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私のワンダーフォーゲル観
脱ワンダーフォーゲル論
ワンダーフォーゲル像をもとめて
私が日本ワンダーフォーゲル会へ入った動機はワンダーフォーゲルが日本へひろまった歴史について知りたいと思ったからでした。
ドイツのワンダーフォーゲル運動の歴史も興味がありましたが、この頃既に『W・ラカーのドイツ青年運動
ワンダーフォーゲルからナチズムへ』(人文書院、1985年)
西村 稔訳、がでておりましたし翌1986年には『世紀末ドイツの若者』
上山 安敏著三省堂→講談社学術文庫)が出版されました。
しかしこのような本が出版されるのはなんでこんなに遅かったのでしょうか。
私が学生だった1970年代、ワンダーフォーゲル史の資料を捜しあぐねて、大学図書館の司書に相談したところ、
その文献が意外に少ないのに逆に驚かれました。
研究してみる価値はありますね。
といわれたものでした。 それを東京で実践されていたのが富松
京一 (本会元理事)さんでした。
では私が何故ワンダーフォーゲル史に関心があったかと言うと、
ワンダーフォーゲル諸先輩の話をうかがっても皆ワンダーフォーゲルとは何ぞや、
という議論をされてきている。ところが、それらの議論では往々、資料や事実の裏付けがあまりない。つまるところ、私はこう考える、こうあるべきだ、これで良い。と言う個々の考えをつき合わせている事が多いのである。
私もその手の議論は何度か経験した。活動は山主体でいくか、多様化路線でいくかなどと活動内容をめぐっての議論とセットになっていることが多かった。
しかしそういう議論はあまり意味がないのではないかとも思った。
せっかく煮詰めた路線が一、二年でまた変わってしまったり、毎年同じ議論を繰り返したりしている。
スポーツならば記録をのばす、勝負に勝つ、と言う目標がある。ラグビー部が毎年、今年はどんなルールにしようかなどと、考えるだろうか。
細かい点は別にして、こういうルールでやるのが野球、
野球はこういうルールでやるものという関係があるはずだ。
ところがワンダーフォーゲルにはそれがない。
だからあちこちでいろいろな定義がされる。ワンダーフォーゲルは雪山は行かない、とか雨の日は歩かない。
あるいは三千M級の山は行かないとか、なかなか外部からはその根拠が解りかねるものも多い。
概して「安全」というのがキーワードのようだが、その割りに事故を起こしてるクラブも少なくないのではないか。
ところで数少ない資料ながら判った事もいくつかあった。
ヒトラーユーゲントとの関係では、それに組み込まれていくのに抵抗するような動きもあったこと。
民謡の掘り起こし、保存にはっきりとした成果を残したこと。寸劇を好んだこと。禁酒、禁煙など活動上、道徳に厳しい動きのあったこと。
さまざまなグループ、派があって離散、統合の動きが盛んだったこと。
ユースホステルへの展開においてもワンダーフォーゲルの本質論から異論のあったこと(野営こそ真髄であると)。
第二次大戦までに全く姿を消しているからドイツへいっても交流はできないということ。
大体18歳以下の未成年が主体の運動であったこと、などには結構考えさせられたものであった。
またその頃ドイツでは緑の党など環境保護の活動がめだっていたので、
それらはワンダーフォーゲル運動の系譜をひいているに違いないと推測した。が、殆ど関係をしめすような資料は得られなかった。しかし、私はその頃は自然保護活動はワンダーフォーゲルの取り組むべき本源的活動であると考えていた。
歴史的な出会い
さて、私が日本ワンダーフォーゲル会へ入った1990年(H2)、 研修部会をつうじてドイツワンダーフォーゲルに関係する二人の方にお会いすることができた。
佐野えんねさんはドイツでワンダーフォーゲルを経験されて長じて日本へドイツ語教師として来られた方。 もう一人はウィルウェーバー・エンさんである。えんさんは京都うまれの科学者です。御主人が、やはりドイツで少年の頃ワンダーフォーゲルを経験され、 生涯情熱をもち続けられ方でした。えんさんは、佐野えんねさんにドイツ語を習っておられます。
このお二人のことについては吉田晴彦会長が当会報12、 13号に詳しく書いておられます。 佐野えんねさんを岐阜県美濃加茂市へたずねたメンバーは(当時)吉田副会長、藤井副会長、安田理事長、富松さん。 ウィルウェバー・エンさんを神戸に訪ねたのは寺村会長、吉田副会長と云う錚々たるメンバーでした。 私は全く幸運にも日本のワンダーフォーゲル史に残る重要なシーンに立ち会うことができたのかもしれません。
ドイツワンダーフォーゲルの本質と全体像
以前私が関係する京都の湿原保護に関わる会の会報の中で、
つぎのように書いたことがあります。
「ワンダーフォーゲルが日本に国民体力向上のための一種の健民運動としてつたえられたのは、1931年(昭和6年)といわれています。
一方発祥国ドイツではえんねさんが日本に来られた1933年はナチスが政権についた年であり、
ドイツ青年運動の終焉の年とも考えられています。
私はドイツのワンダーフォーゲルの原初は日本の今の高校生位の年頃の青年による自主的、自律的な単なる野外活動、渡り歩きだと思いますが、 現在の日本のワンダーフォーゲルにも意外とその雰囲気をのこしているような気もします。そして第2次大戦後復活して50年近くも続いているのは、 要するに理念を突き詰めることをしない私たちの傾向によるのでしょう。」(1995/2八丁平通信27号 えんねさんとワンダーフォーゲル)
正しく最近の研究を理解していないかも知れませんし、私自身、 自由なワンダーフォーゲル運動がもっと以前に伝えられていて(単に文献だけでなく)日本で行われた例があるのではないかと推測しているのですが。
引用した文のうち、理念をつきつめない私たちの傾向、というところでは、私がそれを否定的に考えていると、読まれた方も多かったようです。しかし私は必ずしもそうは思っておりません。理念を突き詰めることは私たちが少しでも賢明になるために大切なことですが、かえって本質から遠ざかっていくこともあるように思います。
20世紀初めの当時のドイツでは鉄道の発達とともに旅行が大変盛んになっていたと云うことです。 日本でいう苦学生にあたるのかどうか、 カール・フィッシャーたちは物見遊山の大人たちの旅行に反発しつつ、やはり自分も旅がしてみたかったのかも知れません。安上がりに(金が無かったので)、自己主張のある(目立ちたい)、 但し自分たちはインテリであって浮浪者と間違えられてはいけない。
こうして本音を正当化し、実現化するために補強された理屈、 理念は、 彼らの成長とともに進化し、あるいは彼らがワンダーフォーゲルのステージから去り、少年時代からワンダーフォーゲルを経験した青年が指導者層になるとともにワンダーフォーゲルの理念も進化していったのではないでしょうか。
それなしには彼らは旅立てなかったのです。また、若者達をコーチしたり、影響を及ぼしたいと考えるまわりの環境も大きかったでしょう。ともあれその生成発展の全体がワンダーフォーゲルであり、 その名前と不可分に不断に追求された理念によってワンダーフォーゲルは運動となり、人格形成期の青年期前期、少年期の人間におおきな影響をあたえることができたのではないでしょうか。
日本独自のワンダーフォーゲルは単なる山登りか
先に述べた譬えのように、
あるスポーツには特定のルールがあり
、そのルールこそがそのスポーツである、
と云う関係があるとすれば、
まずドイツのワンダーフォーゲルを定義し、では日本独自のワンダーフォーゲルとは何であるか、
が定義され、その理念に殉じると言った覚悟の活動でなければそれはワンダーフォーゲル活動とは言えないかも知れません。
未だワンダーフォーゲルとは何かと問いかけつつ、
一方かってシゴキ事件や初歩的な山岳事故で犠牲者を出し続けているにも関わらず、
実際何十年も続いてきているのは、
そこになにか暗黙の共通理解があるか、あるいは、やっているのがワンダーフォーゲル活動、
とは言えない何か、である可能性がある。私は両方であろうとおもっている。
ワンダーフォーゲルは単なる山登りの会ではない。これはよく聞かれる言葉ですが、私は敢えて本質的には単なる山登りの会、
に近いワンダーフォーゲルでいいのではないかとも考えます。
しかし、単なる山登りといってもそんなに狭い範囲のものではない。
今手もとにある、昭和17年~18年にかけて出版された『登山講座』全6巻(山と渓谷社)の内容を見ると、登山の技術はもとより、登山と山に関する、歴史、民俗、科学、文学、芸術とありとあらゆる分野にわたっている。時局柄、国防色でふちどられてはいるが、これはこれで登山とは何か、どうあらねばならぬか、と云う理念をまじめに求めた結果でしょう。
当会の初代会長の寺村さんもそうでしたが日本のワンダーフォーゲルの先駆者の方がたも日本山岳会のメンバーとなることを一つのステータスと考えておられるようです。私の知っている京都の大学ワンダーフォーゲル部でも府岳連に加盟しているクラブもあります。また京都市中学校体育連盟にはW・V委員会という専門委員会があり、
府岳連にも加盟しています。つまり日本ではワンダーフォーゲルは登山活動の一形態、一項目と考見做される傾向が強い。
脱ワンダーフォーゲルにむけて
二、三年前だったか南アルプス北岳の稜線でどこかの大学ワンダーフォーゲルに出会った。
多分下級生であろうが最近の装備からは考えられないほど大きなザックをかつがされている。
しかも、 というよりそれゆえにデタラメに詰められたことは一目瞭然。
片荷でしかも後ろへ引かれている。
当然つらそうな格好であるいている。
これはまあ勝手の内かなあとも思ったのだが、
驚いたのはそんな格好で歩行しながら歌集を片手に持って、誰々、つぎ歌います。
とやっていたことだ。 これをして19世紀末起こったドイツワンダーフォーゲルの精神が21世紀日本へ受け継がれようとする姿と見るべきなのだろうか。
案外彼らはそういうことこそワンダーフォーゲルの特色なのだとマジメに考えているのかもしれない。
かく言う私も学生時代ファイトファイトと大声をあげての登山をし、
後輩にさせもした。 一方、 山小屋への一般公開登山(ワンデリング)や周辺の村の民話の聞き取り、
湿原保護のための活動、地元へのアンケート調査、署名、街頭ビラ配り、市議会への請願。
そして山小屋の移転。
こういう活動がワンダーフォーゲルの名のもとに行われたことには誇を感じている。
しかしながらそれらの活動はうけつがれていない。それどころか、らしくない活動であったと捉えられている節もある。
これはどうも私を含めて考え方の出発点がおかしかったのではなかろうか。
人一倍熱心に活動をしたのにワンダーフォーゲルがなんであるかを説明できないばかりに、
人前で自分の経歴を語りたがらないワンダーフォーゲルO・Bを私は何人も知っている。
学生時代は山登りをしていました、とだけ答える人も多い。
本会会長の吉田晴彦氏はかって、次のような譬えを、作家塩野七生さんのエッセイから引かれています。
「他国の文化を輸入するときは、文化の心も一緒に輸入しなければ不意味である。
ざるそばをフォークで、スパゲッティーを箸で食べてはいけないのだ」(会報13号、ワンダーフォーゲル運動について-
8 )
日本には日本独自のワンダーフォーゲルがあるはずだ、と云う考えは、どこかに理解可能なドイツにおけるワンダーフォーゲルの定義と云うものが前提されているのではないか。
あるはずどころか、
そもそも、その発音からして(ドイツ語の半分英語読み)充分、日本独自と言えるでしょう。上の譬えでいえば、スパゲッティーは日本でいえばそばのようなものである。よってスパゲッティーを箸で食べることには妥当性がある。こういうへ理屈を打破するのはそう容易ではない。要は他国の文化を尊重するかどうかなのだけれど。
私は求めても容易には得られない過去の複雑なドイツワンダーフォーゲル運動を定義したり、
構築不能と思われる日本の独自のワンダーフォーゲルの理念化やそれによる活動を考えるよりも(すなわちスパゲッティーをフォークで食べることにこだわるよりも)、
個々の活動団体が自分たちは何をする会なのか、実際のところ何を頼りに、楽しみに活動してきたのか、を知ることが意味があるのではないか、と思っています。
従って、 私は日本の(ワンダーフォーゲル)団体の多くはもう、
ワンダーフォーゲルを名乗らぬほうが良いのではないか、名乗るべきでないと考えます。
そこで私は以上のような諸事情を勘案し、
広く日本の(ワンダーフォーゲル)活動を過去から現在にわたり顧みて、一言でその全体を括れる言葉として、英語のワンデリングが相応しいのではないかと提案する。
何何ワンデリングクラブ、部。あまりに馴染み過ぎている言葉ですから、筆者は頭がおかしいのではないかと思われるかもしれない。しかしこの一語で南の島へ旅をしようが、街をあるこうがヒマラヤへ登ろうが、今ワンダーフォーゲルと称してやっているすべての活動が網羅できるでしょう。
簡単にいえばこういうことです。
スパゲッティー部といいながら、そばやうどんやラーメンも食べるのはおかしいではないか。
それでは麺食い部かヌードル部とでもすればいいのではないか、ということだ。
その上で、アルプスの稜線上で歩きながらカラオケ大会みたいなことをすることには一登山者として注意するようにしたい。
これでいろいろな問題に解決がつくのではないだろうか。
遥か源流にドイツワンダーフォーゲルがあった。
この流れをくむことを記憶にとどめつつ、一つ一つが個性ある団体として存在すべきだ。そして現在の実態に相応しい名前を各自が選び取るべきである。
1997/5/12、1998/6/22一部省略改変