るだけでなく、中年女性のための十数万円のボディースーツも売れ行き好調という。どちらも体にいいはずもない。フェミニストの意に反して、あるがままの肉体は女性自身に肯定されなかったようだ。
さて、そろそろお気付きだろうか。コルセットもダイエットも、エスカレートする過程には男が関与していない。もちろん最初は男性の目線を意識したはずだ。例えばボーイフレンドが、「ちょっと痩せたら」と言う。彼の本心は言葉通り、「ちょっと痩せること」を期待しただろう。しかし彼女には「ちょっと」という言葉は伝わらず、人格を全面否定されたような錯覚に陥り、ダイエットが進行するにつれてボーイフレンドの希望など乗り越えて、ダイエット自体が目的となる。そこまで行けば、「痩せすぎじゃない」などという彼の声は聞こえない。痩せた女が街に出回ってくると、これがトレンディな女なのだと男たちが洗脳されていく。前の時代にそうであったように、腰の細い女、足の小さい女が最初は魅力的であっても、醜悪なまでのエスカレートを止める力は異性にはないのである。
そして現在、命がけの身体加工は花盛りだ。「健康のため」を逸脱して身体を蝕むことも珍しくない。ご承知の通り異性の魅力というのは、地域により、時代により、揺れが大きい。流行があるほど当事者はエキセントリックにもなる。そこには美しく見せたいというだけでは収まらない、執念の臭いさえ漂っている。
人の心は容易に通い合わず、魅力を認め合うのも簡単ではない。まして、男と女をや。自分を分からせるには、自己を表現しなければならない。視覚に訴えるのも方法の一つ。化粧をし、自分を表す有効な被服を纏い、身体の一部を見せて、これが私の姿であると立ち現れる。他に豊かな表現手段を持つ人はいざ知らず、化粧もファッションもボディラインも自己表現の一手段なのだから、そうそう手を抜けない。しかもこの自己表現は、もっと細い腰、さらに小さな足、より脂肪を削ぎ落とした足へとエスカレートし、無限の自己満足へ落ちていく危険性を孕んでいる。
しかし、「あるがままの肉体」を穏やかに肯定する人々もいる。南フランスにヌーディスト村があるというが、ここではバカンスシーズンともなれば10万人もの人々が裸の暮らしを楽しんでいるそうだ。町中の人々が一糸纏わず、かといって裸体を見せびらかすでもなく、どことなくはにかみがちに、自然と溶け合って日々を過ごす。彼等自身はヌーディストでははくナチュラリストと自称している。一度味わったらやめられない開放感があるという。なるほどその暮らしは、円熟したある人生のあり方が示されているようにも思える。男と女の激しい情熱とは対極にあるようだが。
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