トッカータ

「お疲れ様でしたっ!」
 今日ばかりは、と早々に仕事を切り上げ、タイムカードを押した。とっくに定時は過ぎているけれど、残業が普通の職場だから仕方ない。六時半というのは、かなりの善戦だろう。昼休みもとらずに頑張った甲斐があった。
 発表会から三ヶ月。
 毎週金曜日は、小林さんとのデートを重ねている。
 もちろんデートと言っても、恐ろしく慎重なものだ。
 まずはお友達から、とよく言うが、今回ばかりは「知り合い」から始めたと言っても良いほどだ。
 気の利いた言葉を浴びせることも出来ず、バカ正直に食事だけをしている。
 居酒屋にすら誘えないって、どういうことだよ、俺。
 酒を勧めることが下心に繋がっているようで、上手く言い出せないでいるのだ。小林さんは酒はあまり得意じゃないって言っていたしな。
「おう、仲尾。早いじゃないか。デートか?」
 営業先から会社に戻ってきた甲谷先輩の声が、車に乗りこもうとした俺の背に掛けられた。
「そんなんじゃないですよ。男との約束です」
 声が浮かれているのは、見逃してもらえるだろう。この為に全力で仕事を終えたんだから。
「あん? 色気のないヤツだなぁ。お前ぐらいご面相が良ければ、女なんて引っ掛け放題だろうに」
「ハハ。奈々ちゃんが結婚してくれるんじゃなかったんですか?」
「大切な奈々を、お前なんかにやれるかよ。あ、そう言えば仲尾。最近よく小林さんって人に会ってるのか? ピアノ教室に通っている背の高い男だよ」
「え?」
 なんでそこで小林さんの名前が出てくる?
 発表会の時、甲谷先輩と小林さんはほとんど顔を合わせていない。
 それに奈々ちゃんがピアノ教室に行く時間は、甲谷先輩は仕事をしている。送り迎えはしていない。
 接点はないはずなのに……。
 あれ? 小林さんと奈々ちゃんの接点って考えたことがなかったけれど、どこにある?
 小林さんのレッスンは夜だけど、奈々ちゃんは遅くても夕方だよな。小学生なんだから。
 同じ教室だからって言っても、会うことなんてほとんどないんじゃないのか?
 随分懐いていたから、会ったのは一度や二度ではないだろう。
「そんな驚いたような顔をするな。うちのかみさんが聞いて来いって言ってたんだよ。なんか妙に気にしていてな」
「今日も会いますけれど、怜子さんが何の用ですか?」
「なんだ。事務の連中が気にしていた、仲尾の『金曜の彼女』は男だったのか。春が来たかと思ったのになぁ」
「勝手に決めないで下さい」
 知らない所で、そんな話になってたのか。浮かれてるから、そう思われても仕方ないのかな。
「はいはい。不毛なデートを楽しんで来てくれよ。寂しいねぇ、花金に」
「言い方が古いですよ、甲谷先輩。それではお先に失礼します」
 いつまでも先輩の無駄話にかかずらってはいられない。急がないと、小林さんのレッスン時間が終わってしまうのだ。
 毎週地元に来るなら、と俺から誘った金曜デートに、遅れるわけにはいかない。ちょうど金曜日は仕事が早く終わる、なんて嘘を吐いてまで手に入れた時間なんだから。
 我ながらいじましいよな。
 車を飛ばしてピアノ教室に向かう。渋滞気味であることに、イライラする。
 ピアノ教室の前に車を停めた。すると二十分程で小林さんが出て来た。今日は少し遅いな。
「お疲れさ……」
 声が途中で詰まる。
 小林さんの後から、ピアノの先生が出てきたからだ。社会人なのに手を振って出迎えるなんて、子供じみていて恥ずかしい。しかも男同士だ。見られたくない。慌てて車内に戻った。
 窓から様子を窺う。
 二人はしばらく話していた。二人とも玄関灯の下にいるので、こちらからはよく見える。先生から何か懸命に頼んで、小林さんがそれを断わっている。そんな風に見える。
 先生の方はかなり必死だ。小林さんは頑と首を縦に振らない。それに、なんだか辛そうに見える。
 なんだか、小林さんらしくないな。ひどく険しい表情だ。
 それにしても何を話しているんだろう。さっさと終わらないかな。
 そんなことを考えていたとき、先生がちらちらとこちらを見ていることに気付いた。暗いし庭木越しだから、こちらの顔は分からないはずなんだけど。
 ひょっとして、ここに車を停めてるのを気にしているのかな。
 この道は駐停車禁止ではない。けれど、路駐がうるさい地区ってあるからな。今度から気をつけた方が良いかもしれない。近くに駐車場付きのコンビニがあったから、次回からはあそこで待ち合わせしようかな。
「お待たせしました。遅くなりまして申し訳ありません」
 車に乗り込んできた小林さんは、顔が強張っていた。いつも通り礼儀正しく柔らかい話し方をしているけれど、声も固い。
「俺は大して待ってませんよ。レッスンがずれこんだんですか? 大変ですね」
 先程のやりとりは見なかった振りで答えると、小林さんは小さく溜め息を吐いた。
「お待たせして本当にすみませんでした。遅くなりましたので、早く出ませんか?」
 言葉は丁寧だが、語気は強い。黙って従わなければならない気がして、慌ててキーを捻って発進した。
 ルームミラーに、玄関前に立っている先生が映る。結構きれいな人なんだよな。頭も良さそうだし。
 料理屋にいる妹の方が人当たりが良さそうだけど、別に愛想が悪いわけじゃない。子供に向ける笑顔は、本当に暖かかった。
 でも今は……。
 こちらを見る顔は憎々しげで、背筋が寒くなる。
 小林さんと、何かトラブっているんだろうか。すごく、嫌な感じの表情だ。
「すみません。どこか、静かに話せるところに行きませんか? 喫茶店や、ファミリーレストランではなくて」
 二人で会う時は、最初の日以外はずっと小さなレストランだった。駐車場付きのその店はコーヒーが美味しくて、食事もボリュームがあって旨いから、気に入っていたのだ。
 しかしテーブルとテーブルの間は狭く、厨房の活気も伝わってくる。店員も元気がよくて、賑やかな店だ。
 いくら近くに住んでいると言っても、俺の食事はコンビニ弁当が基本だ。食事が出来る店なんて、片手ほどしか知らない。近所の洋食屋は、味は保証付きだが客席が十席ぐらいしかないから落ち着けないし。
 これでファミリーレストランまで封じられては、手も足も出ない。
「この前行った料理屋はどうですか? あそこなら静かですよね」
「駄目です。あそこだけは絶対……」
 小林さんは声を荒げ、それから一つ咳払いをして言葉を続けた。
「あそこは、夜は騒がしいですから。地元の常連が多くて、皆さん顔なじみなので盛り上がるんですよ」
「そうですか」
 これは言い訳だろう。明らかに取り繕うような口調だ。
 先生とトラブっているから、その親の所になんて行きたくはないってところか。しかしそんな細かいことを気にするなんて、重症だなぁ。何があったんだろう。
 あと残っているのは、居酒屋の座敷席かな。そういえば、駅前に海の幸がウリの店があったっけ。
「居酒屋でも、良いですか?」
「構いませんよ。仲尾さんのお勧めでしたら」
 柔らかい声でそんな言い方をされたら、期待しちゃうじゃないか。
 ちょっと寂しげな口調で、低く響く声。
 くそぅ。ストライクゾーン、ど真ん中だよ。
 心の動揺を気取られないようにしながら、駅に向かって車を走らせた。もっとも、小林さんは前方を見据えたまま何か考え込んでいるようだ。俺がどんな顔をしていようが、気付かないと思うけれど。
 駅前のパーキングに車を突っ込んで居酒屋の座敷席を陣取ると、小林さんはようやく表情を和らげた。
「とりあえずビールで良いですかね。小林さんは何か食べたい物はありますか?」
「さっぱりした物がいいですね。ああ、〆鯖の翁和えなんてどうですか?」
「そうしたら、後は……」
 何品か見繕うと、異存がないようなので注文した。突き出しに箸をつけると、これが結構旨く、ビールが進む。
 いくらか険がなくなったものの、小林さんはやはり普段と違う。妙に明るかったり、ぼうっとしたり。
 何があったのか聞きたいけれど、それで不快にはさせたくない。惚れた弱みで、好奇心をぐっと押さえた。
 もう少し時間をかけて、リラックスしたところで聞くべきだ。
「少し、ピッチが早くないですか?」
 小林さんは頬も耳も赤くしている。酒が顔に出るタイプのようだ。あまり飲めないはずなのに、平気なのだろうか。
「大丈夫です。今日は、飲みたいんですから」
「でも、仕事は?」
 小林さんは、土曜も仕事をすることが多い。
「明日は休みです。ですからこうしてゆっくり仲尾さんと飲めるんですよ。一週間頑張って、仕事を片付けた甲斐がありました」
「俺も、そうです」
 思わず口走った言葉は真実で、だからこそしまったと臍を噛む。
 即答すべきではなかった。もう少し上手な返答で、小林さんの気持ちを探るべきだった。アルコールのせいで口が軽くなっているんだろうか。
 今日、早く帰るために、月曜から仕事を頑張ってきた。それは一方的な思いではなかった。小林さんもこの食事の為に、きちんと仕事を片付けてきたんだ。
 それが愛情ではなく、友情の成せる業でも、嬉しい。
 なんでこんなに純情になってんだよ、俺は。
「優しいですね、仲尾さんは」
 酔っている小林さんに、俺の言葉はどこまで届いたんだろうか。薄く微笑んで焼き鳥の串を掴む姿を、そっと窺う。
「私は、駄目です。誰にも優しくなれない。どうすればみんなが幸せになるか分かっているはずなのに、誰もが不幸になる道を選んでしまいました。我を通さずにはいられなかったのです。もう、後戻りは出来ないのです。何をしているんでしょう」
「それって、ピアノの先生と関わりのあることなんですか?」
 静かに問い掛けたが、返事はなかった。ただ、黙って何か考え込んでいる。
 嘘だろう?
 みんなが不幸になるって、なんだよ。
 小林さんがそんなことをするはずがない。そんな人じゃないんだ。
 何を言っている?
 やはりお互い、酔い過ぎているのだろうか?
「仲尾さんは、良い人ですね。それに比べて私は……」
 その先はなんと言おうとしたのだろうか。小林さんはかくりと首を落とし、頬杖をついたまま居眠りを始めてしまった。