吉田戦車とその作品

                                  斎藤 環

アエラムック「コミック学のみかた」所収


 精神医学には「パトグラフィー(病跡学)」というジャンルがある。天才・傑出人の作品や伝記資料を精神医学的に検討し、創造性を病理性との関連において分析する学問である。精神医学のなかでも比較的マイナーな分野でありながら、ロンブローゾの天才論以降、フロイト、ヤスパース、クレッチマーらによって発展的に受けつがれ、精神病理学や芸術療法などにも大きな影響をもたらしてきた。「創造と狂気」の組み合わせを、安易な共感を排しつつ厳密に記述するためには、パトグラフィーは最も有効な手段のひとつといえるだろう。

 一般にコミック作品はパトグラフィーの対象とはなりにくい。その理由はいくつか考えられる。まず多くのコミック作品が大量消費される娯楽メディアのひとつであり、その制作も職人的な共同作業によってなされていること。このため個人の病理性が作品に直接的には反映されにくい。さらに作家本人も、一定の生産性を維持しうる程度には健全かつ常識人であり続けなければならない。

 これほどの「制約」にもかかわらず、時に病理性の色濃いコミック作品が出現し、高い人気を集めることがある。このような作品については、もはや作家の個人病理を越えた「社会病理」とでもいうべきものの反映を想定する必要があるのかもしれない。

 私はここ数年間、精神科医として漫画家・吉田戦車の作品群に注目し続けてきた。現在33歳のこの漫画作家について、私は最大限の敬意とともにその名を口にせざるをえない。彼の名は少なくとも私にとって、サミュエル・ベケットやフランシス・ベーコンなどといった名前と同等か、それ以上の価値を持っている。

 吉田戦車はいわゆる「不条理漫画」の始祖の一人であり、一般には漫画「伝染るんです。」の作者としてひろく知られている。小学館発行の漫画週刊誌「ビッグコミック・スピリッツ」に連載されたこの作品は、一九九一年に第三十七回文芸春秋漫画賞を受賞している。連載当時から人気は高かったが、漫画賞受賞で広く一般にも知られるようになり、単行本は発行の年だけでも約70万部を売ったといわれる。デビュー当初は「伝染るんです。」に代表される四コマ作品が多かったが、最近では「ぷりぷり県」などのようなギャグの短編連作を多く手がけている。

 吉田戦車の描く漫画は通常の起承転結の展開を欠き、整合的な「オチ」がないことはもとより、独特のゆがんだ笑いの手触りを持っている。異常な状況設定や奇妙なキャラクター−−それはしばしば動物や機械である−−が登場し、その異形性そのものが笑いの対象として愛される。

 これまで多くの批評家が吉田の特異な表現に注目してきたにもかかわらず、その「不条理性」そのものの分析は十分になされてこなかった。これは吉田の作品を理解・記述するにあたって、従来の批評手段がことごとく無効化したためである。その典型例として呉智英氏による「裸の王様」説をあげておこう。つまり吉田戦車はみんなが面白いと言うから面白いので本当は面白くないのだ、という指摘である。稀代の漫画読み巧者による堂々たる正論であり、こうした率直な告白は資料的価値において珍重されるべきであろう。

 大塚英志氏はかつて、吉田戦車の人気は出版社のマーケティング戦略として仕組まれたもので、その作品自体は「不条理日記」の作者である吾妻ひでおの焼き直しに過ぎないと断じた。しかし、それはどうだろうか。私には吾妻作品も面白く読めるが、その「不条理」性は、完全に神経症的なものと「診断」できる。「神経症的」とは、ここでは「笑いの原因を言葉で説明することができる」というほどの意味である。いっぽう吉田戦車の諸作品のもたらす笑いの核心を、言葉によって説明するのはきわめて難しい。そこには単なるミスマッチの笑いとしても掬いきれない「不気味なもの」の手触りが残る。

 おそらく吉田作品の「理解」とは、すでに一つの「症状」と等価のものなのである。その「症状」性をもっともよく触知することができる作品を図1(「伝染るんです。」第一巻所収)に示そう。これは主婦のようなひとが店のような場所で、店員のようなひとから「あれ」を「45円ぐらい」で購入するという、いってみればただそれだけの話である。「店」が何を売る場所であり、「あれ」がどんなものであるか、一切説明はなされない。なぜこれがギャグ作品として成立しうるのか。

 きわめて抽象度の高いこの作品には、吉田戦車の表現技法の核ともいうべきものが露呈している。本作を笑いうるとすれば、それは単純に誤解によるものか、あるいはひとつの症状としての笑いであるほかはない。私自身はこの作品を精神科医として笑い、それとともに一つの確信を持った。吉田戦車が描いている作品世界の手触りを一言で形容するなら、それはさしあたり「分裂病的」としか言いようがない、ということである。

 しかし急いで注釈しておかなければならない。精神分裂病という、人口の約1%に発病するとされるこのありふれた疾患が、依然として誤解されたままであるという事実について。例えば、態度が節操なく変わるだけのひとを「分裂気質」とみなすたぐいの誤解。あるいは幻覚に操られ、あらぬ方向を見すえて独りごとを口走り、奇妙でときに危険な妄想に固執する「電波系」患者、といった通俗的イメージ。こうした誤解にもとづく視点からは、吉田作品の分裂病性は逆に見えなくなってしまう。吉田戦車は決して、じかに狂気そのものを描かないからだ。彼はいってみれば、漫画そのものを分裂病化したのである。

 ここで「分裂病」について十分に述べる余裕はないので、ごく簡単な定義にとどめておく。分裂病とは後天的に発症する精神疾患のなかで、もっとも根本的な意味でコミュニケーション能力が障害される原因不明の疾患である。それは恐らく、言語使用が深いレヴェルで障害されることによる。人間は話したり書いたりするときだけでなく、感じたり行動したりするときも言語を用いている。ここでいう「言語使用」は、その意味で人間の社会的営為のほとんどすべてを意味している。分裂病で起こる幻聴や妄想といった多彩な症状は、こうした基底的レヴェルの障害から二次的に「生成」してくると考えられる。そして吉田作品が分裂病的に見えるのは、まさにこの基底レヴェル、「言語使用」の障害という点においてなのある。

 さきほど提示した作品にもどろう。ここで描かれている主題は精神病理学でいうところの、分裂病者の「もの体験」を直接に連想させる。精神病理学者・宮本忠雄氏によれば、分裂病の破局体験においてはこれまで親しんでいた世界が不気味に変貌を遂げ、「事物はすべて日常的な意味を失って、”もの”それ自体と化し、不気味な相貌を帯びてせりだして」くる。これは一種の言語危機であり、分裂病の極期においては「世界の変化に対して相応する名前を与えたり、的確に言語化したりできないような状態に陥」るという。  この作品に描かれるのは、こうした言語危機によって変容をこうむった世界である。世界を構成する人間、店などの存在はなじみぶかい言語の分節構造から逸脱し、さまざまな徴候と相貌性が空間を満たしはじめる。宮本氏が「もの体験」の病跡学的事例として挙げているのは、サルトルの「嘔吐」に描かれたロカンタン氏の嘔吐体験であり、ベケットの「ワット」に描かれるワット氏の溲瓶体験である。しかし吉田戦車は、わずか四コマで「文学」をやすやすと凌駕してしまう。これはパトグラフィーの視点からは、けっして誇張したいいかたではない。

 吉田がいかに「言語使用」の分裂病化という様相を作品制作に取り入れているか、今度はその「文法」的側面に注目しつつ検討してみよう。  分裂病的な論理としてフォン・ドマルスが提唱し、アリエティの引用によって知られるようになった「述語的同一視」という錯論理がある。例えば「マリアは処女である」「私は処女である」「よって私はマリアである」といった妄想的ロジック。図2(「伝染るんです。」第一巻所収)の作品では、まさにこうした錯論理がギャグの手法として採用される。この頑固親父は、TVに一緒に出ている2人組の歌手やタレントがなぜ兄弟ではないのか不審に思っている。すなわち「一緒に出る」という述語的共通項によって、すべての人間関係を「兄弟」であると同一視してしまう。

 東京医科歯科大学の花村誠一氏は、分裂病者が陥る言語危機の多様性を統一的に理解し記述するための手段として、パースの記号論を採用した。花村氏によれば、ある種の分裂病者は通常の言語、すなわち「シンボル」による意味連関から、類似関係による記号、すなわち「イコン」的な記号過程へとあけわたされるという。いいかえれば、言語的な分節構造から「逸脱」して、図像的、音声的、意味的にいずれのレベルにおいても、類似関係を媒介としてコード付加がおこるというものである。

 さきに述べたドマルスの述語的同一視も、こうした記号過程の一例に過ぎない。つまり「述語の類似」というイコン的成分が強調され過ぎることで、主語の同一性が著しく混乱させられるのである。吉田の作品を詳細にみてゆくと、こうした述語成分の不自然な強調や歪曲をいたるところで指摘できる。ここで笑われる「笑い」とは、世界の同一性が決定不能のゆらぎにさらされる瞬間の、いわば恐怖とすれすれの笑いにほかならない。

 図3(「伝染るんです。」第一巻所収)の作品では、まさに「記号」そのものが主題となる。交通標識はパースの記号論上、類似関係に基づく記号、すなわちイコンとして位置づけることができる。頭に包帯を巻き付けた少年が試問を受けている。少年は「進入禁止」の標識の意味を問われ「車が嫌い」と答え、「横断歩道」の標識を見て「兄弟は仲良く」と答える。この少年が行っていることは交通標識という記号から、交通法規という脈絡とは無関係なレベルで、標識の絵画的、イコン的成分のみを分割して取り出すことである。そして取り出されたイコンに対して、リテラルな(「そのまんま」な)コード付加を、あらためて行うことである。この手続きこそ、花村氏のいう分裂病者のイコノトロープな記号過程そのものである。このように吉田戦車の表現技法は、花村氏による分裂病者の記号理論ときわめて興味深い対応関係にあると考えられる。  吉田の表現は近年いっそうの洗練を経て、ほとんど自在ともいうべき境地に至っている。そのぶん初期の作品群のように、表現身ぶりのパターンが透けて見えることはまれになった。イコン向性のコード化という内在的論理を駆使しつつ描かれるイメージは、もはや追随する者とてない強度を獲得している。最近作「ぷりぷり県」を例にとってみよう。

 「ぷりぷり県」出身の主人公「つとむ」は、五郎商事に勤める愛県心旺盛なサラリーマンである。つとむは仕事そっちのけで、他県出身者とお国自慢を競い合う日々を送っている。こうして次々と奇妙な県産品や県の風習などが紹介されるが、肝心の「ぷりぷり県」はいまだ日本国内の所在すら定かではなく、県の特性らしきものも一向にみえてこない。はっきりしているのはそれが「県」であること、そして「県」であるがゆえに主人公「つとむ」によって深く愛されていることだけである。

 ここでなされているのは「県」のイコン化にほかならない。この「県」はもはや、地方行政区画の単位ですらない。県産品や愛県心といった述語的成分によって「県的なもの」として遡行的に成立させられる記号(=イコン)にすぎないのである。「ぷりぷり県」という亜空間は、イコン成分の突出によって異様な発展を遂げた世界である。そこではすべての述語が狂っており、「県」の本質的イメージへの収束が起こりえない。つまり「ぷりぷり県」の県としての同一性は、あらかじめ破綻してしまっているのである。  本作品中もっとも印象深い二つのイメージを図4、5(「ぷりぷり県」第二巻所収)に示そう。県名所である「地下富士」と、薄い新幹線「めまい」がそれである。これらもまた、「富士」や「新幹線」をイコノトロピックに変容させることで生み出されたイメージである。

 ある固有名詞とそれを言語的に記述する述語選択の範囲は、潜在的に配備されている。しかし「富士」や「新幹線」に対して、「地下にある」「薄い」という記述子はこうした潜在的配備に欠けた異様なものだ。このように異様な述語成分を強調することで、「富士」や「新幹線」の同一性は内破され、イコン化が起こる。そこにあるのはもはや「富士のようなもの」「新幹線のようなもの」という準同一的な記号にすぎない。  問題は、吉田がいかにしてその「異様な述語成分」を的確に探り当てたのか、という点にある。私はそれにたいする十分な解答をいまだ持ち合わせていない。しかしここに、ひとつの確たる予感がある。吉田が生み出す強度的イマージュの技法分析をこころみるとき、われわれは意図せずして「分裂病の本質」と呼ばれるもののごく近くまで到達することになるであろう。

 現在公刊されているさまざまな資料をみるかぎり、吉田戦車自身の「健常性」はほとんど疑う余地がない。吉田は漫画作家としての職業感覚のみを拠り所として、みずからの病理によることなく、分裂病の言語危機的様相を漫画表現として洗練し、計算ずくで笑いに結び付け、一定の大衆性すら獲得してしまったのである。ここにおいてパトグラフィーの第二の可能性が起動する。果たして「健常者の表現が分裂病化する」という事態はいかにして起こり得たか。さらにはまた、中川いさみ、榎本俊二らのような吉田のフォロワーたちの同時多発的な出現はなにを意味しているか。

 吉田戦車の問題系については語られるべきことがあまりに多く、しかし紙数には限りがある。その本格的な作業は後日の機会にゆだねざるをえない。しかし一点だけ指摘しておこう。私は作家と作品、作品と受け手とを媒介しつつ作動する「病因論的ドライブ」を想定することで、このような問題系においてもパトグラフィーの有効性を確保できるのではないかと考えている。その意味からも吉田戦車を論ずることは、パトグラフィーの存在意義をまさしくその「可能性の中心」において問うことにほかならない。


(付記。この文書を作成している1997年8月の時点では、吉田の作風に明かな変質がみられる。人物の表情の表出が豊かになり、よりコミニュケーショナルなものへの志向がうかがわれる。その結果、初期のような病理的な強度は減衰しつつあるが、これは吉田のもう一つの資質であるストーリーものへの路線変更を兆候的に示すものであるかもしれない。)