チベット・ヒマラヤへの憧れ

 今、家には旅行した国々の写真・ビデオ・書籍・地図・衣服・貨幣・その他訳のわからん雑貨品まで雑多なものがたくさんあります。そのうち、ごく一部は自分のHP上で発表しつつありますが、大部分は「エスニックがらくた」類として未整理のまま頭と部屋の中で眠っています。
 
 最初は単純に「ヒマラヤの山をこの目で見たい」ことで始まった辺境への旅も、回数を重ねるごとにテーマが「海外登山・トレッキング」だけではなくなってきました。現在の私の技量ではKilimanjaro(5865m)以上の高峰を目指すことはかなり難しい。アンデス最高峰アコンカグア(6959m)の南西斜面が岩登り・氷河歩きがないのでわずかに可能性があるぐらいでしょうか。しかし、高度障害を克服して登頂できるだけの体力があるかどうかは全く自信がありません。
 
 サガルマータ(チョモランマ)を間近に望むカラ・パタールやゴーキョピーク、K2・ガッシャーブルムなどカラコルムの山々を見上げるバルトロ氷河のコンコルディア、チベット仏教・ヒンドゥー教の聖山カイラス(カン・リンポチェ)一周巡礼など、ハードで魅力的なトレッキングはいくらでもあります。ただしそれらは20日から1カ月以上かかるものなので当分は行けないでしょう。
 
 初めての海外旅行としていったのはネパールのエヴェレスト街道。世界の最高峰を望む1週間のキャンプツアーはチベット系民族シェルパの村々をたどるものであり、旅の目的地タンボチェは、その地域のチベット仏教の中心地でもありました。その後、チベット、東アフリカ、パプアニューギニア、パタゴニア、パキスタン、モンゴルと旅を重ねるにつれ、バラバラだったそれぞれの旅のテーマが何となくつながり、漠然としたイメージからだんだん映像が浮かんできたように思えます。

 そのひとつが、「ヒマラヤとチベット文化」について。'97の冬、Bhutanに行き、その確信は深まりました。
 
 ツアーではなく、個人手配で行った最初の国だったこともあるのでしょうか。ツアーだと何かあればツアーリーダーに頼ることができますし、同行の日本人といる間はどうしても日本の世界に戻ったような気がします。一方、個人手配では現地ガイドはいるものの、すべて自分で意志決定しなければならないだけにどっぷりと浸ることができます。
 
 残念ながらBhutanでの外国人観光客は原則としてBhutan政府のコントロール下にあり、貧乏自由旅行はできません。また、事前に宿や交通機関の手配をせず、全部現地手配で行うだけの旅の技量はまだ自分にはないでしょう(国内ではよくやったことですが)。従って、ある程度決められたレールの上に乗った旅であったことは否めません。しかし、その範囲の中でガイドに自分のリクエストを伝え、あるいは全くフリーの時間を作ってマーケットを歩き、つたない語学力を駆使して互いの国の文化を語り合った経験は今までになく充実して楽しかった。
 
 旅に出かける前は、できるだけその国に関する文献に目を通すようにしています。また、'97夏のモンゴル騎馬トレックの頃よりNIFTY-Serveのワールドフォーラムから情報を収集するようになりました。
 
 こうしてチベット文化圏にのめり込む環境はどんどん整ってきました。そして何よりもBhutanそのものがとても居心地が良かった。
 
 本家チベットが中国に侵略され、シッキムがインドに併合された今、純粋なチベット仏教の国として唯一残っているのがBhutanです。しかも、照葉樹林文化(詳細はまたの機会に)の東西の端が日本とBhutanを含めたヒマラヤ山麓であるという説があります。私は栃木の農村で生まれ育ちましたが、肌感覚がとてもしっくり感じられました。
 
 実家からは、日光の山々を正面に望むことができます。それに連なって、高原・那須、北東には八溝山、東南は筑波山があり、条件が良ければ富士山を遠望できます。朝に夕に、生活の折々に山を見ながら暮らしてきました。学校の校歌の様ですが、山を仰いで志を育むということは案外重要な要素のようです。また、札幌のかつての自宅前からは手稲山がよく見えました。たぶん、私の山への憧れはそうした原体験に基づくものなのでしょう。今、何となく調子がでないのは生活の中で山を仰ぐことがないからでは、と思ったりもします。
 
 私は中学生の頃より父の影響を受けて仏教美術に関心を持ってきました。高校時代は倫理社会の先生と仲がよく、特別にチベット仏教の砂曼陀羅の写真をもらったりしたものです。そのときは特にチベットに対する特別な意識はなかったのですが。
 
 長々と取り留めもなく書きましたが、要はそういった要素の一つ一つが自分の中で「ヒマラヤとチベット文化」に向かって収束してきたようなことを言いたかったのです。
 
 時間と手間を費やして、旅行記を記すことに何の意味があるのか。自分のしてきたことに整理をつけるといった、自己満足のような点があることも否めません。ただ、私のささやかな行為によって、普段知られていない世界に皆さんが関心と理解を持つことができたなら、それだけでもうれしいことです。感想・意見を待っています。