トッカータ
7
| 翌朝、目覚めた時には太陽が高かった。時計を見れば昼近い。咽喉が乾いていることに気付き、体を起こした。 小林さんは、もう起きているだろうか? 隣の部屋に目をやると、姿が見えない。 「おはようございます」 挨拶をしても返事はなく、様子を見に行くと台所にメモ書きが置いてあった。 ――昨日はご迷惑をお掛けしました。お目覚めにならないので、失礼とは思いましたが挨拶をせずに帰ります。無用心になってはと思い、勝手に鍵をお借りしました。新聞受けに入れて置きます。 ドアに造り付けの新聞受けには、確かに俺の鍵が入っていた。シンク脇にいつも置いているので、それを見付けて使ったんだろう。 チェッ。今日も一緒だと思ったのに、帰ったのか。仕事はないって言ってたじゃないか。急いで帰らなくても良いだろう。 俺の気持ちを勘付かれたか? キスをした時熟睡していると思ったのに、実は起きていたとか。それで襲われてはかなわないと……。 そんなことがあるわけないか。熟睡どころか、泥酔してたもんな。 小林さんが帰ったなら、寝直すか。 携帯電話に小林さんからのメールが届いていないことを確認して、ベッドに戻ろうと思ったときだ。 電子音が響いた。携帯電話が鳴っている。 小林さんか? いや、番号は非通知だ。 「はい、仲尾です」 仕事にも使っている電話なので、慎重に出た。 「よお、起きてたか?」 電話の主は、甲谷先輩だ。なんでこんな時に掛けて来るかなぁ、この人は。非通知ってことは、家からだよな。 「うどんをもらったから、取りに来ないか? 冷凍で汁付きだぞ」 甲谷先輩の弟さんは食品開発の仕事をしているとかで、ときおり大量に食料品を貰う。その中で簡単に食べられるものだけ分けてもらうのだが、これを食べきるのが結構面倒なのだ。 コンビニで買って来た方が楽だしね。 しかしその心遣いが嬉しいので断われず、土日など時間があるときは、なるべく活用させてもらっている。 「いただきます。月曜に会社でくれるんですか? それとも、今から?」 「取りに来いよ。俺もかみさんも疲れてんだけど、奈々が遊びに連れて行けってうるさいんだ。お前が来て遊んでくれると助かる」 「OKです。交換条件ですね。今から行きま……」 そこまで喋って、車は駅前に置きっぱなしになっていることを思い出した。ここからだと歩いて十分ほどかかる。酒臭いからシャワーも浴びたいし。 「すみません。まだメシ食ってないし野暮用もあるんで、一時間後に行っても良いですか?」 「おう、待ってるぞ。昼飯ならうちが用意するから、食べないで来いよ」 携帯電話を切って、ベッドの上に放り出す。 このまま昨日の小林さんとのやりとりを思い出してあれやこれやと考え込むよりは、奈々ちゃんと遊んで騒いだ方が健康的だ。 久しぶりに、ケーキでも買って行ってやるかな。気晴らしには、子供の相手は持って来いだ。 小林さんとの出会いの原因を作ったのが奈々ちゃんだったというのが、難点だけどな。小林さんのことを完全に忘れてはしゃぐことが、出来ない。 手早く支度をしてアパートを出た。シャワーを浴びて体はさっぱりしたのに、気持ちは晴れない。 清々しい外の空気も、心の曇りを吹き飛ばすには至らない。 昨日の小林さんの様子はおかしかった。ピアノ教室でトラブったぐらいで、あれほど落ち込むだろうか。 みんなが不幸になるって、一体どういうことなんだよ。 あの優しい小林さんが、みんなを不幸せにするわけがないじゃないか。俺は、そう信じる。 寝坊さえしなければ、今日話を聞けたのにな。いや、聞けたかどうかは……。 尋ねても、困った顔をされたら何も言えなくなってしまうのは分かっている。詰問なんて出来やしない。 「結局腑抜けだよなぁ、俺も」 道すがら土産のケーキを買って甲谷先輩の家に辿り着いた時には、約束の時間から三十分ほど過ぎていた。 駅までとぼとぼ歩いていたのがいけなかったか。甲谷先輩は、時間にうるさいっていうのにな。 「なかお兄ちゃん、いらっしゃい」 玄関脇で遊んでいた奈々ちゃんが、かわいらしい挨拶をする。 「こんにちは。お父さんに呼ばれて遊びに来たよ」 「変ね。ママが呼んだんじゃないの?」 「え? 奈々ちゃんの勘違いじゃないの? 奈々ちゃんのママが、俺を呼ぶわけがないよ」 俺はあんまり好かれていないんだから。心の中で呟いて、笑顔を作る。 「そんなことないわよぉ。だってママがなかお兄ちゃんに会いたいって、ずっと言ってたんだから」 「ずっと? だって、発表会で会ったよね。ああ、あの日送って行ったお礼が言いたいのかな。せっかくのご飯のお誘いを、断わっちゃったからね」 「違うわよ、なかお兄ちゃん。全然分かってない。ママはね、小林さんの事を聞きたいのよ」 「小林さんの、事?」 問い掛けたとき、玄関から物音がした。 「よう、仲尾。遅かったな」 「すみません。せっかく呼んで頂いたのに。これ、お土産です」 怒られる前に、とケーキを差し出すと、甲谷先輩はにやりと笑った。 「ほう、随分張り込んだじゃないか。臨時ボーナスでもあったのか?」 「同じ会社で、そんなのあるわけないって事は、分かりきってるじゃないですか」 「まあな。さあ、入れよ。かみさんが昼飯を用意して待っているから。奈々だってお前が来るのを待って、まだ食ってないんだぞ」 「そうよ、奈々もちゃんと待ってたんだからね」 「ごめんね、遅くなって」 「さあ、入った入った」 言葉通り、居間に入ってすぐに昼食が出された。門の所で話していた声を聞いて、準備してくれたのだろう。 怜子さんの料理は美味しいし、家庭料理は久しぶりなので、本当にありがたい。ありがたいんだけど……。小林さんの事を聞きたいって、どういうことだろう? まさか、怜子さんが小林さんに気があるなんてことはないよな。 甲谷先輩と怜子さんはかなり仲の良い夫婦だ。それに浮気をしたいなら、甲谷先輩に報告しかねない俺に聞くわけがないよな。ピアノ教室の仲間にでも尋ねた方が早いはずだ。 怜子さんは俺と小林さんが会っていることを知っていると、昨夜、甲谷先輩が言っていたよな。このことと関係があるのか? 昼食は何事もなく過ぎ、手土産のケーキでおやつを食べた。いつ話が振られるかと、ドキドキしながら待っているっていうのに。 そして夕方になった。遊び疲れた奈々ちゃんを寝かし付けに甲谷先輩が二階に上がった時、怜子さんがさり気なく俺のそばにやって来た。 「最近、小林さんと仲が良いんですって?」 ほら、来た。一体どんな話になるのやら。 「ええ。発表会以来うまがあって、よく遊んでいます」 「でもね、お二人ともそれなりの年よね。そろそろ考えることがあるでしょう?」 考えること、ねぇ。こういう口調で言われた時、行き付く先は決まっている。『結婚』だ。 ケッ、冗談だろう? 小林さんのことで悩んでいる最中だっていうのにっ! この話題には慣れている。上手くかわさなくては。 「小林さんも、少し前までは順調にお話が進んでいたのよ。発表会の少し前まではね」 何を言いたいんだ? 発表会の少し前、か。 練習が忙しくなって、小林さんが女と会わなくなったのが、俺に関係あるのかよ。結婚なんて、しなくったって……。 え? 結婚? 小林さんにそんな彼女がいたっていうのか? そんなこと、一度も考えなかった。 信じられない。 そんな話は聞いたことがない。なんで話してくれなかったんだろうか。俺たちは、そこまでの仲ではなかったということか? 「それは仕方のない事だって、小林さんだって分かっているはずなの。それなのに拗ねて、仲尾さんを振り回しているなら、大人気ないと思わない?」 「振り回すって、そんな……」 小林さんが無理に誘ったことなんて、一度もない。俺の方が嬉しくて舞い上がっているくらいなのに それにしても、怜子さんの話は中身がよく見えないな。俺に小林さんと遊ぶなって言っているのは分かるんだけど。 「だから、仲尾さんから、何か言ってもらえないかと思って」 「俺から、彼女のところに戻るように伝えろと。そう言うんですか?」 何気ない振りを装おうとしても、頬が引き攣っているのが分かった。まずい、なんとか平静を保たないと……。 「その方が良いと、仲尾さんも思うでしょう? 本当に素敵な人なのよ。私もお友達だし。奈々だって、先生のことは大好きなの」 「先生? 先生って、ひょっとするとピアノの先生ですか?」 「あら、知らなかったの?」 じゃあ、昨日のあれは痴話喧嘩なのか? それで小林さんはあんなに荒れて、無茶な飲み方を……。 ピアノが好きじゃないのに習っていたのも、そのせいなのか? あんなに下手なのに、一生懸命発表会に出て、バカみたいじゃないか。彼女に良いところを見せたいから、頑張っていたっていうのか。 あの人らしい。 不器用ながらも、精一杯練習したんだろう。それであの程度なら、よっぽど才能がないんじゃないかな。やめちまえば良いのに。ピアノなんて。 「先生も発表会の準備で忙しくしていたから、小林さんにあまり時間が割けなかったのね。それでギクシャクしてしまって。最近はデートもあまりしていないらしいのよ」 「よく、ご存知ですね」 皮肉だったのに、怜子さんはにっこり笑う。 「お友達ですもの。年は少し離れているけれど、親しくさせてもらっているのよ。うちの人は帰りが遅いでしょう? 時々夕飯をご一緒して、お話するの。小林さんもレッスン後に、何度も一緒に食べに行ったのよ。だから奈々だってすっかり懐いていたし。それなのに、この前ピアノ教室の前で小林さんを待っている仲尾さんを見かけたのよ、私。それで先生に聞いたら、毎週金曜日、仲尾さんが小林さんを迎えに来ているっていうじゃない。驚いたわ」 驚くのはこっちだ。 それにしても、見掛けたならそのとき声をかけて欲しい。こんな状況で言われても、言い訳一つ思い浮ばないじゃないか。頭の中は、小林さんに彼女がいたと知ったことでいっぱいだ。 「ピアノのレッスンが終わった後、小林さんと先生がデートすることもあったのよ。そこに割って入るなんて、無粋なことしてるのよ仲尾さん」 そこで怜子さんは、声を潜めた。 「人の恋路を邪魔するものは、馬に蹴られてなんとやらって、いうでしょう?」 いたずらっぽく笑い、怜子さんは立ちあがった ショックで、むしろ蹴られたいぐらいの心境だ。 以前怜子さんが言っていた、年の離れた結婚の近い友人というのは、ピアノの先生のことだったのか。 「さあ、お茶でもいれ直しましょうか」 「おーい、奈々を寝かせてきたぞ。タオルケットを掛けて来たけど、あれじゃあちょっと寒いかな」 甲谷先輩が、二階から戻って来た。 「今日の陽気なら、大丈夫よ。今お茶をいれているから、少し待ってね」 台所から、怜子さんの声。俺に言いたい事は、あれで終わったんだろうか? 「どうした、仲尾。変な顔をして」 「ちょっと……」 言い淀んだ俺の言葉に、怜子さんの声が重なる。 「仲尾さんがね、先生と小林さんの仲を取り持って下さるんですって。素敵でしょう?」 「ああ、あの二人か。小林さんが結婚したら奈々が悲しむだろうけど、まだ仲尾がいるもんなぁ」 「あら、幼稚園にもタッ君っていうボーイフレンドがいるのよ」 「なんだ、あいつはモテモテだなぁ」 甲谷先輩が笑う。すっかり一家団欒の会話じゃないか。 「小林さんと先生って、付き合って長いんですか?」 俺が尋ねると、怜子さんが首を傾げてから言った。 「一年くらいじゃないかしら? お見合いらしいわよ。なんでも小林さんの上司の方が、先生のお母さんの知り合いとかで」 「お母さんってことは、料理屋さんの……」 「あら、よくご存知ね。上司の方がそこの常連で、小林さんにお見合いってことを内緒でピアノを勧めたんですって。後でそれがお見合だとわかって、随分ビックリしたそうよ」 怜子さんがくすくすと笑う。 そんな出会いをセッティングされたら、普通はビックリするだろう。 確かにこういう古いタイプのお見合いって存在するけどさ。今時やる人がいるとはなぁ。しょせんこの辺りも田舎か。 「随分強引な上司ですね。小林さんもそれに従ってピアノを始めるなんて、気が弱いな」 この状況に文句の一つも言いたいが言えない。せめてもの八つ当りだった。 小林さんも、そんなわけのわからない見合いに付き会うことはないじゃないか。いくら上司だからってさ。 「なんでも、その上司の方が先生のことをすごく気に入ったんですって。それで、ぜひ小林さんと結婚させたいって思ったそうよ。本当に素敵な先生なんですもの」 満足そうな怜子さんの声に、俺は抵抗する気にもなれなかった。生返事をすると、怜子さんが俺の手を掴んだ。 「ねえ、仲尾さん。お願いね。先生と小林さんのためだから、ちゃんと先生の事情を話してあげて。小林さんだって、分かっているのに拗ねているだけなのよ」 嫌な役目だ。 でも、誰か他の人がやるよりは良いのかもしれない。 俺の口からはっきり伝えることで、きっちりケリが付けられる。 恋人のいる人を好きになってしまった、この気持ちはきっちりと切り捨てなければならない。 俺の言葉で恋人の元に戻るなら、知らぬ間に縒りが戻るよりも、ずっと諦めがつく。 まさか、結婚を前提に付き合っている彼女がいるなんて、考えもしなかった。 でも昨日のが痴話喧嘩なら、みんなを不幸にするというのは、どういう意味だったんだろう。二人が別れることで、先生のお母さんや上司を悲しませるから? いや、それだけの意味とは思えない。もう少し深い理由があっての発言のような気がする。 あれは、俺に何かを伝えようとしていたのではないだろうか。ピアノ教室にも同じ会社にも属していない俺にこそ、聞いてもらいたかったのかもしれない。 「分かりました。なんだったら、これから連絡してみますよ。ちょっとした用がありますし」 「なんだ、今日会う約束でもしていたのか?」 甲谷先輩が意外そうな顔をした。電話一本で遊びに来た以上、今日の予定はないと思っていたのだろう。 「ほんのちょっとした用です。でも、今の話は早い方が良いんでしょう?」 二人に簡単な挨拶をすると、俺は甲谷先輩の家を出た。 急いで小林さんに会いたかったわけじゃない。一人で気持ちを落ち着けたかったのだ。 発表会の日から数えて、まだ二ヶ月だ。二ヶ月でこれだけ好きになった人を忘れるのに、どれだけかかるんだろうか。 不毛だよな。 最初から好きになってはいけないって、分かっていたのに。どうしてこんなに長く付き合ってしまったんだろう。 お礼なんかいらないと言って、二人で食事なんてしなければ良かった。あのまま二度と会わなければ、こんなに好きになることはなかったのに。 車で帰宅し、しばらく寝転んで考えていた。 なんと言って、電話を掛ければ良いのだろうか。 色々考えたが、結局当り触りのない用件しか思い浮ばなかった。 何時頃なら電話をしても良いだろうか。考えても分かるはずがなく、外が暗くなってきた頃、思い切って携帯電話を手に取った。 呼び出し音が聞こえてきて、息を飲む。 一回、二回、三回。 十回鳴った所で、電話を切る。手が離せない用事があるのだろうか。それとも、俺からの電話に出る気にならないのか。 それから一時間置きに電話を続けたが、夜の十時を過ぎても、小林さんは電話に出なかった。 気を張り詰めたまま電話に集中していた俺はすっかり疲れてしまい、いつのまにか眠り込んでしまった。 |