「この部屋最後の夜に、かんぱーいっ」
篤は、んぐんぐっと一息で手にしていたビールを飲み干した。
「……早いな」
「そう?今日は俺の奢りなんだから、作長も遠慮なく飲めよ」
「…ありがと」
この夏、クーラー付の部屋へ移るために、この部屋の住人、作長涼は夢中で働いた。涼にとって、篤の自宅から程近いこの部屋が、二人を繋ぐ唯一のものだった。入学当初、涼がこの部屋の入居を決めたのは、ほんの偶然だったけれど、ここを選んだからこそ篤がここを訪れるようになったのだ。篤がここへ来る理由はそれだけだと思っていたから、涼は暑さ極まりないこの部屋を出ることなんて考えてもみなかった。
けれど篤はこう言った。
「クーラーなしだと暑くてお前に触れにくいじゃん?」
この一言で涼の決意は即座に固まった。
そして何とか貯めた頭金。明日はとうとう引越しだ。
この部屋最後の夜。いつものビールに加えて少し値の張る焼酎も買った。涼が篤からの金銭面での援助を断り続けたため、篤は今日の食事代と酒代は払うと言って譲らなかった。荷造りが済んでいるからコップは紙カップ。簡素だけれど、二人にとっては何よりも大切な時間に感じられた。
「しかし、お前さあ、その細腕で、ほんとがんばったよな」
篤が涼の頭をくしゃりと撫でる。
「…少し、痩せただろ、お前」
「夏は、いつもだよ」
涼は、髪に触れる篤の甘やかな手に酔いしれながらそう答えた。毎年、夏痩せするというのは嘘ではない。けれど、余計な出費を抑える為に食費まで切り詰めたのは篤には内緒にしている。余計な心配はさせたくなかった。
涼は煙草に火を点け、思いっきり吸い込んだ。これもまた出費を抑えるために、一日三本までと決めていた。夏痩せした栄養不足気味の身体に、ニコチンが効いてくらくらする。
それでもふうっと煙を吐き出すと、それは窓辺に置かれた蚊取り線香の煙と交じり合って、窓の外へと流れるように消えていった。
「次住むところは、蚊取り線香、いらないかな」
消えていく蚊取り線香の煙を名残惜しそうに眺めながら涼が呟いた。
「え?なんで?」
「…だって、クーラーあったら窓開けなくなるだろ?」
「ばっかお前、クーラーが要らなくなるこれからこそ、窓開けるようになるんだから、次でも要るだろ」
「…そんなもんなの」
ちりん。
秋を匂わす風が風鈴を微かに撫でていく。
「…俺、まだちゃんと言ってなかったよな」
篤が飲み干したビールの缶をくしゃりと握りつぶした。
「涼、好きだよ」
篤が初めて涼を名前で呼んだ。
「…それって…お前んちのシェルより…?」
「だぁ〜っ!何言ってんだ、お前っ」
篤は涼をぐいと引き寄せ、その腕に涼を取り込んだ。
「だ〜れが、自分ちの犬の方が好きだなんて言うんだよっ。人の決死の告白、茶化す気か?」
篤が初めて涼を抱き締めたのは、この夏の初め。あの時と比べて随分涼しくなった。でもこうやって抱き締められると、やっぱり夢か現実か、分からなくなってしまう。あれは、暑さの所為じゃなかったのか…。
「…嘘みたいだ…」
「だれがこんな事、嘘言うかよっ。…お前は、どうなんだよっ」
篤の鼓動が涼に伝わってくる。思った以上に早いその鼓動を感じて、篤の言葉に嘘はないんだ、と涼は実感した。
「俺も、好きだよ。篤…」
そう答え、煙草を空き缶の灰皿にぎゅっと押し付けて、涼も篤の首に腕を回した。
「涼…」
篤が涼を横たえようと、床に手をついた。汗を滲ませる篤の首から涼の腕が滑り落ち、涼が床に頭をしたたか打ち付けた。
「わっ!大丈夫かっ?」
慌てて篤が涼を覗き込む。
「…ぷっ」
涼は、篤の慌てぶりに思わず吹き出した。
「…やっぱりもう少しの間、クーラーが要りそうだな。…続きは、やっぱ、クーラーのある部屋の方がいいかな」
ぶうっと篤が唇を尖らせる。
「今日は飲み放題なんだろ?焼酎、飲もうぜ」
気を取り直して、涼が篤をなだめるように言った。
「サイダー、冷蔵庫に入ってるから、取って。今晩中に飲んでしまわないと」
まだ少しぶうたれながら冷蔵庫へ向かう篤の背中を眺めて涼は笑みをこぼした。
「…涼、このサイダー、いつ開けた?」
「…忘れた」
もしかしたら、夏休み前かもしれない。寝食惜しんでバイトに明け暮れたから、冷蔵庫もろくに覗きもしなかった。冷蔵庫にサイダーを入れていたのは覚えていたけど、いつ開けたかなんて。
「気、完っ全に抜けてるぞ。これじゃ砂糖水だ」
一口含ませた篤は、ぺっぺっと舌を出した。
「…んじゃ、買いに行くか」
暗いのをいいことに、二人は手を繋いで部屋を出た。
力強い篤の手が、明日からも涼を引っ張って行ってくれるだろう。
蚊取り線香と一緒にぐるぐる回って消えていったソーダ水の泡。それと一緒に消えた二人の夏。けれど、明日からの二人には、泡のなくなったソーダ水みたいな生活が待っている。
それは、ただ甘いだけ。
おしまい
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