トッカータ

 演奏会の第一部は、親のための発表会といっても過言ではなかった。
 椅子の上で鍵盤に齧り付くようにしている子供達は、それなりに愛らしい。必至になってビデオを回している親が、少々視界の邪魔だったが。
 第二部は音楽を楽しめる域だった。
 三部構成だということは、二部終了後のアナウンスで知った。小林さんが出たのに気付かなかったのかと、アナウンスを聞くまで思っていた。
 受付を通らずにホール内へ入ってしまったので、プログラムを貰っていなかったのだ。
 プログラムを一部貰おうとホールの外に出ると、奈々ちゃんが必死に小林さんに話し掛けている姿が目に入った。
 演奏が終わった子供達は、思い思いの服装でホール前のロビーで遊んでいる。
 奈々ちゃんは相変わらずベルベットのワンピースで、精一杯にませた表情を見せていた。
 やっぱり小林さんに憧れているってわけか。
 どこが良い?
 思いつくのは先程と同じことだけだ。溜め息を吐いてホールに帰ろうとしたとき、二人の間に女の人が割って入るのが見えた。
 ピアノの先生だ。発表会の冒頭に、挨拶をしていたから覚えている。
 小林さんは裏方を手伝っていると言っていたな。先生から何かお願いをされているのだろうか。小林さんが難しい顔をしているのが見える。俺と話している間は常に微笑を湛えて柔らかい語り口調だったので、あんな顔を見せるとは意外な感じだ。余程難しい頼みごと問題なのかな。
 戻って来たホールの座席に、体を預ける。小林さんのことが頭に浮かんだ。
 声。柔らかな物腰。礼儀正しい言葉遣い。
 顔だって悪くない。いや、むしろハンサムだ。外見はダサいけれど、磨けば光るタイプだ。
 でもつまらない男だよな、多分。遊び慣れてもいないだろうし。
 取りとめもなく小林さんの事を考えているうちに、第三部は始まった。
 それなりの期待を持って見た小林さんのピアノは、大したことがなかった。指の動きが固いのは、素人である俺にもすぐわかった。
 現在この腕では、確かに一年前は人前に出られなかっただろう。
 それでもどこか惹き付けられる演奏だった。開始前はあんなにおどおどしていたのに、堂々と胸を張り、しっかりとしたリズムを刻んでいる。
 楽譜通り弾こうと気負っている様子が見受けられたが、悪くはないんじゃないかな。たった数時間でにわか批評家になった俺は、そう思った。
 第三部は、大人になってからピアノをはじめた人を集めた部のようだった。下手な人が多いが、ポピュラー・ミュージックが主で、それなりに楽しかった。
 全ての演奏が終わってロビーに出た時、ポケットに入れておいた携帯電話が鳴った。
 しまった。マナーモードにするのを忘れていたんだ。
「はい、仲尾です」
「悪いな。今向かっているところだ。どうだ? 全部終わっちまったか?」
 名乗りもせずに、いきなり捲くし立ててきたのは、甲谷先輩だ。
「奈々ちゃんの番ならとっくに終わりましたし、発表会自体も、今終わったところですよ。このあと全員で記念写真を撮るそうです」
「あー、あとどれくらいで撮影だ? こっちは三十分……、いや、二十分で着く」
「わかりませんけど、客の見送りが終わって、それからチビガキを並べて撮影するのには、時間がかかるんじゃないですか?」
「お前なぁ、チビガキって言うなよ。その中には奈々も入っているんだろう?」
「入ってませんよ」
 それでも言い方が気に入らないと愚痴る声を聞きながら、俺は周囲に視線を向けた。誰かの耳に届いて気を悪くさせていないかと、今更ながらに心配したのだ。しかし、杞憂だったようだ。
 誰もがお喋りに夢中で、俺のことなんて見ていない。
 いや、一人……。
 十メートル程先にいた小林さんと視線が合う。会釈をされて、俺も慌てて頭を下げた。知り合いを誰も呼んでいないのかな。
 男だから、そんなものかもしれない。会社の友達を呼ぶのも、照れ臭いよな。親を呼ぶ年でもないし。
「まあ良いや。とにかく飛ばして向かってるから。うちのヤツにそう言っておいてくれ。仕事で奈々の発表会をすっぽかすなんて、怒ってるだろうからな」
「仕事じゃなかったら、もっと怒るんじゃないですか?」
 からかうように言うと、舌打ちが返って来た。
「冗談を言っている暇はないんだよ。切るからな、よろしく」
 ロビー内をぐるりと見回して甲谷親子を探し出すと、お客らしい誰かとのお喋りに夢中の様子だ。
 客は近所の親子なのだろうか? 奈々ちゃんと同じくらいの年の女の子とその母親らしい。
 しばらく話が切れるのを待っていたが、なかなか終わらないので申し訳ないが割って入る。言付けを伝え、写真撮影が終わるまで朝食をとった喫茶店で待っている旨を告げた。
 帰って良いのかいけないのか、甲谷先輩に聞いておけば良かったな。本日のお駄賃として、夕飯ぐらいは奢ってくれるかもしれないし。
 そういえば、昼飯を食ってないな。スパゲティーでも食べるか。
 席についてミートソース・スパゲティーを頼むと、驚くほどの早さで提供された。ファーストフードかよ、ここは。
「ここ、座っても良いですか?」
 フォークを手に取った時、声が聞こえた。
 ひえっ、また小林さんじゃないか。気を抜いている時に、この声で背後から囁くのはやめて欲しい。他の客に遠慮しているんだろうが、これは凶器だ。
「こ、小林さんですか。どうぞ、空いてますから」
「ありがとうございます。写真撮影まであと二十分ほど掛かるそうで、時間を潰そうと思ってやって来ましたら、お姿を見付けました。お邪魔かとも思ったのですが、図々しくてすみません」
 面接のような丁寧な言葉遣いも、少し低めに甘く響く声と、柔らかな笑みで不自然さが掻き消されてしまう。
「そんな、同席するぐらいで大袈裟ですよ」
「そうですか?」
 小林さんがすっと手を挙げ、コーヒーを注文する。
「今日は一人で来ましたから、お話しさせて頂ける方がいると嬉しいんですよ。どうもこういう場所は、場違いで困りますね」
 いたずらっぽく笑うその表情は、驚くほどの無邪気さで戸惑わされてしまう。
 ダサ男のはずなのに。
「そんなことないでしょう。演奏は結構良かったですよ。俺は詳しくないので、上手く言えないですけど」
「ありがとうございます」
「お世辞じゃないですよ」
 もそもそと言い訳じみた言葉になってしまったのは、どうしてなんだろう。
 ヤバイと思い始めていたのも事実だ。
 これ以上向かい合っていると、妙な気を起こさないとも限らない。そんな警告が頭の中で響くのに、なぜか無視して他愛もない世間話に興じていた。
 どんな話にも楽しそうに応じてくれる様子が嬉しくて、はまり始めている自分に気付いた。
 まずい。俺はすっかりその気になっている。
 時間だと小林さんが立ち上がる頃には、どうやって引き止めようか考えていて、帰りがバスだという発言に飛び付いた。
「それなら駅まで、車で送って行きますよ」
 なるべく軽く提案するのに、どれだけの努力を必要としたのだろうか。咽喉の奥がすっかり乾いているのを自覚した。