Time to Reboot

 

 

 私は途方に暮れてしまった。もう時計は8時を回ろうとしているから、ヘルプデスクのスタッフが残っていたことはラッキーだったといえるのかもしれない。それにしても、私がコンピューターのディスプレイに表示されたエラーメッセージを伝えたときの彼の言葉に、私はきっちり3秒間意識を失った。

 「ああ、それはもうリブートするしかないですね」

 「・・・つまり、データは一から入れ直すってことですよね」

 「残念ながら、そういうことです」

 なんてことだろう。今日は金曜日だから、最後まで残っていた財務部の課長も、8時前には帰ってしまった。このオフィスに残っているのは、見回したところ私だけだ。明日は今シーズンはじめてのスキーに行く予定だった。前の会社で一緒だった女友だちが、朝の5時に車で迎えに来ることになっていた。それなのに、このままでは終電に乗れればいいほうだ。

 

 私には、このことが最近の自分の状況を象徴しているように思えた。何もかもが、うまくいかない。上司の指示が理解できない、ちゃんと評価されていないというと月並みだが、まさにそんなところなのだ。自分としては控えめに、5段階評価の上から2つめをつけて提出した人事考課は、2段階下げられてフィードバックされた。ひとつ下がるであろうことは予測していたが、ふたつ下がったのは予想外だったし、やる気も失せてしまった。

 そこにもってきての今日のシステムトラブルだから、私は何もかも投げ出して帰ってしまいたかった。でも、次の仕事も決まらずに退職届を出す勇気はなかったし、それよりもこんな状況で逃げてしまうのは嫌だったのだ。

 

***

 

 幸い、データを入力し終えた時、終電までまだ30分あった。帰り支度をして、駅まで普通に歩いても間に合うだろう。食事は、デスクにたまたま入っていたお煎餅だけだったが、これから何かを食べる気にはならなかった。3時間くらいは眠れるだろうか。スキーの準備は何もしていないけれど、スキー用のバッグの中に揃っているはずだ。去年買ったばかりのカービングの板は、大掃除の時にチェックしたから大丈夫だろう。後は、足りなければ買えばいいや。

 

 オフィスのあるビルを出ると、冷たい北風が吹きぬけた。一瞬目を閉じたが、そのおかげで仕事のことを忘れられた気がした。気分が盛り上がってきて、頭の中にはパウダースノーのゲレンデが広がった。もちろん、空はピーカンで遠くの山なみが輝いている。そして私は、きれいに板を揃えてパラレルで滑っている。妄想ではない、イメージトレーニングだと自分に言い聞かせて、家に着くまでの40分間をひとり楽しんだ。

 

***

 

 関越に乗る少し前に夜が明けた。車の数は多かったが、渋滞というほどではなく順調に流れていた。いつものように、上里で軽く朝食を取り、月夜野で高速を降りる。ここからは17号をまっすぐだ。

 「この前、ここを通ったときは大雪だったよね」

 「チェーン巻くのは初めてだったし、よくたどり着いたよ」

 幸い、今日の路面は乾いていた。路肩には薄汚れた雪が積み上げられているけれど、これならチェーンの心配なく目指す田代まで行けるだろう。彼女は雨女ならぬ「雪女」だから、冷やかしてやろうかと思ったけれど、それで天気が悪くなったら嫌なのでやめておいた。

 

 「ところで、転職願望はどうなったのよ?」

 彼女がCDの音を少し絞りながら、唐突にそう聞いた。この話題を出すタイミングをうかがっていたのかもしれない。今日の予定を詰めるときに、ついそんなことを話してしまったから、彼女なりに心配してくれているのだろう。

 「かなり、危ない状況」

 「あれから、またなんかあったの?」

 「とにかく、何やってもうまくいかなくってさ」

 そして、昨日の出来事を話し終えるころには、車は苗場プリンスの横を通過していた。ここから鳴り物入りで完成した「ドラゴンドラ」に乗っても目指す田代のゲレンデに立てるが、やはりロープウェイで行くのが正道だろう。

 

 始発のロープウェイが高度を上げていく。清津川を境にして向かい合う斜面が、白く輝いていた。こういう時の白は天使の色だが、吹雪の白は悪魔の色だ。それを決めるのは光の量なのかもしれない。今日の晴れ具合なら、天使は一日中微笑んでくれるだろう。

 足慣らしをしながら、かぐらゲレンデを目指した。まだ人があまり滑っていないうちに、圧雪の入らないジャイアントコースのパウダーを堪能したかったからだ。5本のリフトを乗り継いで、田代から見るとかなり奥にそびえる2000メートル級の神楽ヶ峰の稜線に出た。コースの分岐点で、私たちはどちらからともなく止まった。

 「パウダーって感じじゃないね。もっとフカフカな雪を期待してたのに」

 「昨日も晴れてたみたいだから、仕方ないよ。アイスバーンじゃないだけましってとこかな」

 

 雪は湿り気を含んで重くなっていて、まだ滑りの感覚を取り戻していない足には負担だった。スキーが思い通りに回らず、体重が後ろに残ってしまい、2度ほどバランスを崩したが、何とか持ちこたえて滑り切った。

 「そうやって耐えるスキー、あんたらしいよ」

 「なんか、それが醍醐味みたいになってるところあるよね。ああ、倒れなかったって」

 「そうそう、わかってるじゃない。そんな時は倒れちゃえばいいのよ。顔からコブに突っ込んだって死にゃしないんだし、そういうときに口に入る雪って結構おいしいんだから」

 「そんなこと言って、骨折くらいはあるかもよ」

 「その時はその時、ちゃんとあたしが病院まで送り届けてあげる。料金は5割増しね」

 

 その場は大笑いして終わったのだが、私にはその会話が頭にこびりついていた。倒れればいい。情勢が流れていく方向に、無理しないで自分を合わせればいい。ほんとうにそうなのだろうか。

 私はいつだって、すごくうまくは滑らなくていいから、みっともなく転んでしまうことを避けようとしてきたのだと思う。それはスキーだけではなかった。仕事がこんなにうまくいっていないのに、何とか転ばないで今のポジションにしがみついている。でも、それこそがある意味「みっともない」ことなのではないのだろうか。2度目のジャイアントを滑りながら、私はそんなことを考えていた。

 

 午前中はずっとかぐらで滑り、お昼は田代に戻ってホタテの唐揚の入ったカレーを食べた。その間、私はさっき思いついたことを早く彼女に話したくてしかたなかったのだが、一方で笑い話をそんなに深刻に考えていたのかと茶化されそうで、なんとなく言い出せないまま過ぎてしまった。

 「なんか疲れてるっぽいよ。そろそろ上がる?」

 「え、そんなことないけど」

 「だいぶ人も増えてきたし、渋滞しないうちに切り上げた方がいいかも」

 結局私たちは、田代湖に向かって下りる中斜面を2回滑ってから下りのロープウェイに乗った。もともと、ふたりとも午後遅くまで滑りたいというタイプではなく、午前中に目一杯滑って、後は状況次第だった。だから、思っていたよりほんのちょっとだけ早い上がりだったのだ。

 

***

 

 駐車場に止めた車の中で着替えると、少し気分が落ち着いてきた。いろいろなことが頭の中を回っている状況から、核心が見えてきたような気がする。横目で運転席の彼女を見た瞬間、目が合ってしまった。

 「さっきから、何か言いたげだよね」

 「バレてた?」

 「まあね」

 「たいしたことじゃないんだけどさ、耐えるスキーはもういいかなって。転職のこともね」

 「そんなことだと思ったわよ。すっかりお見通しさ」

 「なんかさ、スキーのことは前から感じてて、倒れちゃえば楽なんだろうなって思ってたのよ。でも、まさか仕事のことまでは思いもしなかった。前の会社辞めた時は本気で留学なんて考えてたから、倒れたって感覚はなかったの。転職は前向きにしなきゃ意味がないんだって思ってたんだと思う」

 「そうかもしれないけど、別に戦争してるわけじゃないんだし、ここらでリセットしてみたら?」

 

 スキー用に使っているトレッキングシューズを履きながら、私はもうすっかりその気になっていた。今ここで、彼女に宣言すれば、それは紛れもない事実となるだろう。私は、一片の迷いもないすっきりとした表情で告げた。

 「そうする。昨日の夜、パソコンをリブートしたみたいにね」

 すると、彼女の目が私の全身をスパンして、そして目が合ったところで止まった。何だかわからないが、おかしそうな表情をしたまま固まっているようだ。

 「あんた、リブートのもともとの意味知ってる?」

 「知らないけど、何か私変なこと言った?」

 「リブートは、リ・ブート。つまり靴を履き直すこと。まさに今、あんたはリブートしてるの」

 私たちは示し合わせたように、3回短く笑った後、それを爆発させた。まるで、息の合ったベテランの漫才コンビみたいだと思った。そんなことを思いついてしまったから、笑いが収まるまでにはかなり時間がかかったみたいだ。

 

 帰りの関越は意外にスムーズだったが、私たちの会話は盛り上がらなかった。私はこれからのことが頭の中に浮かんでは消えていたし、彼女はそんな状況をわかっているから、そっとしておいてくれた。夜ならば夜景が綺麗な、渋川伊香保の辺りを過ぎるころに私が声をかけた。

 「ねえ、そういえばさ」

 「わかってるわよ。上里でポテトパイ買って食べるんでしょ。あたしの胃も、すっかりその気だから大丈夫」

 私たちは、またひとしきり笑い転げた。何故かはわからないが、私の未来は暗くはないのではないかと、そんな気がしていた。

 

Fin

 

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