1905年/血塗られたロシアの風景(第1次ロシア革命)

1905年の第一革命の発端となったのは血の日曜日事件である。
この中心人物はガポン僧。

1904年12月、ペテルブルク最大のプチロフ工場にて労使の紛争が起き、これを発端として1905年1月早々、同工場はストライキに入り、それが他の工場へ波及していった。その過程で、首都の労働者の窮状を訴え、多方面にわたる改革を要求する請願文を皇帝に提出しようという計画がガポン僧を中心にすすめられた。 1月9日の日曜日、6、7万と推定される労働者とその家族が隊列をくんで、冬宮(現在のエルミタージュ美術館)に向かった。当時ロシアではいかなるデモも認められていなかったので、行進に参加した労働者は弾圧を覚悟ではあったが、行進そのものは皇帝の肖像、教会旗、十字架やイコン(聖人の肖像画)を掲げた平和的なものであった。この請願運動に対して、政府は警戒体制を敷き、冬宮前広場その他で停止しない隊列に対して発砲し、多数の死者を出した。その数は政府の発表で死者96人、負傷者333人であったが、死者だけで1000人以上とも言われている。 無防備の民衆を射殺したこの事件(血の日曜日事件)の反響はきわめて大きく、「皇帝(ツアーリ)は人民の父であり、苦境から救ってくれるただ一人の人」という素朴な民衆の信仰を崩した。政府の血の弾圧は、国内外でただちに抗議運動を呼び起こした。市内のストライキはさらに広がり、他の都市にもストライキが波及していった。国際的な反響も大きく、ウィーン、ロンドンなどでもロシア政府に対するさまざまな抗議行動が見られた。

血の日曜日事件によって第一次ロシア革命の幕が落とされた。しかし、当時の政府は事の重大さを理解せず、状況に応じて弾圧、譲歩、譲歩の取消を繰り返すという従来通りの弾圧政策で対処しようとしていた。 日露戦争後、政府は自由主義者に対しても弾圧を強めたが、極東の敗戦は反体制運動の刺激剤となった。5月15日、セネストを続けるイワノヴォ=ヴォズネセンスク市で、ロシア史上最初のソヴィエト(会議)が組織された。ソヴィェトは工場を基礎として、一定の割合で選挙された労働者代表の会議で、地区の労働者の闘争指導する期間であり、1905年の革命期に多くの都市で組織された。 このような革命の昂揚はツァーリズムの頼みの綱である軍隊もまきこんだ。ことに労働者の入隊者の多い海軍では革命的空気が強かった。

6月14日、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水平の反乱が起こった。水平の食事があまりにも粗末であるということから始まった紛争である。赤旗を掲げたこの戦艦は、当時オデッサで行なわれてた労働者のストライキと共闘した。政府は他の軍隊を鎮圧にさしむけたが、それらの艦で反乱同調の空気が強くなり鎮圧はできなかった。しかし、食料・燃料が尽き、10日後、降伏した。 ポチョムキンの反乱は、当時レーニンも書いているように、「初めてツァーリズムの兵力の大きな部分が、公然と革命の側に移った」事件であった。政府はこの事件大きな衝撃を受け、日本との講話を急ぐことになった。

10月6日、モスクワーカザン鉄道でストライキが始まると、たちまち全体に広がり、まもなく全市がゼネスト状態となった。ペテルブルグでも同様のストライキが起こる。ここでもソヴィエトが結成された。これに対して、政府は武力でゼネストを鎮圧しようとした。ストライキはほぼ全国に広がり、日常生活はマヒ状態となった。 政府は空前の事態に対して無能を暴露し、事態収拾をめぐって動揺した。まもなく、大臣会議議長ウイッテの主張をもとに「憲法と議会を与えることによって、自由主義者を革命から引き離そう」という方針がきまった。この草稿にニコライ2世が署名し、「十月宣言」が発布される。これには自由主義者達が同調し。反政府運動の戦列を離れ始めた。これを期に工場労働者の運動も下降線を辿り始める。

しかし、労働者、兵士、農民は闘争を続けた。10月26日にはクロンシュタット軍港で水兵が反乱を起こし、11月11日にはセヴァーストポリで軍艦で反乱が起こった。農村でも一揆が熾烈さを加えていた。そして運命の12月。 12月2日、モスクワのロストフ連隊の反乱が起き、3日、メンバーが大量逮捕されたのに抗議したモスクワ=ソヴィェトが、ゼネストを宣言。その過程で労働者の一部が軍隊等と交戦して死者を出したことに始まり、10日には全市のバリケードが築かれ、17日まで大規模な市外戦が続いた。軍隊に比べ、はるかに小数の労働者達は果敢にも戦ったが、圧倒的武力で鎮圧された。その後、シベリア流刑、死刑等ありとあらゆる残酷な処刑が行なわれた。

専制政府はとりあえず命拾いをした。10月の危機をすくった「十月宣言」は必要以上の譲歩だという意見も出始め、ウイッテは敬遠されはじめた。「十月宣言」によって創設される国会の開催直前にニコライ2世はウイッテを罷免した。こうして、支配階級は1905年の経験を「悪夢」として葬り去ろうとしていたのである。それでも、一度点った革命の灯は民衆の心の中で静かに燃え続け、1917年に向けて段々と強くなっていったのである。

目次に戻る