1995年1月


「こちら葛飾区水元公園前通信186」95/01/07 10:09

 きんがしんねんである。
 今年の正月は、ごろごろして過ごしてしまった。祖父のいる田舎にはいかなかったし。親に挨拶に行ったくらいだな。おかげでテレビで映画は見たな。
 小津安二郎の「お早う」とかね。1959年の映画だ。テレビを買ってもらえない子供がお早うとすら言わなくなって、でもそれが解決するというだけの映画なのだが、当時の新興住宅地が舞台で、ビール1本の貸し借りをする世界である。三種の神器はテレビと洗濯機と冷蔵庫だ。近所のおばさんの会話がなかなかぞっとする。「聞いた、あそこの奥さんって…」だもんな。笠知衆も東野英次郎も出ている。古き日本だが良き日本ではない。ただの現実なのだろうな。この時代から遠くへ来てしまったんだな。かみさんにとっては、どうものめりこめなくて、どこがいいんだかさっぱりわからない映画だそうだ。外国の人はこういう映画にエキゾチズムでも感じるのかな。台詞は棒読みだし。でも、なんだかお早うだけの映画って、よく考えるとすごいかもしれない。
 ジョン・ヒューストン監督の「天地創造」って、女性は見て怒らないのかなって思う。聖書の創世記そのままなんだけれど、神はやたら支配的だし、女性はどう考えたって悪者(イブ)とか、男性の所有物扱いだし。キリスト教がいかに家父長制に貢献してきたかわかってしまう映画だ。神は父なのだから。勝手にアダムとイブを作り、禁断の果実をそのへんにおいといたり、ノア以外を殺しちゃったり、だいたいカインとアベルの奥さんってどこからきたのかなとか、女性には名前なんてないんだぞ。ノアの息子の妻というだけだもんな。神を疑うことは許されないし、お父さんか信仰のために疑うことなくイサクを殺そうとするもんな。聖書に対する何の批評も現代的解釈もない映画だ。
 そういえば、この間駒田と話していたんだけれど、伊作って、イサクなわけで、これを英語読みにするとアイザックになる。アシモフと同じ名前だったんだな。ようやく伊作とSFの関係がわかった。
 「OUTSIDE IN」というプレイボーイが作ったショートストーリーのたくさん入ったビデオも見たな。セクシュアルなストーリーということだが、おっぱいさえ出せばあとは何でもアリという。SFありホラーあり、コメディありだもんな。飛び下り自殺しようとした人が下にいる女性にぶつかり、女性が板のように薄くなってしまったりする。コンピュータとのロマンスもある。出来不出来はあるが、変なビデオだったな。1話10分くらいだ。
 「ハリウッドナイトメア」という短編を夜中にやっていて、何本か見たな。マイケル・J・フォクスが監督したのもあったな。怖いものそうでないのもあったが、「恐怖の生体解剖」が最高だった。仮死状態にする薬のおかげで、生きたまま解剖されるという恐怖だ。何だか、マイケル・ブラムラインの「器官切除」(白水社)を思い出すな。あとは、マルコム・マクドゥウェルがまぬけな吸血鬼をやる話とかな。血液銀行の夜勤の職について、安心して暮らせると思ったのになっていう話だ。
 「セーラー戦士ヴィーナス5」まで見ちゃった。やれやれ。

 本はね、稲垣真美の「日本のビール」(中公新書)しか読んでいない。15年以上も前の本だ。
 明治以降、キリンの前身が横浜で試行錯誤する中で、政府は官営で札幌麦酒を設立する。さらにエビスビールの元となった日本麦酒、アサヒの元となった大阪麦酒が設立される。麒麟は外資系だったので、代理店として明治屋が登場する。横浜の山下公園のそばに明治屋があるけれど、そこは元はキリンの工場だったのだ。日本麦酒の馬越社長の陰謀で札幌麦酒と大阪麦酒と合併して大日本麦酒となり、ブランド名はそのまま北で札幌、関東近辺で恵比寿、関西で旭となる。シェアが75%、キリンが20%、残りがカブトビールとか桜ビールなど。これらもやがて大日本ビールに吸収されていき、麒麟だけが独立した状態になる。この間、価格競争とか、品質を売り物いした麒麟の攻勢とかある。ところで、この時期からビールは基本的にはドイツの下面醗酵を基礎としたピルスナータイプが主流になっている。実は初期は零細業者がイギリスタイプの上面醗酵によるエールを作っていた。上面醗酵の場合、温度が10℃前後ですむが、下面の場合4〜5℃でつくるため、冷凍設備が必要となり、零細業者では対応ができなかったからだ。しかしエールが不評で、日本には大手メーカーしか残らないことになる。
 戦後は大日本ビールが解体されて資本1:1でアサヒとサッポロになる。皮肉なことにこの後、キリンがシェアを伸ばしてしまう。ビールといえばキリンになったのは戦後のことで、戦前はビールといえば大日本だったのだ。その後、シェアを拡大するために新しいタイプのビールの開発などに積極的なアサヒ、サッポロ、そして寿屋すなわちサントリーと安定にあぐらをかくキリンという図式で本が終わっている。サントリーは最初はデンマークタイプのビールとして売り出していたそうだ。今でも苦しい経営だが、モルツとダイナミックがいいので、残って応援している。ウイスキーはどうでもいいけど。
 ビール業界のその後は、容器競争、新製品競争、びんから缶へのシフトという流れにあり、さらに現在は価格破壊の代名詞にまでなってしまったという歴史は、よく知っているところだろう。さらにようやく地ビールもできそうだし。あとは価格破壊ついでに外圧でビールの税金を下げてもらいたいというところであるな。


「こちら葛飾区水元公園前通信187」95/01/21 12:17

 地震は、何というか、神戸がチェチェンになってしまったな。戦後50年、再び、というか。でもサラエボなんて何年もあんな状態だもんな。
 けっこうテレビって見ちゃうよな。

 何というタイミングというか。実はさっきまでウイリアム・ギブスンの「ヴァーチャル・ライト」(角川書店)を読んでいた。舞台の中心は地震で壊れた橋にできたコロニーだったりする。サンフランシスコだ。イメージが重なってしまう。実はこの本にはもう一つあって、それはエイズのことなんだけど。一部の人は、ぼくの「すべての種類のエイズ」という中編を読んでくれているかもしれないけれど、ここで、抗病原性のエイズウイルスキャリアが出てくる。キャリアとセックスをすると、このウイルスが感染してエイズが治るという。同じアイデアが「ヴァーチャル・ライト」でも大きく扱われているので、びっくりしてしまうのだ。
 ともかく、ギブスンの小説のプロットは相変わらず単純なんだけれど、多量の人物が錯綜するので、けっこう読みにくい。でも、そうした中でも、「ヴァーチャル・ライト」は読みやすいなって思う。超芸術トマソンは出てくるし、NECは過去の忘れられた企業だしって、いろいろそういうことで楽しませてくれるのであった。本書の最大の欠点は、装丁があまりにも地味だということ。ブルーグレイの地に白抜きの文字の背表紙とか、公団イエローの地に細めのゴシックのタイトルをあしらった表紙とか、これがあのギブスンの本なの?っていうくらい地味である。ハードカバーで買うかどうかは、責任持てないけど、文庫なら買いだな。ギブスンの小説を楽しんだのは、正直、「ニューロマンサー」以来だぞ。
 ジョナサン・キャロルの「沈黙のあと」(東京創元社)は、これまでの作品以上に地味になってきている。ぼくは本当にキャロルの小説ってぞぞっとするくらい怖いと思う。それは何度も書いているけれど。それがピュアになるほど、小説は地味になっていくのかな。そのうちくわしく書くね。
 ニコル・ド・ビュロンの「夢の島の十日間」(白水社)は、帯にあるようにコミックノベルである。「がんばれママン」を読んだ人は、どういう話かきっと想像がつくはず。主婦と仕事の両方に疲れてしまい、夫と娘を置いて旅行に出てしまう女性が主人公。「ママン」では家事を放り出して別居したが、ラストではとりあえずもとのさやに納まった。この点をどうも批判的に見ていたのだけれど、リュス・イリガライのようなフレンチフェミニストのエッセイを読むにしたがって、この考えを改めなくてはならないかなって思った。女性は女性であるというアイデンティティを捨てることはないって。ただ、女性は不当に大変なんだっていうことは理解して欲しいなっていう。
 アメリカのフェミニストは女性と男性が同等であることを主張したけれど、女性が女性であることから逃れられない。多少のジェンダーを認めて、居心地良くすることが大切かもしれない。フェミニズムは現在、行き詰まっていて、それはもう、このジェンダーをめぐる女性内部の対立というようなものになっている。田島陽子のような人が、結婚しても会社をやめちゃだめだよって言っても、専業主婦になる自由は残されているし、何より料理などをすることで女性のアイデンティティを保つ余地が残されているからだ。
 ぼくとしては、ビュロンの小説は、まず男性につけこまれる隙を与えると思うし、次にレズビアン・フェミニズムには受入れられるものではないだろう。しかしこの口当たりの良さは、彼女をしてフランスの流行作家にしているのかもしれない。同じような立場にいるイギリスの作家のフェイ・ウェルドンの場合、男性に対する復讐がもっとグロテスクな感じで行われるあたり、フランスとイギリスの国民性の違いかもねって思ったりもする。
 アントワーヌ・ヴォロティーヌの「アルト・ソロ」(白水社)は、どことも知れない都市で、ナチスを思わせる軍隊が抑圧し、その中で弦楽四重奏のコンサートが行われるという、短い小説だ。全編がサーカスや鳥人や出獄者などの仕掛けに満ちていて、ファンタジックではあるけれど、素直に楽しめる本じゃなかったな。

 映画もけっこう見たな。パトリス・ルコント監督の「イヴォンヌの香り」は、駒田の言う通り、愛はセックスだという映画だ。ルコント自身が言うように、今回は官能の世界を描きたかったらしいけれど、そのまんま、エッチがうまく描かれた映画だ。でも、それだけだったな。エッチ以外の余分な物がないから、どうしても表面的な映画になっちゃう。
 ニール・ジョーダン監督の「インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア」は、最後まで退屈しないで見られる映画なんだけど、全体のめりはりがない、フラットな感じがする。それはそれでいいのかもしれないけれど、見おわった後のインパクトは「クライングゲーム」には遠く及ばない。
 もう終わってしまったけど、「ナチュラルウーマン」という映画も見た。ひさびさの日本の映画だ。原作だけじゃなく、脚本にも松浦理英子は参加している。原作通りのメンタルSMレズビアン映画で、けっこう綺麗に撮影されている。中薗に言わせると演技が学芸会だと言うが、それはその通りだ。最初が重かったり、ラストが納得いかないなど、不満はあるけれど、なお、作る側の息づかいがわかるような映画なので、それはそれでいいと思っている。小津の映画なんか見ても、演技がすべてじゃないよなって思うし。
 テレビでやっていたので、「イシュタール」も見てしまった。イザベラ・アジャーニが出ていたので、よかった。あとはどうでもいい内容。

 今回の地震でわかったこと。日本には消火のためにはヘリコプターは飛ばない。救援物資を運ぶヘリも飛ばない。そういう国なんだなって思った。

 明智抄の「サンプルキティ」は2巻が最近出たけれど、これがおもしろい。カバに似ているからカーヴィーである。よくできた超能力の話なんだな。おすすめしてしまおう。
 駒田推薦の伊藤潤二は、こわいというより、ひたすら脈絡のない話である。時には伏線なしで強引に進んでしまうし、なかなか笑ってしまう。でも、面白いことは事実だ。そういえば駒田は諸星大二郎を読まない。やっぱり絵が下手だからなのかな。


「こちら葛飾区水元公園前通信188」95/01/26 22:06

 先日、テレビで、「美味しんぼ2」と「料理の鉄人」を続けて見てしまった。「美味しんぼ2」は、なかなか笑えるので、それはそれで良かったと思う。山岡に唐沢、栗田に石田ゆり子、海原に江守徹である。「料理の鉄人」の鹿内って江守に似ているので、なんかおかしかった。「料理の鉄人」は初めて見たのだけれど、よくできた番組だと思った。というのも、料理をつくるということが、いかに人格まで反映しているのかということまで、目の当たりにさせる内容だったからだ。料理を作り始めてわずか30秒で鉄人の勝ちということがわかってしまった。振り返って自分について考えてみれば、自分が作る料理のアバウトさというものは、たしかにぼくの人格を反映していると思う。もちろんそれだけじゃなくて、正直、好みとして鉄人のつくる料理が好きになれないだろう点もふくめて、ぼくは料理というのは結局のところ素材をどう食べるかという思想だと思うから、なるべく余分な手間はかけたくないというのもある。たとえば、今回の白菜のような材料では、たぶんオリーブオイル(これがよく合うのだ、なぜか)でさっと炒めて、ツナ缶を加えるとか、コンブのだしで茹でて、ゴマ油と醤油のドレッシングで温かいサラダにするとか、牛乳でブタ肉といっしょに煮込むとか、もうそういう単純なことしか考えない。それがうまいかと言われれば、困ってしまう。もうぼくはなまけものでしかないから、期待しないで欲しいとか。そういうことが、料理がぼくの人格や思想を反映するということになるのではないだろうか。いつも料理に手を抜いているとか。そういうことをしみじみと考えてしまった。

 ウィリアム・J・ミッチェルの「リコンフィギュアード・アイ」(アスキー)を読んだ。この本によれば、写真は発明されて150年目にして死んだという。写真は絵画と違って、化学的に写実的なものであり、人を通すことなく場面を再現する。しかしコンピュータのデジタル画像は、データでしかなく、極めて容易に操作できる。それは写真とは別のものだというのだ。ぼくたちは写真は事実を写したものだと思いこんでいる。もっとも、かつてのソ連の写真のように、人物が消されたりすることもある。トリック写真だってあったはずだ。ネッシーのように。にもかかわらず、写真は信用されてきた。しかしデータに対しては、さまざまな操作で、別のものをつくることができてしまうのだ。ライティングの処理、表面の処理、木目だって思いのまま、というわけだ。こういったことが用意周到に語られた本なのである。でもまあ、写真は死んだっていうのがいいな。

 前回で阪神大震災について語ったことはすべて取り消す。
 でも、30万人以上の難民が出るって、すごいよな。本当にサラエボが近くなったかなあ。今、エイミー・トムスンの「ヴァーチャル・ガール」(早川文庫)を読んでいるのだが、ここではホームレスがたくさん出てくる。ホームレスと地震の避難民とではどう違うのかな、とも思ってしまった。職がないって、災害かなあ。

 さっき矢野から電話があった。生きているようである。部屋はめちゃくちゃになったし、3日も断水したし、まあ、大変だったらしい。言うまでもなく。でも、川西市はすでに元に戻ったということで、生活には支障はなくなったとのこと。とりあえず、よかった。
 そういや、倒れた高速道路は、工区ですっぱり切れたということだが、その工事を請け負ったのは、住友建設だそうである。あの部分だけ、特殊な工法だったらしい。今後、問題になるだろうな。

 ジャンプで宮下あきらの連載がまた終わった。なんだか今回は、ジャンプそのものから切られた雰囲気がある。ガンバレ、宮下あきら。

 そういや、先日、図書新聞で永瀬唯が「ヴァーチャルライト」の書評を書いていた。正義感の強い元警官とか、運びやの少女とか出てくるこの話は、要するに「パトレイバー」ではないかというのが彼の主張だ。そうなんでしょうか。この記事、神田の三省堂で立ち読みしたのだけれど、その後、秋葉原に向かって歩く途中で、永瀬氏らしき人が自転車に乗っているのを見かけた。面識があるわけではないので、声をかけるということはしないけれど。
 ダリウス・ジェームズの「ニグロフォビア」(白水社)も読んだ。言葉の流れが気持ちいい。だからどうだと言われても困ってしまう本ではあるが。駒田以外にはすすめない。駒田にもすすめないけど。黒人の手による黒人のステロタイプをカリカチュアした作品だ。

 「ナショナルジオグラフィック」の創刊前特別号が届いた。広告が多くて、なるほどと思った。価格からすれば、そうだろうな。あとは読んでみてからだ。「ナショナルジオグラフィック」は「ヴァーチャルライト」にも頻繁に出てきたな。


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