機動戦士ガンダム

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↑欠席者達



総括コラム1

「変わることを恐れたキャラクター達」


一言で言えばシナリオには山や谷があったがキャラクターの内面には山や谷がなかった。
双牙さんの言葉を借りれば山とは

「力で何でも解決出来ると思ったら大きな間違いだ」

だとしたら、それに対する山とは

「だけど、力でしか解決出来ないこともあるんだよ」

になる( ・ω・)


つまりキャラクターの内面・考え方・生き方・信条の高低差。それが山であると。
冷徹な暗殺者が少女のやさしさに癒されるだの一匹狼が仲間の大切さに気付くだのはその典型と言える。
その考え方からすると種のキャラには高低差がなかった。
前作で内面の葛藤をクリアしているキラは兎も角シンは・・・。
この物語、青春群像劇ではあっても成長する少年の物語ではなかったのだろう。

無論最初から最後まで考え方が変わらない主人公も創作世界には多数存在する。
大抵主人公が躁病かと思えるほどポジティブで、
その場合内面の山と谷を担うのは主人公以外の登場キャラクター(メイン格)であって、
主人公の行動に影響されて考え方を変えるわけである。
勇気を出せなかった少年がベーブルースよろしく主人公のおかげで一握りの勇気でもって―の様な。
このスタイルだと短編もしくは長編でも1章区切りで1話完結のスタイルが多いか。

種の場合勇気を出せなかった少年がシンでベーブルースがキラであるわけだ。
しかしこの手法は主人公が視聴者・読者に納得できるだけの信念と行動を伴っている場合にしか適用されない。
キラにその資格があったかと問われればそれは間違いなく否であろうし、
その、言うなら魅力のなさが種の批判される原因の1つだろう。
最終回で心変わりをしたのはシンでなくレイであり、心変わりをさせたのはキラであるが、
その描写が薄っぺらく唐突で説得力のないことからもキラには「主義一貫他人の心変わり誘発系主人公」(長い…)の資格がないことがわかる。
ただ今回は説得力のないキラよりもその程度で(最終的に)寝返るレイのほうが疑問だ。
物語序盤でネオ(ムウ)と交感して因縁付けていたのは何だったのだろうか。
ネオがムウであり、レイがラウと同じ存在であるミスリードのつもりなのかも知れないが、
そんなの声を聞いた時点で皆気付いてるって!

オマケにそんな因縁だから、ストライクでプロヴィデンスに挑んでキュベレイに惨敗した百式のような目に遭った前作の帳尻をアカツキで埋めるものだと思っていたら、レイはキラに任せてムウは雑魚退治。
正に
「素材はいいのに調理でそれをダメにする料理人」と評されるガンダムSEEDの真骨頂を見た気がする。
「予想は裏切り、期待は裏切らない」はバキ作者の板垣先生の言だが、
予想は兎も角期待は確実に裏切るのがガンダムSEEDだろう。一般的にそれは
肩透かしと言うのだが・・・。

レイもレイでキラと闘っている最中に「キミはキミだ!」と叫ばれて動揺し、その隙に一斉発射でレジェンドを叩きのめすフリーダム。命乞いをしておいて懐中のナイフで刺す悪役の様な奴・・・。
結局そんな風なとこだけ都合よくキャラクターが変えられているのは制作側(主に監督夫妻)に問題があるわけだけれど、それ(全部嫁の所為)を言ったらおしまいよで続かないので仕方ない。



富野監督はZガンダムにおいてアムロの存在を「あまり出したくはなかった」と語った。
この発言の真実は兎も角、自分が考えた上ではまずはカミーユの存在が薄くなることと。
それだけ前作主人公の色は強烈だ。
キラも出すならば全く出さないか、出番があるにしてもZのアムロ程度のモノでよかったろう。
それでもアムロの場合は「戦場復帰への恐怖と葛藤」「シャアとの再会」「ガンダムに乗るカミーユへの嫉妬」など内面の葛藤があったわけだが。
キラにはそれがなく、前作で「遺伝子操作により造られた人間」「コーディネーターでありながら同胞と戦う」「戦う理由」等をパスし、悟りきったまま登場、シンの存在(と出番)を飲み込んでいくだけ。
シンがカミーユと考えると、主人公としてはクワトロの役割を(途中まで)担ったアスランのほうがよかったかも知れない(Zもシャアがキャストの一番上であるし。
実際にアスランは考え方や信条から自己決断を繰り返し幾度となく自分の立ち位置を変えている。
結局は元の鞘に戻ったし、コロコロと考え方と所属を変えることから「自分の考えが定まっていない常に迷っているキャラ」に見えるかも知れないが、
それでも悟りきった顔で他人の意見に耳を傾けず、自分の意見が否定されるとみるや話を摩り替えて相手に疑問を投げつける誰かさんよりは余程青春群像劇の主人公に相応しいと思える。

エヴァで一番お気に入りの台詞は「ヌカ喜びと自己嫌悪の繰り返し」。
人生を通じて適用される言葉の中で、個人的に10代の青少年に特によく当て嵌まる言葉だと思う。
同時にそれがあるべき姿―と言うより必然で、小学6年の時の夢と高校1年の時の将来の夢では違っても構わないし(無論幼い頃から一貫した目標に向かって取り組む場合もある)、
またそれを恥ずかしく思うこともない。そうして考えを広げることによって視野も広くなり、その中で自分で考えて決断することが人生だと、そう思う。
複数ある選択肢の中から自らの考えで1つだけ選び取る「決断」と、選びも疑いもしない「決めつけ」は違う。
早くから生き方を「決断」ではなく「決め付け」てしまった少年の狭い視野の中には、ラクス教教祖の姿しか見えていなかったのだから。





最終話「アンソロジー」(ガオガイガーF風に)



変われなかったキラにも最後のチャンスはあった。
それは最終話のラストシーン。銃を突きつけ合うキラとデュランダル。
主人公(あの時点では名実ともに)ならば決着は自分の手でつけなければいけないハズの場面をレイが奪う、いやレイの手を汚させるというのは、キラが悪いだのレイの心変わりがどうこうよりも、あそこまでやっておいて最後の最後までキラの手を白いままで終わらせよう(実際は散々殺しているのだが。ただ他の場面では執拗にグロ描写を挟み込む癖にキラの場合はそれがなかったり、相手の自爆でカタを付けたりするのも「手を汚さない」に含まれる)という両沢脚本の意図が見え隠れして吐き気がした。って結局嫁が悪いのかい?―総括コラム2へ続く



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