「こちら葛飾区水元公園前通信213」95/06/11
17:10
ジョディー・フォスター主演の「ネル」を見た。野性児によって愛を知るという、いかにも純情なアメリカ人向けの映画だったけど、でもまあけっこう楽しんで見られた。野性児の役がジョディーで、ノーメイクで顔のアップになると肌がけっこう荒れているのがわかったりして、何ですが、よくやるよなあ、という役でした。役者にとってこういう難しい役をやるっていうのはロマンなんだろうな。ジョディー・フォスターは好きな女優だけど。今月のSWITCHはジュリー・デルピーがでいいなって。
先月の山は、奥多摩ではなく丹沢でした。丹沢はうちから近いので、遅く起きても行けるというのが利点。ただ、東京都にいながら神奈川の山に行くというのを潔しとしなかっただけなんだけど。丹沢が近いというのは説明がいるかな。金町はらの電車は千代田線と相互乗り入れになっているんだけど、さらにその先が小田急と乗り入れている。代々木上原から急行に乗ると行けるというわけ。丹沢のいいところは、針葉樹が少なくて生物相が豊かなことと、山小屋が多く、どこでもビールが買えること。山頂には鹿がいるし。でも贅沢なもので、こうなると奥多摩の殺伐とした感じがなつかしくなってし
まう。今回登ったのは塔ケ岳で、ヤビツ峠側から登ったというわけです。
今月は再び奥多摩で、都民の森方面を軽く歩いて、温泉に入ってメシ食ってくるというのを考えている。
山の翌日から仙台に行った。女川原発の取材で、その前日に和久井と鬼首温泉に行ったという次第である。和久井の案内で地獄を見せてもらった。ありがとやんした。
原発は、まあ、見た目はきれいだ。中はギャラリーになっているし、反対運動もないし。PR館には果樹園があって、ここを訪れたロシア人は「原発の側で作物をつくって大丈夫なのか」って心配したとか。おそらくこれだけを見たら、原発反対とは思わないだろうな。晩朝昼とホヤを食べまくったという仕事であった。でも、牡鹿半島のアップダウンとカーブの多い道を車で連れてかれた後である。けっこうつらいものがあった。いいんだけどさ。ホタテもブリもウミタナゴもウニもおいしかったけど。ゆでたホヤというのは、初めて食べたけど、磯の匂いのする塩加減がなかなか良かった。
民宿のおばさんは「また夏出てきて下さい」って、帰り際の声をかけてくれた。釣りもできるし、原発さえなければ、いいところである。
「日本のフェミニズム別冊・男性学」(岩波書店)はなかなかおすすめである。男性の育児とかゲイとかさまざまな内容がもりだくさんというべき本で、でもそのコンセプトはというと、前書きの上野千鶴子のよる「オヤジになりたくないキミのための…」というのが全てを表しているという。男だってけっこう大変なんだから、どういうのがいいかちょっと考えてみようというわけだ。もう会社人間の時代じゃないし。マッチョな方が頭を使わない分楽だろうけれど、それが何の豊かさももたらさないというのは、考
えればわかるのにな。でも、実際には歳をとらなきゃわかんなくって、あいかわらず世の中はマッチョな人の方が多いけど。
エレーヌ・シクスーの「狼の愛」(紀伊国屋書店)は、彼女の新しい評論・講演にジャック・デリダの講演を1本収録した本。でも、おもしろいのは最初の「狼の愛」という評論だけだったな。赤頭巾ちゃんは狼を愛するゆえに食べられるという。愛するということは食べることであり食べられることであるという。
マリー・ルドネの「ネヴァーモア」(集英社)は傑作だって言ってしまう。過去、失敗続きの捜査官と過去をやり直したい歌手が港町にやってくる。二人は偶然同じ下宿になるが、そこの女主人は元サーカスの軽業師で、誰かによって事故にあい、以後サーカスから離れている。港町を舞台に、汚職とか殺人とかいろいろ起こるという、ミステリーのような小説で、これまでのルドネの女性の一人称小説とは趣を異にしている。淡々とした一切の装飾の無い文章は濃密な雰囲気を出し、わずか150ページの本なのに読むのに時間がかかる。その装飾のなさが男性の暴力性をストレートに描き出すし。今年のベスト5には入る本だよ。
テリー・サザーンの「キャンディ」(富士見ロマン文庫)は、ポルノグラフィーというよりも、エロチックコメディーである。書かれたのは1958年なのに、少しも古くない。豊満な体と慈愛の心に満ちた、ちょっと足りない若い女性キャンディを主人公として、彼女のまわりでエッチなことをしようとする大学教授や叔父やヨガの行者が笑わせてくれるという小説。そのまぬけさにはなかなか笑えるなけれど、説明するのはめんどうだな。セックスは精神に負担をかけるから、オナニーをしようと解く精神科医が出てきたりとか、そういうノリである。しかし、こういう本を朝の通勤電車で読むというのは少し体に良くないと思った。
アントニオ・タブツキの「島とクジラと女をめぐる断章」(青土社)は、ポルトガル領のアソーレス諸島を舞台にしたタイトルそのままの本だけれど、けっこう気持ちが良かった。ドライで透明な短い文章だ。
あとは、宮内勝典の「グリニッジの光を離れて」(河出文庫)と橋本治の「流水桃花抄」(河出文庫)を読んだ。前者は著者の体験をもとにした、ニューヨーク・グリニッジヴィレッジでのほとんど浮浪者に近い生活の話で、70年代の青春小説している。
仕事が一段落ついた。今月の締切りが過ぎたというか。ちょっと精神も安定しはじめている。
ちょっと前の話なんだけれど、ときどきお昼を食べに行くブラジル料理の店がある。きれいなブラジル人のウエィトレスが何人もいていい。ウエイターもいるんだけどさ。そこで、あるウエイトレスに声をかけられた。
「髪、のびたねー、いいねー」
ぼくの髪はポニーテイルのような状態だった。
「なかなかいいでしょ」
「うちのダンナもね、ほらあそこにいるでしょ、髪が長いの、いいでしょー」
「あの、ビールの影に隠れてる、ほんと同じだね」
ということがあった。髪を伸ばしているといろいろ言われるけれど、肯定的なことを言われるととてもうれしい。うれしいけど、最近はさすがにちょっとうっとおそしなったな。
きっと産経新聞なんていう右翼の機関紙は誰も読んでいないと思うけれど、その先週の日曜日の読書欄に「トーキングヘッズ」の編集長の鈴木孝が紹介されていた。写真入りでびっくりした。
「こちら葛飾区水元公園前通信214」95/06/17
13:50
今週はたくさん映画を見た。2本は映画館で、2本は深夜の録画でだ。
まずは台湾出身の女性監督シュー・リ・チンの「フレッシュ・キル」だ。台湾の蘭島は放射性廃棄物捨て場になっている。ここで採れる魚を食べていたら、ネコや人間が緑になっておかしくなりだした。主人公のレズビアンカップルの娘も緑になって行方不明だし、といった具合。ネコ缶の会社が放送局を買収していたりとか、スシバーナガサキでの人気商品は魚の唇だったりとか、そんなことが交錯しているのだけれど、気持ちいい映像なのであった。いちおうアメリカ映画で、登場人物のアメリカ人でありますが。で、みんな海の魚は食べなくなるし、ネコ缶会社も不買運動の果てにダイズの人造肉で育てたナマズを材料にしたネコ缶「エコキャット」とかを売り出すけれど、エコロジーもまた資本主義に取り込まれるという結論である。
のじが好きだったと記憶しているジャック・タチの「ぼくの伯父さん」も見た。前々から見たかったんだけれど、変な映画だったな。「男はつらいよ」を思いっきり淡白にしたような映画で、仕事に向かない叔父さんにはなかなか笑えるのである。話はというと、無職の叔父さんに対して姉は心配し、だんなに仕事の世話をしてもらうんだけれどちっとも役に立たなくて、困ってしまう。でも姉夫婦の息子、すなわち甥には慕われている伯父さんなのである。家庭の機械化が進む一方で、ごみはそのへんに捨てておくという時代の映像なのが、妙に悲しかった。フランスは日本より広いのに人口は半分、てなわけでごみはこれまで埋め立て処分をしてきているのだ。叔父さんだけじゃなしに、ホワイトカラー以外はみんな仕事する気がないっていうのがいいなあ。
スーザン・シーデルマン監督、フェイ・ウェルドン原作の「シー・デビル」は、別にたいした映画じゃないんだけど、原作がなかなかいいので録画して見たのだ。前半はなかなか原作に忠実にやっているけれど、それだけっつう気もする。メリル・ストリープは苦手な女優だけれど、まあ役ははまっていた。話はというと、経理士の夫がロマンス小説作家と浮気をし、主人公の妻を捨てる。妻は復讐を決意し、なかなか用意周到に笑えることをしてくれる。おかげで作家は化けの皮が剥がれていくという趣向。原作はなかなかグロテスクなまでにいろいろやってくれるので、おすすめしてしまうんだけど、映画はまあアメリカ製ということで軽く作ってあって、ラストもハッピー・エンドとなっている。この作家の役がメリル・ストリープです、念のため。映画はおすすめではない。
夕べ、やっぱりビデオに録画して見た、ニール・ジョーダン監督の「スターダスト」は泣ける映画だった。けっこうくるものがあったぞ。国書刊行会から出ている「チュニジアの夜」の中の短編を映画化したというところだけどね。ストーリーはいたって単純、親子でクラブでサックスを吹いているという息子が主人公。母親は死んだことになっている。彼が女友達と海岸を歩いていて、中年の女性と出会い、彼は恋に落ちる。でも彼女は彼を拒否する。彼女は母親だったからだ。でも、父親はなかなか事実を教えてくれないし、息子は止まらない。作家志望の女友達が人の心理をいろいろ的外れに考えてくれるんだけれど、巧妙に物語をリードしてくれるし、話がどろどろになるのを避けてくれる。とまあ、話は単純なのに、ジャズのズタンダードナンバー「スターダスト」などの音楽が上手に使われていて、くるんだよな。母親は息子と会って、彼に何をしているのかと尋ねる。
「親父と一緒にサックスを吹いている」
「上手なの」
「親父の遺伝だ」
「母親の遺伝はないの?」
母親は女優であり歌手であるからね。なんかこういう会話の巧妙さといい、傑作だよなん。ニール・ジョーダンの場合、この他「モナ・リザ」とか「クライング・ゲーム」とか、みんな音楽がうまく使われていて、好きな監督なんだな。あとは「狼の血族」が見たいと思う。「インタビュー・ウィズ・バンパイア」なんて例外的につまんない作品のような気がしてきた。
島田雅彦の「夢使い」(講談社文庫)は、気合が見事なくらいに空回りしている楽しい本だったな。
リュス・イリガライの「ひとつではない女の性」(頸草書房)は、フェミニズムのクラシックというような本。いわゆる「女」という性は「男」という性によって、これまでその反対のもの、ネガとされてきた。つまり「女」は「男」という性の存在によってはじめて定義されるものだった。だが、どうだろうか。女性が自分自身を取り戻すために、自分の性を自分のもの、固有のものとしてみては。「私」は「私」という性ともつ。
イリガライは精神分析なども専攻しており、フロイト批判として、女性の性を精神的にも男性のネガとするフロイトを批判している。女性の快楽が小さなペニスとしてのクリトリス、そしてペニスのネガとしてのヴァギナに規定されているというのはおかしいと。クリトリスを小さなペニスととらえることで、女性も幼少時に男児と同じくエディプス期などを迎えるのだけれど、それはおかしいのではないか。クリトリスはクリトリスであり、ヴァギナはヴァギナであり、そして乳房は乳房であるという。快楽は男性の性器によっては規定されない。
本書は女性が唇によって語ることをもってして、レズビアン的な雰囲気をもっており、松浦理英子の「ナチュラルウーマン」につながる本ともいえる。だが、この後の著作「基本的情念」ではもっと男性に歩みよっていて、以前、メールにも書いたように、男性と女性という性をはっきりさせてしまうことに批判してしまった。でも、イリガライに対する見方は大きく変わってしまった。男性もまた、ペニスによって規定されているが、男の性もまた一つではない。むしろ、イリガライは後の著作で、性として他者を求めていると解釈できるのではないだろうか。「基本的情念」ではレズビアンフェミニズムと反すると思ったのだけれど、性が一つではない以上、そうした壁もまた不要ということになる。誤解のないようにいえば、なお男性・女性という性差はあるし、それは一方が他方によって規定・定義されるものではなく、右手と左手のようなものだということなのだが。
髪も切ってしまったし、たまっていた「日経サイエンス」のバックナンバーも半分くらい処分してしまった。毎月買っているんだけれど、読む論文は3本くらい読めばいい方なんだよな、実は。今月の「日経ジオグラフィック」は脳の話がいい。脳を半分とっても、まあ何とかなるっつうあたり、すごいなあとか思ってしまった。どんな感覚なのかなあ。海馬が傷ついて記憶喪失になることとか。昔の自分って死んじゃったようなもんなのかなあ。考えると怖いよな。
金町にいると海は京急沿線が近いなって思う。あと、意外と小田原は楽かなあって思ってはいる。
最後に、前に書きそこなっていた、女の子の産み方を紹介しておく。「ニューフェミニズムレビュー」にレズビアンが子供を持つという話があったのだけれど、これは精子銀行から精子を入手してつくるのだ。人工受精ではなく、スポイトで精子を入れるというわけで、なんか想像すると変だ。やり方は、まず排卵日の2〜3日前、膣を酢などで酸性にして精子を注入する。男姓になる精子は小さいために早く排卵管に達するため、女性のなる精子が間に合うように、この日程になる。また、男性になる精子は酸に弱いということもある。かくして、レズビアンのカップルは娘を持つことができるのだそうだ。フランスでの話である。まあ、男の子の両親がレズビアンだったりしたら、ちょっとつらいと思うもんな。ちょっとやだな。でも、フェミ男君に育ったりして、おもしろいかもしんないな。ゲイのカップルの場合、自分で産むことはないから、こういうことはない、な。たぶん。両親がゲイだったら、やっぱりちょっとやかもしんない。人格は認めても、いじめられそうだもん。そういう話ってあったような気がするけど。
「こちら葛飾区水元公園前通信215」95/06/20
06:50
つい欲しくなって、ジャック・タチ監督の「ぼくの伯父さん」のサントラを買ってしまった。テーマを聞いていると、けっこう幸せな気分になれる。人生なんて、てきとうに楽しくやればいいんだなって。あと、前から欲しかったジョイスのCD「REVEN DO AMIGOS」も買った。夏はラテン系である。次は小野リサでも買おうか。
今週は日本酒センターで長期熟成日本酒の試飲をしていたので、いろいろと飲ませてもらった。長期熟成というのは要するに古酒なのだけれど、低温貯蔵と常温貯蔵が会って、単純ではない。常温で熟成させると老酒のようになるのだけれど、低温貯蔵すると、ちょっと深みのある味になるかやっぱり老酒になるかのどちらかである。いずれにしろ、くせの強い酒になるので、絶対に好き嫌いは分かれるし、高いので人に勧めることはないのだけれど、それでもおいしいものがあったりして。天狗舞や朝日山の古酒はなかなか良かったと記憶している。
今回は愛知の酒、敷島の純米吟醸古酒12年がなかなか深い味があって、ただそれはある程度の甘さもるのだけれど、それも含めて良かった。同じ敷島にが原酒の古酒があって、こちらはアルコール度数が30度だ。趣はブランデーだな。濃厚すぎる。こんな酒もあるのかと、ちょっとショックだった。あとは舞姫純米10年とか、若緑10年大古酒とか、低温貯蔵の酒が概して好みである。ということで、古酒に関しては低温貯蔵がいいということになる。貴醸酒のように、仕込みに水ではなく酒を使ったものは、とろりとした甘さがあって、少し味わう分にはとてもいい。
そういえば「美味しんぼ」では日本酒特集という具合でやっているけれど、いちおう本醸造にはそれなりの意味はある。江戸時代、酒の腐敗を防ぐために焼酎で割ったことがことの始まりだ。でも、吟醸酒がブームになったという陰には、実は吟醸酒を流通させること自体、歴史が新しいということがある。もはや腐敗の心配のない現在、日本酒がむしろ馥郁としたものに変化していくのは当然のことだし、日本酒の価値なんて、自分でそう思うしかないといったところだ。○○寒梅とかって、だいたいは本醸造クラスを飲ませられわけで、たいしてうまいわけがないよなって思う。でも日本酒がそういったものになればなる程、一升瓶が遠くなる気もするのである。今のぼくは一升瓶を買おうと思わないもんな。ただし、上の世代にとっては、醸造用糖類とかが入った酒が日本酒だし、水のような酒がうまいというわけで、その人たちの味覚を否定するのは良くないんじゃないかなって思うけど。まあ、いまだにそういう酒ばかりがはびこっているのは迷惑であるが。
ぼくは純米吟醸を4合瓶で買えればいいやって思う。
「こちら葛飾区水元公園前通信216」95/06/25
06:05
本屋に行ったら、SFマガジンが出ていたのだけれど、そのとなりにミステリマガジンもあった。どちらもホラー特集である。さらに隣には野性時代まであって、これもまたホラー特集である。夏だと言ってしまえばそれまでだが、実はフェリシアの次号もニューゴシック特集なのである。今年の3月には出すと言っていたのに、何もしていない。いけないよなあ。そもそも村上春樹はゴシック小説である、というところから考えたんだけどさ。
鷺沢萠の「愛してる」(角川文庫)を読んだらちょっと悲しくなった。別に悲しい話じゃないんだけど。20代前後の男女を主人公とした、ファッサードという名前のクラブを中心とした連作短編集なんだけれど。クラブをSF同好会の部室に置き換えれば、ちょうど同じ時代があったような気がしてくる。あの時代って、よく考えるとすごくわずかな時間でしかなかったのに、遠くなってしまったことを考えると、悲しくなるのである。戻ったからってどうなるものでもないんだけどさ。
今週は世代も書かれた時期も違う3冊のいわゆる文芸評論というやつを読んだ。
高橋和己の「新編 文学の責任」(講談社文芸文庫)は25年くらい前に書かれた本。新聞小説を通して大衆に入っていく文学の責任をはじめ、埴谷雄高、武田泰淳、魯迅など。ついうっかり現実の政治的な方向に筆が滑ってしまう勢いが好ましい。
次いで以前からぼくが嫌いだと言っていた柄谷行人の「終焉をめぐって」(講談社学術文庫)。大江健三郎、中上健二、村上春樹をはじめ、武田、埴谷、坂口安吾など。
そして、荻野アンナの「アイラブ安吾」(朝日文芸文庫)となる。
「終焉をめぐって」は昭和の終わりについてから始まる。年号を西暦ではなく昭和としたとき、これが書かれた1989年はたしかに昭和の終わりであった。しかし、明治と比較したときに、昭和もまた1970年頃に終わっていなくてはならなかったということだ。明治22年の憲法公布と昭和21年の新憲法公布、明治43年の大逆事件と昭和43年の全共闘運動、明治45年の乃木稀介殉死と昭和45年の三島由紀夫自決、という具合。昭和はこのあと延長戦に入って、ようやく1989年に終わることになる。でもね、だから何だと思ってしまうところが、ぼくが柄谷行人が嫌いなところなんだ。昭和という言葉にはとりたてて価値を見いだせないし、戦前・戦後といった区分の方がまだ意味がある。それは江戸時代が終わったあとの延々と続いてきた近代・帝国主義がまだ終わっていないということでもある。武力による植民地主義から経済による植民地主義に、戦争をきっかけに変化し、成功したというだけのことなのに。柄谷の言う昭和の終わりは、あの悪い時代が、終わっていないにもかかわらず、無理やり終わらせているような気もしないでもない。
柄谷の言う昭和の終わる少し前、その時代を密閉した容器を含んでいるのが村上春樹の小説ということになる。「万延元年のフットボール」のパロディのようなタイトルである「1973年のピンボール」でも、この時代のことが暗示されている。大江が近代の日本を神話にしようとしたこととは逆に、村上はただぽっかり開いた闇とするしかないのかなあって思うけど。
あの時代に書かれたのが高橋の本で、本人の積極的に前向きに時代に関わろうとする意思とは逆に本人は死んでしまうんだけど。埴谷雄高の「死霊」もまた、共産党時代がつねに暗示されているという。
荻野アンナはこういった流れからずっと自由になっている。何たってラブレーの人ですから、17世紀フランスですからね。そこから安吾というわけだ。そういや日本のラブレーの研究者といえば渡辺一夫、大江の師ということになるな。安吾のココがいい、アソコがいいと言われても困ってしまうんだけれど。ここはいっそ、もっと大きいスケールで時間を見たらいいとは思う。荻野が安吾を語るにおいて、戦争があったということが欠落しているのは、いいことかもしれない。歴史としてあったことだけれど、日本人の精神は何らかわることはなかった、というのが50年後の見方なのかもしれない。だとしたら、戦前・戦後といった区分も無意味になるでしょ。そうじゃなくて、シミュレーションノベルの流行をどう説明する?
戦後50年というのは、銃をブリーフケースに持ち替えた50年なのかもね。
ジョン・カーペンター監督の「マウス・オブ・マッドネス」は、話はセコイけど、よくできていたし、やっぱりサム・ニールの好演によるところが大きい映画だったな。ああいうのをメタ・ホラーというのかな。でも、メタ・ホラーにしてしまうことで、物語が円環構造の中に入って閉じてしまうことで、見ている観客の世界とは確実に隔離される。つまり、ホラーだけれども何ら現実世界に関係のないホラーということになる。映画が終わってしまえばおしまいということが、いいのか悪いのかはわからないけれども、ぼくにはつまらない。「デモンズ3」の方が好きだな。
ミスター珍が死んでしまった。ショックである。うちの母親には「透析しながらプロレスをしている人もいるんだよ」って言ってきたんだけど。
「こちら葛飾区水元公園前通信217」95/06/30
06:54
ニコルソン・ベイカーの「フェルマータ」(白水社)はぼくは好きです。時間を止める能力を持った主人公が、女性の服を脱がすという、夢のような話です。どうしてって、やっぱり歩いているきれいな脚とか、向かってくる女性の胸とか、どうしても目がいってしまうようなものです。毎週プールに行っているけれど、泳いでいる女性を見るのは好きです。まあ、じっと見るわけにはいかないし、そもそも泳ぐことが目的なんですが、勝手に目に入ってくるのはしかたないかなあって。クロールで水中をキックする脚の筋肉に並んで泳ぎたいし、平泳ぎをする女性の腿の内側を追いかけたいし、向かって泳いでくる女性の胸の谷間にはどきどきするけれど、そういうことはしないのである。そういうことをしてしまうのが、ベイカーの小説なわけで、だから夢のような話なのだ。どうでもいい記述にあふれた本だけれど、それは読むことの至福を感じさせてくれるためのもので、別に意味なんかないというのがいい。
ジュリア・クリステヴァの「はじめに愛があった」(法政大学出版会)は精神分析の本でよくわからなかった。
あとは、原田宗典の「東京見聞録」(講談社文庫)を読んだ。
今夜はひさびさによくわからない映画を見た。ジャック・オディアール監督の「天使が隣で眠る夜」である。
そんなものよりおすすめなのが、アン・リー監督の「ウエディング・バンケット」で、先日NHK教育で放映されていたものを録画したんだけれど、いいんですよ。詳しくは後日。