トッカータ

10

 気が付けば、日はすでに傾いていた。
 セックスの後も離れがたく、いちゃついているうちに眠ってしまったらしい。結構激しくやったしな。続けて二度だった。
 二人とも一昨日から疲れていたのも、眠り込んでしまった原因の一つだろう。
 腰はだるく、まだ小林さんが入っているかのような違和感がある。二度目の時は、かなりの持続時間だったからな。仕方ないのかもしれない。
 それにしても、この状態で明日仕事をするのはだるいだろうなぁ。
「あ……」
 昨日、小林さんとピアノの先生の仲を取り持つって、約束したんだよな。甲谷先輩と怜子さんの面前で、確約した。
 それが今日こんな事になって、明日は甲谷先輩と、職場で顔を合わせなければならないわけで……。
 どう言い訳すれば良いんだよ、俺。
 ごろりと寝返りを打つと、うつ伏せになり頬杖をついた。
 一昨日の時点で二人はきっぱり別れていて、昨日小林さんはお父さんと話し合っているわけだ。
 だから俺がどうこういう立場じゃなかったってことで、良いんだよな。俺が原因で別れたっていうのも、少し違うし。
 とりあえず縒りを戻すように話したけれど、そのときはすでに遅かった、と説明するか。
「いや、待てよ」
 もう少し曖昧に話した方が良いかな。怜子さんは、先生から事情を聞くだろうし。
「うわっ」
 突然何かが覆い被さって来た。
「どうして難しい顔をしているんですか?」
「小林さんっ! 起きてたんですか?」
「はい。仲尾さんの声で目が覚めました。良いものですね、こういうシチュエーションも」
「それは、小林さんは良いんでしょうけれど。とりあえず俺の上からどいて下さい。腰が痛くってかないませんから」
「はい」
 明るい返事と共に体を退かしてくれるが、今度は満面の笑みでぴったりと寄り添ってくる。ベッドが狭いから、仕方ないんだけれどさ。
 そうだよな。小林さんは周りに対して、言いたい事は皆吐き出したんだ。しかも、セックスにおいては挿れた方だから、負担もあまりなく、むしろ出すものを出してすっきりしているだろう。
 もちろん、小林さんだってこれから父親との話し合いがある。未練が残っているらしい彼女から、復縁を迫られるかもしれない。
 だから、俺だけが大変というわけではない。むしろ小林さんの方に問題は山積しているんだけど。
 はあ。
 こんなときに腰がだるいだの、明日は仕事をしたくないだのって言っていたら、駄目だよな。
 しかし痛い……。
「ねえ、小林さん。明日から頑張って下さいね。お父さんのこととか、色々大変でしょうから」
 すると小林さんはにっこり笑った。
「大丈夫ですよ。仲尾さんが仰ったことは、とても正しいと思いました。ですから私も、父とは腹を割って話し合うつもりです。それに彼女とも、正直に向き合います。それもこれも、全て仲尾さんのおかげですね」
「あの、小林さん。セックスまでした仲なんですから、その丁寧な口調はやめませんか? あまり気を遣わなくても、良いでしょう?」
「仲尾さんがそうおっしゃ……言うなら、気を付けます。けれど、仲尾さんも私のことは名字ではなく、名前で呼ぶと約束してくれますか? 仕事上、小林と呼ぶと父と混同するので、皆さんからは名前で呼ばれているんです。急に『小林』と呼ばれると、自分の事ではない気がする時があって、寂しいですから」
 そうか。料理屋で名前で呼ばれていたのは、そういうことか。いくら姉の恋人でも、他の客の前で呼ぶのは馴れ馴れしすぎないかと、思っていたのだが。
「ええと……。弘和さんって呼べば良いですか?」
 名前一つ呼ぶのに、妙に照れてしまう。中学生じゃないんだし、何をやっているんだか。
「はい」
 晴れやかな笑顔に、こんな恋愛も悪くないかな、と思った。
 昨日までは、慎重過ぎるほどの純愛をしていたんだ。今日体を重ねたからって、二人の関係がすぐに変わるわけではない。
 少しずつ、恋人として成長していけば良い。
「シャワーを使います? 体をさっぱりさせたいでしょう」
 俺が言うと、小林さんは頷いて答えた。
「浴びたいですけれど、お先にどうぞ。私は後で良いですよ」
 それなら、と腕に力を入れたが、やはり腰がミシミシと悲鳴をあげる。
「俺は腰が痛くて無理そうなんで、遠慮します。もうしばらく、ごろごろしたいんで」
「それでは私も……と言いたいですけれど、シャワーをお借りして、帰ります。父のこともあります。明日も仕事ですから、社員の方々に迷惑をかけないように、しっかり話さないとならないので」
 それから少し困ったような顔をして、付け加えた。
「シャワーを浴びるお手伝いをしたいところですが、申し訳ありません。その、裸で狭いところに入りまして、理性を保つ自信がありません。仲尾さんが苦しんでいらっしゃるのに、失礼なことを仕出かしそうで……」
 こういうストレートなピロー・トークは、慣れていない分、直球の衝撃がある。
 俺は枕に顔を埋めて、返す言葉をなくした。それをどう言う意味に取ったのだろう。小林さんは布団を出ると、バスルームの方に歩いて行った。
 後ろ姿を横目で見送る。
 背中のラインがきれいだよな。仕事の内容は詳しく聞いていないけれど、デスク・ワークではないだろう。あのバカ丁寧な喋りからして、営業かな。それにしてはうなじの辺りが焼けていない。
 小さな会社だって言っていたから、事務だろうが営業だろうが、なんでもやるのかもしれないな。
 シャワーを浴びてすっかり身支度をした小林さんは、戻ってくるとベッドの脇になぜか正座をした。
 寝そべっている俺より、少し顔の位置が高い。
「すっかり言い忘れていました。私は一昨日、ピアノ教室を辞めて来たんです」
 あまりに神妙な顔をするので何を言うかと思ったが、そんなことか。
 別れた以上、通い続けることが出来ないのは、言われなくても分かる。
 それにこの状況で通い続けられたら、俺の気分が良くないし。
「ですから……。せっかく仲尾さんに勧めていただいた曲は、もう弾けなくなってしまいました。なるべくなら、お聴かせしたかったのですが、申し訳ありません」
 頭を下げようとするのを見て、慌てて制止する。こんなことを謝って、どうするんだよ。先生と別れてごめんなさいって、言っているようなものじゃないか。
「ちょっ、ちょっと待った。俺、そんなこと気にしてませんよ。大体ビートルズはそんなに好きじゃないですから。例としてあげただけで、ジョン・レノンとビートルズの区別もつかなかったの、覚えてませんか?」
 そう言うと、小林さんは少しだけ表情を和らげる。
「私は弾きたかったのですが、他のピアノ教室に通うことはないと思います。これだけはどうしても謝りたかったのです。『トッカータ』に至っては、まだ曲も聴いていない状況ですし」
 こういう律儀な所が、小林さんの良いところなんだけど。堅苦し過ぎるのも良くないよな。
 俺はふとあることを思いだし、体を少し起こした。小林さんの後頭部に手を回し、引き寄せるようにしてキスをする。
「こういう曲なんですよ。『トッカータ』には、『触れる』という意味があるんです。俺はとっくに、聴かせてもらいました」
 途端に小林さんは、顔だけではなく耳まで真っ赤にした。
 自分からは平気で恥ずかしいことを言うのに、言われるのは駄目らしい。
 無言でそれ以上口を開かないで欲しいとばかりに、両手を広げて前に数回押すように動かした。顔は俯いたままだ。
「こば……じゃなくて、弘和さん可愛いですねぇ」
 俺の言葉に更に縮こまると、逃げるように帰って行った。
 その様子をひとしきり笑い、俺は携帯電話を取り出した。
「もしもし、甲谷先輩ですか? 昨日の小林さんの話なんですけれど……」
 俺は慎重に言葉を選んで、小林さんの考えを話した。もちろん、俺との関係は伏せて。
 それから、もし怜子さんが先生から相談される事があったら、俺の言葉を参考に話して欲しいと伝えた。
 本当に好きではなかったのだと知らされたら、きっと傷付くだろう。でも一年付き合っていたのだ。薄々は感じていたに違いない。
 だから、俺が伝えることで不幸になることはないはずだ。
 誰もが不幸になるわけじゃない。みんなで幸せになって行く。
 幸せを掴みに走るのではなく、そっと触れるように近付いて行ければ。
 それが二人で、いや、みんなで弾く『トッカータ』になる。

   ―終