日本語学校論集15号
昭和63年12月25日

“助動詞”のない文法

吉川 武時

[要  旨]

 “助動詞”ということばは国語の文法に現れる。 日本語教育の文法には、ふつうこのことばは現れない。 それは、「日本語教育の文法」だからなのではない。 これは、活用(語形変化)をどう考えるかという問題と関連する。 いわゆる“助動詞”の大部分は、変化語尾の中におさまる。 “助動詞”の不当性を述べる文法辞典や書物はあるのに、 多くの人はいつまでも「いわゆる助動詞」という形で、 このことばを使っている。 ここらで、これを止めることにしたらどうか。 “助動詞”をなくせば、日本語の文法はもっとすっきりする。

1.はじめに

 “助動詞”ということばは国語の文法に現れる。 「付属語で活用するもの」を助動詞と言っている。 日本語教育での文法には、ふつうこのことばは現れない。 しかし、教師の中には、ふとこのことばを口にのぼらせる者もいる。 また、国語の文法と日本語教育での文法は違うのが当り前 と思っている者もいる。
 ここで「日本語教育の文法」と言わずに 「日本語教育での文法」と言ったのは、 もし前者のように言うと「日本語教育だけで行われている特殊な文法」 と解されるおそれがあるからである。 後者のように言えば、 「日本語教育で現在ふつうに行われている文法」 と解されると思う。日本語教育だからといって、 別に特殊な文法を教えているわけではない。
 日本人にとってはじめて出会う「助動詞」は、英語の can であろう。 中学の英語では「I can swim.」などという文で、can は助動詞ですよ、 と教えられる。can は一つの立派な単語で、自立語である。
 一方、国語では「食べた」の「た」、 「行こう」の「う」などを“助動詞”だと教えられる。 これは自立語ではなく、付属語である。 こういう性質の違うものを同じ名称で呼ばせられる中学生は不幸である。

2.助動詞肯定派と助動詞否定派

 北原保雄は『日本語助動詞の研究』(大修館 1981)の序章「助動詞とは何か」に 「−−助動詞は品詞として認められるか−−」という副題を付けている。 これを見ると、否定的な解答が予想されるが、 内容を読むとそうではない。 「助動詞の研究」というようなタイトルの本を書くのに、 その対象物を否定していいわけがない。
 北原は助動詞肯定派として、大槻文彦、橋本進吉の名を挙げている。 そして、否定派として、山田孝雄、松下大三郎、鈴木重幸、渡辺実の名を挙げている。 肯定派の橋本についても、北原は「橋本は理論の上から助動詞を語と認めているのではなく便宜に従っているのである。」 と書いている。(p.13)
 北原は「助動詞という用語を用いるたびに、 「いわゆる」という修飾語を冠するなり、「 」で囲むなりの処置を講ずべきところであるが、 そうすると、かえって煩雑で読みにくくなることを恐れ、 助動詞とのみ表記することにする。」と書いている。(p.45)
 文法辞典の類もこの線にそっている。
 松村明編『日本文法大辞典』(明治書院)には、次のように出ている。
助動詞(じょどうし)
 独立して用いられることはほとんどなく、 いつも他の語に付属して用いられ、上の語の意味を補ったり、 表現者の判断を付与したりする語。 品詞の一つに数えられているが、 品詞以下のものとして単語にはみない考え方もある。 助動詞には活用があるのを本則とし、 活用がない助詞とあわせて辞または付属語と呼ぶ。 (中略)
 助動詞という名称は英文典における auxiliary verb の訳語として西欧文法に準じて作られた名称であるが、 西欧文法にいう助動詞とは似て非なる点があるから、 助動詞という名称は用いないとする説、 あるいは用いてもきわめて消極的に便宜的にしか用いないとする説があるが、 それはもっともなことである。 国語の助動詞は独立性が弱く、 英語などの助動詞はわが国の補助動詞に相当している。(p.332) (アンダーライン 吉川)
 「もっともなこと」なのになぜ人はいつまでも「助動詞、助動詞」というのであろうか。 また、ここには英語文法の助動詞とは違うということが書いてあるが、 これは「はじめに」で述べた中学生のとまどいのことである。
 『国語学辞典』(東京堂)も大同小異であるので、省略する。

3.いわゆる“助動詞”とは

 いわゆる“助動詞”というのは次のものである。
  1. れる・られる、せる・させる
  2. たい
  3. そうだ(様態)
  4. ようだ
  5. ない・ぬ・ん
  6. らしい
  7. そうだ(伝聞)
  8. う・よう・まい
  9. です・ます
 次に、これらを一つずつ検討していこう。

(1)れる・られる、せる・させる

 「れる」と「られる」は同じもので前につく動詞が違うだけである。 「せる」と「させる」についても同じである。
 これは助動詞とせず、接尾語とする。 例えば、「食べられる、食べさせる」は「食べる」から派生した派生動詞とする。 「食べられる、食べさせる」は「食べる」と同じカテゴリーに変化する。 つまり、
食べる食べられる食べさせる
食べた食べられた食べさせた
食べない食べられない食べさせない
食べて食べられて食べさせて
食べれば食べられれば食べさせれば
のように、「食べる」の変化形のそれぞれに「食べられる、食べさせる」の変化形が対応するわけである。
 「(ら)れる」の意味は「受身・可能・自発・尊敬」である。 一つの形が4つの文法的意味を表すというのが、 学習者にとって分かりにくいものである。 ある時、学生がこの形について、受身でかつ尊敬の意味はどうやって表すのか、 という質問をした。「食べられられる」だろうか? しかし、これはちょっとおかしい。
 尊敬の意味を受身と同じ形で表すのは、非常に紛らわしい場合がある。
 アナウンサー:お風呂屋の娘さんにほれられたそうですね。
 木 下:いいえ、私がほれたのです。
 インタビューのアナウンサーは尊敬の意味で「ほれられた」と言った。 木下氏はそれを受身の意味に取ったのである。 これは「ほれる」が「人にほれる」と使う動詞だから、 受身形にすると「人に〜られる」の「に」と紛らわしくなるのである。

(2)たい

 「食べたい」の「たい」である。これは助動詞とせず、 希望の表現を作る接尾語とする。 出来たものは形容詞として変化する。 「食べたい」は「食べ−たい」と二語ではなく、一語である。

(3)そうだ

 「食べそうだ」の「そうだ」である。 (「食べるそうだ」の「そうだ」は(9)で扱う。) これは助動詞とせず、「〜ように見える」を表す接尾語とする。 出来たものは形容動詞として変化する。「食べそうだ」は「食べ−そうだ」と二語ではなく、一語である。

(4)ようだ

 「食べるようだ」の「ようだ」である。 これは「食べる ようだ」と分けられる。 また、「食べた ようだ」「食べない ようだ」「食べられる ようだ」のように 使われる。つまり、「ようだ」の前には自由形式が来る。
 この「ようだ」は、「ことだ」と似ている。「ことだ」の「こと」は形式名詞と言われ、次のような形でいろいろな文法的意味を表す。「ようだ」もそのそれぞれに対応した形を持っている。
〜ことだ〜ようだ
〜ことにする〜ようにする
〜ことになる〜ようになる
NのことだNのようだ
 これらの形の文法的な意味については改めて論究しなければならない。

(5)だ

 「机だ」の「だ」である。これは特殊なことばである。 山田孝雄は「説明存在詞」と考えた。(『日本文法学概論』) 助動詞否定派の鈴木重幸も「指定の助動詞」として残している。(『文法教育』むぎ書房 1963) これは、動詞の変化表(後述)になぞらえて変化させると次のようになる。 (一部分だけを示す。)
普通形丁寧形
肯定形否定形 肯定形否定形
現在形 ではない ですではありません
過去形 だったではなかった でしたではありませんでした

(6)た

 「食べた」の「た」である。これは助動詞ではなく、 過去形を作る変化語尾である。 もちろん、「食べた」「取った」で一語である。 「食べ−た」「取っ−た」のような二語とは考えられない。 第一、「取っ」のような発声の途中までを一語とする扱いは間違っている。

(7)ない・ぬ・ん

 「食べない」「取らない」の「ない」である。これは助動詞ではなく、 否定形を作る変化語尾と考えたい。 なるほど、「ない」は単独で用いられるが、「ぬ・ん」はそういうことはない。 また、「取ら」を単独で発話することはない。(一段動詞では「食べ」は中止形として用いられる。)
 英語では I don't eat、あるいは I do not eat のように二語(あるいは三語)で表現するので、 日本語でも二語と考えたくなるのも無理はない。 しかし、これについては、他の言語の否定表現のことと考え合わせ、 今後の研究課題としたい。

(8)らしい

 「食べるらしい」の「らしい」である。これは「食べる らしい」と分けられる。また、「食べた らしい」「食べない らしい」「食べられる らしい」のように使われる。つまり、「らしい」の前には自由形式が来る。
 そうすると、「らしい」は一品詞と認められる。形容詞の変化にしたがうから、形式形容詞としたらどうか。

(9)そうだ(伝聞)

 「食べるそうだ」の「そうだ」である。これは「食べる そうだ」と分けられる。また、「食べた そうだ」「食べない そうだ」「食べられる そうだ」と使われる。つまり、「そうだ」の前には自由形式が来る。
 そうすると、この「そうだ」は一品詞と認められる。(4)の「ようだ」に似ている。

(10)う・よう、まい

 「う」と「よう」は同じもので前につく動詞が違うだけである。「取ろう」の「う」、「食べよう」の「よう」である。これは助動詞ではなく変化語尾である。「取ろ」と単独で発話されることはない。
 「まい」は「食べまい」あるいは「食べるまい」の「まい」である。否定推量を表すと言われている。つまり、「〜ないだろう」と言い替えられる。が、文体が非常に違う。子どもはめったに使わない。

(11)です、ます

 「机です」つまり、名詞+「です」の「です」である。これについては(5)「だ」のところで述べた。「です」は「だ」の丁寧形である。
 「ます」は「食べます」「取ります」の「ます」である。これは助動詞ではなく変化語尾である。「食べ」「取り」と単独で発話されることはあるが、それは中止法の意味としてである。
 こうしてみると、“助動詞”は要らないことになる。上の“助動詞”は次のようにまとめられる。
1 れる・られる、せる・させる 接尾語動詞として変化する
2 たい 接尾語形容詞として変化する
3 そうだ(様態) 接尾語 形容動詞として変化する
4 ようだ 形式語 「形式名詞」に似る
5 (特殊)(説明存在詞)
6 語尾 
7 ない・ぬ・ん 語尾  
8 らしい 形式語「形式形容詞」
9 そうだ(伝聞) 形式語「形式名詞」に似る
10 う・よう・まい 語尾 
11 です、ます 語尾  
  次に動詞の変化表の一部を示す。
普通形丁寧形
肯定形否定形 肯定形否定形
現在形 食べる 食べない 食べます食べません
過去形 食べた食べなかった 食べました食べませんでした
この表の中の「た、ない、なかった、ます、ました、ません」は、助動詞ではなく、変化語尾だということがよく分かるであろう。

4.動詞の変化表

 日本語教育では、動詞の変化を次頁の表のようにまとめている。 これは、言語学の理論に基づき、話し手の内省に合い、 かつ学習者に納得がいくもので、 さらに説明しやすいように作り上げたものである。
 ある日本語の教師は、国語の文法は国語の文法、 日本語教育の文法は日本語教育の文法、 と別のものと考えていることがあるが、 そういうものではないはずである。  
「読む」の変化
普通形丁寧形
肯定形否定形肯定形否定形
叙述形現在形読む読まない 読みます読みません
過去形 読んだ読まなかった 読みました読みませんでした
連体形現在形読む読まない (読みます)(読みません)
過去形 読んだ読まなかった (読みました)(読みませんでした)
意 志 形読もう  読みましょう  
命 令 形読め読むな   
中 止 形読み読まず   
テ の 形読んで読まないで
読まなくて
読みまして読みませんで
ナガラの形読みながら   
バ の 形読めば読まなければ  
◎連体形は原則として叙述形と同じ。ただ、丁寧形を使うことは少ない。
 『月刊言語』1988年9月号(大修館)は「これからの日本語教育」を特集している。 その中で小泉保は「新『日本語文法』を目指して」を書いている。そこで提案している活用体系(p.67)は、すでに日本語の教科書で採用している。(細部は異なる)これからの日本語教育といい、「新・日本語文法」というものが、すでに日本語の教科書にはあるのだ。
 ただ、上のように考える教師がいるので、はっきりしなかったにすぎない。

5.おわりに

 寺村秀夫は『日本語のシンタクスと意味U』(くろしお出版)に

学校文法のいわば諸悪の根源が、 文語文法で考案された活用形の整理、 とくに五十音図にあてはめての整理と分類にあることは、 既に見てきたとおりであり、 諸家の新しい活用表の考え方もその点では同じ出発点に立っている と見てよいであろう。
と書いている。(p.41)
 以上見たように、文法辞典も、大文法家も、 “助動詞”に雑多のものが入っていることを認めてはいるが、 いつまでも従来の説にこだわって「いわゆる助動詞」と書いている。 これはなんとか、ならないものか。 諸悪の根源が“助動詞”だと言ったら言い過ぎであろうか。
 日本の子どもに教える従来の「学校文法」に諸悪の根源があるとしたら、 日本語教育で教えている文法を日本の子どもに教えたらいい。 日本の子どもに正しい日本語の体系を示すのは当然である。
 今までは、日本語の教師は日本語教育のことだけを考えていればよかった。 しかし、上の義務を果たすために新しい対応が必要になってきた。
 敢えて言おう。留学生が増えてきた。日本の学生と交流があるだろう。 文法の話になったとき、日本の学生が「書かない、書きます、書く、・・・・」 しか知らないとしたら、留学生と話が合わなくなるだろう。

参考文献
北原保雄『日本語助動詞の研究』(大修館 1981)
松村明編『日本文法大辞典』(明治書院)
鈴木重幸『文法教育』(むぎ書房 1963)
小泉 保「新『日本語文法』を目指して」(『月刊言語』1988年9月号、大修館)
寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味U』(くろしお出版)

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