『ゆうわく』
| 畑中剛の朝は、シャワーから始まる。 夏はいい。自分だって寝汗でべとべとな体はいやだから、シャワーを浴びてさっぱりすることに異存はない。 でも、真冬のシャワーはけっこう辛い。大体、お風呂場なんて普段から寒い場所だし、古い家だから脱衣所だの浴室だのに暖房なんてついてないし、ガス給湯器はすぐにお湯が出てくるわけじゃないから。 それでも朝のシャワーが外せないのは、同居人の強い主張のためである。 曰く「そんな匂いさせたままで外にだす訳にはいかない」 匂い、と言われても剛には身に覚えも何もないけど、同居人に言わせれば、剛の体からは甘い匂いがするらしい。 その匂いが曲者なのだと、同居人=畑中尚はいうのである。剛の体からはフェロモンとやらが出てるらしい。 フェロモンというのは動物や昆虫が異性を誘惑するのにつかう分泌液の一種で、香水の原料にもそういうものが使われているところを見ると、人間にも効果がないわけではないらしい。所詮、人間も動物なのである。 そして、剛のフェロモンは異性ではなく同性、つまり男を惹きつけるらしい。 剛自身は匂いを感じることもないから、半信半疑ではあるが、大学で生物学を専攻している尚にそう断言されてしまえば逆らえる筈もない。 言われてみれば、変態のお兄さんに見たくもないものを見せられたり、触りたくないものをさわらされたり、それなりの被害にはあっている。でも、やられっ放しでいる性格ではないので、その場で即座に報復に出ているせいか、尚と同居するようになるまではあまり深刻に考えたことは無かった。ホモに好かれやすいタイプなんだとは、自分も両親も思ってはいたのだけれど。 骨が細いのか華奢な骨格、色を抜いているわけでもないのに綺麗な薄茶の髪、全体に可愛らしい感じの顔立ちと外観だけでも変態さんに襲われやすい要素は揃っている。 だからこそ二年前に父親がアメリカに仕事で長期滞在することになった時、剛だけが日本に残ることにしたのだし、近くの大学に進学が決まっていた父方の従兄の尚と同居することになったのもその為だ。 ホモに好かれやすい息子をホモ先進国のアメリカ(それもホモが多そうな西海岸だ)に連れて行くのは両親もためらいがあったらしい。さりとて一人で残していくのも心配だ。そこで父親の兄の息子で、しっかりものと評判の尚と同居することになったわけだ。 剛は従兄の尚兄ちゃんが大好きだったので、同居はむしろ嬉しかったが、それでも朝のシャワーについては時々考えさせられる。 それでも逆らわないのは、やはり尚が好きだからだ。 ドライヤーで丹念に髪を乾かした後、制服に着替えて尚の前に立つ。 「尚兄ちゃん、どうかな」 尚は朝食を作る手を止めると、顔を近づけてくんくんと剛の匂いを嗅ぐ。 剛はいつもその瞬間、ひどく緊張する。そのせいでせっかくシャワーを浴びたのにまた汗をかくんじゃないかと思うほどだ。 「よし、OK」 そして尚がOKを出して離れていくと、ほっとするような悔しいような気持ちになる。 朝食はロールパンにカフェオレ、スクランブルエッグ。 そのうちに幼馴染の山根隆弘が迎えに来て、自転車を並べて一緒に学校へ向かう。隆弘は尚公認のボディーガードである。実は子供の頃から隆弘と一緒に柔道を習っていて段も持ってる剛にしてみればボディーガードなんて余計なお世話だけど、尚には逆らえないからそういうことになっている。まあ、同じ学校だし、同じ柔道部だし、一緒に行動することになっても不都合はないから。 隆弘自体は長年の付き合いで免疫があるのか、それとも女の子大好き人間だからか、フェロモンによる効果は皆無である。だからこその公認ボディーガードなのだが。 その隆弘が最近ひそかに疑っていること。 それは、剛のフェロモンが尚の前でだけ出てるんじゃないかということだ。隆弘自体には効果の無いフェロモンだが、ひょっとしてこれかなと思う匂いを嗅いだことがないわけじゃない。それは常に畑中家に遊びに行って、剛が尚に甘えてじゃれついた後にだけ感じる匂いだ。部活や体育で汗だらだら流していても、確かに剛は他のヤツほど男臭くはならないが、甘い匂いなんてしたことがない。 動物も昆虫ものべつまくなしフェロモンを垂れ流してるわけじゃない。ここぞという時につかって誘惑するのだ。人間だってそうしたって不思議はない。 隆弘の目から見て、剛にその自覚はないようだけど。尚だってそんなことまで気付いてはないようだけど。 成り行きを暖かく見守っていくつもりの隆弘である。例えそれで友人がホモになっちゃうのだとしても、その相手が自分でさえなけりゃ、別にかまうことじゃない。 でも、剛の無意識の誘惑が効果を上げる日も遠くはないのではないかとも、隆弘は思っている。 だって、最近いちだんと尚は剛に過保護だから。 今だって、迎えに来た隆弘を待たせて、玄関先で剛の制服の襟をなおしてやっている。くすぐったそうに首をすくめていた剛がその手を離れて、隆弘の横を通り過ぎる。後に残るのは仄かに甘い匂い。 無自覚の誘惑者は、今日も元気にフェロモン発散中らしい。 |