トッカータ

 二週間後の土曜日。俺は小林さんとの待ち合わせ場所へと急いでいた。
 発表会の後、しっかり写真撮影には間に合った甲谷先輩が、奥さんと奈々ちゃんを連れて帰ってくれた。発表会のご褒美としてファミリーレストランに行くから、一緒に来ないかと誘われたが、曖昧な返事で断ってしまった。
 それからいそいそと小林さんを駅まで送り、そのお礼にと今日、食事に誘われたのだ。
 普通、駅まで送ったぐらいで食事に誘うだろうか。いや、誘わない。
 つまり小林さんも、俺を憎からず思っているというわけだ。
 待ち合わせはこの前送って行った駅のロータリー。
 俺が車で行って、小林さんが電車でやってくる事になっている。行き先は小林さんが決めてあるそうで、楽しみだ。俺がこの辺りで知っている店といえば、定食屋と飲み屋ぐらいなのだ。
 駅前には送迎用の駐車スペースがあるので、都合が良い。約束の時間の十分ほど前に、小林さんが駅から出てくる姿が見えた。
 ……ってあれ、本物?
 いや、本物だよな。
 多分、本物だ。
 本物っていう表現は間違っているが、そう言いたくなるほどこの前と印象が違っていた。
 顔も、あの控えめな感じも同じなのに、驚くほど洗練されたイメージをまとっているのだ。
 七三だった髪型は、すっきりとした印象に変わっていた。伸び気味だったサイドは、軽く見えるようにカットされている。柔らかくあげられた前髪は清潔感を与える。この前のダサい眼鏡は外されていた。
 オーソドックスといえば聞こえが良い、大量生産の吊るしにしか見えなかったスーツを、今度は自然に着こなしている。安っぽいイメージはまるでない。背筋はしゃんと伸び、スーツは誂えのように彼のスタイルの良さを際立たせていた。
 そうだ。
 この前は高い身長が小林さんを、余計にどんくさい男に見せていたのだ。それが今日はすらっとした好青年へと、印象が摺り替わっている。
 ヤバイって。
 どう考えたってヤバイよ。
 好みど真ん中じゃないか。
 前回はあのもさっとした感じがありながらも好印象だったんだぞ。かなりおいしそう、とか思ったんだ。
 それが外見まで好印象だったら、中身だってずっとその……。
 ずっと良く見えてしまうじゃないか。
 口元に力を入れて平静を保とうとしても、にやけてしまう。
 小林さんがきょろきょろと辺りを見回し、俺の車を見付けて笑顔を作る。それをバカみたいにはしゃいだ気持ちで見ていた。
 ガキじゃないんだから。
 大体ノン気だろ、あの人は。
 もしその気があるなら、発表会の日にもっとはっきり誘っているよな。俺が車に誘ったときも、やけにあっさり乗って来たし。もし気があるなら、それなりの合図を送ってくるもんな。
 はあ。なにやってんだろう、俺。
「すみません。お待たせしましたね」
 小林さんが、笑顔で窓から覗き込む。微かに漂う柑橘系の香りは、整髪料だろうか。柔らかく甘い匂いは、小林さんに良く似合っている。
「あの、何か変ですか?」
 近くで見ると、余計に先日との印象の違いが際立つ。それに気を取られて返事が遅れたのを、不審に感じたんだろう。小林さんの問い掛けに、俺は慌てて笑みを作った。
「全然変じゃないですよ。それどころかすごく……素敵です」
 声に感情を込め過ぎないようにして答える。小林さんは照れ臭そうに微笑んだ。
「仲尾さんのようにハンサムな方に言われると、照れてしまいますね。美容院に行った甲斐がありました。この前、仲尾さんの髪がとてもさらさらして見えて、良いなって思ったものですから。結局、上手く注文が出来なくて美容師の方にお任せしてしまいましたんですけれどね。……でも」
 そこで仲尾さんは、話しながら伏せた顔を改めて上げ、俺を見た。
「でも私なんて、素敵と言われるには値しないですよ」
「いいえ、今日はとても決まっていますよ。眼鏡はどうしたんですか?」
「あれは楽譜を見るために掛けていただけで、普段は使いません。眼鏡は仕事中と運転中だけ掛けます」
「掛けないほうがずっと良いですよ。さあ、乗って下さい。ここはあまり長く停められないですから」
 促すと小林さんは慌てて乗り込み、発表会が行なわれた文化会館方向に進むように言った。
 丁寧な道案内で辿り付いた店は、こじんまりした料理屋だった。
 ここならリーズナブルに食べられそうだ。店の前に出された黒板には、季節のメニューがずらりと書かれていた。
「仲尾さんのお気に召すと良いのですが。色々考えたのですけれど、どんなものがお好きか分からなくて。無難な店を選んでしまいました」
 俺の反応を覗うように、小林さんがこちらを見る。
 肩の凝らない店は嬉しいし、ファミリーレストランのような騒々しさがないのも良い。笑顔で満足だということを伝えると、小林さんは嬉しそうに店の戸を開けた。
「あら、弘和さん。こんにちは」
 明るい声をかけてきたのは、エプロン姿の女性。若奥さん風の薄化粧に、健康的な笑顔が印象的だ。どこかで見た事があるような気がするけれど、誰だっけ?
 こういう女性に、男は弱かったりするんだよな。そう考えて小林さんの様子を窺うと、柔らかい表情をしている。
 小林さんも当然男だもんな、仕方ないのは分かっているが、なんだかムカツク。今日の約束はそっちから言い出したくせに、店員に愛想を振るなよ。
 デートじゃないんだから、こんなことを考えても仕方ないけど。
 奥の座敷に通され、お任せで運ばれて来る料理に舌鼓を打った。気取った料理は一つもなく、家庭料理の延長線のようなメニューだ。しかし、味はどれも家庭料理とは比較にならないほど繊細で、美味しい。
 先程応対した女性が若女将で、調理場に立っているのが大女将だと、小林さんが笑って説明してくれた。母子二人と、アルバイトで数人で経営している料理屋なのだそうだ。
「ピアノの先生の、お母さんと妹さんなんですよ」
 そう言われて見てみれば、面差しが似ている気がする。どこかで見たような気がしたのは、そのせいだったか。
「会社の人間と、時々来るんですよ。会社は遠いのですが、この店の開業のお世話をした関係で、縁がありまして。食事も美味しいし、雰囲気も良いですよね」
 そう言ってから、小林さんは曖昧な表情で微笑んだ。
「ピアノも……。その、上司に何か趣味を持つべきだと勧められたんです。それがたまたまこちらのお嬢さんが教室を開いていて。不思議な偶然ですよね」
 小林さんの口調は、奥歯に物が挟まったようだ。
 不思議と言うほどではないだろう。ピアノ教室はここから程近い。近所なのだから、なにがしかの関係があってもおかしくはない。
 むしろ不思議なのは、会社から遠い教室に通っていることの方だ。家が近いのかな。
「小林さんは、この近くに住んでいるんですか?」
「いいえ、違います。近かったら、良かったのですが」
 最寄駅を聞き出してみると、ここからは電車で五つほど先の駅だ。ピアノ教室なんていくらでもあるだろうに、なんだってこんなところまで通っているんだろう。
 優しそうだったけれど、特別上手い先生という感じはしなかった。それとも大人向けのレッスンがある教室って、少ないのかな。
「わざわざこんなところまで通うなんて、大変ですね」
 そう言うと、小林さんは少し困ったような顔をした。
「私も、そう思います」
 そう思うって……。
 なら、教室を変えれば良いじゃないか。大体、もっと大きな駅に行ったほうが、ピアノ教室は遅い時間まで開いているだろう。会社員には、その方が良いんじゃないかな。
 そういえばさっき、会社がどうとか言っていたような
「小林さん。あのピアノ教室は、会社の人の紹介で入ったんですか? だから遠くまで……」
「ええ、そうです。私は元々あまり音楽には興味がなかったのですが、強く勧められまして。だから上手くならないんでしょうね」
 照れたような笑みを浮かべる。
「これから、どんどん上手くなるんじゃないですか? まだ始めたばかりなんですよね」
 そうは言いつつもあの調子では、上達への道のりは険しいだろうと思う。俺に音楽のセンスはないけれど、妹が習っていたからなんとなく分かる。
 うまくなりそうだと思った子は、翌年にはやはり目に見えて上達していた。
「そう思われますか? 仲尾さんに言って頂けると、嬉しいですね」
 本当に嬉しそうに微笑まれて、胸が痛む。ほんの社交辞令だったのに、ひどいことを言ってしまったような気がした。
「社会人でも、バイエルとか、そういった教則本で進めていくんですか?」
「いいえ。ほんの入門だけ習ったら、あとは自由に曲を選んで進めていくのが、私の通っている教室では普通です。最初は分かりやすい曲ですね。『聖者の行進』『シェルブールの雨傘』『デイ・ドリーム・ビリーバー』等です。上達してくるとビートルズが人気だそうですよ。私は先生に任せ切りなので、楽典が多いのですが」
「自分で選べば良いのに」
 ほんの思い付きが口をついて出たのだが、小林さんは驚いたようにこちらを見た。
「なんて、仰いましたか?」
「自分で選んだ方が、楽しく学べるんじゃないですか? 押し付けられた……じゃなくて、選んでもらったものだけやっていても、熱心にはなれないでしょう。一生懸命に知らない曲を練習するより、自分で選んだ曲をやる方が、ずっと面白いと思いますけれど」
 小林さんは、前回の発表会の少し前に習い始めたと言っていた。その言葉を信じるなら、ピアノ歴一年ということになる。発表会は、年に一回だから。
 そのわりにあまく上手くないのは、これが原因じゃないのか?
「そう……ですね。仲尾さんの言う通りだと思います。私も自分で選ばないといけませんね」
「どうか、しましたか?」
 小林さんの言葉が、あまりにも重く響いてどきりとした。
 ただ練習曲を選ぶというのではなく、もっと違う決断が含まれているような……。
「さあ、これが一番の私のお奨めなんですよ。食べて下さい」
 どうやらこれが〆らしい。甘く煮た梅を頬張る。梅がたっぷりと含んだ汁が、口一杯に広がった。
 爽やかな香りに目を細めると、小林さんが嬉しそうにしているのが見えた。
「ねえ、美味しいでしょう。この店で漬けた梅酒の梅を、煮たものなのだそうですよ。私が好きなので、いつも出してくれるのです。お酒はあまり得意ではないのですが、これだけは本当に目がなくて。これを食べたあとに、若女将が淹れてくれるお茶がまた美味しいんですよ」
「はいはい。弘和さんがそう仰ると思っていました。どうぞ」
 若女将がタイミングよくお茶を運んで来る。気が行き届いているのか、それとも小林さんがそれだけこの店に馴染んでいるのか。はたまた、若女将と親しいのか。
 考えると、清々しいはずの梅の味が、急に苦く、酸っぱいものに変わってしまった。
「仲尾さんは奈々ちゃんのお父さんと、同じ会社にお勤めですよね」
「そうですよ。どうしたんですか、いきなり」
「いえ……。その、奈々ちゃんがよくお父さんの話をするものですから。どんな方なのかな、と思いまして」
「威勢の良い人ですよ。俺と同じ営業職なんです。強気の営業をしかける人で、甲谷先輩になら任せたいって、根強い人気があるんです」
「そうですか。立ち入った事を伺って失礼とは思いますが、仲尾さんは甲谷さんとかなり親しいんですよね」
「俺は、甲谷先輩から仕事を教わりましたから。この前も朝、電話で叩き起こされて、奈々ちゃんを発表会に送って行かされたんですよ」
 何を聞き出そうとしているんだろう。ろくにこちらを見ない質問攻めは、気にするなと言うほうが無理だ。
「奈々ちゃんのお母さんとは、どうなんですか? 仲尾さんは良く会われますか?」
「会うことは会いますけれど、話はあまりしませんね。甲谷先輩の家に遊びに行っても、奈々ちゃんと遊ぶ時間が長いですから。奈々ちゃんには、かなり気に入られていたんですよ。もちろん最近は、優しい小林さんにご執心ですから、俺はすっかり形無しですけれどね」
「いえ、やはり『なかお兄ちゃん』が優勢だと思いますよ」
 答えた小林さんは笑顔で、しっかりと俺の目を見て話していた。
 先程の態度とは打って変わって、にこやかに世間話を始める。小林さんの話題は豊富で、話していて飽きることはない。発表会の時のおどおどした態度は、見間違えだったかと思うほどだ。
 料理屋を出て手近な喫茶店に入っても、それは続いた。
 初対面の時と印象はまるで違ったけれど、俺はやはりこの人が好きだと思った。
 面食いを自認する俺が、ダサい外見だと思ってたのに惹かれたんだからさ。これだけカッコよく決めてこられたら、落ちないわけにいかないじゃないか。
 どこが良いんだろうって考えてみる。
 発表会の日と、今日と。どちらも変わらず光って見えるのは?
 一生懸命さかな。不器用に見える一生懸命さ。
 あの日は、少し肩の力を抜けば良いのにって思った。自分だけでも手一杯なのに、奈々ちゃんや他の皆のために働く姿を好もしく感じた。
 今日だってそうだ。お礼なんて不要なのに、一生懸命考えて店を選んでくれた。ラフな服装で良いのに、気負ったスーツ姿で。
 今だって、俺を楽しませようと気を遣いながら話してくれているのが分かる。
 少しくすぐったいような気遣いが、不思議と心地良いんだ。
 小林さんだって、俺のことをまんざらでもないんだろう。そうでなければ今日の食事も誘ったりはしないし、これほど真剣には応対してくれないはずだ。
「仲尾さんは、ピアノではどんな曲が好きなんですか?」
「詳しくはないんですよ、本当に。妹が習っていたから、聞く機会は結構ありましたけれど」
「難しく考えないで下さい。大体で良いんです。私は全くわからないものですから」
「シューマンの、トッカータ」
 ふと口をついて出た曲名だった。好きな曲だが、とても小林さんの手に負えるものではない。挑戦するだけ無茶だ。
「簡単なのですよね。『茶色の小瓶』とか、『グリーンスリーブス』とか、民謡はどうですか? 『茶色の小瓶』のピアノバージョンは一度聞いたことがあるんですけれど、、かわいい曲ですよ。それとも有名どころで『子犬のワルツ』とか、『エリーゼのために』とか。駄目だな。どれも平凡ですね。いわゆる歌謡曲はメロディーラインがしっかりしているから、たどたどしく弾いても聴き取れて、楽しいんじゃないですか。上手くなれば歌いながら弾けるし、他の人が聴いてもすぐ分かるし」
 俺は思いつく限りの曲名を並べたてた。
「詳しくないなんて仰って、よくご存知じゃないですか」
「そうでもないですよ」
 謙遜するが、ちょっと良い気分だ。小林さんは本当に感心しているかのような表情を浮かべている。
「小林さんも、早く弾きたい曲が出てくると良いですね。楽典ばかりやることになったらつまらないですよ。そうだ。ビートルズだったら、幾つも知っているんでしょう? 『イマジン』とか、『レット・イット・ビー』とか……」
「『イマジン』はビートルズではありません。ジョン・レノンですよ」
 いたずらっぽく笑った小林さんの表情に、どきりとする。
 ヤバイな。些細な表情に心を動かすようになったら重症だ。もうマジになっているんだろうか。自分に何度問い掛けても、「イエス」という答えが返って来るだけだ。
 街で知り合ったのならともかく、会社の先輩の知り合いだぞ。しかも、俺の住むアパートから遠くないピアノ教室に通っている。
 会社関係で、地元の人だなんて、迂闊に動ける相手じゃない。どちらか片一方でも頭が痛いのに。
 ゲイだって分かっているならアタックもするが、この人はノン気だろう。恋愛に繋がる空気がまるっきりない。
 これで俺の気持ちがバレて、噂にでもなったらどうするんだよ。
 自らに言い聞かせても、動き始めた感情は止まらなくて。
 俺はこの人を好きになったのだということを、自覚させられた。