トッカータ

 いきなり鳴り出した携帯電話の音に、飛び起きた。
 あまりに大きな音で驚いたが、枕元に置いてあったのだから当たり前だ。
「は、はい。甲谷です」
 寝惚け声で答えると、電話口からは低い声が響いた。
「お休みの日に、朝から失礼します。小林です」
 ああ、そうだった。昨日何度も電話をかけて、そのまま眠ってしまったんだっけ。
「いえ、とんでもないです。俺の方こそ何度も電話を掛けちゃって、昨日はすみませんでした」
 慌てるあまり、ベッドの上に正座をしてしまった。電話で姿は見えないのに。
「何度もお手間を取らせて、申し訳ありませんでした。電話に出られる状態ではなくて、ご迷惑をお掛けしましたね。何か、急ぎのご用でしたでしょうか?」
 いつも通り丁寧な話し方だけれど、どこかが変だ。声に力がないし、がさついた響きだ。
 ピアノの先生と、大ゲンカでもしたんだろうか。
「一昨日はかなり酔ってたから、体調の方はどうかと思って。それを聞きたくて電話していたんですけれど、なんか大丈夫じゃないみたいですね」
 意識せずに、語尾は声を潜めてしまった。
 当てこするような口調が、我ながら嫌らしい。しかもしれっと嘘吐いてるしな、俺。
「心配させてしまってすみません。昨日はきちんと挨拶もせずに帰ってしまいましたし」
「気にしないで下さい。俺が寝坊したのが悪いんですから。それにしても、凄いですね。あんなに飲んでいたのに、ちゃんと朝起きられるなんて。性格の差ですかね、俺と小林さんの」
「そんなことはないでしょう。私は、起きなければならないと思っていただけですから。仲尾さんは昨日、仕事はお休みだったんですよね」
「あれ? 小林さんも休みだったんですよね。だからうちに泊まっても大丈夫だって、言ってませんでしたか?」
「仕事はなかったのですが……」
 空々しい会話だ。お互いが、お互いの出方を見ている。
 ……ということは、小林さんも用があって電話をしてきているのか?
 怜子さんからの依頼を、既に知っているのかもしれない。それとも全く別の用件か?
 ただの茶飲み友達に、何の用がある?
 小林さんが話すチャンスを窺っているなら、こっちから仕掛ける手もあるわけだ。
「ねえ、今日は空いてますか? 俺は何も用がなくって暇なんです。もし小林さんも時間があるようだったら、一緒に食事でもしませんか? 一昨日は飲んでばかりで、話なんてほとんど出来なかったし。ちょっと寂しかったかな、なんて思ったんですけど。忙しいですか?」
 今まで一度も口から出ることのなかった、流暢な誘いの言葉。手の届かない人と分かったら、怯えも緊張もなくなった。
 せめて、きれいに別れたいと思うだけだ。にっこり笑って、あの女に押し付けてやる。
 一昨夜、鏡越しに睨まれたのは、嫉妬だったのだ。女の勘ってヤツだろうか。相手が男だからって自分の勘を疑ったりしない。利口な女だったわけだ。
 感の鈍い、頭の悪いヤツには小林さんを譲りたくない。それくらい利発な人なら良いかな、とも思えてくる。
「仲尾さんが良かったら、お会いしたいです。ぜひ、今日のうちに」
 すがるような響きだ。
 大丈夫、俺が焦りさえしなければ、上手く話を纏められる。
「どこにしますか? 小林さんの都合のいい……」
「仲尾さんのお宅に、おじゃましてもいいですか?」
「え? 俺のアパートですか?」
 声が上ずってしまった。思いも寄らない展開だ。てっきり「静かに話せるところ」と言われると思ったのに。
 ここも、静かに話せる場所には違いないけれど。
「駄目ですよね。やはり」
「い、いえ、駄目じゃないです。全然駄目じゃないですけれど、俺の部屋って汚いですよ。良いんですか?」
 部屋の中をぐるりと見回す。忙しさにかまけて、最後に掃除機を掛けたのがいつだか思い出せない状況だ。
 ああ。ここに連れ込んで小林さんをどうこうしようって思ってなかったんだなぁ、本当に。
「昨日もお伺いしましたから」
 小林さんがくすりと笑う。
「あ、ああ。そうでしたね。良かったら、来て下さい」
「宜しければ、あと二十分ほどで伺います」
「はい、お待ちしています」
 電話を切った後で、俺は猛然と部屋を片付け始めた。
 五分ほど経った所で気付く。電話から二十分で着くってどういうことだ? 小林さんの家の最寄駅から俺が住んでいる駅まで、急行でも十五分はかかるぞ。
 一体どこから電話を掛けていた? 携帯電話だからどこからでも掛けられるけれど、なんとなく家にいる気がしていたんだ。
 二十分か。
 ピアノ教室からだと……。いや、あそこからだと車だったら二十分は掛からない。歩いたら、一時間近く掛かるだろう。
 考えたって無駄なんだけどさ。あと少しで来るわけだし。
 そうだ。もうすぐ来るんだから、早く片付けないと。せめて掃除機ぐらいは……。布団だって、全然干してないし。
 待てよ。俺が最後にベランダに出たのはいつだ?
 窓からベランダを覗く。
 うわっ。ゴミ袋が山積みで、足の踏み場もない。
 その前に着替えだよ。よれよれのトレーナー姿で出るわけにいかないじゃないか。いや、その前にシンクに放り込んだままのビールの空き缶を片付けて……。
 室内にチャイムが鳴り響いた時、俺は二十分とはかなり貴重な時間であることを知った。なんとか人目にさらせる程度には、きれいになったじゃないか。
「はい。どうぞ」
 玄関を開けると、そこに立っていた小林さんは、想像以上に憔悴していた。顔色は少し悪い程度だが、生気がない。それでも目だけはしっかりとしていて、そのアンバランスぶりが異常さを際立たせていた。
「突然おじゃまして申し訳ありません。でも、お会い出来てとても嬉しいです。早い内に、お話させて頂きたいと、思ってましたから」
 言葉は重く響き、雰囲気まで暗くなってくる。俺は意識して明るい声を出した。
「そんなことは言いっこなしですよ。それに今日会いたいって言ったのは、俺ですから。一昨日のことは、気にしないで下さいね。一緒に飲んでいた俺にも、責任はありますから。そのことを謝りたいって言うんなら、なしに……」
「違うんです。私は、私はそんなことを話しに来たんじゃ……」
 言い淀んだ小林さんは、何かをふっ切るように首を強く左右に振った。
「すみません。自分の感情ばかり優先していては、どうしようもないですね。上がらせて頂いて宜しいですか?」
「どうぞ」
 自分の感情?
 そんなの、いくらだってぶつけて構わないのに。俺がそうされたいと思っているんだから。
 彼女にも言えない思いを聞く事が出来たら、それは小林さんの中での特権階級だ。彼女よりも、小林さんのことを分かってあげられる存在。
 バカだな。これでは妻子持ちと不倫している女の、自己満足みたいじゃないか。
 大体、小林さんとはきっぱり別れるって、そう決めたはずなのに。
 俺と付き合っている時間を、彼女と過ごすために使って下さい。そう説得する事に、決めていたのに。
 顔を見ると、弱いんだよな。気持ちがぐらついているのを、ひしひしと感じる。
「お茶でも、淹れましょうか。確かだいぶ前に結婚式の引出物で貰ったやつがあるんですよ。あ、葬式の香典返しだったかな」
 笑ってくれると思ったのに、小林さんは沈痛な顔をして、ちゃぶ台の前に座っていた。
「嫌だな、どうしたんですか? そんな顔をしていたら、彼女に嫌われちゃいますよ」
 切り出すタイミングをうだうだ悩んでいるより、さっさとケリをつけてしまったほうが楽だ。そう思って、シンクから振り向きざまに告げた。
 笑顔で、明るく。
 印象よく、別れたいから。
「知って、いたんですか」
 小林さんは、ひどいショックを受けたような顔をしていた。動揺を隠し切れない目で、俺を見る。
「誰から? ああ、奈々ちゃんですか。ピアノ教室の方は、知っている人が多いようですし」
「奈々ちゃんではなく、奈々ちゃんのお母さんから聞きました。怜子さんって、会ったことありますよね」
「ええ。キレイな方ですね」
 小林さんの言葉は、どこか上の空に響いた。
「その怜子さんが心配していました。小林さんが、ちょっとした行き違いでピアノの先生と上手くいかなくなっているって。発表会の前に準備で急がしくって、先生に時間がなかったから。それで二人の仲にヒビが入ってしまったって」
「そんな事を仰っていたんですか。困ったものですね。私は、仲尾さんに格好悪いところばかりお見せしています」
「カッコ悪いって、一昨日のあれですか? あんなの会社の飲み会だったら、一人や二人出るじゃないですか。うちなんてとくに男だらけですから、ひどいもんですよ」
「いえ、それだけではないです。最初に会った日も、そうでしたね。私は、あの場所から逃げ出したかったのです。ピアノの演奏も心配でしたが、彼女は私を友人達に紹介するつもりでいたんです。私は気が進まなかった。ですから、本当に憂鬱だった。それなのに、仲尾さんは明るく応援して下さいました。仲尾さんに聞かせるために弾くつもりになれば、気持ちよく演奏出来ると思いました」
「そんなこと……」
 そんなことはない。
 最初に小林さんを見た時、俺はその緊張振りを面白がってさえいたのだ。励ましたのだって、条件反射のようなものだ。
「ありがたかったですよ、私は。あの日は、とても辛かったので」
「彼女の友達に会うぐらいで、大袈裟ですよ。それに発表会で緊張するなんて、みんな一緒なんじゃないですか? 小林さんは初めて演奏するってことだったし、特に緊張したのは分かりますけれど」
「そういえば仲尾さんは、私と先生のことを、どこまでご存知なのですか?」
 話題を逸らそうとしているんだろうか。気になったが、無理矢理話を戻すのも気が引けて、俺は質問に答えた。
「さっき聞いた話で、ほとんど全てですよ。あとは付き合い始めて一年ぐらいだってこと。以前連れて行ってもらった料理屋が縁だってこと。小林さんの上司が先生をすごく気に入って、その人の勧めでピアノ教室に通わされて、それがお見合いだったんですよね」
「そんなことまでご存知なんですか。仲尾さんは教室に通っているわけではないのに。情報網と言うのは、怖いですね」
「それは、俺に小林さんを説得して欲しくて、色々教えてくれたんですよ。誰彼構わず喋っているわけじゃないと思います」
 井戸端会議の格好のネタになっている可能性は高いが、ここは黙っていよう。
 怜子さんを庇うんじゃない。小林さんを傷付けたくはなかった。
「でも、一つ間違っていますよ。先程仰った言葉で、もしやとは思ったのですが」
 一瞬置いてから、小林さんは柔らかい声で言った。
「見合いをさせたのは、上司ではありません。私の父です。父が社長なのです」
 うっすら笑顔を作ってみせる。その表情から逆に、この言葉の重さが分かる。
 何を言おうとしている?
「私は一昨日、その縁談を断ってしまいました」
 悲壮な雰囲気が漂うのに、どこかさっぱりしたような表情だ。
「それじゃあ、あの日。帰り際に先生と揉めているよう見えたのは……」
「やはりご覧になっていたのですね。私が別れたいと伝えたら、彼女が考え直して欲しいと言いまして。私の方には全くその気はないので、お断りしました」
 だからあのとき、睨まれているように感じたのか。迎えに来た俺が、一枚噛んでいると思われても不思議はない。
 でも……違う。
「お父さんが持ってきた話なら、断わり難かったですよね。しかも一年お付き合いをしていたって聞いてます。周りも良いカップルだと思っていたようですし……。発表会の前に先生が会えなかったのは、準備で忙しかっただけなんですよ」
「分かってます」
 小林さんが声を荒げた。こんな事は初めてだったので、説得の声を詰まらせてしまった。
「そんなことぐらいは、分かっているんですよ、言われなくても。それに私達は、良いカップルではありませんでした。お互い、親が決めて付き合い始めたのです。最初は気を遣いあって、デートといってもただ会っているだけという状態でした。そのうち彼女の方は私に好意を寄せてくれたようでしたが、私は最後まで恋愛感情は持てませんでした。良い方だとは、分かっていたのですが」
 一気に捲くし立てた小林さんは、そこで一息ついた。お茶を一口飲み、今度はゆっくりと話し始める。
「私が悪かったという事は自覚しています。父の紹介の女性というだけで、構えてしまったのです。先程話しました通り、私は父の会社で働いています。一代で起こした小さな会社で、従業員も十数人です。私は高校生の頃にアルバイトとして入り、それからずっと従業員として働いています」
 ……という事は、次期社長か。そんなことを一瞬考えてしまったが、口に出せる雰囲気ではなかった。
「父はワンマン社長で、家でも絶対でした。ですから、私はずっと父の言うなりで生きてきました。ですから、彼女を紹介された時も、この人と結婚しなければならないのだと思いこんで、それ以上のことは何も考えなかったのです」
「そんな、恋愛は自由でしょう? 何も考えずに付き合っていたなんて……。先生に対して失礼じゃないですか。可哀想ですよ」
 好きでもないのに、一年間ただ付き合って来たなんて。俺がそんなこと言われたら、怒り狂うぞ。
 先生に対して、ものすごく失礼だ。俺は先生の気持ちを想像して、強い怒りを覚えた。
「ひどいことをしてしまったと、今では分かっています。だからきちんと別れてきました。昨日は一日中父の怒りが解けずに、話し合いに終始してしまいました」
 捲くし立てるように喋っていた小林さんの声が、急に寂しげなものに変わった。今まで興奮していたことが、良くわかる。
「すみません、そんな時に何度も電話を掛けてしまって……」
「いえ、嬉しかったですよ。応援してもらっているように思えました」
 応援するどころか、彼女と縒りを戻せと言いたくて、携帯電話を鳴らしていたのに。俺はどう答えて良いか分からず、曖昧に笑った。
「彼女と付き合っていても、ずっと違和感がありました。でもそれは、結婚すればなくなるものだと思っていたのです。私は誠実に、彼女に接して来たつもりでしたから」
「小林さんは真面目だから。誠実だったろうと、俺も思いますよ。だから先生も、小林さんのことが好きになったんですよね」
 俺の言葉に、小林さんが薄く笑う。
「発表会が近くなり、彼女からの連絡が途切れがちになりました。彼女はそのことを何度も謝ってくれましたが、私は妙な気分でした。なぜなら私は彼女と会えないことを、不満に思っていなかったからです。むしろ休日を疲れることなくのんびりとすごせることを、心地良く感じていたくらいです」
 小林さんは軽く呼吸を整え、言葉を続けた。
「仲尾さんと知り合って、ずっと感じていた違和感の正体に、ようやく気付きました。私は、彼女に恋をしていなかったんです。良い人なのは間違いない。結婚してもそれなりに幸せになれたと、今でも思っていますよ。でも恋愛感情はなかった」
 小林さんの目は、真っ直ぐに俺を見ていた。何かを決心したような、澄んだ瞳だ。さっきまでの態度が、嘘のように真っ直ぐな目。
「俺は、何もしていませんよ」
「それでも、仲尾さんのお陰でわかったんです」
 ここに来て、俺はあることに気付いた。
 小林さんの話を総合すると、ある推論が成り立たないか? なぜ小林さんは、今日ここに来た? なぜこんな告白をする?
 もし俺が考えていることが、現実だったら……。
「ご迷惑なのは承知の上です。今後二度と会いません。ですから、言わせて下さい」
 小林さんは、丁寧にカーペットの上に三つ指を着いた。
「ちょ、ちょっと待って下さい。もし俺の想像通りのことを言うんでしたら……」
 今までなら、小林さんが俺の静止を振り切るような事は絶対しなかった。今回だけは、特別だった。
「私は、仲尾さんのことが好きです。恋をしています」
「そ、そんな……」
 こんなことが、ありうるのだろうか。
 今日会って決別するはずだった人に、告白されるなんて。
「動揺させてしまうことは分かっていました。男から、それも私からこんなことを言われたら、ご迷惑なことは重々承知しています。でも、言わずにはいられませんでした。気持ちを押さえたまま会っていることに、耐えられなかったのです。告白した以上、二度と仲尾さんのお目にかかることはありません。今日はそれだけお伝えしたくて、お邪魔しました」
「お、俺も……」
 同様のあまり、言葉が詰まる。
 何から話せば良いんだろう。まさか、告白されるなんて思っていなかったから。
 初めて会ったときから気になっていたこと? それとも……。
 駄目だ。まるで頭がまとまらない。
 何か言わなくちゃ、このまま終わりになってしまう。
 せっかく転がり込んできた幸運が……。
「仲尾さん。何も仰らないで結構です。罵られないだけで、私は満足ですから」
「俺はっ、俺は言わないつもりだったんですけど。だけど言わなくちゃ、何の意味もないから。小林さんは俺より勇気があって、情けなくなんてなくって。だから……」
 気負うあまりに、舌が縺れる。
 最後に、自分自信を叱咤するつもりではっきりと告げた。
「俺は、そんな小林さんに惚れて良かったと思います」
 弾かれたように、小林さんが顔を上げてこちらを見る。その様子はスローモーションのように、はっきりと捕らえることが出来た。
 信じられないという表情が、あっという間に喜びに塗り替えられる。
 俺の言葉は、確かに伝わった。