imago7-11所収
精神医学は人間の心的組織を記述するにさいして、器質因、内因、心因という分類を、いかにも便宜的といった手つきで採用している。「便宜的」というのは、あくまでも科学を志向する精神医学にとって、こうした分類は将来的にはすべて生物学的な還元をほどこされることが予定されているためである。しかしこのきわめて有用な分類は、はたして便宜上の病因論という領域のみに限定されるべきものであろうか。筆者はそうした限定はかならずしも臨床家の内輪のみで墨守されるべきものではなく、ときにはあのラカンによる三界の区分と同程度、あるいはそれ以上の効果をさまざまな領域にもたらしうるものとして検討されるべきであると考えている。こうした区分は、例えば主体のありようを論ずる上で、複数の、あるいは重層的な形式がつねに前提とされるべきであるという、なかばは倫理的要請とも連動させることができるであろう。
ここで部分的に結論を先取りしておくなら、筆者にはラカニアンの言説は心因性の領域において、またベルクソニアンの言説は器質因性の領域において、もっとも矛盾無く展開しうるものであるという仮説を有している。こうした対比はいうまでもなく、藤田博史氏によるかの「逆方向」と「順方向」の区分を容易に連想させるものだ。筆者の見解は、もちろん藤田氏の見解と重複する部分を含んでいるが、しかしベルクソンに関していうなら、少なくとも「順方向(=南の島の方向原則?)」という言葉にこめられているような一種の楽観性はさしあたり捨象しておかざるを得ない。
心因的存在としての人間は、たしかに語る主体、欠如を抱えた主体として記述されなければならない。この点についてはもはや、このうえ論じておくべきことはあまりない。しかし器質因的存在としての人間はどうであったか?例えば細胞分裂の回数が有限のものであることを示すヘイフリック指数や、あらかじめプログラムされた細胞死としてのアポトーシスのような現象がクローズアップされつつある以上、死という欠如態が器質因として折り込まれていることには疑う余地はない。なるほど死を待って人間は完成する、そこで円環が閉じられるという視点もまったく無意味ではないかも知れないが、こちらはもはや心因論の領域、さらにいえばナルシシズムの領域での価値判断というべきだろう。
私が私であるということの前提としての器質因。こうした視点は荒唐無稽にすぎ、例えば「主体の死」すら既に言われなくなった現状においては、単なる鈍感さの表明に過ぎないものだろうか。しかしかりに私が私であるという自明性、あるいはその葛藤構造を部分的にせよ器質的なものが支持しているとするなら、せめてその度合いだけでも知っておきたいものだ。なるほど人間には器質因としての本能が欠けているだろう。しかしだからといって、こうした問いを、それこそ「偽の問題」として退けるにはあたらない。ラカンはかつて「ばかな人間を利口にすること以外なら、精神分析にはなんでもできる」と語ったというが、これは図らずも器質的存在としての人間に対しては、精神分析が効果を及ぼし得ないことを正しく含意している。筆者はこのラカンのこのジョークに、(そういうものが可能であるとして)「器質的主体」論の端緒がひらかれていることを確信しつつ、論を進めることにしよう。あらかじめ断っておくが、本論においては通常であれば「生物学的に」との形容が適切であるような箇所においても、あえて「器質的に」といった奇矯な表現が用いられることになるであろう。
主体の器質的存在性格というテーマを論ずるに際して、筆者は「自閉症」こそがうってつけの素材でありうると直感している。しかし残念なことにと言うべきか、筆者にはほとんど自閉症の臨床経験がない。成人年齢に達した自閉症患者と出会う機会は何度かあったが、本質的な治療関係を結んだことはこれまで一度もない。したがって以下の論議が加速度的に思弁的饒舌へと離陸してゆき、二度とふたたび臨床へと着地できなくなるという恐れもないとは言えない。さいわい近年、ドナ・ウィリアムズをはじめとする自閉症者の自伝的記述を参照できる機会が増えてきた。また筆者は今回、インターネット上で公開されているさまざまな自閉症に関わる資料を利用する機会を得た。本稿では基礎的文献はもとより、こうした興味深い資料を臨床的参照枠として利用しつつ、論を進めることにしたい。
周知のようにカナーによって自閉症がはじめて見出された1940年代から1950年代は、母子関係の障害を主因とする「精神分析」的な解釈が続出した。器質因の存在が決定的とされる現在、もはやこれらが省みられることはなく、また母子関係の障害を強調しすぎることはむしろ療育上は有害であるとすら言われる。それでは自閉症の病因論というレヴェルで、精神分析は今後どのように機能し得るだろうか。こころみにラカニアンたちの言葉に耳を傾けてみよう。「母親の存在−不在といった基本的象徴関係が組み込まれていない」「身体イメージと自我の構成の失敗」「視線が合わないことは、他者との鏡像関係に問題がある」「実像の象徴的で想像的な次元の欠如」「身体像の不在→自身のリビドーを対象へのリビドーに転化することができない」(シェママ「精神分析事典」より)
そしておそらく自閉症者においては「抑圧」が十分に機能していない。それでは「排除」は?なるほど「排除」はあるだろう。それもたぶん、「器質的排除」が。症状として二度と反復・回帰しようのない排除が。
高機能自閉症者であるドナ・ウィリアムスの、もはや古典ともいうべき自伝「自閉症だったわたしへNobody Nowhere」での、祖父の死のくだりを思い出してみよう。五歳のドナはある日、小屋の中で好きだった祖父が死んでいるのを発見する。彼女はそれをひどい嫌がらせのように感じ、自分をおいてきぼりにした祖父に腹を立てるのである。それから16年の歳月を経て、二十一歳のドナはある日突然、祖父の死の意味を理解して泣く。人がわざと死ぬのではないことを理解するのに、16年もかかったいうのである。なるほど子供は死を理解しないだろう。しかしFort-Daにおいて死の準備がなされていればこそ、死の理解はドナほど劇的にではなく、漸進的に可能になるのだ。これと比較して考えるとき、ドナにとってのこの「16年」こそは、自閉症者がFort-Daへ至る遠い道のりではなくて何だろうか。筆者にとってはこのFort-Daの欠如もしくは遅延こそが、自閉症者の精神病理を器質因的に論ずるために欠かせない前提となる。
自閉症が器質的病因によるものであることは、臨床諸家の間でも一定の合意に達しているとみるべきであろう。もちろん、そこで想定される器質的病因にも諸説あり、fragile X syndrome といった染色体の異常から、フェニルケトン尿症などの代謝性疾患に至るまで、かなりの幅を持っている。自閉症とはいうまでもなく「症候群」概念であるから、単一の病因にこだわる必要はさしてない。筆者もまた、あくまでも文献的な知識に基づいてではあるが、それが器質性疾患であるということは十分に納得ずみである。ただしこうした「納得」の経緯については、少し詳しく説明しておく必要があるだろう。
自閉症が器質性の発達障害であるとされる根拠は、臨床的にみても数多く存在する。まず生物学的な性差がある。ほとんどすべての疫学研究が、自閉症が男児にかなりの高頻度で発症することを報告している。このほかにも、かなり高頻度で合併する精神遅滞、てんかん発作、脳波異常などがよく知られる。治療に関しては器質性の発達障害という視点から「療育」が最も重視されており、また薬物療法はすでに必須のものではない。
しかしこれだけでは、単に「有力な根拠」が列挙されているのみで、どれ一つとっても決定的なものにはなり得ていない。またこのようなレヴェルでの論議なら、あの「分裂病の器質因説」とどこが違うのかという、当然の疑問も出て来よう。たしかにその病因をいまだ単一の安定した器質因に帰することのできない「症候群」概念であるという点では、自閉症と分裂病は共通している。それにもかかわらず、分裂病ではいまだに内因論が優勢であり、自閉症に関しては器質因でほぼ決着をみている。これはどういうことか。根拠の多寡という量の問題なのだろうか。おそらくそうではない。
脳そのものに物理的な異常を来す器質性精神病と、そのような物理的病因をいまだに特定できない分裂病などの内因性精神病の相違点を中井久夫氏が適切に指摘している(シンポジウム「精神医学と生物科学のクロストーク」での発言から)。氏によれば、前者の異常は、粗大な脳の変化から粗大な症状が発現するものである。後者については、微細な現象から大きな変化が生じているのであるという。この対比については、筆者自身のやや内因性疾患にかたよった臨床経験に即しても、完全に同意できるものだ。これは、たんなる臨床的な印象などではなく、器質因と内因の形式的違いについて、きわめて深い射程を持つものではないか(蛇足ながらここで心因についても触れておくなら、そこにみられるのは外傷とその心的加工としての回帰であり、これはまたベルクソン=ドゥルーズいうところの「着衣の反復」なのである)。
中井氏の指摘を筆者なりに翻案するなら、内因性疾患では症状は「病因からの生成」の動的プロセスとして記述できるが、器質性疾患ではその症状は「病因との対応関係」という静的図式におさめることができるということになろうか。もちろんここでは暴力的な抽象化がほどこされており、例外的現象も多く指摘しうるであろうが、この二つの病因論がはらんでいる傾向性をわかりやすくシェーマ化すると、このような表現になるのである。
ここで注意すべきなのは、器質因と症状の対応関係が、必ずしも明確なものではないという点である。これはかつてアンリ・エイが「器質−臨床的隔たり」と呼んだ関係性に相当する。たとえば自閉症との関連がしばしば指摘されるfragile-X sydromeにしても、その器質因がもたらす結果はかなり多彩なものであり、ここでもまた、単一の器質因と精神症状を一次結合させることの不当さが証されている。あるいはここでは、ベルクソン=ドゥルーズにならい、X染色体上の異常はたまたま蛍光染色によって可視化された「潜在性」であり、症状はその現動化であるというべきだろうか。
さきにもふれたように、分裂病の精神病理学の魅力は、ひとえにその生成のダイナミズムにかかっている。臨床現場の多彩な混乱を、たった一つの原因に還元できるかも知れないという可能性。この生成の現場に身を投じたいというわれわれの欲望こそは、中井氏によって指摘された「分裂病の陥穽」ではなくて何だろうか。そして分裂病を論ずる精神病理学者の多くは、潜在的にではあろうが、自閉症が小児性分裂病である可能性をどこかで肯定しているように思われる(少なくとも木村敏氏はそのように明言している)。
もちろん自閉症の臨床現場では、この小児分裂病との混同という古典的問題については、全面否定という形で決着をみている。自閉症児の臨床経験を持たない筆者としては、こうした前提を出発点とせざるを得ないが、筆者なりにこの区別を正当化しておくために、自閉症と分裂病の鑑別点を、精神病理学の文脈においてできるだけ明らかにしておきたい。
自閉症の精神病理を論ずることの困難さのひとつは、それがしばしば分裂病の精神病理とあまりにも似てしまうことにあるように思われる。そもそもAutismus という言葉自体に、自閉症の精神病理がたどるであろう運命が刻印されているようにすら思われてならない。周知のようにカナーはこの言葉を、オイゲン・ブロイラーが「分裂病の4A」として記述した4つの主要症状から引用したのである。そしてブロイラーはこの言葉を、フロイトの自体愛 Autoerotisismus を脱性化する形で鋳造したのだった。この命名の経緯においてすでに、その後の分裂病との混同と、さまざまな力動的誤解が予見されていたと考えるのは、悪意に満ちた深読みにすぎないだろうか。
なるほど、いたるところに分裂病的な素材が見出される。試みに、分裂病の精神病理をリアルにとらえてきたとされるキーワードを、思いつくままに挙げてみよう。「生ける現実との接触の喪失」「自明性の喪失」「ファントム短縮」「状況意味失認」......。もはやいちいち出典を示すことはしないが、こうした言葉が若干の文脈を変えただけで、そっくり自閉症にもあてはまりかねないことは、例えばドナ・ウィリアムズの記述を注意深く読んだものにとって、もはや明白であろう。精神病理学の正当性を確信するほど、分裂病と自閉症の同形性を否定できなくなる地点が、ともかく存在する。こうした類似性が、あくまでも表面的な言葉のうえでのものであり、その深い本質においては明白な差異があるのだとして論の正当性を擁護するか。あるいはこうした類似性ゆえに、器質因の有無に関わらず、自閉症は小児分裂病であるとみなすのか。
前者の立場をとる筆者は、その差異性をもっとも際だたせ得るのが、いずれの疾患にも共通に認められる「知覚変容体験」ではないかと考えている。ここで筆者がこの問題に深く立ち入ろうとするのは、この知覚変容体験の解釈を起点として、冒頭で予告した「器質因性の主体」論へと論議を進めてゆくためである。
筆者はさきに、ヒステリーに関する論考において、ラカン理論を心的装置のオートポイエーシス理論へと組み入れるための前提的手続きとして、ベイトソンの学習理論との複合化を試みた。永く等閑視されてきたこの学習理論は、たとえば自閉症における学習障害の検討にさいしても、きわめて有効な説明概念として機能しうることが予想される。本来ならばあの「ダブルバインド」すらも、この学習理論の下位概念にすぎかったのである。また筆者は以前、ある分裂病患者において持続的に見出された知覚変容体験について検討したさいに、おおまかに言って「学習Iと学習IIのコンフリクト」として検討した経緯を持つ。
これからやや永い迂回路を通って知覚変容体験の検討に至ることになるが、ここであらかじめ論のフローチャートをラフ・スケッチしておこう。筆者は分裂病の知覚変容現象の発生機序として「同定認知」機能の障害を想定している。これは日常的な意味での「個体の同一性」の成立を可能にしているような認知機能のことである。この認知は主として、ベイトソンのいわゆる「学習II」の行為によって修得される。逆に「学習II」は、シニフィアンの機能と同定認知の機能によって支えられ、効果を発揮する。分裂病の知覚変容体験は、この同定認知機能が潰乱するために生じ、かつシニフィアンの作用によるすみやかな修復を受けるために一般的には短時間で回復するのである。
以下に自験例の報告をまじえて、検討を進めてみよう。山口直彦氏らによって見出された分裂病の「知覚変容発作」は、一般に寛解期にしばしばみられ、持続時間も数分程度のことが多く、かなり明瞭に病識が保たれているのが特徴である。しかし筆者の自験例では、その増悪期において多彩な知覚変容体験が長期間持続し、しかもそこから安定的な幻覚妄想に発展しなかったという点が注目された。
この十代の男性患者は、最初の発症から数年間の寛解期を経て、被害関係念慮の訴えが増悪してきたため入院治療を開始したが、入院後2ヶ月ほどして次第に知覚変容体験が活発化し、これと平行して言動が次第に支離滅裂で不連続的なものに解体していった。知覚変容の極期は約一ヶ月間ほど続いた。訴えはきわめて多彩だったが、そのいくつかを列挙してみよう。
「世界が違って見える」「黄色のシャツを見て気がくるいそうなほど不安になる」「母親や医師の顔が丸く見える」「先生のもう一つの姿を知っています..本当はもっと背が高くおとなしめの感じ」「弟や妹がずいぶん大きくなってしまった、自分を追い越してしまった」「自分の髪の毛がブロンドにみえる」「僕が弟になっているんじゃないかと心配」など、主として視覚領域に生じたもの。「ラジオではひどい曲ばかり流れている」「みんなが荒々しい方言で話している」「ホワイトノイズを聞いているとリラックスできる」など、聴覚領域に関するもの。ほかに「けだものの臭いがする」「食事がへんな味がする、いろいろ入れられている」「踵が凍傷になっている」など、ほとんどの感覚領域において知覚変容感があった。このような知覚変容の極期は、約1ヶ月間ほど続いたが、その後次第に鎮静化した。現在は当時の体験については逆行性の健忘を残しつつもきれいに寛解しており、その経過はあたかも緊張病のそれのような良好な可逆的カーヴを描いていた。
一般に分裂病の知覚変容体験には、以下のような特徴がみられるという。明確な意味付けには欠けるが、不安感、恐怖感、被害感をともないやすいこと。一般的に知覚は単色化、貧困化する傾向にあること。症状自体は一過性で可逆的であることが多く、「発作」として記述されることも多いこと。発作の場合は特に、反復再現性がある。また自己違和的な体験であり、「慣れ」が起こりにくく、「病識」を持つことが比較的容易であること。また明かな幻覚・妄想とは両立しにくいこと。
ここでは「知覚は正常で意味付けが異常」といった、シュナイダー、ヤスパースらのいわゆる「二節性」の考え方も応用できない。知覚は変化しているが、それがどんな意味を持つのか判らないからである。やはり感覚より後、意味付けより以前の認知機能の障害として検討されるべきではないだろうか。
こうした知覚変容体験に関しては、これまでに現象学的検討、またファントム理論の援用による検討がなされてきている。またMcGhie,Chapmanらによる知覚障害の認知心理学的な検討は、この領域における先駆的な業績でもある。渡辺哲夫氏は、やはり分裂病の認知障害の基本病理として「対象同一性認知の障害」を論じており、これは筆者の見解にきわめて近いものである。しかし渡辺氏の「意味分節の同一性」の解釈については、筆者はかなり渡辺氏とは異なった見解に立っており、やはりここでは筆者なりの議論を十分に展開しておきたい。
筆者が屋上屋を架すことになりかねない試みをあえてするのは、従来の議論のみでは、またしても分裂病と自閉症の知覚変容体験が同一視されかねないと考えるためである。これは主として、従来の議論においては言語論への参照が十分になされていないことによるものと考えられる。人間の知覚現象を論ずるうえでは、批判的にせよ肯定的にせよラカン理論をはじめとするシニフィアンの作用を考慮に入れる手続きは、もはや不可欠のものといってよいであろう。
この点を意識しつつ、人間が環界を知覚するさいの「安全保障感」を基礎づける機能について考えてみよう。まずシニフィアンの作用に基づいた環界の分節構造化と関連づけの機能、すなわち言語機能が考えられる。これは主として差異の認知を中心とした微分的な認知機能である。しかしこれのみでは必ずしも十分ではない。差異を差異として認知するためには、それぞれの分節に関する同一性、また差異のあり方自体の同一性が一貫して保たれる必要がある。これは微妙な変化分も考慮したうえで同一である蓋然性が高いと認知するといったファジーなものではなく、むしろ質的な認知である。上の微分的認知に対応して積分的認知と言い替えることも可能であろう。こうした認知形式を想定することで、認知における冗長さの処理に関しても説明が容易になる。この同一性の問題から論じておくことにしよう。
知覚変容現象の記述に学習理論を導入する前段階として、この「同一性」についてぜひとも検討しておかねばならない。ここでいう同一性とは、自己同一性といった広義のそれではなく、認知上の同一性を意味している。すなわちA=Aの自同律を日常生活において成立させているような同一性である。ここで筆者は、およそ「哲学的」文脈は考慮に入れていないことを強調しておかなければならない。なぜなら「哲学的」厳密さで考えるなら、代謝や加齢のプロセスによって、生物学的個体の継時的同一性すら厳密には成立しなくなる。つまり十代の私と三十代の私は、もはや同一の物質ではあり得ない。いやそれどころか、いっけん連続的な自己意識すら、たえまない差異化のプロセスのノエシス的展開ということになってしまう。さりとて「固有名」などに依拠した議論では、今度は個体の同一性を根拠づける記述はいっさい不問ということにされてしまいかねない。
ここではこうした、いわば否定を媒介とした微分的厳密さはいったんカッコにいれることにしよう。かわって同一の個人が時間的・空間的へだたりを越えて同一人物として認知されうるという、素朴な事実の基盤について問うことにしよう。後の議論につなぐために言い添えておくなら、この同一性は、ベルクソン=ドゥルーズによって強調された、あの否定を媒介としない同一性、あえていうなら「反復=肯定的差異としての同一性」としてみることも可能であろう。
まず、知覚変容体験を「同定認知」機能の障害として検討してみる。「同定認知」機能が障害された場合、どのようなことが起こってくるだろうか。患者は目前にあるものが何であるかを言うことはできる。しかしすでにそれは、なじみぶかい何かではなく「同じであるが違う」という様相を呈してくる。世界全体がそのつどの任意の差異にさらされ、述語的同一視などの事態が起こってくる。
感覚領域ごとの特徴としては、分節記号化しにくい領域ほど、大きな変容を被りやすくなる。分節記号化しにくさは、とりもなおさず同定認知のしにくさでもある。嗅覚や味覚領域では、知覚変容と幻覚の区別がつきにくいのはこのためである。いっぽう視覚・聴覚領域では変容を幻覚とはことなった体験として位置づけることが比較的容易になる。すなわち、「存在しないものが見える(聴こえる)」のではなく、「見え方(聴こえ方)が変わる」のである。しかし、これだけでは、知覚変容体験のかなり本質的な特徴ともいうべき「慣れが生じないこと」「一過性・可逆的であること」を十分に説明することができない。われわれはさらに、われわれがいかにして「同定認知」機能を獲得しているか、その過程へと遡ることにしよう。
「同定認知」機能とは、認知機能の一種の熟練である。後天的にいっそう洗練することが可能であり、逆に学習なくしては発達しない。もっとも基本的な顔の認知についても、外国人の顔の認知が困難であることからうかがい知れるように、差異の認知も同一性の認知も学習によるものである。そしておそらく「AとBは同じである」という認知は、「Aは赤い」「Aは固い」といった認知と同様に考えるべきではないのである。「同じである」という認知は他のさまざまな属性に関する認知よりも一段階上の論理階梯に属している。したがってさきに述べた同定認知機能が、このレベルの学習によっておそらくは発達の早期段階に獲得されると考えることが可能になる。
ここで要請される学習行動が、ベイトソンの学習理論における「学習II」である。これについてはすでに詳述したので、ここではごく簡単に再説しておくにとどめよう。ベイトソンによれば、学習行動のレベルにはいくつかの段階がある。
「学習I」は刺激に対する反応が一つに定まる定まり方の変化であり、パブロフ条件付けやオペラント条件付けなど、心理学のラボでもっとも普通に見られる学習である。単純なパターン認識や、単語の機械的暗記などは、このレヴェルの学習といえる。
「学習II」は、「学習についての学習」であり、「学習I」の進行プロセス上の変化である。「学習I」は反復されるうちに能率が上がり、よりすみやかに学習がなされるようになる。ベイトソンはこれを、「学習I」のコンテクストに関して学習がなされたとしている。さらに「学習II」とは、事象の流れを「分節化する」習慣を獲得すること、とされる。例としては、狭義の文脈を読む能力や、人間の性格、また転移などもこれによるとしている。
「学習III」とは、「学習II」の起こり方に関する変化である。いいかえれば、「学習I」のコンテクストに関する「学習II」のコンテクストに関する学習である。
ここで議論の中心に置かれるのは、この「学習II」である。注意しておかなければならないのは、こうした学習の区分は、「学習の生じるコンテクスト」という仮定を認める以上、受け入れるほかはないものであるとベイトソン自身が述べていることである。学習のコンテクストという仮説と、これらの階梯の区分は必然的に結びついている。また(ベイトソンは述べていないが)こうした区分はけっして静的な階層モデルなどではなく、人間のあらゆる経験の場面において、すべてのレベルが同時に、「リゾーム状」のダイナミズムにおいて作動しているという点も忘れてはならない。筆者はこうした区分をきわめて画期的なものと考えており、精神医学という狭い領域に限っても、あらたな記述言語を導入しうる概念として大いに期待している。
さて「同定認知」機能を「学習II」として位置づけることの利点は、その障害において狭義の認知機能、すなわち学習Iのレベルの知覚はなんら変化していないのに、あたかも知覚自体が変質したかのような訴えがなされるという事実を説明しやすくなることである。より正確には、知覚そのものは不変のまま、知覚の生ずるコンテクストが変化すると言いかえることができるだろう。こうした「知覚のコンテクストにおける変化」ということに関しては、認知心理学領域で提唱されているセグメンタル・セット仮説、及び分裂病者の事象関連電位をもちいたさまざまな実験結果もこうした考え方の傍証となりうるように思われる。
同じであるという認知が一種のメタ認知であるとすれば、知覚変容体験のさなかにおいては、認知とメタ認知が矛盾する事態、認知機能上のミクロなダブルバインドが生じているとみることもできる。知覚変容体験に慣れが生じにくいのは、あるいはこうした葛藤構造によるのではないだろうか。
同定認知機能が獲得されうる傾向性は、おそらくは器質的に組織されており、この他にいかなる根拠も持つことができない。そしてこの機能に基づく再認なくしては言語機能は獲得され得ない。逆にまた言語機能なくしては、同定認知機能の洗練は起こらない。2つの機能はある意味では相補的であり、同時にいわゆるブートストラップ的な相互作用によって発展する可能性を持っている。
さきに筆者は、従来の知覚変容現象に関する論議においては、シニフィアンの効果が等閑視されていたことを指摘した。筆者は精神医学の文脈における言語論に関しては、つねにフロイトーラカンによるシニフィアンとファルスの論理に依拠する立場をとる。すると、その起源はともかく、言語のシステムに関しては、完全に否定を媒介として成立するものとして把握することになる。このシステムが学習に対して、いかなる効果を及ぼしているだろうか。
おそらくあらゆる体験の場において、学習作用が必然的に関わってくるであろう。さらにヒトにおいては言語シニフィアンという、高性能の学習システムが装備された結果、(みかけ上は)たった一度の体験から学習すること(たとえばトラウマのように)が可能になっている。ベイトソンには学習行為における言語シニフィアンのもたらした重大な効果に関する視点が欠けていたが、少なくとも「学習III」以上のレベルが達成されるためには、言語シニフィアンの機能が不可欠なのではないだろうか。筆者はさきの論考において「原抑圧」以降のさまざまな防衛機制が学習の所産である可能性を示唆しておいたが、わけても強調されるべきは、シニフィアンによる学習が、ほぼ「学習II」に相当するであろうという点である。
このやや複雑な作用関係については、次のように言うこともできる。すなわち、言語シニフィアンの獲得には「学習II」が必要であり、しかしひとたびその獲得がなされれば、今度はシニフィアンの作用が「学習II」を効率化するということである。
筆者はさらに、この学習理論がともすれば帯びてしまいがちな素朴な目的論的装いを解毒すべく、ラカンによるファルスの論理を導入した。それが学習であるからには強化因子が必要とされるが、ヒトにおける強化因子は一定の傾向性としては語り得ず、ただファルスの論理によってのみ極性を帯びる。ヒトのきわめて洗練された学習機能について、あえてその強化因子を指し示すなら、それはおそらく対象aの効果としての「実在性の享楽」であろう。ともあれこのようなレヴェルにおいて、シニフィアンの作用は学習行為に必然的な関わりを持っている。
シニフィアンと学習との関わりを補強するために、言語を持たない人間がいかにして学習をなしうるかについて簡単に触れておきたい。ここではスーザン・シャラー「言葉のない世界に生きた男」というドキュメンタリーが参考になる。ここに登場するイルデフォンソという聾者は、言語習得の機会を奪われたまま成人したケースである。われわれにとって驚くべきことは、自らの名前すら知らなかった彼に、コミュニケーションへの欲求が存在するという事実である。もちろん彼がどのていど「理想的に」言葉を奪われていたかを確認するすべはないが、少なくとも彼の問題は、まさに「言葉を知らない」という一点に限定され、精神病的な刻印はおよそ見当たらない。こうした事例の存在は、例えばラカニアンを心底震撼せしめるものだろうか。
おそらくそうはならない。彼は確かに具体的な言語という実体は所有していなかった。しかしイルデフォンソは、いうなればすでに「シニフィアンなきシニフィアン」を獲得しているのだ。それが聴覚的実質を獲得していなかったからと言って、なにほどのことがあろうか。およそ言語獲得が不可能とされる野生児とは異なり、イルデフォンソは人間に囲まれて成長したのである。もちろん聴覚を奪われている以上、自然に言語を習得する機会は奪われている。しかし彼には視覚がある。間違いなく彼は視覚によって学習してきたのである。人間のコミュニケーションすら、視覚から学習していたはずであり、訓古学的にならないかぎり、われわれは例えば「視覚シニフィアン」といったものを代償として想定しつつ、イルデフォンソを精神病の側に区分するという誤りを免れるのである。
以上のように、シニフィアンの論理と学習理論の必然的結合の契機が「臨床的」にも検証されえたわけだが、この結びつきはさきにも触れたように、分裂病者の知覚変容体験と、自閉症者のそれとの精神病理学的差異を論ずる上で、欠くことのできない前提となる。
筆者はここまでの議論において「同定認知」機能が「学習II」によって成立していることと、シニフィアンの作用と「学習II」が相互に根拠付けあっている関係について述べてきた。この「相互に根拠付けあう」という関係については、「同定認知」機能と「学習II」の関係もまた、そうであることについて述べておく。
筆者が「同一性認知」というかわりに、あえて「同定認知」という言葉を用いているのは、「同定」という行為が、従来じゅうぶんに論じられてこなかったとの思いがあるためである。これは「同一性認知」のより日常的で曖昧な下位分類としての同定ではない。まして機械的なパターン認識などでは到底ありえない。たとえば同定機能の根拠としてシニフィアンの機能のみを強調するなら、同定認知はただちにパターン認識に堕してしまうであろう。「パターン認識」とはすなわち、ベルクソン=ドゥルーズによって徹底的に批判された、あの「表象=再現前化」にほかならない。同定認知という能動的行為を、このような死せる反復からいかにして救出することが出来るだろうか。
いうまでもなく、同定認知は「表象=再現前化」などではない。そうではなくて、それがどんなに平凡でありふれた行為に似て見えようとも、同定認知はその都度一回性を帯びた「出来事」なのである。具体的に検証してみよう。
かつて虫好きであった人間は、目の前に示された鱗翅目の昆虫が蝶であるか蛾であるかの区別をほとんど瞬時に、確実に行うことが出来る。その種名を名指すことが出来ないにも関わらず、こうした判別は比較的容易なものである。この能力は筆者自身を含むかなりの人が有するはずであるから、その確実性・無根拠性についても実感的に納得されるものと信ずる。ところで周知のように、蝶と蛾の区別には生物学的な根拠がない。それどころか区別をしている瞬間においては、根拠めいたものは全く意識に上らない。つまりこの判別において、蝶や蛾の表象はまったく利用されていないのである。だからといってこの程度の判別に、いちいち無意識ないし「暗黙知」がフル回転しているとも考えにくい。つまるところ、この判別をなすための根拠は、蝶と蛾を実際に何度も手にとってみたことがあるという経験によって支えられるほかはない。
さらに言えば、臨床現場での「診断」こそは、この「同定認知」機能によって支えられているものであり、これは熟練した医師であるほどそうなのである。この傾向は、とりわけ皮膚科において顕著であるらしい。ベテランの皮膚科医は、病変部位を一瞥したのみで、瞬時に診断を行うという。これは特別な名人芸などではなく、皮膚科臨床医が一般に行っていることである。この診断プロセスは、直感的、瞬間的なものであり、それが誤診であるか否かは別として、ためらいや迷いはほとんど生じないという。もちろんここでも皮膚疾患の表象データベースが、いちいち参照されているわけではない。また皮膚科の診断を言語的記述のみで再現することはほとんど不可能である。このあたりの事情は程度の差こそあれ、各科に共通するものであり、わが精神科も例外ではない。分裂病診断における「プレコックス感」の有用性がいまだ廃れていないのもこのためである。およそプレコックス感ほど、表象=再現前化になじまない感覚はないであろう。
「同定認知」をその都度一回性の「出来事」としての行為と考えるとき、「学習I」の反復を越えて生成してくる「学習II」の「出来事」性もまた、これと同形のものであることが推測できる。「学習II」はシニフィアンの作用によって効率化されるが、同時に「同定認知」によってさらなる生成の次元へと開かれる。筆者はここにもラカニアンとドゥルージアンの和解の契機を見出すのだが、これについては後日の課題としよう。
かくして学習理論を支えるもうひとつの支柱としての、「同定認知」機能の位相がやや鮮明になってきた。繰り返しみてきたように、同定されるものは「反復=差異の累乗」として肯定される「差異としての同一性」であり、こちらの理論的基盤は、いうまでもなくベルクソン=ドゥルーズに全面的に負うものである。したがって「同定する行為」においてわれわれがしていることもまた、「現在としての過去」に「一気に身を置く」ことにほかならないと言い得るだろう。
さらにここまでの議論からも明らかなように、「学習II」とシニフィアンの使用、あるいは「学習II」と同定認知は、相互に根拠付けあっている。このプロセスは相互浸透的にカップリングしており、その意味でもオートポイエティカルな過程であるとも言える。そしてまた、シニフィアンの使用と同定認知の行為とは、「学習II」の作用を媒介としてはじめて、なんらかの相補性のもとに協調して作動することが可能になる。この「相補性」という点を強調することによって、知覚変容現象における分裂病と自閉症の差異を際だたせることが可能になるのではないだろうか。
問題となるのは、知覚変容現象の可逆性の程度である。分裂病においてはそれが一般に発作的症状であり、短時間で失調から回復できる。しかし自閉症者においてはほとんど常態化しているといいうるほどに長期間みられるようだ。これを単に器質因と内因の差に還元するのみでは、トートロジーの悪循環に陥りかねない(長期間続くがゆえに器質性疾患なのだ、というように)。これまでの議論に即して、この可逆性を検討してみよう。
さきにも見てきたように、知覚変容体験が生ずる契機は、主として同定認知機能の失調にあると言い得るだろう。同定という行為が、その都度一回性の「出来事」として起こる以上、比較的単純な反復としてのシニフィアンの使用よりも失調を来しやすいであろうことは想像に難くない。分裂病においてこの失調状態を「学習II」を媒介として修復するのが、シニフィアンの機能なのである。ラカニアンによる「象徴的去勢の欠如」という刻印にもかかわらず、分裂病はやはりシニフィアン獲得後の失調とみなされるべきであり、すくなくとも寛解期においてはシニフィアンの使用は正常に保たれている。「知覚変容発作」が寛解期に比較的多いというのは、むしろシニフィアンの「健全な」使用が可能な寛解期であるからこそ、これが「発作」程度の短時間で済んでいるとみることも可能であろう。してみると筆者の自験例で知覚変容体験が一ヶ月間もの長期に及んだのは、その因果関係はさておくとしても、ちょうど増悪期にこれが生じたために象徴的解体が合併しており、シニフィアンによる修復作用がおよそ機能し得なかったためと考えられるのではないだろうか。
そして自閉症者の知覚変容現象に関しては、まさしく自閉症者のシニフィアン使用の発達が「器質的に」障害されているために、同定認知機能もまたなんらかの障害をこうむっており、それゆえに失調をきたしやすく、さらにシニフィアンによる修復も受けにくいという推測が可能になる。これらの失調を基礎づけるものこそ、「学習II」の機能不全ではないだろうか。こうした仮定をもとに、われわれはようやく自閉症者の世界へと論述を進めることにしよう。
小林隆児氏は自閉症児にみられる「知覚変容現象」に注目し、分裂病の精神病理との関連から興味深い論考をつぎつぎと発表している。わけても氏の自験例の記述、たとえば「九州電力」の文字に恋した少女の症例から(高機能)自閉症における「相貌的知覚」について論じたものなどは、分裂病の知覚変容現象との比較検討するうえで、格好の素材となりうるであろう。
さきにもふれたように自閉症中核群の病理を、その器質因にかかわらず、「学習II」の機能不全としてみることにしてみよう。これはかならずしも荒唐無稽な立論ではなく、ある程度は従来の自閉症研究の成果によっても裏付けることができる。例えばHermelin B. & O'Connor(1970) ,Wing,L.(1976)らのロンドン学派による実験心理学的研究は、自閉症児のコード化障害という概念を実験的に検証してみせた。彼らの実験結果の一部を引用すると、例えば普通児であれば、アルファベットや単語を一定の規則で配列したほうが、ランダムに配列するよりも記憶しやすいのだが、自閉症児では必ずしもそうではないという。ここで「コード化」と呼ばれている行為が、そっくり「学習II」に相当することは、もはや疑う余地がない。ただし、ことは単純な規則や冗長度の認知障害に限られない。「学習II」の導入は、さらに広範囲の障害についてもカヴァーしうるであろう点にまず意義がある。さらにこうした仮定によって、なによりもまず「発達障害」としての自閉症をいっそう鮮明にクローズアップし、さらにはその療育方針についても幾分かの寄与をなし得ることが期待される。
自閉症においてこの「学習II」の障害がもっとも端的にあらわれるのは、まさに言語獲得の場面においてである。言語は世界を指示するために在るというよりは、言語において「世界」分節が成立させられている。その修得に際しては、発音と対象物を照合させるだけのトレーニングでは学習できない。言語の習得に際してもっとも重要であるのは、その言語固有のコンテクストを把握する能力である。これに対して純粋な記号の体系においては、コンテクスト概念はあまり重要ではない。記号は文脈に関わらず、固定的な対象を指示する機会のほうがずっと多いからである。モデルとしての自閉症者の言語は、あたかも記号そのものである。対象物と、ごく素朴に対応関係を結んでいるような記号。したがって自閉症者は、名詞の獲得には並外れた能力を発揮することもあるが、動詞の理解は著しく遅れてしまうのである。これはどういうことか。
さきの仮定に即してみるなら、これこそまさしく好個の素材といえよう。シニフィアンとしての言語の獲得には「学習II」が必然的に関与するが、その関与の度合いはさまざまである。言語を純粋な記号として獲得するなら、それはほぼ完全に「学習I」に属す行為とみなすべきであり、「学習II」は関与しない。名詞の場合はもっとも対象物との素朴な対応関係が保たれており、記号に近い形で修得しうるであろうから、これは学習Iの度合いが高い。ところで動詞については、反復によってそのコンテクストを判別しなければならない。「食べる」から「噛む」を分離するために、どれほどの反復が必要とされるであろうか。動詞の効率的な修得にはコンテクストの理解が欠かせない。そして、コンテクスト理解による学習の効率化の別名が「学習II」であった。
さらに筆者はここで、ベルクソンが失語症で障害される単語を順番に取り出した「固有名詞→名詞→形容詞→動詞」の系列を連想せずにはいられなかった。臨床的妥当性はさておき、単語の帯びるコンテクスト性は、まさしくこの順番で高まってゆくであろうからである。コンテクスト性の高い単語ほど習得しにくい。逆に一度習得されれば、損なわれにくいものになるであろう。ここにおいてすでに、器質性疾患におけるベルクソニズムの有効性が、徴候的に現れている。
こうした単語の序列の他にも筆者は、例えばしばしばみられる自閉症児の反響言語については、なんとか「学習II」へ向けてジャンプしようというシシュポス的あがきを見て取ってしまう。こうした感傷はさして価値のないものであろうが、少なくとも「学習II」の不在は、ここにおいても証されている。なんの変奏あるいは生成ももたらさない反復は、「学習I」からやがて「ゼロ学習」へと減衰してゆくほかはないだろう。
さて、いよいよ自閉症者の知覚変容体験についてみてみることにしよう。
小林氏は自閉症児の知覚変容現象として「視覚変容現象」「聴覚変容現象」「状況変容現象」の3つを挙げている。そしてこれらは、かなり長期間にわたって持続していることが推測されるという。また視覚変容に関しては、恐怖や脅えのみならず、対象への関心がしめされていることも多いという。これにたいして聴覚変容は主に不快反応を呼び起こし、その苦痛を逃れるために衝動行為にはしることすらあるという。
この記述は当然といえば当然であるが、ドナ・ウィリアムズをはじめとする、高機能自閉症者(いわゆるアスペルガー症候群)の自伝的記述とほぼ一致するものであり、おそらく臨床上も一般化できるものとみなしてさしつかえないであろう。
ここではまず、ドナ・ウィリアムズ自身の記述を中心に見てみることにしよう(数字は邦訳のページを示す)。彼女の場合、視覚はもっぱら対象に同一化するための手段として用いられるようである。「きれいな色の物、光る物への愛着」が強く、気に入ったものにすぐに同一化できたという。しかしドナの視覚は、しばしば混乱もする。「家の中は色彩の洪水、ものすごい速度の運動、輪郭もつかめないp.60」「旅の景色は色彩の破片の乱舞p.89」「あらゆるものが、色とリズムと感覚に還元されるp.100」などといった記述にみられるように、この混乱はカオス的な解体といった形をとるようである。彼女はこうした混乱を防ぐために、「まばたきや電灯の点滅で速度をゆるめるやり方p.72」を工夫していた。
良く知られているように、自閉症患者の感覚チャンネルは、感覚入力が大きくなりすぎた場合など、容易にシャットダウンしてしまう。このため健常な視覚や聴力を持ちながら、それらがあたかも障害されているかのように振る舞うことがあるという。ここでふれた視覚の解体は、あるいはこうしたシャットダウンに至るような状況の主観的記述と読むべきかも知れない。
また聴覚領域においては、ドナは甲高い声が苦手と述べている。また「嫌な音が聞こえるときは、頭の中で繰り返し好きな曲を歌うこと p.67」といった自衛手段すら編み出している。彼女は自分の耳が「動物しか聞けないような周波数まで聞き取っていたp.72」と述べているが、この言葉には後にも述べるような一種の正確さがある。
さまざまな音への不快感は、自閉症者の場合、視覚以上にはっきりと現れてくるようである。小林氏の報告にも、赤ん坊の泣き声に耐えられず、他の子供に暴力を振るったケースの記載がある。また後で述べるテンプル・グランディン氏も自らの体験として「突然の大きな音は、まるで耳を傷つけるように感じる」「換気扇やヘアドライヤーの音がつらい」と述べており、自閉症児が一般に嫌う音として「ベルやブザーの音、拡声器のハウリング」などの例を挙げている。彼女は不快な音から身を守るために常同行為にふけったと述べているが、この防衛手段は、後にも述べるように、きわめて興味深いものである。
こうしてみると、自閉症児の経験する「知覚変容体験」が、単なる持続時間の違いに限らず、分裂病者のそれとはかなり質的にも異なっていることが容易にみてとれる。自閉症児に一般的にみられる「知覚変容」には、分裂病者にみられるような、幻覚すれすれの加工の痕跡に乏しいのである。誤解を恐れずに言い切ってしまえば、分裂病者の知覚変容には生成的な傾向がみてとれるのに対し、自閉症児の知覚変容には物自体へと遡行するような傾向性がある。
このことは聴覚領域を例にとってみればよくわかる。物理的な音はデシベルという対数に基づく単位で表現せざるをえないほど大きな幅を持つが、人間の聴覚はこれを効率よく縮減してフォンという単位のもとで知覚している。ここまでは中耳から内耳にかけての機能であるが、物理音はさらに脳で選択加工をほどこされる。詳述は避けるが、われわれが会話を背景のノイズから聞き分けているさまを思い浮かべるだけで十分であろう。
自閉症児では、この選択加工が十分に機能していないのではないか。テンプル氏の記述にも「雑音のある場所で電話をすると、電話の相手の声が聞き取れなくなってしまう」というくだりがあり、これなどはそのまま選択の機能不全の例である。ひょっとすると自閉症児は、こうした選択加工以前の音に触れているのではないだろうか。選択加工を経ていないノイズとしての音に身をさらすことは、おそらく想像を絶する苦痛に違いない。さきに述べた「物自体への遡行」という表現は、こうした可能性を比喩的に指すものである。
いうまでもなく、ここで筆者が繰り返し用いた「選択加工」という表現は、「学習II」とまさに重なるものである。「学習II」はシニフィアンによるコード化という加工、さらに「同定認知」機能による選択によって、情報の生成抽出を行う(「情報量の削減」ではない)。したがって、自閉症児において生ずる「知覚変容現象」を「学習II」の概念によって説明するなら、端的に「学習II」それ自体の機能不全として理解するより他はない。
「学習II」におけるシニフィアンの作用と「同定認知」機能が端的に露呈している例が小林氏の報告にある。氏の提示している女性の症例は、「九州」という文字に尋常ならざる魅力を覚え、それぞれ「九」君と「州」君というキャラクターを作り上げてしまう。文字を相貌的に知覚するということ。このことの意味は、氏の指摘するように「主体-客体の未分化」
として理解される側面もあるであろう。しかしいっそう強調しておきたいのは、相貌的認知こそが萌芽的段階にある「同定認知」機能にほかならないことである。そして文字が相貌的に知覚されるという事実において、自閉症児が「学習II」によって「同定認知」機能とシニフィアンの作用を媒介することに失敗していること、いわばこれら諸機能のデ・カップリング状況がみてとれるのである。
自閉症児はしばしば欲求を二人称の疑問文で表現するという。ジュースが飲みたいときに、「お前ジュース飲む?」というように。この一人称の不在はどのように解釈されるべきか。そもそもひとはどのようにして「わたし」を修得するのだろうか。ひとは自分に向けられたさまざまな言葉「お前」、「あなた」、「きみ」などの言葉の断片から、どのようにして「わたし」の特異性・単独性を獲得するのだろうか。そこにはやはり鏡像とまなざしによってもたらされる何らかの飛躍を想定すべきだろうか。そうであるならば、自閉症児にとって一人称の修得は、やはりきわめつきの困難事であると結論せざるを得ない。以前にみてきたように、このような「分析的主体」の獲得には、必然的に「学習II」の作用が関与しているからである。したがって、ここでみられる主体獲得の困難さは、シニフィアン獲得の困難さと完全に重なる。そしてその起源は、先にも触れたFort-Daの欠如もしくは遅延にまでたどりうるものであるだろう。
この「自閉症者の主体」について考えてみたい。ドナの手記において顕著な傾向として、まさにこの「主体化への恐れ」が挙げられる。原題の Nobody Nowhere にあるように、まさしく彼女はNobody であることを願い続けてきた。彼女は自らのもっとも好ましい写真として「誰でもない顔のドナ」を挙げている。この「主体化への恐れ」は、さまざまな形で彼女の手記のいたるところに見出されるように思う。
彼女がおそれる具体的な行為を挙げてみよう。それはまず相手と視線を合わせることであり、抱きしめられることであり、体に触られること、指示されること、そして優しくされることである。例えば「やさしさ、親切、愛情には身がすくむp.58」とある。これら彼女の嫌いなものに、どんな共通点があるだろうか。
おそらくこれらはいずれも、心的組織を主体へと凝集させる契機にほかならず、それゆえ彼女はこの契機を逃れるためにあらゆる努力を惜しまないのである。例えばまなざしや親密さは、それを受けるものに対して、ほとんど暴力的に同一性や主体性を強いてくる。ドナにとって、愛や親密さが恐ろしいのは、それが暴力にほかならないためだ。われわれはこうした暴力に、たんに慣れ親しんでいるに過ぎない。心的主体を意識しなければいけない場面は、彼女にカタストロフを予感させるのである。
彼女が直接的な暴力に対していかにも無頓着であることも、逆の方向からそれを裏付ける。暴力は身体感覚には訴えてくるが、疎外される感覚はむしろ安心をもたらしたのではないか。彼女が主体化を避けるために作り出したキャラクター、「キャロル」と「ウィリー」のエピソードはその意味で興味深い。なるほどこうした局面では彼女はあたかも多重人格者のように、仮の人格で身を守っている。そして仮の人格があらわれる危機的状況とは、通常考えられるような暴力や虐待の場合に限らず、むしろ愛や親しさの告白などといった場合に生ずるのである。
いっぽうドナが好んだ行為は、飛び降りること、片足ずつに体重をかけて体を揺すること、自分の手を握る、頭を打ちつける、ものをたたく、顎をたたく、頭を打ちつける、などであった。 これらは一般には「自閉症児の常同行為」と呼ばれるものに相当するだろう。彼女はこうした行為が安心とリラックスをもたらしたと述べてている。
一般に自閉症児にとって身体感覚、とりわけ深部知覚はきわめて重要なものであるようだ。
インターネット上で参照し得た自閉症に関わる資料のうち、筆者はさきにもふれたTemple Grandin 氏の自伝的な記述にもっとも興味をそそられた(http://www.autism.org/contents.html#temple)。テンプル氏は現在コロラド州立大学動物科学部の助教授であり、家畜保持用器具などのデザインにたずさわっている。彼女は驚くべきことに、全米で使われているこうした器具の約三分の一を設計してきたというが、これはひとえに高機能自閉症者としての彼女の特異な才能によるものである。彼女は家畜を扱うためのさまざまな装置をリアルにイメージすることができる。また設計図を見ただけで、その完成形をイメージし、それを実際に運用したさいに、どのようなトラブルが生じてくるかといったことまで正確に予測できる。彼女のこうした才能は、家畜への共感能力(!)と一種の直観像の能力によって支えられているらしい。おそらくここでは、いっさいの感情移入や擬人化の手続きを経ずに、家畜へのリアルな共感がなされているものと想像できる。
テンプル氏はいまも知覚変容の症状に苦しめられることがあるが、その苦痛をやわらげるために Hug Box(図版参照)という装置を開発した(仮にこれを「抱擁函」と訳す)。装置はごくシンプルなもので、基本構造は大きな2枚の板を蝶番でV字状につなぎ合わせただけのものである。使用者はこのV字状の板の谷間に寝そべり、板に自分の体を挟み込んで、シリンダーで空気圧を調節しながら体に好みの圧力をかけることができる。テンプル氏は、現在も不安を紛らわすために、しばしばこの装置を利用するという。
彼女はこの装置を、興奮している家畜を保持器具で圧迫すると速やかに鎮静化するという事実から発案したのだという。またこの装置が有効である傍証として、自閉症児が深部知覚の刺激、とりわけ体の圧迫を求めるという事実を挙げている。彼女によれば、多くの自閉症児がマットレスに体を挟み込んだり、ソファの下に潜り込んだりする行動が、それに当たるという。
彼ら(の一部)にとって、深部知覚への刺激がリラックスを生み出すという事実は、きわめて示唆的である。遠位知覚である視覚機能を主体獲得の手段として用い得ない自閉症児が、何を媒介として主体感覚を獲得するか。主体感覚という表現が適切でなければ、前田英樹氏の表現を借りて「中枢性」の感覚、と言い換えても良い。冒頭で予告しておいたように、自閉症の臨床を媒介として、「器質的主体」の検討がここにおいて可能になってくる。
人間が心的主体を析出させるために用いる有力な手段が「学習II」であるのなら、主体とは「学習II」の異名である可能性も検討されなくてはならない。ベルクソンの円錐を思い起こそう。人間のもっとも弛緩した物質としてのありようが、この器質的存在であるなら、主体=「学習II」は、器質的存在が円錐の頂点へと向けて収縮した状態ではなくて何であろうか。そしてこれまでにみてきたように、「学習II」とは、純粋に心的組織に基盤を持つシニフィアンの作用と、おそらく純粋に器質的基盤を持つ「同定認知」機能に支えられることで、はじめて可能になるのである。
自閉症患者はこの収縮(=「学習II」)を十分に利用できない。それもおそらく器質的障害によって。このとき彼らがリラックスするためには、心的主体にかわる中枢性の感覚、いってみれば器質的主体の感覚による代償が必要とされるのではないか。それはいかなる自己言及的な表象も不可能な、そしてもちろんわれわれにとっても想像もつかない主体の態勢であろう。それをもたらすのが深部知覚の刺激であるとすれば、あるいはわれわれは中枢神経系のなかに、もう一つの主体の座を想定すべきであるのかも知れない。筆者がテンプル氏の抱擁函をここに提示したのには、こうした奇妙な主体の異形のシンボルという意味が込められている。
ここまでの論議については、私もそれなりに厳密さを心がけてきたつもりなので、それが将来的には(「科学」とは言わぬまでも)「臨床」に対して何らかの貢献をもたらす可能性についてはけっこう楽観している。以下に続く章では、主題の「文学」的変奏を試みることにしよう。もちろん「文学」とは精神病理学者に対して常套的に用られる批判的形容としての「文学」であり、以下の議論はそのようなものとして気楽に楽しんでいただきたい。ところで私自身の率直な意図としては、本章以降こそが本来の意味での主題であり、これまでの議論は本章のための助走でしかない。
何度か引用してきたように、人間の器質的存在性格を考慮するとき、ベルクソンの円錐モデルがよく当てはまるのではないだろうか。そこでは円錐の底面、すなわち精神のもっとも弛緩した状態こそが、物質=器質的存在にほかならない。ベルクソンの時代なら、物質すなわち脳であったかも知れないが、いまやわれわれは脳に加えて、例えば代謝・免疫系などを考慮しておく必要があろう。
なぜこのような類比が意味を持ちうるか。それは例えば、冒頭近くでも述べたように、器質性精神病という問題系の抱え続けるエニグマが、エイの指摘した「器質−臨床的隔たり」にあるためである。自閉症においてこの問題は、まさにその多彩な器質的病因にみることができる。染色体の異常、代謝性疾患などあきらかな病因が推定される事例から、およそ検査上は器質的異常を発見できない事例まで、この多様さにも関わらず、「自閉症」があるまとまりをもった症候群として析出してくるという臨床的事実。医学の側に残されたこの問題の解決方向としては、ともかく検査技術を洗練発達させていっそう微分的に器質的身体をクローズアップする方向と、診断概念を改良しつつ「自閉症」症候群を複数に解体してゆく方向とを、うまく結びつける必要がある。これは過去に何度も失敗している離れ業だ。ところで私としてはもはやこのような離れ業に多くは期待できないと考えている。
そうではなくてとりあえず、複数の器質因が自閉症症候群として現れるという事実の意味について考えてみたい。するとベルクソニアンとしての私は、器質的身体という「弛緩した物質」が、複数の身体を媒介として、自閉症という形式で現動化するという、まさしく円錐的なモデルをイメージしてみたくなる。
その円錐において心的主体へと十分に収縮を遂げていない自閉症患者にとって、知覚世界がわれわれとはまったく異なっていたとしても、もはや驚くにはあたらない。彼らの表象機能もまた、われわれのそれとはかなり異なったものであろう。そして表象機能とは、「学習II」によって知覚を受容可能な状態まで収縮させたものと考えることが出来る。
先に引用したテンプル・グランディン女史には、自らの経験をつづった Thinking in Pictures という著作がある。彼女はまさに画像によって思考するのであり、その卓越した直観像の能力によってデザイナーとしての地位を不動のものにした。おそらくこの「画像思考」能力は、われわれの視覚表象能力とは質的に異なっている。それは通常の視覚表象の単なるハイビジョン化ではなく、よりイマージュとしての物質性が高い画像と考えるべきであろう。それは言ってみれば「弛緩したヴィジョン」とでもいうべきものであり、ここにもまた「物自体への遡行」が見て取れるのではないだろうか。
そしてまたこうも言えようか。自閉症児達の内面に生起するイメージは、ドゥルーズのいわゆるディアグラムに似ていると。どのような表象とも無縁のイメージであるディアグラムは、イマージュの弛緩において破局とカオスとをはらんでいると。彼らの苦痛はまさに、人間が決して担い抜くことが出来ないこのディアグラムを「主体的」に表象へと収縮させ、鎮静化させることができないことによるものではないか。自閉症児の常同行為とはリズムによってカオスを鎮静化する手続きにほかならない。
ドナの記述を読むときどうしてもひっかかってしまうのが、あの超常現象の記述、彼女が繰り返しみたという「予知夢」「白昼夢」の体験である。もちろんこうした体験が自閉症者一般にみられるものかどうか、私は知らない。しかしこの「予知夢」については、どのような解釈が可能になるであろうか。もちろんこれが事後的に想起された、いってみればデ・ジャ・ビュの延長線上にある現象としてみるべきではないかと、精神科医としての私は考えてみる。しかしここで、あの超常現象の信望者であったベルクソンを想起してしまうのは、あまりにも短絡的というものだろうか。このときドナは、あの「純粋持続(ベルクソン)」に近い場所にいた。あの無時間の場所(というよりは「前後」といった空間的区分のない時間の場所と言うべきか)としての「純粋持続」の場所に。彼女の体験を神秘主義化せずに理解するには、もはやそのように解読するほかはないのではないだろうか。
ドナは言う。「純粋・無垢な精神が最上のものp.268」「ことばは音楽から派生したように思えた p.272」「思考は感覚から始まる p.272」「感覚を通じてのコミュニケーションは官能的 p.207」こうしてドナは彼女ののnowhere すなわち「エレホン」において、かぎりなくベルクソン=ドゥルーズに接近している。それにしてもドゥルージアンとしての彼女は、いかにして発達を遂げ得たのか?
人間の発達過程における奇妙な二つの系列をイメージしてみよう。すなわち言語獲得というプロセスにおける、否定を媒介とした同一性の学習。もうひとつは同定認知の洗練という形式で起こる、差異の徹底的な肯定に基づいた同一性の学習。換言するなら、ヒトの発達過程には、ラカニアンとしての側面と、ドゥルージアンとしての側面がありうるのではないか。もちろん後者は前者に取り込みうるとする異議がさっそく提出され得るだろう。しかしフロイトーラカンの理論装置が、例えば分裂病や自閉症を前にして陥る失調ぶりをみるにつけ、相補的効果を持つ対としてのベルクソン=ドゥルーズを想定しておくことは、それなりに有意義な端緒を開くものではないか。ただし、この「相補性」が、それによって一挙に円環が閉じられるようなナルシシックな手続きに堕してしまわないように十分注意しておかなくてはならない。これがナルシシックであるという理由は、いうまでもなく相互に補完しあうなんらかの手続きを想定する場合には、あらかじめ完全性の円環としての「人間」−しばしば「精神病理学会」で見出されがちな−が暗黙の前提となっているためである。
私はまたしても、いくつかの端緒を開いたままにして稿を終えなければならない。しかしここで示唆しておいたさまざまな問題系、わけてもベルクソン=ドゥルーズの記述を自閉症問題と接触させつつ再解釈するという試みについては、今後も継続されてゆくであろう。それというのも私が、こうした試みがどこかで反転し、ドゥルージアンの臨床へと接続してゆくこととを期待しているからにほかならない。
赤間啓之「ラン・ウィズ・ア・ベルクソン」現代思想 二十二巻十一号『特集ベルクソン』青土社、一九九四年。
ドナ・ウィリアムズ 河野万里子訳「自閉症だった私へ」新潮社、東京、一九九三年。
ジル・ドゥルーズ 宇波彰訳「ベルクソンの哲学」法政大学出版局、一九七四年。
ジル・ドゥルーズ 平井啓之訳「差異について」青土社、一九八九年。
ジル・ドゥルーズ 財津理訳「差異と反復」河出書房新社、一九九二年。
G.ベイトソン「精神の生態学 下巻」思索社、一九八七年。
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小林隆児「自閉症にみられる相貌的知覚とその発達精神病理」精神科治療学八巻三号、一九九三年。
小林隆児「青年期自閉症の臨床上の諸問題」西園昌久編『精神医学レビューNo.9 思春期の精神障害−今日的問題−』ライフ・サイエンス、一九九三年。
小林隆児「自閉症の発達精神病理と治療」児童精神医学とその近接領域三七巻一号、一九九六年。
「精神医学と生物科学のクロストーク」精神医学三十六巻六号、一九九四年。+
栗田広「自閉症」現代精神医学大系’88B、中山書店、一九八八年。
前田英樹「<度合の哲学>としてのベルクソニズム」現代思想 二十二巻十一号『特集ベルクソン』青土社、一九九四年。
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高木隆郎「児童期自閉症」現代精神医学大系17B、中山書店、一九八〇年。
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