1998.5.25 新橋にて
斎藤(以下S) 『CURE』観せて頂いたんですが、ただ「面白い」と単純に言い切ってしまうのがもったいないくらいでした。ああいうサイコ・ホラー的なものは職業柄、ちょっと意地悪く構えて観てしまうんですけど、そういう点からみても破綻がないと言いますか、非常に興味深く思ったんです。まず『CURE』の話からさせて頂くと、事前に何か取材をしてから臨まれたんでしょうか?
黒沢(以下K) ほとんどしてないんです。僕が脚本書いたり、映画作ったりするときのやり方なんですけど。何にも調べないで、でまかせに頭の中だけででっち上げるんです。それを後、助監督とかに「本当にあってるだろうか?」って調べてもらったりはしますね。彼(助監督)も専門家じゃないんで、専門家の方とかに訊いてもらったりして、「ここはさすがに違うようです」っていうようなことがあれば直したりしますが。違うってわかっててもいいんだ、っていうこともありますね。後であってればまあいいだろう、っていう感じでやったものです。ですから『CURE』の場合、ほとんど何にもやっていません(笑)。
S ただ途中で、うじきつよしさんの精神科医が催眠の解説をしますよね。つまり、催眠にかかった状態でも、本来のその人の倫理観にもとることはさせられない、と。この事実は一般には、案外知られていないものなんですが...。
K あれは調べました。さすがに少しは。最低限のことは調べますけど。あんまり勉強熱心な方じゃないんで。
S 非常に整合性があったというか。またそれとは逆に、精神病院のところの描写っていうのはかえってフィクション的にというか...。
K そうですね。実は専門家の方とお話するのは非常に緊張するんですけど。意図的にここはフィクションでいい、っていうとまあかっこいいんですけど。もっといい加減ですね。どうも、いくら調べてもこれはわからない、と。謎であるっていった場合、これはもうなんでもありだな、ということで作ってしまうこともあるんです。ですから整合性は綱渡りのようにあるかもしれませんけど、それはさまざまで、ないところもあると思います。
S 冒頭で精神科医が非常に広い部屋で診察しますけど、通常はああいう広い部屋は、診察室としてはあまり見られないタイプのものなわけです。それは意図的になさったというか、予めそういったイメージがあったんでしょうか?
K ええ。調べるともうちょっと落ちついた、例えば窓にカーテンがかかっていて、暖色系の色などを使った落ちつけそうな場所らしいということはわかったんですが。映画ではもうちょっと殺風景な、窓なんかはガラーンと開けっ放しになっているような感じ。大袈裟に言うと、これから始まる映画の居心地の悪さを象徴するようなものになるかなっていうことでそうしたんですけど。
S 冒頭でいきなりあの広々とした部屋が出てきて、非常に意表をつかれたんですよ。ああいう部屋は、たとえばプレイセラピーをやるとしたら考えられるんですけど、カウンセリングをやる部屋だっていうことと、非常に太った精神科医が歩いてきますよね。外人の方かなって思ったんですけど(笑)。もうそこでいきなり、異様さに幻惑されるわけです。歩くっていうことで伺いたいんですけど、『修羅』のシリーズで結構異様に歩き回るシーンっていうのがありますよね。
K ええ。
S こちらに非常に印象的でした。当然意図的になさっているんでしょうけれど。
K そうですね...そこに何らかの意味がこもっているわけじゃないんですが。
S それとも、何らかのこだわりみたいなものがおありになるんでしょうか?
K 今回のテーマとは異なってしまうんですけど、どうしてもフレームというものがあって、世界から切り取られてしまうんですね。映画の宿命なんですが。とくに意味はないんですが、この絶対的なフレームっていうものからはみ出たくなるんですね。この外にも世界はあるっていうか。人がどっかに行ってしまっても、カメラが追う。どうしてもこの四角いフレームは存在して、それは宿命であると同時に乗り越えたい衝動に駆りたてるものなので。つい登場人物が歩いて、そこから出ていってしまうということをやらせてしまうんじゃないかって自分では思うんですが。
S 伊丹監督の「マルサの女」だったと思いますが、そのメイキングビデオで、伊丹監督は「映画とはフレームの中だけの世界で、それをどう構築するかなんだ」っていうことを何度も強調されてるんですね。それにあえて反発するとかそういうことは?
K 特にそういうことはないんですけど。フレームの中の世界を構築するっていうときに、フレームっていうのは一枚の絵であるっていう考えが基本にあると思うんですが、僕は全然違うんですね。フレームは絵ではない。現実を仕方なく限定して切り取ったものだと思っていますから。やはりその外、フレームの外にはたくさんのものがあるわけですから。申し訳ない、ここだけです、すいませんっていう思いが常にありますね。その中で完結しようなんていうことはさらさら思ってませんね。
S 俳優一人だけのクローズ・アップっていうのがかなり少ないように思うんですけど。
K ええ。
S できるだけたくさんのものを取り込もうということなんでしょうか?
K ひとつには、実際ある場所で撮影するわけですよね。スタジオとかではなくて。病院の設定が必ず病院であるというわけではないんですが、現実にある場所で撮影するという行為、場所っていうものをフィルムに定着させたいっていう思いがありまして。俳優の顔はいつでも撮れるんですけど、その場所、その時、そのアングルしかないっていうような時が多くてですね。ここで撮っているっていうことを定着させたいんですね。自然とある場所を、四角く切り取るしかないんですけど。そういうことに自動的になるようですね。
S やっぱりなにがしかのドキュメント性というか...固有性というか。
K そうですね。ドキュメント性ということだろうと思います。僕の考えではそれって実はノーマルなことだろうと思うんですね。ハリウッド映画のようなものがそういったところからかけ離れたところにいるかというと、そうではないと思うんですね。ハリウッド映画は僕らのやり方とは全く違うとは思うんですが──例えば恐竜をCGで作っちゃうとか、風景を合成してしまうとか──そういった風景がウソなんだけれどもひとつの現実なんだよっていう風に呈示する、ということにおいては変わりがないんですね。一枚の絵ではありません、本当に起こったんですよ、という風にみせたいんですよね、ハリウッドの映画も。だから根本的な考え方は変わらないんではないかと。一枚の絵にそれを作った作り手の意図がすべて反映されているというのが理想ということになるなら、それはアニメーションになると思うんです。究極は。僕はアニメーションには詳しくないんでうかつには言えませんが、「アニメーションは僕にすれば映画ではない、現実を切り取ったものではないからだ」ということです。
S それはホラーから外れてることかもしれないんですが。技法を分解していくと、結局わけのわからないものに突き当たってしまうと。例えば、ヒッチコックの映画だったら、「マクガフィン」だ「赤ニシン」だとセオリーらしきものはあっても、つきつめてゆくとヒッチコックという固有名詞しか出てこないような。そういう作家の固有性というものがありますよね。場所や時間の固有性っていうようなものはこれに対立するものなんでしょうか?
K そうかもしれませんね。
S それが拮抗するような状況を作り出してゆくという。
K 意識的にそういった状況を選んでいるというより、そうする他ないということからもきているんです。仮に僕に作家性があるとしたら、僕の欲望とかとは全く別にドーンとそこにあるものとどう折り合いをつけていくんだっていうようなことから、それ以上でも以下でもないと思います、映画は。
S 『CURE』小説版のほうは映画を元にノベライスされたんですよね。
K ええ。まず映画があって、その後に小説も作ってくれよと頼まれまして。バタバタと書いたものなんですけど。
S 細かいことなんですけど、多少キャラクターが違っていたりとか、小説に書かれてる事件で映画では描かれていないものとかっていうところがありますが、これは後から追加されたっていうことですか。
K ええ、もう小説を書くっていうことは初めてだったので、映画でやってしまったものをもう一度書くっていうことがどうにも難しくて。いくつかの設定をまず、大きく変えさせてもらって、そうすると何か新しいものを作ってる気になるんですよね。でまあ、当然映画に沿って書いたんですけど、映画では描かなかったところとかも出てきて。半分は実際映画でやろうとしてやらなかったこと、予めベースにして伏せておいたことなんです。もう半分はちゃんと後からくっ付けたことです。ひょっとしてあの映画の裏にはこんなことも隠されていたのかもしれない、と勝手に後から引っ付けたものです。それらが入り混じっているんです。
S これを読むことでよくわかったということもあるわけでですね。大変こちらも興味深かったんですが。ひとつ、精神科医のキャラクターがぜんぜん違いますね。あれはどういう?
K あれはですね、どうしても主人公の男・高部(役所広二)と萩原聖人さん演じる間宮のキャラクターに関しては変えられなかったんですよ。書いてても、きっとそりゃあの二人だよなっていう。で、うじきつよしさんが演じた精神科医については申し訳ないんだけど変えてしまいました。そこを変えないとさっき言ったように新しいものを作っている感じがしなかったんですよね。主演の二人についてはそれを変えてしまったら、さすがに全然違い過ぎるようで。もう現実の顔がちらつくんですよね。「役所広二だろ、これ」って。書きにくいもんなんですよ。「まるで役所広二のような顔をした...」って書いてもバカみたいですし(笑)。どんな人間なんだろうっていっても、役所広二なんだよなっていうのが強すぎて、足を引っ張りましたね。ですからどちらかというとあまり描いていなかった奥さんの方を割に主体にしてるんですけどね。
S 奥さんの主観的な描写がけっこうありますよね。
K ただ操作してる側もまったく動かないわけにもいかず、「どうしよう? 全部奥さんの主観で書くか?」とも思ったんですけど、(それだけだと)ちょっときつくて。で、操作の方はその精神科医のキャラクター、顔つきとか外見をまるっきり変えることによってなんとか書けたっていう感じですね。
S 奥さんは分裂病的なものをイメージされて描かれているかと思うんですけど。よく道に迷われますね。
K ええ。
S これは実際のエピソードとかを聞かれて取り入れられたものなんですか?
K ええ。道に迷うっていうエピソードについては聞きました。
S 実際、こういう患者さんは多いんですよね。精神分裂病の急性期には方向感覚が逆転したり混乱したりしますから。
K ただ実際に病気によって方向を見失ってしまった人が現実にどういう感覚なんだろうかっていうことは、さすがに僕にもわかりませんね。僕なんかが道に迷うのとは全く違うんだろうなとか。逆に今更お伺いするのもなんなんですが、どうなんですか(笑)?
S (笑)。分裂病かどうかを診断するときに、私はたいてい、三つの項目でチェックするんです。ひとつは「筒抜け感覚」といいまして、「頭の中が筒抜けになった感じがしますか?」ということ。もうひとつは、「すべてがあべこべになった感じがしますか?」ということ、そして「ざわざわ騒がしい感じがしますか?」ということ。そういった項目がすべてポジティヴであれば、だいたい分裂病だと診断して間違いないんです。ただ、自分で質問していながらアレですけど、「あべこべ感」っていうのはよくわからないんですよ。ただ、こう訊くと「あります」って即答されてしまうんですね。たぶん、このあべこべ感が方向感覚の逆転っていうことに通じるんでしょう。歩けば歩くほど、すべてが逆さまになってしまって、わかんなくなってしまうという。普通の方向音痴の人の迷い方よりもっと強烈な、差異の感覚といいますか。書かれてもいましたけど、同じ公園に何度も来ているんだけど、同じ気がしないとか。そういう感じで同一性がなくなってしまうんです。非常にリアルだったんで、かなり念入りに取材をされたのかなと思いまして。
K いえ、してないんですよ。「こんな感じかな?」って想像を書いて。
S 逆にイメージだけでそういう分裂病の方の内面について書いて、確かにこういう風な語り方はしないわけですけど。非常に肉迫しているといいますか、小説にするならこういう書き方したないだろうという感じがするんですよね。
K これは専門家の方からいわせれば違うと言われるかもしれないんですが、「正常か異常っていうことは世の中の価値基準が決めていることだから関係ないのだ」っていうようなこと。実際はもっと科学的な病気なんだっていうことらしいんですが。だから分裂病の方のことの何かはきっと僕にもわかるだろうと。僕の中にもきっと何かあるはずだと。そう違いはないはずだ、っていうのを信じてやったんですね。実際はそうではないのかもしれないんですが。
S 非常に凡庸な描写になりますと、妄想や幻聴の方を強調して書きますよね。それをほとんど書かないで感覚のズレみたいなことだけに注目して書かれているいうのが非常にリアリティがあったなと思うんです。
K そういって頂くと非常にありがたいんですが、ずばりそうなんですよ。幻想とか妄想、幻覚とか...あまりそういったことに僕は興味がないんでしょうね。つまりフィクションの物語としてでしょうけど。現実をどう捉えているかっていうことに、きっと興味あるんでしょうけど。妄想とかについてはそれほど面白いとは思わないから。そういう要素を入れないぞとは思ってたんですよ。
S それはとても正しいと思うんですよ。そこに入れちゃうと非常に陳腐な...。
K それ入れた瞬間に僕が捉えられないようになってしまうからだと思うんですよね。それはわざと入れなかったんですね。
S 逆に妄想の描写で、我々が納得できるようなものっていうのはみたことがないんですよ。非常に凡庸な、あからさまにこれはキチガイの記号だろうなっていうことになっちゃうんですよね。それをあえて廃して、反転とか感覚のズレとかっていうことが非常に生々しく描かれているんで大変驚きました。これは元々「伝道師」という案としてずいぶん前から温められていたんですよね。催眠をからめてという。
K ええ。催眠に関しては興味はあったんですよ。ただやはり雲を掴むような世界で、自分がかかったこともありませんし、これに関しては何冊か本を読んだり、人に話を聞いたりしました。それを使ったこのようなホラー・テイストの映画を、って思っていたわけではなくて、たまたまひっついたんですね。ただこれもほんの聞きかじり程度ですから、実態たるやわからないんですよ。
S 臨床で催眠を使うことは、そんなにはないんですけど、私のみた限りでは非常に限定された範囲のことしかさせられないという制限がありますし。超短期間の洗脳に近いかなという見方もあるんですね。実は二つのことはほぼ一緒でして、専門用語では「解離」という症状を起こすテクニックなわけですけれど、どちらかっていうとこの『CURE』で描かれていたのは、洗脳的なものに近いかなっていうところがありますね。その中心にあるのが「あんた、誰だ?」という質問の反復ですね。このアイディアは非常に秀逸といいますか、実際応用例があるんです。何か参考にされたんですか?
K いや、まったく(笑)。
S 実はヤマギシズムの特別講習を取材をしたことがあるんですが、まさにこのテクニックなんですよ。
K あ、そうなんですか(笑)。
S どんどん根拠を奪っていくわけですね。さすがに「オマエは誰なんだ?」っていうのはなくても、「これはあなたのものですか?」っていうのを尋ねていって、最終的に自分の根拠がなくなるところまで追求していくっていうことなんですね。それから「怒り研鑽」っていうのがありまして、「最近腹が立ったことがありますか?」っていうことを訊いて、なぜ腹がたつのかっていうことの無根拠性をといていくっていうこと。方向としては反対なんですけど、結果としてどういう人ができるかっていうと、極端に暴力的な人ができちゃったりするわけですね。
K 左翼系のオルグっていうのはそれに近いものがありましたね。もう20年以上前のことになりますけど。何か言うと、「なぜなんだ? どうして?」っていうように追い詰めて、結局本当の自分なんかないんだっていう結論に行き着かせるんですよ。左翼系のオルグはちょっと近いかなっていう気はしますね。一度そういう目に遭ったことがあって。腹立ちますけどね。よくそんなこというなよなって。
S そういう体験が微妙に影響されてるのかなっていう気もしますけれどね。
K あるかもしれませんね。ただ全然、それと催眠のようなものをくっ付けるのは勝手なアイディアでね。催眠か洗脳かっていうようなところはいい加減に扱っているんですけどね。
S 洗脳の場合、根拠を突き崩していって何をするのかっていうと、価値観の注入がなされるわけなんです。ヤマギシズムと『CURE』で共通するのは、注入すべき価値観はなく、解体して終わりということ。それが極端な攻撃性として表現されるという 非常に純粋な形の洗脳。これが映画で描かれたのは画期的なことですよね。ただ根拠を奪うだけで、人は加害者になるという。
K 全く思いつきに過ぎないんですが(笑)。
S だからこそ、というか非常に強烈な核ですよね。サイコ・ホラーというジャンルでの傑作はあると思うんですが、私が知る限りでは他に例をみないような...。
K ハリウッドでは、催眠のようなものを利用して犯罪をおこすっていうのはあるにはあるんでしょうけど。催眠がどのような手口で行われて、どう解体されてみたいなところは『CURE』でもそんなに突き詰めたとこまでやっていませんが。カットが飛んだらもうかかってますみたいなものはありますけどね。映画で描かれるそういうものは超能力に近いですね。昨日も『光る眼』っていうのやってましたけど。あれは好きな映画ですけどね。眼が光るともう意のままになるという。それは本当にあったら怖いと思いますよ。
S そういう説明的なものを排除したりとか、紋切り型な流れを取り除いていこうというのはかなり強く思っていたことなんでしょうか?
K 僕はハリウッドの紋切り型な娯楽映画が嫌いではないので、一方でやりたいとは思うんですけど。 ただ日本では予算もなく、派手な見せ場も作れないというところで、ハリウッドがやっていない方法でやる、ということが基本ですね。そうすると、ハリウッドではカットするだろうところをあえて誇張したり、逆に見せ場になるなっていうところをばっさり省略したり。非常に単純に逆を突いてるだけなんですが。
S ただ逆をいくだけでは...、それを意図しつつ、そこに独自性みたいなものがおありなんでしょうね。生理的なものといいますか。どの程度偶然のものを取り込まれますか?
K 人と比較できないんですが。僕はすべての偶然を取り入れたい方なんですよ。あるシーンの基本的構造っていうのはかなり明解に決まってしまうんですよね。様々な試行錯誤を繰り返して、だいたいひとつのシーンにつき三、四パターン。どうやろうっていう風に迷うんですけど。最終的に決定するのは撮影直前ですね。これでいく、と。ただその中では何やってもいいんですが、それは崩さないっていう。非常にいい加減に撮ると自分では思っているんですが、そこまでは四苦八苦するんですよ。
S それはお一人で考えるんですか?
K そうですね。逆にそれが楽しいんですね。もっと厳格に、すべてを自分の下に統御できたらいいなと思った時期もあるんですが、それはあんまり面白くないんですね。やはりこっちはある枠だけ、それを僕は段取りって呼んでるんですけど。段取りは決める、あとは勝手みたいな。演出なんてもんじゃないんですね。細かいことはあれこれ言わないですね。俳優さんによりますけど。セリフを言い終わった後、口をきゅっと曲げるのは絶対止めろとか。芝居したら、「今二回やりましたね。だめです。」「まだ一回しかやってないからだめです。」というような言い方はしないです。細かいようだけど、それがあったからだめだとか、そういう言い方はしますね。アバウトですよ、映画の現場は。結局は集団作業ですから。
S 香港映画みたいに現場でどんどん脚本が変わるっていうようなことはありますか。
K それはありませんね。混乱しますから。即って変えない方かもしれませんね。
S 怖さの追求をしていくと、例えばヒッチコックの映画なんかは分析に乗せやすいっていうところがあるみたいなんですね。分析の論文を書くにもとても良い素材になるんです。そういった構造的なものについては?
K おそらく構造的なものは何にも考えてませんし、分析の対象になるとしても無意識にやってるとしか思えないですね。誰も「これが映画の構造である」とは考えて撮っていないと思いますね。様々な予算の都合でこうなってるとかくらいのことで。たまたまこうなっているっていうことはありますけど。例えばハリウッドの脚本作りのセオリーで、脚本の何ページ目かに山場がくる、とか。そのページ数っていうのはアバウトで、前半何分目にくる、とか。僕はハリウッド映画に反発してやっているんですが、脚本何十頁め、「あ、なってるわ」っていうのがありますね。意図せずしてなってしまうんですね。
S それはアメリカ的手段っていうものを監督自身意識されていた時期があったということなんでしょうか?
K いや、これはわからないですね。外そうとしているんですけどね。
S 生理的なものとして。
K そうとしか言えないんですけれどね。かなり感覚にまかせて撮っていますからね。後で気付くとそういう構造になってたっていうことが多少ありますね。
S 構造といいますと、以前の『DOOR』では寄生虫で、『CURE』では目に見えないものになるわけですが、どちらかというと後の見せないものの方が好みなんでしょうね。
K 好みっていうふうに断定できないんですね。っていうのも、ものすごいものなら見せてもいいんですよ。恐竜とかエイリアンとか。よほど怖いものなら見せてもいいんですけど、見せても怖くないものは見せない方が怖いと思うんです。
S ものすごいものっていうのはありますか? 具体例としては。
K ものすごいものを見せることに長けている監督っていうのはスピルバーグだと思っているんです。僕は大好きなんですが。『ジュラシック・パーク』なんかでもティラノザウルスがとにかく怖い。あといろんな言われ方しているんですが、『シンドラーのリスト』って大好きなんですよ。何がすごいっていうと、ナチスが怖過ぎる。ナチスが冷酷に人を殺戮することに全てを賭けたような映画で、それをシンドラーの行った人道的な行為を描いたヒューマンな映画、ととるにはほんとにナチスが怖過ぎるんです。『JAWS』なんかは伏せつつ見えるっていう手ですけれど、それにしても鮫が怖すぎるぞとか。『未知との遭遇』なんかは円盤がデカすぎる(笑)。それしか印象に残ってないみたいな感じなんですよ。どうしたんだこれは?みたいなね。ほぼ全勢力をそれに傾けてるんですね。ある物語とかを見る前のイメージからすると、ちょっと待てよってビビるくらい極端なイメージの映像を作る人なんです。それにほとんどを賭けてる。だから、そういういびつなとこも含めて、映画ですごいもの(それは恐怖を伴うものが多いんですが)を見せて勝負しようということをまっとうにやっている人だと思うんですよね。
S その評価は個人的にも嬉しいですね。実は私も『シンドラー』はすごく好きで。あれだけけなされてると、好きであってはいけないのかと思いますからね。見せるから嫌われるんでしょうか?
K 見せるから映画全体のバランスとしてはおかしなものになるとは思うんですけどね。「バランスって何?」っていうと困るんですけど。それなりに賢い人ですから。『シンドラー』なんかはナチスをどれだけ怖くみせるかってことなんだけど、それだけじゃ成立しないし、アカデミーも欲しいし、別なものも付けてやれってことでいろいろ計算するんでしょうが。その計算を不快に思う人もいるんでしょうね。ただどうみても、お金も日数もいろんなことからして、『シンドラー』で一番力を入れてるのはナチスの怖い描写ですよ。だから自分でも制御できない欲望が働いて、ちょっと怖ければいいのにどんどんエスカレートしたのかもしれないですね。わかりませんが。
S 意図していないところで過剰なものが溢れてしまったという感じなんでしょうか。
K もしお金があればものすごい怖いものを過剰なまでに見せるっていうのは、ひとつの正しいやり方であると思います。
S CGについてはどうですか?
K それが現実の一部だろうと思わなければ怖くもないと思うんで、そのように機能するCGであれば、使ってもいいとは思いますが。ただまあ...ちょっとわからないですね。恐竜をつくるっていうときには有効ですけれど、それは本物の恐竜がいないからしょうがないんですよね。
S 監督自身は幽霊、ゴーストの類は描かれますけど、いわゆる化け物を露骨に描くのは好まれないんではないかと思うんですが。
K 正直いいまして、僕の本音は幽霊が一番怖いと思うんですよ。かつていろんな人にアンケートをとったことがあるんですけど、ダントツ一位でしたね。それは不動でして。幽霊の怖さはただものではないと思うんですよ(笑)。人間が怖いっていう次元を遥かに越えていて、人間が怖いとしたら、それは人間が幽霊化してくときだと思うんです。
S ゾンビより幽霊ですか?
K そうですね。ある目的性をもって行動しているもの、例えば殺人鬼とかはさほど怖くないんですよ。ある程度はもちろん怖いんですけど。幽霊の類、何故そこにいるのか、何が目的かわからないっていうのは怖いんですね。それが最も端的に現れているのって「四谷怪談」だと思うんです。「四谷怪談」のお岩さんって「恨めしや、伊衛門どの...」ってそこにいるんですよ。何が目的なのかわからない(笑)。死んでいないはずの人が、「私います」っていうためだけにいるっていうのはものすごく怖い。それで伊衛門は狂って自滅していくんですよね。いちゃ困るものがいるっていう点で幽霊はとても怖いですね。
S 幽霊に限らずそういう存在はあるかと思うんですが、その究極が幽霊だと。
K と、思うんですよね僕は。例えば精神病の方が幽霊にみえるっていうことは医療の現場ではほとんどないと思うんですが。例えば電車の中とかで、ふっと思わぬところにこっちに何をするでもなく存在してしまっているような瞬間に、失礼ながらぞっとしてしまうことはありますね。これ言っちゃいけないなぁ。目的性とかがない分、ある異質な存在がそこにあると考えて日常生きていればいいのでしょうが、全然考えていないで急に存在するとドキッとしますね。もちろん、その後で「いやいや、そういう方なんだ」っていう風に理屈で納得するんですけど。目的のわからない、自分がまったく理解できないものが確実に存在してしまうっていうことの怖さ、ですね。それまでこうだろうと思っていた社会がぐにゃっと歪むというか。そういう時に一番怖いですね。
S その技法といいますか、観客が意図しないところで人を立たせるとかっていうことは『DOOR』でなさっていますけど。『蜘蛛の瞳』でもそうですね。『DOOR』では顔があいまいな感じでしたけれど、『蜘蛛の瞳』では顔もはっきりとはわかなくても消去されてはいませんでしたね。そのへんの違いっていうのは? 消さなくてもいける、とお思いになったんでしょうか?
K 『DOOR3』はそういう映画ですし、ある程度周到に意表をつく形をとらざるを得なかったんです。『蜘蛛の瞳』では「まさかここでこれはもってこないだろう」という観ている人の油断を計算してヒョイっと出したんですね。たいして細工せずそこにいるだけでよかろう、と思ってしました(笑)。
S そのへんの判断は、なにかこう、ふと降りてくるようなものなんですか?
K ある時ふっと浮かぶっていうしか言いようがないですね。一応自分なりに観ている人の気持ちは読んでるつもりなんですけどね。いかにもそういかせて、ならない。そんなものがまさかくるまい、っていうとこで出すっていう。それも厳密に計算したものではないですね。
S ヒッチコックのようなある程度分析可能な、構造がある程度よめるような捉え方もありますし。もうひとつの恐怖の手法としてはデビッド・リンチのような完全に分裂症的な 、当たり前の構造を溶かしてしまって、もうなんでもありみたいな怖い空間を作ってしまう、というのがあると思うんですけど。リンチ作品についてはどう思われますか?
K 怖い、歪んだふりしてけっこうギャグやるぜっていう感じですね。笑うっていう。あれは狙ってるんだと思うんですが。意表をつくギャグをするっていう印象ですね。確かにどこにいくかわからない怖さっていうのはあると思うんですが。どちらかというと(ギャグの方が)...(笑)。
S (今回の対談に備えて作品を観て)分析可能なものかっていう視点で見ざるを得なかったんですけど、構造が見いだせないにも関わらず構造的な印象があるっていいますか。そんな感じがしたんですけれど。内面の描写がないっていうのがあるのでしょうが。びっくりした表情を出さないっていうことをなさっていますよね。
K ええ。『CURE』でけっこう意図的にやったんですけど。主人公が怖がるからつられて怖がるのはやめようということなんです。劇中誰も怖がっていませんが、怖いと思う人は勝手に怖がって下さいっていう手法で、けっこう勇気がいったんですが。はまるとその方が怖いですね。
S 主人公に同一化させて、感情移入させて主観的視点から恐怖を味あわせる手法が一般的なんじゃないかと思うんですが。あえてそれを廃して...。
K そうですね。観てる方に、どの人物に肩入れしてくれっていうのはなく、大袈裟に言えば、「あなたもこの現場に立ち会っているんですよ」っていうことですね。それはカメラマンなんかにも、「主人公を含めてこういうことが起こるけど、たまたま同席した人がふっと見たら...っていう見え方で撮ってくれ」って言ったんですよ。全編ではありませんが、たまたま見てしまった目撃者の視点でやりたいっていうのはありました。
S 学校の先生が奥さんを殺して二階から飛び降りるところがやたら怖かった気がするんですが、あれもふと浮かんだアイディアですか?
K あれはまさにそうですね。ふと見たら、向こうの家から人が飛び降りたらどうだ?っていうような感じにしたいっていう。現実にそんなことがあったら怖いんじゃないかっていう非常にシンプルな発想なんですが。それのヒントになったのは、『羊たちの沈黙』っていう映画でしょうね。あれは主人公のジョディ・フォスターが(FBI捜査官なんだから当たり前なんですが)、ハっていう感じで怖がるところがほとんどないんですね。最後の方を除いて。死体があっても彼女は普通に見てるんです。そういうところが結構ヒントになりましたね。
S ホルマリン浸けかなにかの...。
K ええ、生首の。あれはよくできてたんですよ。あれは本当に参考になりました。ふわっと取ると、「うわっ、生首だ」って切り替えしてって思うんですけど、次のショットはもう場面が変わって病院に入っていくところじゃないですか。ジョディー・フォスターは一切反応を見せるところがないんですよね。考えたら彼女はFBI捜査官なんだから驚くわけもないんですよ。「ぎゃー」って言ったらヘンなわけでね。そりゃそうだなって思ったわけです。感情移入させなくても怖いものは怖い。
S こちら側の現実と地続きなんじゃないかと思わせるテクニックというわけですね。
K そうですね。
S あの映画自体はハリウッド文法から外れたところで作られたものではないですよね。
K そうですね。今言ったシーンもよくみてみたらそうなっていたというだけで、強烈に客観的な描写となっているわけでもないですから。見てみるとないんだ、驚く表情が、という(笑)。ごく普通のアメリカの娯楽映画だと思うんですが。上には上がいるということですね。だから『CURE』なんかで僕が生意気なこと言ったら、ハリウッドのプロ中のプロに「そんなこと昔から知っとるわい」って言われてしまうんじゃないかなという気がしますけどね(笑)。
S 『セブン』みたいなのもあるわけですけど、怖さでは『羊たち〜』の方が上といいますか。
K 『セブン』は悪い映画だとは思わないんですが...。死体はよくできてたなぁと思いますし。別な意味でいろいろ...脚本がよくないと思います。ひとえにモーガン・フリーマンの演じる男にイライラするんですよ。もうすぐ引退する刑事だとはいえ、殺人がどんどん起こっているのに図書館でなんかやってたり、ブラッド・ピットの奥さんのグチ聞いたり...オマエ捜査しろよって...(笑)。さぼってるんですよ。さぼるからどんどん人が死んでいくんですよ。捜査ものとしては失格ですね。かなりの人がモーガン・フリーマンが犯人だと錯覚すると思いますよ。刑事なのにあれだけ捜査しないのって犯人かしら?って(笑)。それ以降は最悪ですね。ブラット・ピットに「殺すんじゃない、殺したらオマエの負けだ」とか。知らないよそんなこと(笑)。まったく自分の理屈でね。
S (笑)。
K そんなに言うなら自分で殺せよって思うし。あのモーガン・フリーマンには腹立ちましたね。
S 私は普通の観客として観てたクチなんでそういう風に説明されると(笑)。いろんな視点があるなぁと。
K ただそれを除けばね。死体はよくできてたし。さっきのはいちゃもんつけただけです。ただ脚本がちょっとずさんだなと思ったわけです。死体を見てしまう怖さっていうのは...なんでしょうね、現実には死体というものがインパクトをもつわけで...。それを実にうまく使っていたと思います『セブン』は。『羊たち〜』もそうですね。『CURE』でも随所でそれを使わせて頂きました。あまり人に指摘されないので、自分からばらすんですが、『CURE』は最初から最後まで緊張が持続するというような言われ方をするんですけど、一因になってるのは、けっこう冒頭でバーンと死体を見せるんですがそこで「死体みせます」っていうのを示しているわけですね。しばらく見せないんですが、医者がバリバリバリって...(笑)、バーンと見せる。油断してたらみせるぞっていうこと。「この映画死体ありますよ」っていうのを最低数回示すわけです。あのバーンとした死体の描写を切っちゃうと随分緊張感薄れてしまうと思うんです。
S みせるかみせないかっていうことではみせる、っていう。
K 非常にありふれてはいるんですが、映画でばっと死体を見せるのはいやなんですね。そういう汚い手も使ってるんですよ、あの映画は。
S 奥さんの死体がいつ出てくるのかっていうのがポイントだったわけですが、ほとんど一瞬のイメージ・カットで。
K あれはもうちょっと長く撮ってあるんですけど...。
S たしか「CURE」の予告編では全身が映りますよね、一瞬。
K あれは唯一計算通りいかなかったんですよね。もっとドカーンと見せるつもりで撮ったんですが。はっきりいって作りものの人形なわけです。これがやはり、ばれてしまうんですよね。
S あまり長くみせると...。
K あの長さ以上はムリだったんですよね。テクニック的な限界でしたね。結局どんどん切っていってしまって。潔くない見せ方をしてしまったんですよ。バレないギリギリの長さ使うっていうのは選択としてはよくないんですよ。
S 結果としてそれが幻想なのか何なのかわからないっていう効果につながっているんですよね。
K いい方に解釈してもらえればいいんですが。いつ、どうして、誰がやったのっていう、この問題に関しては不可解なんですが。彼女は明らかに、あの猿と同じ姿勢で殺されましたっていう映像はみせたかったんですよ。
S 主人公の刑事・高部(役所広二)が誰を何人殺したかっていうのも曖昧なわけですよね。彼自身の内面の変化っていうのが平行するんでとても怖かったわけなんですが。一番最後にとても爽やかな人間になりますよね。それがむしろ完璧な人格かもしれないっていうのが、日頃私が考えていたことと一致するといいますか。結局いってみればあれは人格障害のモデルなわけです。精神科の分類としては精神病と神経症と人格障害があるわけなんです。精神病っていうのは狂気、神経症っていうのは動機とか葛藤とかがある程度理解可能な狂気であるということ。(みかけ上は)葛藤が存在しない狂気というのが人格障害なわけなんですね。人格障害的な方に大きくふれた映画という見方をすると面白いわけですね。エイリアンが攻撃のみを目的とした完璧な生物であるというのと同じで、加害者でしかあり得ない人格が完璧であるということになるんですね。
K そこまで分析的にやったわけじゃないんですが、役所広二の最後の姿っていうのは、彼はついに狂ったっていうふうには全然考えていなくてですね、あれは様々な苦難を乗り越えてある高みにいったというふうにとってましたし、役所さんにもそう言っていました。ただいろんな解釈ができるという風にしておこうと思いまして。ただ小説の場合はこれははっきりさせておこうと。狂ったわけではないという。彼はある完璧な人間に(反社会的かもしれませんが)なったということですね。
S すごくその下りには感銘を受けまして。孤独と引き替えに完璧なものを手に入れたという。
K それはまあどこか僕のロマンティシズムなのかもしれません。ある完璧な人間、そうであるがゆえに迫害され、孤独であらざるを得ないという。そうでないから憧れている、というところがあるんでしょうね。
S さきほどの『羊たち〜』でいうと、最も理想的な人間はレクターではないかいうわけになるんですね(笑)。
K あの映画観て大抵の人が、「レクター怖いけど、すごい...」っていう。「すごいぜ、こいつ」っていう。
S 『セブン』の場合はパラノイアが出てくるわけで、でもパラノイアっていうのは目的と方向がはっきりしているからそれほど怖くはないという印象がありますよね。ところが人格障害の人、完璧な人格の人っていうのはそういう目的も置き去りにてしまうといいますか...。動機も目的も即実行に移されてしまうといいますか。ためらいがないという...。
K それが『セブン』の犯人とレクターの大きく違うところですよね。『セブン』の犯人はある狂った理屈に沿って行動しているだけなわけで。だからむちゃくちゃやるわけですが。レクターは何か強い確信をもっているようでいて、若干幽霊化しているわけですが、何のためかはさっぱりわからない。ただ常人には計りしれぬ目的があるようにも見えるわけですけど。とにかく厳然とそこに存在するっていう。それが怖い(笑)。
S 完璧な正気の状態なんですね。
K ええ。狂気っていう感じじゃないんですね。幽霊っていうのでもニュアンス的に違って、僕はもうあれは悪魔だろうっていうんですけどね。悪魔化している。狂人じゃない、悪魔だっていう(笑)。
S 完璧に近い知性と葛藤みたいな人間くさいものを捨てたときに、そういう風になってしまうという。まさに怪物化してしまうということですね。高部刑事もそういう方向に行ったんではないかなという印象を私なんかは持ったわけです。
K やや舌足らずで強引なようですが、そっちの方向へ行って欲しかった、それが好きなんですね。
S 『羊たち〜』ではいきなりレクターがいるわけなんですけど、『CURE』ではどうしてそうなるのかっていう過程に、きわめて説得力があるんですね。
K その過程を描いてみたんですが 、説得力はえらく不安なわけで(笑)。
S トラウマとか神経症的なお話だと、つまんないものになってしまうということがあると思うんですけど。それらとは違って空洞化していくっていう。独特の造形といいますか、誘惑の技術として非常によくできているといいますか。何物であるかわからない人間にみんなが惹きつけられるという。そのへんが核にあったのがすごいかなという。
K これも本で読んで、ああいう記憶障害の人ってこんなにすごいんだっていうのを知ったんですよね。外科医の人が記憶障害にかかったという実例がでてくるんですが、腎臓かなにかを摘出する時に、「今腎臓を切ったんだっけ?」っていうのを何十回も看護婦に訊くんで、これはおかしいと思って調べたら記憶障害に陥っていたという。これはたまらんなぁと思いましたね(笑)。そこからいろいろ調べたんですね。記憶障害といってもいろいろあるでしょうから。かなり痴呆に近いようなものもあるようですしね。知性だけを保つ記憶障害っていうのはあるのかわからないんですが。
S 「全生活史健忘」っていうのはまさにそういう感じなんです。記憶には知識としての記憶と、自分の人生に固有な記憶(エピソード記憶)っていう2パターンがあるんです。「全生活史健忘」っていうのはエピソード記憶だけがなくなりますから、知識だけは残っているわけです。だから自分が誰だったかはわからないけど、新聞読んだり電話かけたりという日常的なことは普通にできるわけです。
K さっきの記憶障害の外科医もそんな状態で実に完璧に手術はやったということなんですよ。
S 長期記憶、短期記憶、小脳タイプの記憶とかいろいろな配分がありまして、そういう技術的な記憶っていうのは劣化されにくいんですよね。あの質問の形式みたいなもの、何度も同じ質問を繰り返すっていうのはそのへんにヒントに?
K ええ。あの本を読んだのはきっかけで。最初はあの役を露骨にレクターっぽく、悪魔めいたものにしようとも漠然と思ったんですが、この記憶障害が堂々巡りの、訊かれた方はたまらないだろうと思って取り入れたんです。
S ああいうキャラクターを見たことはありませんし、ある意味レクター的な方向っていうのは内面に知識なりなんなりを凝縮していって完璧にしていくっていうことじゃないですか。逆に間宮(萩原聖人)の場合は、まさに説明されている通り空虚にしていくというところが...。最初は非常にレクター的なものがあって、それを反転させたっていうことなんでしょうか...?
K そうですね。まあレクターは憧れでしたから。でも同じことやっても勝てないし、つまりは催眠で誘導していく人物をどういうふうに設定していくかっていうところで、記憶障害の会話の面白さっていうのにつながったわけです。これはいける、レクターとは全然違うぞっていう。
S むしろ逆ですね。
K ええまあ、レクター側がガンガン来るっていうより、向こうが無になっていくので行かざるを得ないっていう状況をつくり出すやつっていう。それは力のベクトルとしては逆だっていうこともあって、即採用っていうわけです(笑)。
S すごく好対照という形だと思うんですが、(小説を読むと)間宮は意図してそうなったということですよね。
K あの辺は小説の為にでっち上げたんです。彼がどうしてそうなるのかわからないし、映画では彼がそうなる過程は描かれないし、なぜ彼がそんなことをしているのかは重要でないから描かないし。だから考えもしない。で割り切ったんです。小説でそうも言ってられないなぁと思ったんですよ。
S 単純な動機ではないですよね。自分を空虚にするために憎悪を外在化するという。すごくこれも説得力のある...これがイコール殺人の動機ともいえないんですよね。
K そうですね。別に人をバタバタ殺すためにやっているんではない。
S 単純に気持ちよくなるために...っていうことなんでしょうか? 空っぽになる気持ちよさというか。その結果が完璧な人格として、殺戮を続けざるを得ないというか...。動機めいたものを知らされても怖さには変わりはないという点で...実例は思いつかないんですが、ほんとに素晴らしいとしか言いようがないです。率直にいうと私はいままで、サイコ・ホラーものっていうのは大体バカにしていたんですけれど。
K そうですか(笑)。
S 強力ですよね、こういうものをもってこられちゃうと。
K フィクションだから許されること、こんな人いたらどうだろう?っていうとこからの発想ですから。お恥ずかしい限りなんですけど(笑)。
S 化け物を出さず、説明せず、しかも説得力のあるストーリーが展開するっていう本当に奇跡的な綱渡りなんじゃないかなと思うんですけれど。いろんなアイディアの出会いがつながってできてしまったという...。
K 本当にひょいと出てきてしまったという。ぱらっと膨らんで、あとは勝手に人物たちがああなっちゃったというだけで。何も調べてないし、裏付けも後で多少とったというだけで。
S 逆にこちらが精神医学的な言葉が不足してしまうんですが、狂気じゃなくてしかも神経症でもないとなると、もう人格障害としか言いようがないんですが。そういうものとしてはこれほど端的に成功した映画というのを私は知りませんし。素晴らしいとしかいいようがない。人格障害化していく、つまり完璧な人格になっていく過程というのは一種の幽霊化とみてもいいんでしょうか? ただいるだけの存在というか。
K 映像的にはそうですね。幽霊化するといってもいいかもしれません。最終的にはそれが存在するだけで、世界が恐怖してしまう...。
S そういうことなんですね。いるだけで怖い化け物という感じになってしまうという。
K 僕にとってはそうですね。それがやはり怖いといえば怖い。
S 分析的な見方を繰り返しますと、症状には動機があるというのが常識的な基本としてあるわけなんですよね。だからそれが症状であり、こういった動機があるだろうというのを前提として我々はいかざるを得ないんですけど。ある種の人にはそれが通用しなくなるという可能性がありまして、その場合は「行為への移行」みたいな表現をするんですけど、動機があって行動がある場合は行動化と表現するんです。ところが、それすらも越える次元があるとして、それが「行為への移行」そのものになってしまうと言われるんですけれど。そういう変化ですよね。
K そういうものの具体例はあるんでしょうか?
S それはもう自殺しかないですよね。動機なき自殺っていうのが、行為への移行の典型的パターンですよね。これを映画で描くとしたら、殺人鬼か自殺しかないということです。まさに行為への移行の見事な映像化といいますか。非常に説得性が高い、逆に分析を拒むんですが、でも惹きつけられてしまうという。単にわけのわからないもの見せられても退屈するだけという場合もあると思うんですよ。わけがわからないんだけど、惹きつけられるし、しかも怖いという。エモーショナルな反応を起こすとしたら。精神医学の用語にあえて置き換えるとすれば、人間が行為そのものになっていくということなんじゃないかなと思います。『CURE』の場合、最初神経症的だった人が、なんらかの素質を見出されて、段々と完璧な人格の方にシフトしていくということですよね。
K 映画ではね、その辺が最終的にどうなったかっていうのははっきりしないかもしれないんですが、そうなってくれと思って撮ってたものなんです。
S 最後の非常に爽快な感じと、ファミリー・レストランで一人で食事をしているところなんかを見ると、ほんとに孤独な状況にあると。同時に周囲に邪悪な影響を及ぼしつつあるんだな、これはというのがわかります。あのウェイトレスの描写なんかをみるとわかりますね。
K 周囲には邪悪がたちこめる、と(笑)。
S どんどん邪悪を極めつつ、本人は爽やかという。怖いですよね(笑)。
K そう読みとってもらえると本当にうれしいですよね(笑)。かなりそういう映画にしたかったんです、最後はね。
S そういう映画を観たことがなかったんですよね。そういう物語も知りませんし。そういう意味では奇跡的と呼ばせて頂きたいと思うんですけど。それ以降のシリーズ、哀川翔さんのシリーズなんかもその後の後日談のような印象すらあるようなんですけど。
K あれはもちろん別ですから、そんなに意識してないですけど。『CURE』でやってしまったことをもう一度やるつもりはなかったし。哀川さんのあの二本は完全に悪魔化した、あるいは完全に空虚になってしまったもので。やや乱暴ですが、ある実験的な試み、仮にそうならどうだろうっていう遊び心もあって。極端に、過程なんかぶっ飛ばして描いてみてはいるんですけどね。
S 哀川さんが画面に出てくるだけでまがまがしくなってしまうという。本当に何を考えているのだろうと。『蛇の道』の方ですか? あちらの方では宮下という神経症的な人が脇に出てきて、物語が展開し、最後には哀川翔の動機もわかるわけなんですけど。あまりわかった感じがしないという(笑)。
K あれはかなり露骨に割り切っていまして、哀川さんにも言ったし。
S あの黒縁のメガネが非常に印象的といいますか...、哀川さん自身のアイディアだったということなんだそうですが。
K ええ。
S あと声が独特なんじゃないかと思うんですが。平板といいますか、あまり情緒を感じさせない...。
K ちょっと機械音っぽい感じの。
S ほんとにそうですね(笑)。怖いんですよね、あの声が。情緒の裏付けが残らないんですよ。あれは意図して出されてるんですか?
K いえいえ、元々ああいう声で。もちろん役によってということもあるんでしょうが。僕のにも何本か出て頂いてて気心も知れていますから、普通は通じないんですが、「哀川さん、悪魔ですよ」、「わかりました」ってなもんで(笑)。回を追うごとに段々なれてきて、余計な説明いらないっていう感じになってきてますね。
S それは『CURE』以前の『復讐』シリーズあたりから...。
K そうですね。そのへんは哀川さんっていう人の割り切りの良さ、大らかさにもよるんですけど。この主人公はここでこういうことをしますが、僕もさっぱりわからないし、観ている人もさっぱりわからない、なんでそんなことするのかわかんないっていうのが狙いです、っていうふうに言うんです。そうすると、「わかりました」っていうことになる。哀川さんがわかっても困るんですね、だから「わけわかんないでやればいいんですね」って(笑)。
S そういうことがわかる人なんですか(笑)?
K そういうことがありだ、起こりうるっていうことをわかっている人なんですね。
S 他の作品でそういう演技はなさってないんでは...?
K ええ、だからよく僕のでそんな欲求に応えてくれていると思うんですよ。頭のいい人でね...。
S ピンとくるわけですかね? 指示を的確にのみこんでしまうという...。
K ほぼ理屈でなく勘でやってらっしゃるところが、全然外さないっていうところが賢いんだと思います。
S 動機の存在がどうでもよくなってきてて、行為そのものの連続みたいなものになってくると、それにつれてとても怖ろしいといいますかね...。ほとんど死体と化しちゃってるわけで、もう何が襲ってきてもただまがまがしさみたいなものが...。特に『蜘蛛の瞳』になると、もっと露骨に転換が早くなるというか...。突然人が死んだりとか、違った場面にきちゃったりとか...。
K さすがに『蜘蛛の瞳』になると僕もいささかちょっとやり過ぎかなって自分で思いましたけどね。
S そうなんですか(笑)。
K 毎回何の確信もなく、怖々やってるんですけど。怖いというのでもないじゃないですか、『蜘蛛の瞳』になると。何だかわけのわからない...。
S そうですね。ホラーというくくりでくくれない、何と言ったらいいのか、ジャンルのわからないものなんだと思うんですけど。
K 何と言ったらいいか、わけのわからない映画を作ろうと思ったんですが。これはちょっとまずいかなっていうような、これは何て言ったらいいのかわけわからんなっていう(笑)。
S そうすると、タイトルの『修羅の極道』っていうのも...(笑)。
K ええ、『修羅の極道』っていうのは後で勝手につけたんですよ。勝手につけといてっていうようなものなんですよ。
品川 さきほどの流れで言うと、フィルムそのものが幽霊化してしまうという...。
K それは理想ですね。まだまだそんな領域に達してないですけども。
S いると思わせるだけで大変なんですよね。やっぱり映画で存在感出すには説明がいるでしょうし。コンテクストは作らないといけないでしょうし。
K 究極はそうでしょうね。そんな映画があること自体がまがまがしいっていうのが理想ですね。たまにそれに近いニュアンスがあるような...、だいたい時代的に古いものだったりすることが多いんですけど。そんな映画が存在するだけでまがまがしいっていう印象を受けることがありますけどね。時代的なものもあるな。
品川 例えばどんな作品ですか?
K まあこれは言うとどういうこともないんですけど。『ドクトル・マグゼ』とかね。それはまあ、そんな映画ですけど。なんでこんなもん作ってるんだろうっていう。
S 確かに怖さを描くっていう理念から外れちゃいますね、それは。作った本人がこわいみたいなことになってしまいますからね。監督自身もそういうまがまがしい存在を。
K いえ、そればかりを目指しているわけではないですが(笑)。でもまがまがしいばかりがいいとは思っていないんですが、やはりどっかで完全な人間、っていうのは大袈裟ですが...、どこかで非常にロマンティストです、僕は。まがまがしかろうがおかしかろうが表現はいろいろ変わるんですが、ある理想的な存在を描きたいとどこかで思っているんだろうと思いますね。
S それは『CURE』でかなり成功されているんじゃないですか? まだ先があるとお考えなんでしょうか?
K と思わなくちゃと自分では思っているんですが。当然さっき申しましたように、っていうような理想と、実際使うのは俳優さんであり、本当の東京のどっかで撮影するという現実とのギャップがあるわけで。現実と僕の個性、欲望というようなものの行き違いは毎回のようにありますね。毎回がその戦いですから、これで勝ったとか、現実をすべて征服したとかっていうのはどこまでいってもないと思います。
S 現実との戦いとして映画を捉えている、と。
K そうですね。自分ではそう思っているんです。戦いといいますか、微妙な関係ですね、もうひとつの現実を作っているっていうことになりますから。戦って組み伏せようとか、なきものにしようとかっていうことは思っていないですね。現実があって、一方で脚本で考えたらフィクション、頭の中ででっち上げたものであって。映画っていうのはそのちょうど真ん中でやっているわけですね。現実がちょっと組み変わって、これにちょっと近づいて。これに沿って切り取られた現実が、つまり現実とフィクションの中間のどこかに出来上がるしかないものである、と思うんですね。それをもう一つの現実というか、物語というかはわからないですけれども。必ず両者の間の力関係なんですね。
S 以前脚本家の高橋さんと往復書簡で書かれた通り、世界の原理と映画の原理の相違ということが問題になるわけですね。つまり「何でもありの世界」と、映画のような「約束ごとの世界」。その中間を目指すという...。
K 目指すというよりも、そうだろうっていうのが実感なんです。ならざるを得ない。そうでなければ映画を撮る意味はないでしょうと。映画が他のメディアと違うのはその辺でしょう。それぐらいしかいいようがないですね。
S そのひとつとして、予測のつかなさの追求みたいなものがあるわけですね。
K そうですね。現実って予測がつかないよね、っていう単純な発想はあります。
S 現実は怖いものだという捉え方ではないわけですよね?
K ええ。怖いとだけ限定してないんですよ。おかしいときも感動的なときもあるし。予測不可能だということは変わりないでしょうね。怖い場合ももちろんあります。
S そうしますと、以前確かギャグもお嫌いではないということをお聞きしましたが、『勝手にしやがれ』シリーズのような方向にこの先にふれる可能性もあるんでしょうか?
K 大いにありますね。怖いだけが映画の価値だと思っているわけではないんで。少なくとも現実が予測不可能だっていうことを踏まえて、やはり「驚くべきもの」を撮りたいですね。驚きがないと困る。
S ショックということではなく。
K ええ。驚くほどおかしい、感動的だみたいな。驚きがあってこそ、現実の映画だろうと思うんです。現実とフィクションの間にある何かだろうと。些細なことでもいいんです。様々なレベルの驚きでいいんですが。安心して観られちゃったらやだなっていうのはあります。
S 単に意表をつくのは難しくないと思うんですが、不思議なのは監督の作品をみていますと。まさに「驚き」があるんですよね。急に道端に人が座っていたとか。いろんな形でびっくりする。
K すきあらば、そういうことを常に考えているんでしょうね。ここに人が座ってたらあれって思うよね、とか。言い換えると、生々しい言葉でも言えるのです。つまり、子供の遊びに近いですけど。人が座っているというのが驚くべき光景だと言った時に、僕に正に人が座っているからなんですね。でもそういう実感ってあるんですよね。急に人が座っていた時の感じっていうのは、やはり映画の中でも再現したいんです。座っている以外の理由がなくそこに座っているからこそ、驚くというか。そこに結局行き着くんですね。こういう理由だなと思われた瞬間それは生々しい驚きではなくなるんです。そういう風に映画を撮りたい方なんですね。
S 確かになんでかわかりませんでしたからね(笑)。単に当たり前とか紋切り型を排除していくだけではそういうふうにならないんじゃないでしょうか。ひねくれた表現というか、わざとそうしているんだという意図が見えてしまう。逆にケレン味を狙うというか、そういう感じが全然なく、ただ驚かされるという。現実的なものが立ち現れるといいますか。
K それは本当に自分でもよくわからないんですよ。
S これは映画製作の流れの中で出てくるものですか?
K ええ。ぱーんとそれができることもあれば、様々に客の心理を分析して失敗することもあるし。こればっかりは毎回冷や冷やものの出たとこ勝負なんですね。
S やっぱりある程度観客の立場になって、分析的な部分がないと難しいんじゃないでしょうか?
K ええ。努めて一応は計算ずくでやろうとしているんですけどね。でもひょいと外れた思いつきも大切にしているんですけど。最初はどっちが効を奏するか全くわからない。
S 精神分析などの場面でも、たとえば自由連想とかそれに類する技術を使うわけですけど、わりとあっさり物語がみえてしまうような連想っていうのはあんまり重要ではないと。「へその部分」というか、何でこんなものが出てくるのかさっぱりわからんというようなところに正にポイントがあるということです。それがリアリティーの感覚につながると言われてるわけなんですよね。ですから監督がなさっているのは、精神分析の理想的な成功例と言っていいんじゃないかと思うんです。応用の方向としては逆ですけれど。リアリティーの効果を見出すためには。観客の意識と同一化して、尚自明でないものについてはへその部分を探りださなくてはいけないと思うんですね。そこはもう、天才の領域といいますか。技法を洗練させないと入れないところだとは思うんですけど。その先はやはり謎の領域になってしまうというか。
K 謎というとかっこいいんですけど。様々な偶然とか運とか、たまたまそうなっていたことがすごく有効だっていうことが本当に何度もありますから。サイコロを転がしているようなもので、いい目が出続ければいいけれどっていうくらいで。わけわからないですね。
S やっぱり映画の神様が降りてきたような...。
K それはあります。そんなことあんまり言うと恥ずかしいんですが。あるカットを撮ってて、本番にものすごい風が吹いたとかっていうことがjあるんですよ。うわぁーっていう。『CURE』でもあったんですが。そういう瞬間は全く予測していなくて、これは何か神がかっているって思うんですよね。
S そうとしか思えないですよね。
K 『CURE』で萩原聖人さんが初めに海岸をさまようシーン、雲がどんどん流れていくあの風景は、全然狙ってないんですけど、その日海にいったらたまたまそうなってたんですね。
S 雲の影があちこちに移動する効果が、すごく印象的でしたね。
K あれはもう、偶然なんですよ。後半で、役所広二がうじきつよしと白い建物が見える木の繁ったとこで出会って、「気をつけろよ、雨宮にあんまり会うなよ」って言って去っていくところで、風がビョーと吹くんですけどね。回し始めたら吹いたんですよ(笑)。
S ああ、そうなんですか(笑)。
K それはまあ、風が吹くこともあるわけですけどね。神がかってるとか、そういうことを頼りに撮ってるところもあります。風でも吹かんかなって常に思ってるんですね。段取りを組みつつ、何か起こらないかと思い、そうすればカメラに収めることができる、とね。敏感になりながら撮っているわけです。
インタビューの掲載を許可して下さった黒沢監督、および対談のコーディネートとテープ起こしをしていただいたスタジオボイス編集部の品川亮さんに感謝いたします。
人間は、人間がいちばん怖い。とりわけ「自分自身」が。
フロイトは論文「無気味なもの」において、その根拠を正確に分析してみせた。「無気味なもの」、それは「抑圧されていた『親しみ深いもの』が戻ってくる」ときに与えられる。そのことはまた恐怖、とりわけ「外傷の反復」による恐怖をも、根拠づけるだろう。映画「サイコ」が、先の展開がわかっていても恐ろしいのは、ヒッチコックがこの「反復」の原理を知り抜いていたからだ。そのような反復において、われわれの恐怖は幻想を越える。そのとき「死の閾」を越えて、虚構のフレームに「現実」が侵入してくる。
もちろん「反復」は、ホラー映画の基本文法のひとつだが、それだけでは十分ではない。小手先の反復では「シャイニング」のように、無惨な失敗に終わってしまう。「反復」が恐怖であるためには、それが反復であったと、あとから気付かれる必要がある。物語に立ちこめる凶々しさが、われらの内なる反復の構造と共鳴し続けていたことに、あるときふと気付かされること。その瞬間こそが、真に恐ろしい。そして黒沢映画の独特の空気感もまた、そのような「反復」の技術によって、もたらされたものではなかったか。
「CURE」がサイコホラーの傑作と聞いていた当初、実はあまり食指が動かなかった。私は精神科医として、映画が狂気の描写には向かないことを知っている。映画における物や行為は、そこに見えていない何かを意味するために、描かれざるを得ない。つまりそれは、徹底してヒステリー的な表現、すなわち隠喩としての表現であるほかはない。映画に本物の「狂人」を出演させても、それは役者の演技にしか見えない。だから「サイコホラー」はつまらない。
しかし「CURE」は傑作だった。もちろんそこには、少しも狂気など描かれていない。狂気(刑事の妻)はむしろ、脇役に追いやられる。真に恐ろしいのは「正気をきわめた人間」にほかならないこと。「羊たちの沈黙」のレクターが、完璧な知性を持ったデーモンであると同時に、いささかの狂気をも宿していなかったことを思い出そう。完璧な正気は、完璧な人格に宿る。そして「CURE」は、高部(役所広司)という刑事が、まさにデーモンとして、完璧な人格を獲得してゆくまでの物語なのだ。
映画が描きうる行為のほとんどは、「動機」の記号にほかならない。どんなに恐ろしい行為が描かれようと、その動機が判ったとたん、観客は安心して笑い出すだろう。映画が真の恐怖を描きうるとすれば、それは、いかにして「動機なき行為」を描きうるかにかかっている。だから黒沢監督が、もっとも恐ろしいものの例として「幽霊」を挙げるのは、故なきことではない。幽霊の、ただ「そこに在る」という行為の虚無。その虚無こそが恐ろしい。
そのような虚無としてある「動機なき行為」。精神分析はそれを「行為への移行」と呼ぶ。「自らを表現するための行為」という次元から、「自らが行為そのものになる」という次元への移行。「CURE」以降の黒沢作品においては、もはや主人公は葛藤しない。「完璧な人格」とひきかえに、内面を失ったからだ。ほとんど死体そのものと化した哀川翔によって、拷問や殺人といった「行為への移行」がなされるたびに、哀川が排除してきた内面が、われわれの側に転移する。そのとき、われわれの内奥に薄目を開けて眠っている、「反復の悪魔」の名前が呼ばれる。いつ悪魔が目覚めるのか、その絶対の恐怖がわれわれを縛る。もうやめてくれと叫びつつ、その叫びこそが悪魔を召還してしまうという恐怖の反復。黒沢清は、そのような反復の自己生成によって「映画」を感染させてしまった。このような「恐怖の絶対零度」から、もはや逃れる術はないと知りつつ、なにゆえ私は黒沢作品から眼を離せないのか。ここでまたしても、問いは自分自身へと送り返される。
参考文献
フロイト「無気味なもの」(フロイト著作集 第三巻)人文書院
この短い論文においてフロイトは、「無気味なもの ウンハイムリッヒ」の感覚的な成立を、このうえなく明晰にときあかす。この感覚は、一度抑圧されたはずの「慣れ親しんだもの ハイムリッヒ」の感覚が、思いがけない形で呼び戻されるときに生ずるとされる。それはわれわれの裡にある反復強迫−「死の欲動」と結びついた−を思い出させ、われわれが理性によって覆い隠してきたはずの、呪術的思考を復活させてしまう。
ヒッチコック「映画術」晶文社
黒沢清は「映像のカリスマ(フィルムアート社)」において、「ヒッチコックの真似をすると失敗する」ことへの疑問から、この技法論ならざる技法論に、正しく懐疑をつきつける。ヒッチコックの自己分析は、トリュフォーの忠誠に価するほどに、明晰なものであったか?精神分析的な題材に事欠かないように見える本書の真骨頂は、実のところ、ヒッチコックが正しく語り損ねているポイントを、いかに読み解くかにかかっている。
ジジェク「斜めから見る」青土社
本書においてジジェクは、「ヒッチコックによるラカン(トレヴィル)」と同様に、ラカン派精神分析の立場から、繰り返しヒッチコックに言及する。その記述は、まさにヒッチコックが誤解し、語り損ねていた技法の中心に及んでいるかにみえる。そこでは恐怖のための技術が欲望のエコノミーに及ぼす効果について、きわめて明晰に語られる。そう、そこに描かれる「恐怖の対象」はまた、われわれの「欲望の対象」にほかならないのだ。