クライン派から見たヒステリーの対象関係  

      森瑶子『叫ぶ私』を素材に              (imago Vol.7-8 1996)                            福本 修


I

 フロイトのブロイアーとの共著『ヒステリー研究』(1895)が公刊されて百年が過ぎた。この数年小規模ながら、「精神分析の百年」を振り返ったり、回顧から更には「今日のヒステリー」を展望したりする試みが見られた。前者はBritish Journal of Psychotherapy の1992年(vol.9(2))の特集総題であり、ヒンシェルウッド R.D.Hinshelwoodの編集の弁を前書きとして、各国からクライン派を中心に(スミスはラングスR.Langs系だが)、スミスD.Smith、サバディーニA.Sabbadini、ベルD.Bell、グロットシュタインJ.Grotstein、レスニックS.Resnikが寄稿している。そこで彼らが実際に論じたのは、主として精神分析の曙とヒステリーである。後者は、1994年2月に行われた同誌とフロイト博物館の定例年次カンファランスの題で、再登場したベルを除いて、アランデールJ.Arundaleの序論・スミスのフロイトと心身問題について・スコットA.Scottのヒステリーと記憶、性的虐待について・ウェルドン E.Welldonのヒステリーと女性倒錯者についての発表が、同誌に再録されている(vol.11(3))。国際精神分析学会では、第28回(1973)にヒステリーを主題にパネルが設けられ、自我心理学者の他にブレンマンE.Brenman・グリーンA.Green が参加した。去年サンフランシスコで開催された国際精神分析学会でも、ブレンマン・シャスゲ-スミルゲルJ.Chasseguet-Smirgelらをパネリストにして「ヒステリー研究の百年後」という小パネルがあった。

 これらを通覧すると、精神分析の誕生とヒステリーが密接に関わっていることははっきりするにしても、ヒステリーの精神分析的な理解は、精神医学の中でのその地位と同じく、深化し明確になるよりも拡散する方向に進んでいることが分かる。精神医学において「ヒステリー」は用語として消えつつあり、その現象は身体表現性障害(転換性障害・身体化障害)・解離性障害(多重人格障害・心因性遁走・健忘)・虚偽性障害・外傷後ストレス症候群・偽記憶症候群・MEなどの中に、紛れ込んでいるようである。これら全てを統一する説明は、現象の多様性を犠牲にしなければ可能にならない。

 一方でこのように分散させると、“ヒステリー”としてのまとまりを形成する焔? かを見ることは難しい。だが「ヒステリー性格」は公式的には廃用語に等しいし、そこには必ずしも原理的な理解はなく、むしろこれらの諸症候を持つ人間からの印象のパッチワークである。ブレンマンも言うように、実際に会えばヒステリーかどうか分かっても、ヒステリーとは何か聞かれたら答えるのが難しい。現在の臨床単位に例えば演技性パーソナリティ障害があるが、記述的な特徴による分類の一範疇以上の意味はなく、ヒステリーとして普通に考えるところよりもかなり狭い。パーソナリティ障害の一角を為すものとして考えられているのは、おそらく自己愛パーソナリティ障害・境界パーソナリティ障害に類似の機制であって、ヒステリーの特質を十分に明らかにしたとは言えない。

 精神力動的な立場からは、ヒステリーの中心機制は転換かそれ以外か、転換・解離症状がなくてもヒステリーを認められるか、性は中心的葛藤かそれとも二次的な防衛か、問題はエディプス期にあるのか前エディプス期にあるのか、などが議論の焦点として提起されてきた。しかしはっきり決着が付けられないまま、折衷的な記述法(例えば、口唇期への退行)が用いられているうちに境界例や自己愛障害などの他の病態に関心が移行し、改めて論じられることが少なかった。現在『ヒステリー研究』が読み直されるとすればそれは、精神分析の歴史の一部として患者の生涯を辿る伝記的興味からか(これはほぼ実行され尽くした)、フロイトの記述の中に今日的な病態を掘り起こそうとするためである。フロイト初期のヒステリー病因の誘惑理論に含まれていた幼児期の外傷が、小児虐待の問題の先駆として、近年興味を持たれている。それはヒステリーの現代的様態に含まれるかもしれないが、虐待や外傷の経験者が示す問題は幅広く病理の深さもさまざまなので、一方ではヒステリーの境界を更に曖昧にするだろう。

 ヒステリーの本態が捉え難いのは、時代とともにその病像ばかりでなく概念が動いているからである。今この言葉を用いることに、臨床上は積極的な意味はないかもしれない。むしろ興味は、病像としては古典的な転換症状が稀になり、理論としてはリビドーのエネルギー経済モデル・「女性性」の理解が時代にそぐわなくなった(ヒステリーの古典的な意味は、子宮がさ迷い歩く小動物のように身体の中を自由に移動するというものだった)現在、それでもなお何がヒステリーとして残るかである。

 ヒステリーの本質を定義できないのに、なぜ実際に会ったときヒステリーかどうか分かるのだろうか。それは、ヒステリー者と関わっているときに、独特のことが起きるからである。治療者は感情的に反応する(広い意味での逆転移)ばかりではなく、行動的に巻き込まれることもある。普通に「傾聴し」「受容」しているつもりのときでさえ、病理的な対象関係の一部に治療者が使われている場合もありうる。課題は、この特殊な対象関係を理解することである。ヒステリーの操作性はよく知られていて、すぐ見るように男根期固着とエディプス状況を中心病理と理解する自我心理学の中でも、説明がつかないことはない。しかしそれは、プトレマイオスが作図した惑星の運行のように非常に不自然である。クライン派のように、投影同一化・内的対象関係の再演の概念を用いて初めて、ヒステリーが相手に引き起こすさまざまな反応を包括して彼らの世界を理解できると思われる。

 以下では、フロイト-自我心理学によるヒステリーを簡単に見た上で、クライン派、主にブレンマンとベルのヒステリー論を見ていきたい。対象関係論者の中では例外的にフェアベーンR.Fairbairnがヒステリーを論じているが、それは自我心理学の理解に対して口唇期・母子関係と分裂機制の中心性を主張するためで、対象への効果を必ずしも第一義的なものとして論じていないので、ここでは取り上げない。

 それから、総説した機制を更に詳しく見る素材として、或る作家が自ら編集し出版した面接経過、『叫ぶ私』を読んでみるとしよう。なぜ私がそれを選ぶかは、読み進むにつれて自ずと明らかになるだろう。そこにはヒステリー的な機制の一例ばかりでなく、精神分析的な思考の発展と一般への普及に関わる、もう一つのヒステリー問題を見ることができる。百年が過ぎて、精神分析の生みの親のヒステリーが当時の形では残らなかったように、精神分析もまたこの期間に、少なくとも同じ程度の変化を被った。しかし未だに、精神分析は一般的には、語ることによって鬱積した情動を発散しつつ(カタルシス、浄化法)、或る過去の時点の心的外傷や葛藤の起源を探偵小説のように遡って暴露する過程と思われがちのようである。これはどういうことだろうか、という問いである。

II

 ヒステリーに含められてきた現象は多様である。ウィズダムJ.O.Wisdom は、(1)随 意運動機能・知覚機能の障害、(2)聖痕と遁走、(3)性活動への恐れ,"(4)汎性愛化傾向、(5)「美しい無関心belle indifference」、(6)催眠へのかかり易さ、(7)他人を操作して軽蔑的な攻撃性を挑発する傾向の七項目を挙げて、フロイトの理論がこれらの問題をどう説明しようとしているかを整理しようと試みた。これらは生理学的領域・心理学的領域・対象関係の問題にまたがっているが、中でも(7)は、心的構造を一個人の中の閉じたシステムとして想定している自我心理学の枠組みでは説明が難しい。

 1897年にいわゆる「誘惑理論」を放棄するまで、フロイトはヒステリーの原因として、患者が幼児期に実際に大人の誘惑によって経験した性的な外傷の記憶が、異物のように同化されないまま心的世界に留まり、最近の事件を引き金として甦り外傷的に作用すること(「後からの効果」)を想定していた。その後フロイトは、この異物が誘惑の事実ではなくて、抑圧された幼児期の願望や空想に由来すると訂正した。患者による連想は、幼児的性活動と空想の隠蔽とされたのである。

 フロイトによる説明は、幾つかの理論的前提の複合体である。だが大きくは、エディプス・コンプレックスを頂点として発達-固着-退行の動きを含む精神性発達図式と、リビドー経済論及び葛藤-防衛の力動を含む象徴化の理論に基づくと言ってよい。つまり、ヒステリー者は去勢不安を逃れるために、男根期に固着してリビドー的願望を抑圧することでエディプス状況を処理しようとする。抑圧された願望はさまざまな変遷を辿るが、満たされることはない。結果としてヒステリー者は無意識的空想の中で、ペニスとそれを象徴するものに憑かれている。症状は抑圧されたものを移動と置換を通じて、言語的な意味の歪曲を伴わずに象徴する。転換症状は、リビドーエネルギーが身体器官に備給されたものである。(ウィズダムが抽出したフロイトの理論的前提は、以下の六項である。(a)男根期固着。父親による去勢、退行。(b)ヒステリーの象徴の特殊な性質と役割。(c)外傷性の起源。外傷を、象徴として用いる身体の一部の機能障害に移動すること。(d)機能障害は、外傷を形成する願望と脅威の両方を象徴化する。(e)ヒステリー症候群は、症状よりも制止からなる。(f)母親からの脅威、両性傾向、前性器期的障害も寄与することがある。)

 (7)は、次のように説明される。ヒステリー者は、本当の誘いと取られかねない象徴的な性的活動を他者に見せびらかす。しかし通常は象徴が象徴しするものつまり性的行為に進むべきところで、ヒステリー者は象徴の領域の外に出ることができない。そこで象徴上の関係以上のものを予測している相手は、唆されつつ近寄れないために苛立ち、患者を喜ばせるために努力することになる。しかしながら、誘いを断ると拒絶的で卑しい人間にされ、誘いに乗ると強姦者にされてしまうので、ジレンマから逃れられない。−−だがこのような説明では、ヒステリー者の振る舞いに積極的な意図も意味もなく、相手はたまたま付き合わされたことになる。そうすると、彼らがそのように使う相手を絶えず必要としていること、対象関係論的に言えば欲求不満を投影同一化していることが、軽視される。

 「ヒステリー性格」の概念は、おそらくこの問題を扱おうとしていた。ヒステリー性格には両極が含まれている。自己顕示性が強くて、能動的に性的活動を行い女性性を例えば化粧によって誇張して誘惑の道具に用いる者にも、一見性的活動を抑制されていて受動的で相手に「使われる」犠牲者というイメージを与える者にも、共通して演技性・誘惑性・操作性がある。前者では攻撃性は、不感症という拒絶を通じて現れる。フロイトによればこれらは、ペニス羨望のために受け身的な立場を引き受けられない女性の特徴だった。それはともかく重要な点は、彼らが全体対象と関係しているように見えても、実際には部分対象、端的には性器の象徴として用いていることである。  自我心理学はヒステリーの病因に攻撃性の役割・前エディプス的関係の影響を含めて、強い不安・不安定な情動・被暗示性などは「自我機能の退行」から理解しようとした。感情的な過剰反応や演技的誇張は、感傷が思考機能を干渉して、合理的な思考を妨害するためである。元々自分の性的願望を外界に投影する傾向がヒステリーに認められていたが、空想と現実の混同が甚だしい場合、衝動コントロールの欠乏とともに口唇期への退行として捉えられた。<固着>は単に対象選択の問題ではなく、リビドーの発達が前性器期的組織organizationに留まっている事態全般を指すので、そこにはパーソナリティ構造も前提されている。だがそれが積極的に研究されるようになるのは、対象関係論の影響の下で境界例が論じられ始めたときだった。

 次に現代クライン派による考察を紹介するのに先立って、クラインM.Klein からヒステリーの現代的理解に関わると思われる諸概念を抜き出しておこう。クラインは重篤な障害を持つ患者と発達最早期の問題に関心を集中してきたために、ヒステリーを直接論じてはいない。だが意識の解離は自我の一種の分裂であり、早期の母子関係と精神病的不安とともに、性愛化された対象関係の下にある非常に原始的な過程である。それから、投影同一化と摂取同一化による内的世界の構築という設計図は、リビドー論を一掃する可能性を秘めていた。クライン自身は投影同一化の概念を導入しておきながらひどく後悔したとのことだったが、現代クライン派はこの概念を用いてフロイトを読み直している。「リビドーの対象備給」に相当する事態は、対象関係の観点から「自己の一部の対象への投影同一化」として理解される。

 彼女が晩年にとりあげた羨望envy・貪欲さgreedは、ヒステリーにも潜む口愛的特徴である。羨望は対象の良さに耐えられない感情で、対象に賞賛と感謝を向けられずに、汚し奪い取ろうとする。貪欲さは満たされることがなく、自分の必要とする以上をあくまで求めてやまず対象を吸い尽くそうとする。もう一方で、彼らが現実を強く否認して自分の願望に合わせて作り変えようとするのは、摂取の欠如と投影の結果である。このような条件では、相互的な対話が殆ど成立しないことは容易に予想される。彼らが歪曲する現実は、知覚の欠損のように主観的な世界ばかりではなく、自律的に思考する他者の存在である。彼らの操作性は改めて、分析者の思考力への攻撃として解釈される。次に見るように現代クライン派は、カップルの内在化というビオンの思考機能についての見方をクラインの「早期エディプス状況」に重ねて、この攻撃の新しい理解を提供している。  エリック・ブレンマン(クライン派のトレーニング・アナリスト)は、ヒステリー者が自分の防衛と偽りの対象関係によってつなぎ合わされていると感じつつ、現実を恐れ切り刻んでいると見る。恐怖症には迫害的な症状が、転換ヒステリーには身体を不具にする症状があるように、彼らには一方で破局catastropheが切迫しているが、もう一方で症状と関わりのない場面やパーソナリティの他の部分には、何の支障もないようである。破局と否認の組み合わせは、精神病に対する分裂と投影による防衛である。この最も極端な例は「美しい無関心」で、ヒステリー性格の対象関係はこの組み合わせが基本である。精神病及び破局は比喩的な言葉ではない。ヒステリー者の養育背景・生活史は外的に容易に確認できるほど実際に凄惨で、破滅の不安と恐怖を否認して生き残ることsurvivalが主要な課題だったことが多い。彼らが劇的で誇張的な振る舞いによって作る偽りの関係は、深い抑鬱と精神病的破局を隠蔽するために必要なものである。しかも嘘から始まった関係は、塗り固め続けるしかない。ここにも偽り続けた罪悪感から鬱に陥る道と瓦解の恐怖がある。

 弱者となって周囲に罪悪感と責任感を投影し受け身的に支配することは、彼らの常套である。ヒステリー者の逃避傾向は、行動ばかりでなく思考にも現れる。彼らは出来事を理解しようとするのでなく、なるがままにしておきがちである。現実を知る能力の成長は、防衛がどれだけ硬直的か或いはパーソナリティの他の部分が残っているかに懸かっている。否認のための分裂と投影の他にヒステリー者に特異的なのは、生きた外的対象すなわち人と全体対象との関係に見えるものを作る能力がある点である。その関係は本質的に自己愛的であり、部分対象として相手を用いている。これは、ヒステリー者が意識の解離においてパーソナリティの厚みを失いながらも全体対象としての見かけを保つことに、対応しているかもしれない。

 このような関係を成立させるために、言い換えれば、心的真実を否定し本当に問題の解決に通じる関係にはならないようにしつつ精神病的破局を避けるために、ヒステリー者は巧みな操作を行って、自分の現実のことも相手の現実のことも攻撃する。ブレンマンが特に挙げるその手法は、説得・見せかけの証拠・空想対象phantasy objectとの同一化である。妄想者たちもこちらを納得させようとしたり証拠を与えようとしたりするが、ヒステリー者たちの宣伝の仕方或いは騙し方の巧妙さはその比ではない。それはもはや彼らの生き方そのものに織り込まれているのである。転換症状を持つヒステリー者は、身体症状を偽証として、そこ以外の彼らのパーソナリティには何の問題がないことを説得しようとしている。ブレンマンに付言しておくと、彼らが積極的に持ち出す偽証は、犯人が証人/立会人witnessになろうとして自ら犯行現場に戻るようなもので、やり過ぎが次第にはっきりして来て、彼らが実は参与者participantであることが明らかになる。その裏にはむしろ逮捕されたいという秘かな願望があると思われる場合(ウェルドンWelldon,E.の症例を参照)もあるが、善意から彼らの操作に巻き込まれて否認の共犯を強要される場合もあり、事情は単純ではない。

 分析的な治療の中では、治療者が転換症状と同じく偽証の素材とされる。治療者は彼らに“理解”を示すように説得され、患者による現実の誤った解釈に同意するような状況に追い込まれる。例えば、分析的な手法に治療者が固執するのは不誠実の証であって、治療者は“善意”の証拠として患者の要求に応じる(無料で診察する・時間変更には何時でも応じるなど)ように求められる。これをすると、今度は治療者が容易に堕落し不正に加担する対象であると見下す証拠を与えたことになる。このようなジレンマは、本来彼らの内的世界の中にあるが、その調停の難しさが破局と否認の対極の組み合わせに反映している。私の経験でも、彼らとは治療設定の初めから現実の認知で食い違うことが多い。或る男性患者は、診断医から一年間の週一回個人精神療法を許可されていたのにその情報を私に伝えなかった。私は二年間の約束をしてからそれを聞いたので、結果的に誤った判断とは思わないものの詐取されたように感じた。別の女性ピアノ教師は、自分の人生について考えたいという由で上級医から紹介されてきたが、この格下げ扱いに対する反応もあってか予備面接の最後に私に言ったのは、「毎週同じ時間に面接に来れるかどうか分からない、費用は来た回だけ払う」だった。彼女に自分が個人教師している生徒にはどう対応しているのか尋ねると、「出席欠席に関わらず月の初めにまとめて受け取っている」と言い、矛盾を感じていない様子だった。それとこれがどう違うのか尋ねると苛立ち、「母親に問題があるのになぜ私が来なければならないのか、」と怒り始めた。このような奪い取り利用する対象関係は彼らの生きている世界を再演している。後者の場合、既に決まった面接時間を過ぎているので取り上げられないし、扱おうとすると時間延長となって時間はどうにでもなるという患者の見方を受け入れて、しかもこちらが押しつけている状況になるのだった。

 ブレンマンに戻ると、性欲があることを否認するために不感症を主張したり逆に性的な問題を否認するためにオーガズムを主張したり、攻撃性を否認するために犠牲者となったり被害者を装ったりするのも、彼らの見せかけの証拠の例である。そしてエディプス的な性的次元の下には、二者間の自己愛的部分対象関係が、具象的に言えば乳児と乳房の関係が働いている。ドン・ファンの性的勝利と精力誇示は自己愛的な征服のために行っている疑似的性活動で、外的対象に自分の優越を説得し、そこで自分こそが理解し愛情を与える理想的な乳房であるという自己像を生きようとしている。愛情を与えている対象は、見くびられ用済みとして捨てられる。彼らにとって治療関係もまた自己愛の張り合いの場である。陰謀と策略の傾向の投影によって彼らは、分析者が自分のことを愛情があり良く万能的な対象であるとする嘘を信じ込ませようとしている、と被害的に受け取る。彼らは分析者の解釈を分析者の自己愛のための説得と感じている。

 従来から挙げられてきたヒステリーの大きな特徴の一つは、同一化である。ブレンマンはその性質を吟味して、多重の同一化であること、そこに対象との摂取同一化すなわち本当の共有はなく願望充足的な投影同一化であること、全体対象関係のように見えても現実の対象ではなく空想対象と同一化していることを指摘した。ヒステリー者の空想は実在の人物に結び付いているが、対象は自分の偽りを維持するためにのみ必要なので、願望と一致する限りでしか対象の性質(特にその独立した思考)を顧慮しない。同様に彼らは自分の「本当の自己」と欲求のことも顧みない。彼らは万能的で否認する内的な母親に閉じ込められている。彼らが相手に嫌悪と憤慨を引き起こす(先の(7))のは、この母子関係を再現して相手の人格(思考・欲求....)を否定するからである。

 ヒステリー者の同一化は浅薄である。彼らの対象への貪欲さは成長にも満足・達成にもつながらない。彼らは心的現実を攻撃し変えてしまい、パーソナリティの依存する部分は本当に支持する対象を持たないので、彼らが奪い取った愛情は「万能的な偽りの自己」に補給される。その背景にあるものとしてブレンマンが指摘するのは、彼らの二重の同一化がもたらす葛藤である。彼らは、全てであるべき理想的乳房と全てを得るべき理想的乳児の両者を満たそうとして、この妄想的な母子関係に合わない現実を切り捨て破壊する。傷ついて迫害的な対象・原始的衝動・原始的な苛酷な超自我はこの理想的な関係から排除される。彼らはこれらの破局的な回帰から自らを防衛しなければならない。

 治療関係では、彼らは分析者が誰で何をしているのか、患者が誰で何をしているのかについての真実を、分析者が見ないように変えようとする。ヒステリー者は、自分が「成功したヒステリー者」になることが「治癒」だと信じている。これは実人生の現実に触れず、良くて舞台の上での演技の、悪く言えば嘘を付くことの上達によって問題を解決しようとしているようなものである。例えば『風とともに去りぬ』のスカーレットを思い出してみよう。彼女は姉の相手アシュレーに固執するが、何度断られても彼が何を考えているかには全く盲目で、姉が亡くなった時にまた言い寄って拒絶されると「なぜもっと早く本当の気持ちを教えてくれなかったの!」と怒った。最後にはレット・バトラーも愛想が尽きて去ってしまうが、彼女は嘆く間も置かずにすぐに「タラの娘」という空想対象に同一化して、家を守る理想的な娘を演じる。

 ブレンマンは、なぜこのような舞台が−−内的世界が形成されたか、彼らを支える対象すなわち内的対象は何かを、母親の包容機能(ビオン)の問題として考察している。本来母親は、乳児の原始的な不安を受けとめ緩和して消化できる形で返す。しかし、包容力のない母親は、不安が破局的であることは乳児に漏らしつつ、心的現実を否認するさまざまな手段(身体的欲求への耽溺・過度の献身・万能的な理想化・過度の感覚的刺激)を通じて、自分を外的な愛情対象として乳児に提示する。万全で理想的であるという表向きは、乳児に正当な不満を訴える機会を奪い罪悪感を与える。問題は否認され責任は投影され本当に援助する対象は与えられず、乳児には空想対象しか残されていない。心的真実を攻撃し偽りの関係を提供するこのような母親は、「成功したヒステリー者」の同一化モデルである。患者はこのような母親を憎しみつつ、危機において同一化し、転移の中で再現するのである。

 ブレンマンの考察は、妄想分裂ポジションの力動に集中している。デヴィッド・ベルは、それが抑鬱ポジションに移行する時点で達成すべき課題とヒステリーの問題を結び付けて、前性器期的三者関係と思考機能の関わりに注目した。

 自我心理学と違って、クライン派の考えでは前性器期もまた原始的ながらエディプス状況である。エディプス・コンプレックスの解消と抑鬱ポジションへの到達は同じことである。それが意味するのは、良い内的対象との関係を確立することによってエディプス的関係を表象できるようになること、すなわち破壊し合うのではなく主として愛情に基づいて性的関係を結ぶ両親像を内在化すること、そのことから生じる欲求不満に耐えられること、である。それが現実に適応できる条件である。対象と自己が分離することで、ブリトンR.Brittonの区別で言えばエディプス的関係の中への参与者ではなく立会人となることで、自己は二者の関係をその関係の外から見る視点を確保できるようになる。それが内的・外的現実を受け入れる力の基礎である。思考の歪曲は、第三者の視点を保持できないことに由来する。

 ベルはブレンマンを発展させて、ヒステリー者が分析者を支配し独自の思考を無化しようとするのは、分析者の独立した思考活動が原始的エディプス状況を反映していて、患者が閉め出されるのに耐えられずそこに侵入しようとするからだとした。彼らにとって分析者が独立した思考を持つことは、分析者の内的なカップル(例えば精神分析と分析者の自己との)が彼らを関係から排除して生殖活動にいそしむこととして経験されるのである。

 ただ、それはかなり普遍的な精神病理である。ベルの論考は精神病的過程に対する最新の現代クライン派の考察を含んでいる点で興味深いが、原始的な過程の存在を強調した結果、ヒステリーの独自性は再び見失われつつある恐れがある。しかし、以上の二編以外に、直接ヒステリーに関して取り上げるべき論文が見当たらないのが現状である。

III

 これから森瑶子著『叫ぶ私』を読むとしよう。この本の「私」は、無力感が生じると手先の運動神経が麻痺した。だが小論で扱うのにふさわしいと考えたのはこのような転換症状があったからではなく、以上に論じた形の機制が鮮やかに現れているからである。ブレンマンの「説得」「見せかけの証拠」「空想対象とそれへの同一化」「成功したヒステリー者」の概念はとりわけ有用である。そして最終的に「破局と否認」に遡ることができれば、包括的な理解と言えるだろう。

 『叫ぶ私』は、作家森瑶子が1982年11月下旬から83年6月初めまで、或る治療者(河野貴代美氏)のところに通った面接記録である。彼女がそれを始めたのは、年来の母親との関係・夫や娘を含め他人との関係にある問題をはっきりと認識し始めた時期でもあれば、自分と等身大の主人公が精神分析医のところに通うという設定の小説を書くために作家として取材を考えていた時期でもあり、母親が心梗塞で倒れ末娘が登校拒否を起こし心因性視力障害・幻視を訴えた時期でもある。彼女は半年後に小説『夜ごとの揺り篭、舟、あるいは戦場』を完成させると面接を止め、『叫ぶ私』を編集して二年後に出版した。それぞれの問題の事情と転帰は、もう少し詳しく同書に述べられている。その前後に書かれた小説やエッセイと合わせると、彼女が面接をどのように経験したか、何が問題でどう取り組まれたのか、彼女がどういう人か、常識的な意味では大体把握できる。

 しかし、これは見かけほど単純な本ではない。やりとりは大幅に編集・省略されている(25回ほどの面接のうち、半分の回が収録され、平均その三分の一の会話が削除されている)ので、その影響は無視できない。ここに登場するセラピスト(彼女の表記に倣っておく)が精神分析的理解と技法に基づいて面接を進めていない点は、ないものねだりをしない限りその過程を精神分析的に検討する上で問題とならない。例えばセラピストは転移解釈をしていないが、他の考えがあってだろうから、技法の選択自体の批判はできない。中立性と分析的な隠れ身のない点(外国人の夫を持っていたが離婚したとセラピストのプライバシーを患者に伝えたり)も、分析的な立場からはひどく驚かされることだが、ここで関心を集中したいのはセラピスト側の動機ではなくて、彼女がそういうセラピストをどう体験したかである。やり取りの細部に目を奪われずに、全体として何を提示しているかをまず捉えよう。私から見て、混乱の源は二つある。一つは、著者による編集と更に広い意味での提示の仕方の問題である。もう一つは、著者による変形の可能性を越えてセラピストによるもので、言葉の空回りになりがちな点を指摘しながら、精神分析理論の解説を与えていることである。セラピストは分析的な技法を実際に採用せず、分析とは関わりがないと述べつつ、奇妙な形で関わっているのである。この点はあとで見よう。

 この本は、ドキュメンタリーだろうか。『叫ぶ私』には、明らかに実在の人物しか登場しない。そしてセラピストのところに通った「私」がセラピー(これも彼女の表記に倣っておく)の経過を公表している。しかし事情はもっと込み入っている。そこで語っている「私」には森瑶子というペンネームがあり、これは小説の取材活動の一環である。しかも小説の執筆は同時に進行していて、セラピストとの対話は小説の中に取り入れられ、想像によって膨らませられている。作者は書き終えた時点でセラピーを中断した。このことを、作者が本の材料を得るためにセラピーの機会とセラピストを利用したと言うだけでは、−−それはもう既に一つの事実だが−−何が起きていたのかの理解として十分ではない。治療・取材・創作の境界は伊藤・ブラッキン・雅代=森瑶子そしてセラピストの中でも曖昧にされ、彼女の語りは自分の言葉か代弁か解説か舞台の上の科白か、渾然一体のまま進んだようである。セラピストは何カ所かで、彼女を「森さん」と呼んでいる。或いは取材に協力することとセラピーをすることを合理的に分割できると思ったかもしれない。それは実際には、できた小説を見れば分かるようにセラピーの本当の理解よりもそのカリカチュアを作ることに手を貸すことに通じる。この「お手伝い」は「演技」のお手伝いにしかならない。その小説が、「自分はずっと夫に対して(性的満足の)演技していた」と気づくエピソードから始められるのは示唆的である。結果として、セラピストが空想対象になっているのに平行して、セラピーは「空想行為phantasy act」と呼ぶのがふさわしい、現実に起きたことながら著しく空想に染められた、彼女の内的対象関係の実演enactmentになっている。

 『叫ぶ私』は異例の本である。通常治療経過の報告は、治療者が(時として患視に断りもなく)行うことである。しかしここでは、患者である著者がその経過をすべて録音して、記録を責任編集して出版している−−彼女は自分を患者と呼ばず、セラピストはクライアントという言葉を使うことによって、患者であることは曖昧にされているが。「患者」というときの含意は、問題を持ち専門家に頼っている人、当人の方が専門家ではない、ということである。それがここでは逆転している。公表は、意識的無意識的な意図なしには行われない。この本を巡る「全体状況」(ジョゼフB.Joseph)は何だろうか。それは当事者二人が意識しているところとずれているようなので、本当はどういう交流だったかを読み解く必要がある。そこで、しばらく内容には殆ど立ち入らず、些末に見える議論をするが、患者の説得或いは誘惑に従って直ちに母子関係を論じることよりも、遥かに重要なことを扱おうとしているのである。テレビの中で何台消防車が走ろうと、今の出来事のニュースでない限り火事の心配をする必要はない。しかし釣り込まれつつ演出の一部のつもりで楽しんでいたら、惨事の傍観者の一人に終わることもありうる。必要なのは出来事の提示の性質を理解することである。

 まず、これを公表したということについてはどう考えられるだろうか。エピローグでこの本が捧げられているのは、「私のような問題をかかえている女性たち」そして「私が心から愛していて、決して愛しているのだと口にして伝えることの出来ない人々−−私の母や父や、夫や娘たち」である。セラピストにさえ公表に際して本当の配慮が殆どないこと−−中断ケースを患者に発表されて嬉しく思う治療者はいるだろうか。しかも、セラピストは話し言葉を分かりやすくする程度の編集作業からも排除されているので、殊更しどろもどろさが強調されている−−を考えると、前者の思い入れは会ったこともない「女性たち」へのものではなくて、自己の分身に対する感情と思われる。では、近親者に対しては、口にはしにくい愛情を伝えることが唯一の目的だっただろうか。プロローグには、発表によって自分の周囲の人を避け難く傷つけてしまったことに触れられているが、本当の配慮は大幅に編集することではなく公にしないことだから、抑えられた形ながら攻撃性も表現したかったことの一部だろう。更には、これが「見せかけの証拠」の可能性がある。取材とともに彼女が面接を始める発端となったのは、末娘の発症である。娘のカウンセリングが始まってから自分の面接を始めたのは、「説得」かもしれないという想像の余地を与える。「末娘が悪くなったのは母親の養育のせいと思われるでしょう、そうです、そうなんです、そしてその母親はこんな母親に育てられたのでこうなっててしまったのです、そういう中でいちばん努力しているのは私です....」彼女がセラピストをどう思いどう扱っているかは後で検討するが、言外には、「セラピーなんて私がしゃべっているだけで役に立たないし、」と続くことだろう。実際に彼女はこう書いている。「セラピストは分析したり、こうしなさいとかああしなさいとかそういう類のことは一切言わない。喋るのは常に私であって、彼女は殆ど黙々と私の話に耳を傾けた。セラピーの過程で得た知識とか発見とか結論めいた従って、セラピストではなく私が自分の繰り返した言葉の中から、分かったことだった。」確かに彼女はセラピストが「私の話を興味を持って聞いてくれた」ことを高く評価しているが、同時に、セラピストから何も新たな理解を得なかったと言っている。彼女の成果なのだから、出版するのは彼女の自由なのだろう。その場合、これは一種の復讐、それが大げさならば見せしめである。

 次に、彼女がセラピーをどう経験しているか見よう。

 面接が録音されるようにした経緯は不明である。著者の記述には矛盾がある。プロローグで「セラピーの全てをテープにとってあった」とあるのに、本文では初回と二回目の記録が欠けている。作家が取材に行って「まだテープをとることを思いつかなかった」ことがありえても、何も覚えていないのは不思議である。何らかの都合から削除せざるを得なかったのかもしれない。或いはテープは本当にないのかもしれない。重要なのは、この変則的な構造が面接に持ち込まれた意味を理解することである。

 治療者が録音するのは、主として自分の記録と研修のためか、患者に渡して自己学習を助けるためである。しかし分析的な精神療法では、相手にテープを渡すことは治療者との分離を否認し、かつ直接的な接触の価値を薄めるので行わないことである。また研修のためとしても、録音されない治療者の内的な感情や思考の動きの方が重要で、字句に拘るのは意義に乏しい。これが、患者が録音するとなると全く別の話である。やり取りを全部録音して持って帰り、しかも後で出版するということは、或る水準では、自分の出したものは全部自分のもの、自分が関わったものは自分のものという自己愛的態度の現れである。通常患者は症例報告として使われることを想像することを考えると、被害的な不安の裏返しで、相手に利用される前に利用する、支配される前に支配しようという動きでもある。更に踏み込んで言えば、これは治療者及び治療関係への、激しい羨望による攻撃である。自分の語ったことにのみ価値があり、治療者の価値は矮小化される。治療関係は何かを生み出すのではなく、競争の場になる。実際患者は勝ち負けに非常に拘り、「負けるが勝ち」すなわちいつでもひっくり返せるという考えに感銘を受けている。彼女の二年後の疑問は、「私は救われたのだろうか?誰が強者で、誰が弱者だったのだろうか」(「エピローグ」)。目標はもはや自己洞察ではなく、治療者を感心させて密かに打ち負かすことである。小説を書き上げた頃に見た夢の報告の仕方は、自分は思うままに夢を見て分析できる、分析をマスターした、という勝利感に満ちている。この強者−弱者関係は、本人も言う通り母親との関係を中心として広がっているようだが、今やあらゆる場面で支配的となっており、それを扱う治療関係でもその場のこととして取り上げなければ、この在り方に吸収されてしまう。

 彼女の元々の訴えの一つは、母親・夫や子供と良い関係を持てない、仕事を優先し没頭してしまうということだった。録音は、その仕事本意の自分をテープレコーダーとともに面接の直中に持ち込むことで、自分の問題を行為化acting inしているのである。それは、理解というアナリティック・ベイビーを作る治療者の受胎力或いは患者に良いものを提供する授乳力に羨望して、自分だけで生み出す仕事を選び、接触emotional contactを求めている彼女自身の依存的乳児的部分からその機会を奪う、自己愛的な母親を実演している。だから録音の件は彼女の抱える問題の核心である。

 先のピアノ教師の例のように、患者が治療の場面を自分に合うように変形しようとする試みは、その患者の内的な世界の現れを理解する良い機会だが、治療作業に対する妨害であることに変わりはない。共同作業へのこの妨害を指摘したら、あまりの本当の話に、患者はもう来なくなるだろうか。平均的な日本のセラピストは、はっきり直面化したときのドロップアウトを恐れて、おそらく正確にはそれに伴う悪評を恐れて、本当の問題を指摘する分析的な出会いanalytic encounterよりも「持ちつ持たれつ」を選ぶようである。そうすると治療者は精神療法以外のことをして、患者は精神療法以外のものを受け取ることになるが、それも「持ちつ持たれつ」の一部である。これは本当の話を聞きたくない気持ちの部分をお互いに相手に投影する、相互投影同一化の状態で、患者の脆弱性を理解して行う支持的精神療法のあり方とも違うだろう。一般に初めから“深い”解釈は避けられる傾向にあるが、共同作業を妨害している部分はとりもなおさず自己の諸部分が統合的に機能するのを妨げているのだから、病理的な部分に圧された健康な自己の窮状を正確に理解して伝えることは、可能ならばこれ以上望ましいことはない。問題は言葉が届くかで、すぐに通じる期待は万能的だとしても、すぐに悲惨な結果を予想するのも必ずしも謂れがないと思われる。この例では今の点をコメントしても理解されない場合、「録音の希望は分かったけれどもそれの含む意味がはっきりするまで予備面接ということにして、その間は録音なしでやって行きましょう」と合意をとるのが穏当な対応だろう。

 さて、こうしてセラピーはもう始まっている。多少巻き戻して、或いは回想を紐解いて、どのようにしてセラピストに会ったのかを見直そう。或るエッセイ集に入っている「セラピストのこと」によれば、彼女は自分が創作したヒロインたちが自分に酷似して不毛で不幸なことに気づき愕然としていたが、先にセラピーを考えたのは、「私ではなく私の創りだした小説の主人公の女」で、「彼女にけしかけられて」作者はセラピストに会いに行った。言い換えれば、作者は自分自身をセラピーにかからせるために、小説の主人公を掛からせなければなかった。その意味で登場人物は、著者をセラピーにまで連れていく「偽りの自己」の役を果たしている。ウィニコットも言うように、偽りの自己の役目はここで終わるべきである。セラピストはやって来た人間の中の、本当の欲求と問題を感じている部分と接触しなければならない。

 しかし、ここでの展開はそうならずに、「不毛で不幸」のほぼ反復になった。それは、彼女が夥しい量を喋っても「頭の中で原稿用紙にどんどん書いている」のと同じで、問題もそれへの理解も、自分についてのことではなく次々に女主人公の体験に置き換えられていき、その過程の病理性が取り上げられなかったからである。「セラピーを受けながら、その体験を彼女のものに移しかえし、私は小説を書いていった」。患者にとって「何かわからない状態が長いことある」のは耐え難い。未知の暗がりは知識にしてまとめ上げ、「すぐにでも本の中に入れなければならない」−−それは創作日程上の都合によるばかりでなく、正体不明の不安を自分のこととして持っているのが苦痛だったのだろう。しかもセラピーに魔術的解決を期待していたので、なおのことそのギャップを自分の空想の世界で埋めなければならない。作者は演出に忙しく、面接の舞台の上にいたのは「偽りの自己」の部分であるる。「母親」として娘のことを質問しているときも、彼女は娘の精神病理の醒めた取材者である。

 女主人公たちもまた患者の一面ではあるが、自己の現実から隔たった空想存在である。この注目と賞賛を引き受ける部分は、同時期に書かれていた別の小説(『カナの結婚』)の主人公の母親=厚化粧の女優のように、歳をとっても舞台から下りられない。治療者の価値は彼女の話の単なる聞き手に矮小化され、彼女の孤独とプライドは理解されないのであり、そのことはむしろ自己愛的な優越感を育む。残された道は、「成功したヒステリー者」となることである。

 彼女が「患者」として正当に治療を受ける機会を持てなかったのは、内在的な問題に由来するとはいえ、或る意味では同情に値する。治療を通じて自分の本当の傷つきに触れることに対しては、強い恐れがあったようである。『カナの結婚』には、分析の過程をどう体験していたかを示唆する一節がある。それは見たところ、何気ない修辞句である。「情人の声が暗示するかのように、あるいは精神分析医の行う催眠への誘いかけのように柔らかく響く」。想像的変形は小説家の自由としても、面接は何と甘美かつ性愛的なイメージに変えられたことだろう。不倫関係は、娘が母親から父親を奪って我が物にするというエディプス的構図に収まるように見える。その目的は、母親との競争に競り勝つことのようである。だがこの情人はカナと性的関係を持つとその日に、「ありもしない快感の演技などしてはいけない」、自分は騙されない、と言う。彼女は「嘘という殻」で守られてきたものが粉砕され、「無防備でむきだしの傷つきやすい女」になる。しかも見抜かれて心の中で盛り返してくるのは、「更にしまつの悪い、扱いにくい女」である。そこに聞こえてくるのが「精神分析医」と重ねられた「情人の声」である。

 精神分析と催眠術が同じものだったことは未だかつてないのだが、彼女はどちらも等しく、自分を誘惑し支配するものと見ている。「精神分析医」と「情人」を同一視することで、自分のことを理解する/されるという分析の作業は、彼女の中で快感を得る/得ないという課題に変質する。そこにあるのは、与える/与えない、受け取る/受け取らないという性的な闘争関係である。彼女が支配されないで済むかどうかは、新たな誘惑と仕掛によて巻き返せるかに懸かっている。

 しかしそれは、「偽りの関係」の中での出来事なのである。彼女が本当に恐れているのは、自分が粉砕され、無防備で剥き出しになる破局である。「重大な病気の前兆のように受けとめ、恐ろしくて....ひた隠しにしてきた」麻痺症状は、このような破局感を手先に封じ込めている。彼女の対象関係の軸は、見抜く/騙す、傷つける/粉砕されるにあり、生き残ることが課題である。理解・信頼・依存の関係からは程遠く、彼女は率直になることができない。自分の在り方についてコメントされることは、基本的に「責められる」経験である。破局の回避には、始末の悪い扱いにくい女になるしかない。

 問題は、この「始末の悪い女」はその誇大性を投影して万能的な解決能力を持った自己愛的対象を期待するので、多少の理解が提供されたとしても被害感と侮蔑が綯い混ぜになって「まるで何か慈善をほどこすよう」(『叫ぶ私』「プロローグ」)にしか聞こえないし、対象が独立した良さを持っている場合には、それに羨望して攻撃することである。「何か相手が自分にしてくれればくれるほど、冷めていってしまうという部分がすごくあって....」。セラピストの河野氏は『叫ぶ私』の文庫版解説の中で、クライエントに遠慮して彼女について「ある意味で、支配的だと言えます」と一言だけ述べている。それを患者に伝えにくいことが支配性の現れなのだろう。その結果が「不毛で不幸」である。セラピーの中で毎週どのような理論的説明を受けて小説の中で使おうと、彼女が実際に経験しているのはこういう世界である。貪欲な内的対象に捕らわれの身になり、時には共謀している自己の苦境に触れるには、錯綜した対象関係全体を扱わなければならない。

 彼女の万能感は一方で、「目には目を」の恐怖をもたらす。自分が母親を病気に陥れたという確信は、セラピーを求めたもう一つ動機である。小説の「精神分析医」は創作上の存在だが、実在のセラピストも強度の投影の結果、「空想対象」と化している。彼女は、恐怖を「根こそぎとりのぞいてくれる」「過大な期待」を持って近づき、すぐに上記の怒りを表す。そのあとのセラピスト像にも、「いつでも必ず聞いてもらえる」という理想化と「何も言ってくれない」という価値引き下げの両極端が併存している。「話を聞いてくれる人」が安定した転移の場合、自己心理学の言う<自己対象転移>と見なして良いが、「いつでも必ず」はもっと原始的で非現実的である。現実を知ることによる欲求不満は、対象の現実を自分の願望に合わせて変えようとするか、最初から不要だったと放棄することで防衛される。鬱に直面するのは、耐え難いことである。セラピーの流れをごく大まかに見ておこう。

 自分が加害者であるという認識の転換は、セラピーに来る前から彼女が別の小説の中で用意していた結論である。彼女には自分で書いたシナリオに即して動いているところが強いが、それとは別に自分がセラピストにしていることに対して、自分の気づきを述べているところがある。自分が相手を食い倒すこと、弱い人からエネルギーを引き出していることを話す当たり(3月7日)は、自分の口唇的破壊性の強さとセラピストへの罪悪感を伝えようとしているようである。似たようなこととして、自分の「悪知恵」への言及がある(4月18日)。彼女の末娘に虐められて悪くないのに謝る妹の娘は、セラピストのことのように見える。

 セラピストに対して、欲求不満を隠すための誇張や自己愛的な理想化ではない、相手を求める気持ちが彼女の中に動いている場面もある。彼女は、治療によって自分に子供に対する母親らしさがなくなり「遠くに行ってしまう」ことにならないか、と何度か聞いている(4月25日)。これは、「遠くから見ている河野さん」に対する気持ちのようである。彼女は少なくとも一度、「森瑶子」の演技を止めたい気持ちを表している(5月18日)。成功したヒステリー者になる虚しさに彼女は泣く。その日は面接日を変更して、予約外に早めに来たようである。気分は鬱と感傷の織り混ざったもののようだが、幸せに感じていたのは適当にやっていたから、と気づいている。本全体の中で最も話が通じそうに見える日だが、テープは途中で切れて、彼女がどう思いながら帰っていったかは書かれていない。

 彼女はその後、『血と言葉』の著者をモデルとした「良い患者」という空想対象に同一化し、分析関係のさまざまな本を読んでは「良い分析」という空想行為の中で夢を生んでいく。もう取材が終わる日も近い。「自分の悪い部分を引き戻さなくては」という考えは、本で学んだことに聞こえる。結局、殆どのことは手つかずに終わった。それがこの経験を通して彼女が選択したことである。「私は私の心の中のさまざまな思いを全て白日のもとにさらしたいとは思わなかった。そんなことをすれば、私にはそれ以上ものを書く必要も必然性もその欲求もなくなるだろうと恐れたからだ」。

 こうして舞台に幕は下りて、その秋に『夜ごとの揺り篭、舟、あるいは戦場』が出版される。『叫ぶ私』の刊行はその二年後である。

 ここで小説に詳しく立ち入る余裕はもはやないが、それが与える印象は、リアリティと作り物の奇妙な混淆である。セラピーに通う「私」は、セラピストの部屋が自分の想像していたような場所と違ったことを認める。自分については、「多分一種のヒステリーというのが一番妥当なのかもしれませんけれどね」と言っている。もっとも、それはあまり深刻に受け取りたくない口調である。この「私」は実演のことも知っていて、自分がセラピストを挑発していたのは馴染みある関係に持ち込もうとしていたからだ、と気づく。だが、描写されるセラピストの振る舞いは奇妙である。彼女は面接中にメモを採り、連想ゲームを与えるような質問をし、性的象徴を解釈し、患者の行動に忠告をし、フロイト派とユング派の理論を取り混ぜ、潜在的同性愛の可能性を理論的に説明する。セラピーは、外傷の記憶、性的連想、原光景、性的コンプレックスの解明へと進む。そこでは精神分析というより分析のカリカチュアが演じられている。それは、「取材」に応じたセラピスト(河野氏)が空想に栄養を補給したからでもある。氏は精神分析的思考に必ずしも肯定的でないようだが、文庫版解説の中の「伝統的精神分析治療」の説明は、分析のカリカチュアに近い。

 内的世界は遥かに複雑で、単一の心的外傷によって病理的組織pathological organizationが形成されることはないし、まして過去の或る時点の記憶を呼び覚ますことで問題が解決することはない。余分なものを放出(カタルシス)したり欠落していた愛情を今加えたりすることによって障害が回復すると想像するのは、非常に具象的な心の見方である。オショネシーE.O'Shaughnessy も論ずるように、病理的組織は活動が最終的に不活性化することがあっても、消滅することはない。しかしこの因果図式は根強い。そこに想定できるのは、精神分析理解のこのヴァージョン自体が「見せかけの証拠」で、注意を外傷という物語に引きつけて、パーソナリティ全体の問題を否認しようとしている可能性である。

 ヒステリーの麻痺症状が神経支配に一致せず空想に基づいているように、この因果図式は精神分析そのものの考えではなくそのカリカチュアである。百年が経ち、ヒステリー者は麻痺を通じて神経医を誘惑する代わりに、精神分析を演じるようになったのである。精神分析への一般の理解がそれに近いものになりがちなのは、問題を単純化局所化するヒステリー機制の現れである。

 ところで、精神科医がフィクションを素材にして登場人物の精神病理の解説をするのは一般に、親しみやすさとともに、読者も批評者も実在の人物に対するときのようにプライバシーに抵触することなく、テキストに自由にアクセスできるからである。本書の場合、その点は微妙なところに位置するように見える。自らが公表していることとは言え、論じた対象が登場人物ではなく実在人物であることには変わりないからである。だが本文で述べたように「私」は創作上の人物とクロスオーバーしているし、書かれたものの範囲から知られる限りでの「私」であって、それ以上の実在性はない。だから、考察を加えたのは本当の意味での実在人物ではなく、著者が了解している「作品」の中の「私」の精神力動である。それがどこまで実在の人物に該当するかはここでの関心ではない。再版が続けられているテキストの外には出なかったので、小論も作品の読みの一つとしてお受け取りいただければ幸いである。なお、専門家による著者その人についての議論は、『日本病跡学雑誌』44号(1992年12月)に一つの試みが見られる。

文献

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・森瑶子:叫ぶ私、主婦の友社。

・森瑶子:夜ごとの揺り篭、舟、あるいは戦場、講談社文庫。

・森瑶子:カナの結婚、集英社文庫。

・森瑶子:ジンは心を酔わせるの、角川文庫。