imago vol.2−12 1991年12月号 所収
1. 糞便愛と詩
例えば極端な場合を除いては、糞便愛好者においても、かさかさに乾いた路傍の便が性欲をそそる割合は少ない。逆に、糞便が、隠された女性の肛門との繋がりを生々しく感じさせればさせるほど、糞便はより広範な人々の間で悦楽の対象として愛でられる資格を獲得する。美しい女性が排泄する瞬間の窃視、あるいは、美しい女性の抵抗を封じその意思に反して排泄させる事。排泄と糞便は、より優れた性的対象となるためには、隠されているもの、禁じられているものという条件を満たすことを要請される。隠されているものとしての排泄が暴かれる時、倒錯者は、糞便を「物」のあるはずの位置に再発見するための準備を整え終えるのである。糞便は、美しい女性の肉体というヴェールで包装され、時によっては美しい化粧と美しい衣服によって二重の包装の内に囲いこまれることで、欲動の対象としての機能を一層見事に果たせるようになる。糞便は、欲動の往復運動によって対象aとしての価値を付与されるが、幾重ものヴェールの内に梱包された糞便は、この時禁じられた母親のファルスに限りなく近づいていく1) 。
糞便と詩は、いずれもその生産者の体内から排出され何度も再生される。詩人にとって、一遍の詩が産み出される瞬間における悦楽が、禁じられた「物」への供物であるように、便塊が美女の体から分離する瞬間は、倒錯者にとって束の間の救済の瞬間、豊穰の時となる。その置かれる位置が象徴界における穴の位置であるという点で、トポロジー的には、糞便と作品は近似した位相に出現するが、そのベクトルは丁度対照的な方向を示している。詩は、シニフィアンによって穿たれた瞬間の生、今にも息を引き取ろうとする生の残渣であるとも言えるだろう。詩は、欲動の往復運動によって、対象aが置かれる位置に生ずるが、第一のシニフィアンの生成をなぞり直しているという意味で、父のファルスとも係わっている。糞便が、美女の体内に隠された禁じられた母親のファルスそのものとして、「物」へと連なる通路を取り合えずは閉じてしまうのに対して、詩は、その創造の瞬間においては「物」へと連なる通路を開くのである。父のファルスは、「物」の領域に突き立てられた一筋のシニフィアンの傷である。詩が詩として成り立つためには,父のファルスが最初に通過したこの傷跡を開かねばならない。この一筋の傷跡は、しかし、生じたその瞬間からシニフィアンの網の目の内に絡め取られ、「物」の領域との接点を失い始める。それ故に、詩人は、父のファルスがかつて通過したその痕跡を確かめるために,繰り返し繰り返し、この傷跡を新たに開くことを強いられる。
2. クリープの瓶
時に、子供は、なんの変哲もない一切れのタオルの切れ端を、眠る時にも、遊ぶ時にも、片時も手放すことができなくなることがある。このタオルの切れ端は、繰り返し繰り返し愛撫され、しゃぶられるために、大抵は擦り切れて薄汚れ、大人はこれを取り上げようとするが、その試みに対して子供は激しいパニックに陥って抵抗する。この薄汚れたタオルの切れ端への子供の執着は、どこか異様だが、その異様さは母猿が死んだ自分の子供を干からびてミイラになってから後も、抱いたりあやしたりして、人がそれを取り上げようとすると牙を剥いて抵抗するのを連想させるところがある。変色したタオルの切れ端は、母親の代理として用いられるのであろうが、その異様さはこの代理が擬人化することの困難な「命を持たない、死んだ物」であることに由来するのである。こういった生と死の中間に置かれた物を、ウィニコットは過渡的対象と命名している2) 。
さて次に、対人的興味を示さず、発語も殆どなく、身体的自律もできていなかった一人の児童において、一つの過渡的対象がたどった変遷の経過を紹介したい3) 。この症例の過渡的対象がたどった運命は、この過渡的対象といないいないばあ遊び、そして、不在の対象の成立が深く係わりあっている可能性を示唆している点で興味深いからである。
症例は、11歳、男児。生後数年の状態は不詳である。施設に入所してからは、いっ
たんは単語が幾つかでたこともあるがここ数年は再び言葉は殆ど出なくなり、以下に
述べる常同行為を繰り返していたと記録されている。
入院時、施設の職員とともに入院した患児 症例T は、殆どベッドの上から動か
ず、その上で中空に向けて息を吹き込み、両手を延ばして立てたままイスラム教徒の
祈りのように地に伏せるという動作を繰り返し続けた。時に彼の病室に侵入する看護
スタッフ・主治医に対しては、数秒間、その動作を停止して目を向けるが、その後す
ぐに彼は同じ動作に没入し、この行為を繰り返し続けた。病室に慣れてくると、病室
の入口の扉に向かって行き、鍵穴、扉の下に開いた隙間から外を覗き、再び上記の行
動をし、またベッドに戻るという行動半径の拡大がみられ、時に上記の行動に加えて
、右手でなにかを払うような動作をするのが観察された。彼の表情は常にしかめつら
でありその同じ表情をめったに崩さなかった。排尿・排便は促しが必要で、定期的に
トイレに連れていかないと失禁した。食事はスプーンを使って行えるが空腹感が強い
時には手掴みとなり自分の食物と他患の食物の区別はつかなかった。意味のある言語
は殆ど表出せず,動作を制止するには大きな声での威嚇が必要であった。様々のもの
を口に持っていくが、例えば苺のへたをいったん口に入れた後に吐き出しており、食
べれるものと食べれないものの区別はつく。
症例Tは興味を示す対象にそれぞれ特徴的な行動パターンを持っていた。彼は、ま
ず、穴に対して興味を示した。それは例えば、鍵穴であり、或いは自動販売機のコイ
ンの投入口、ざる等であった。散歩の途中に穴のある物を見つけると彼はかならず立
ち止まり、その中に指を入れる動作をし、それに引き続いて穴の中に向けてフーフー
と息を吹き込んだ。例えば、自動販売機は病院の外の道路をはさんだ向こう側にあっ
たが、二度目の散歩からは彼は主治医の手を引いてそちらに向かい、主治医が他の方
向に向けようとすると座り込んで抵抗した。しかし、コインの投入口を指でなぞり、
何度か息を吹き込む動作を終了すると、とりあえず彼はそれで満足し、促しに応じて
別の方向に向かうことができた。ざる或いは下水道の上に被せられた格子状の鉄板の
場合は、格子の穴を一つづつ指でなぞり、その中に向けて息を吹きかけた。彼の興味
は、剥き出しになった食物そのものよりも、例えば瓶の中に入ったクリープ、戸棚の
中の食べ物、袋に入れられたパン等に向けられ、夕食の残りは戸棚の外に剥き出しに
なって目の前にあるのに、それを通り過ぎて戸棚に向かうことがしばしばあった。し
かも、戸棚の中から、海苔の入った罐を出し、そのまま見ていると再びそれを戸棚の
中に入れ、そして息をフーフー吹き込む行為がみられ、彼は明らかにその際に興奮を
示した。これらの物の内、彼が特にクリープの入った瓶に強い執着を示した。暫くす
ると、クリープの入った瓶とざるは、入眠時に必ず必要な小道具となり、食事の際も
片方の手でそれを持ちながら他方の手で食事をするほどになり、片時も手放さないよ
うになった。この瓶を彼はしばしば口に持っていき嘗めていた。
手の届かない食べ物がある時、あるいは彼が手に持っているクリープの瓶を取り上
げた時、彼はフーフーと息を吹きかける動作をした。戸棚にクリープの瓶を入れ、そ
れを彼が取り出すことを許すと、彼はもう一度瓶をもとに戻し、またそれを取り出し
、更にその後に、そのクリープの瓶を横に向けて投げ、また拾うという行為を興奮し
て行った。それを何度か繰り返した後に、彼は、クリープの瓶を拾わず、投げる真似
だけを行い、投げる真似をしながら、フーフーと息を中空に吐いた。その投げ方はあ
たかも実際にクリープの瓶を投げているかのようであり、彼は興奮しながら何度もこ
の動作を繰り返した。そして、入院当初、彼が時々ベットの上で行っていた意味不明
の手を払いのける動作は、丁度、この実際に手の中にないものを投げる動作と同じで
あることを、看護スタッフの一人が主治医に指摘した。
彼は自身の鏡像には興味を示さず、特定のだれかに慣れたり、敵意を示したりする
ということはなかった。また、看護スタッフあるいは他患の働きかけに受動的にしか
応ずることはなく(例えば、穴を吹く行為を中断させられると抵抗する等)、他者に
対する攻撃に関しても、彼自身の行為が繰り返し妨げられる場合に限っていた。
ウィニコットは、彼が提唱した過渡的対象の臨床的特徴として、該当する児童がそれをまるで自分の体の一部のように常に持ち歩くこと, 眠る時にそれがないと眠れないこと、更にその対象に対して嘗めたり吸ったりする口唇的関心が向けられること等を挙げている。症例Tが、彼の「ざる」と「クリープの瓶」に示した関心のあり方は、ウィニコットの描いた過渡的対象の特徴とよく一致していた。更に、口をフーフー吹く動作は、ことにある対象が手に入らない時に、その代償として出現する傾向が明らかに認められ、ウィニコットのいう過渡的現象と考えられた。
興味深いのは、「クリープの瓶」に関する「いないいないばあ遊び」、即ち、彼の過渡的対象であり、外と内のはざかいにあった「クリープの瓶」が、単に彼の手にある状態よりも即ち、在の状態よりも、在と不在が交錯する運動の中でより激しい興奮を彼にもたらしたことである。もともと彼が興味を示した対象自体が、「戸棚の中の海苔」「蓋のしまった瓶」といった、中と外があり、掴めることと掴めないことが微妙に交錯する性質をもっていたのだが、「クリープの瓶」に関する遊びの中で、彼は自らこの在と不在の対立を創造し、それに興奮を示したのである。そしてさらに興味深いことには、この不在の、クライン流に言うならば、悪い対象4) の能動的な創造は、既に放棄され彼の手の内にはない「クリープの瓶」をさらに捨てるという行動に直接展開していった。「ないものを捨てる」という逆説的な行為であった彼のベッド上の儀式は、これらの状況から、空でありかつ欲望の原因である既に失われた対象5) が成立する現場であったと推測されたのである。
3. フェティッシュ
女性の汚れた下着がフェティシストの内に喚起する欲望は、とりあえずは否定の契機をその内に含んでいる。フェティシストにとって、女性の下着は、その彼方に想定されている女性の性器が、実際には触れることも見ることも出来ないという意味で、一つのヴェールであり、このヴェールとしての役割が欲望の対象としてのショーツやブラジャーの本質であるからこそ、フェティシストは女性の性器そのものよりも、「下着に付着した染み」といった女性の性器のいわば残り香とでもいうような一つの痕跡に欲望をそそられるのである。このようにして、欲望の対象としての女性の下着は本来は一つの不在を包みこんでいる。これに対して、例えば、糞便は、ヴェールに覆われる側に位置している。覆われる物としての糞便は、同じく覆われる物としての母親の性器、即ち、欠けたファルスと同じ位相に存在し、それ故に、糞便においては否定の契機は曖昧なままに止まっている。
ヴェールとしてのショーツと、ヴェールに覆われる物としての糞便を対比する時、過渡的対象の興味深い位置が明らかになる。クリープの瓶は、自身の身体の延長、母親の身体の延長として、肌身離さず持ち運ばれねばならないものであり、恐らくは母親の性器の補完物としてのファロスを体現するものであった。即ち、この時、クリープ瓶は、母親の身体の一部から分離された対象aとしての糞便と同じ位置に現れている。しかし、この対象aは、対象aであるが故に、そのままでは世界内の存在者ではない。対象aが、世界内の存在者へと超越、あるいは、頽落するためには、否定の契機が要請されることは既に述べた6) 。クリープの瓶がたどった運命の特異さは、一旦捨てられ、その存在していた場所を無に置き換えられた後に、その無を埋めるものとして再び取り戻されたことである。こうして再び取り戻された後のクリープの瓶は、捨てられる以前のクリープの瓶とは全く別の、斜線を引かれた世界内存在者として新たに回帰してきた対象である。症例Tにとってのクリープの瓶は、丁度、壺がそうであるように中が空洞になっており、瓶の中にクリープという「乳製品」が実際に入っている点が不完全であったとはいえ、それ自体の構造の内に前もって来るべき否定の契機を先取りしていたと言える。症例Tの常同行為は、クリープの瓶という実際の対象の放棄と回復を、"Fort!" と"Da!"Uなしに、全く架空の一つの儀式に置き換えてしまったという意味で、世界へと参入する糸口を見失い、シニフィアンの連鎖を構成しないまま、袋小路の内で反復する罠の内に捕らわれてしまった声無き第一のシニフィアンの表出であった可能性がある。
症例Tのクリープ瓶がこのようにして母からの断絶へと展開する運命にあったのと比べて、フェティシストにおける下着は、同じく否定の契機を含んでいるとはいえ、その彼方にある母のファルスは放棄されていない。フェティシストは実際には禁止されていることそのものから下着の性的対象としての魅力を引き出していながら、母のファルスを覆う儀式によって母のファルスを実体化する。フェティシストにとって、母のファルスは去勢されていない。即ち、糞便愛と同じく、生との直接の接触があたかも存在するかのように信じられているのである。
4. ファロスの悦び
症例Tを捉えて離さなかった放棄と回復の儀式からなる常同行為は、実際の対象を経由しない完全な象徴行為であったという意味では、例えそれが, シニフィアンの連鎖へと連なることのできない一種のネオロギスムであったとしても, 作品の創造と密接に重なりあっている。詩人における詩と症例Tにおいて取り戻されたクリープの瓶は、両者がともに、「物」ないしは「生」の領域に連なるものをその領域から切り取って世界内へと参入させたという点で, シニフィアンス、意味生成であったと言える。
「生」から切り取られた対象は、摘み取られた花のように、時が来れば必ず枯れてしまう。シニフィアンの網の目とは、死せるものの体系であり、人の目に触れ、人が聞き取ることのできる世界内の全ての存在者は、この死せるものの体系に捕らわれて枯れ果てている。しかし、「生」と引換えに参入したこの世界、シニフィアンによって分節化されたこの世界は、「生」なしでは生きるに値しない。だからこそ、人は、ディオニソス的と呼ばれ、祝祭的と呼ばれる自他未分化の状態への尽きない憧憬に半ば構造的に眩惑され続けるのである7) 。しかし、その名で呼ばれている状態は、この世界においては実際には異形の物としてしか存在することを許されず、だからこそ、それがこの世にその姿を垣間見せる時には、フェティッシュや糞便愛といった倒錯、あるいはパウロの肉体に刺さった刺のように、耐えがたく背徳的な異形のものの香りを放つのである。
クリープの瓶が、その放棄と回復の儀式によって症例Tにもたらした悦びは、母と再び一体になることへの、自他未分化の至福の共生の悦びではなかった。それは、母を断念する痛みとともに、一瞬到来する「生」を手折る悦びであったはずである。「生」というシニフィアンに分節化されたこの世界での異形の物は、去勢される瞬間に、この世界に一瞬姿を見せる。摘み取られた瞬間に花咲き、次の瞬間にはシニフィアンの網の目という死の世界の内の死せる対象として枯れ果てる運命にある一輪の花のように、去勢によってこの世界に参入した対象は、ただ去勢される瞬間に一瞬我々とすれ違う。
西行は何故、花の下で春死にたいと願ったのかと時々思うことがある。西行にとっての花とは、彼を市民社会から追い立てずにはすまなかったほど、異形のものであり、倒錯的なものであった。このことを思えば、彼にとっての花は「生」そのものであったのだろうと考えられる。「生」とは、シニフィアンの連鎖からなるこの世では、極めて儚く、西行の花は咲いた時には既に散りつつあるような、この世における不在を前もって告知しているような何物かであった。しかし、誤解してはならないのは、西行の花は、「生」があるという錯覚の内にではなく、「生」は無いという断念の内に咲いた花であったという点である。彼にとっての花を考える上で、彼の詩の多くが、仏道修行、即ち、死の練習 "meditatio mortis"8) を歌ったものであり、彼は人のなしうる限界近くまで、対象の去勢を行い続けたことは重要であろう。生を断念し、死の練習をし、対象の去勢を極限までつきつめたその先には、荒涼としたシニフィアンの荒れ地が待ち受けている。そして、この地にこそ、西行の花は咲いたのである。だからこそ、西行は、この花を手折り、シニフィアンの彼岸に飛翔した瞬間に、それもまた、不可能な死を願ったのだと思えてならない。
注 第二節「クリープの瓶」は、精神医学に収録された著者の症例報告を医学書院の御好意により若干修正して抜粋したものである
文献
1) 向井雅明『ラカン対ラカン』、金剛出版、東京、一九八八年
2) Winnicot DW. Transitional objects and transitional phenomena. Int J Psychoanal 34:1953,p89
3) 兼本浩祐「レンノックス症候群を伴った重度精神遅滞児における常同行為の観察 過渡的対象と不在の対象の出現について」『精神医学』三三巻、一九九一年、七九頁
4) Klein M. The psycho-analysis of children. translated by Strachey A.,Hogarth Press, London, 1932
5) 新宮一成『無意識の病理学−クラインとラカン』金剛出版、東京、一九八九年
6) 兼本浩祐「視覚認知における存在論的差異の乗り越え 視覚失認ともうろう状態での呼称障害を題材として」イマーゴ2巻10号、一九九一年
7) 木村敏『直接性の病理』弘文堂、東京、一九八六年
8) プラトン『パイドン』池田美恵訳、田中美知太郎編『世界の名著、プラトンI』中央公論社、一九七六年