1997年8月


「こちら葛飾区水元公園前通信315」送信日時97/08/09 11:32

 何かよくわからないうちに今年のぼくの夏休みは終わってしまった。一日は出勤したし。まあ、これは代休をとるからいいけど。
 かみさんは今週の木曜日から夏休み状態である。いいなあ。

 先週の土曜日(2日)は石川と葉山に行きました。釣りです。今回の最大の収穫はクロダイだったので書いてしまいます。さして大きいわけではないのですが、けっこう満足してます。塩焼きで食べました。あとはいつもどおりですが、石川はナマコまでつかまえまして、これはナマコ酢でいただきました。

 翌日(3日)はかみさんと「エヴァンゲリオン」を見に行きました。これについては、「トーキングヘッズ」に書いておかなきゃってなもんですから、ここには書きません。庵野という人は「The Great Animation Swindle」ってなところでしょうか。これは批判半分、褒め言葉半分です。次回作は村上龍原作「ラブ&ポップ」を実写でということですが、まただまされるのでしょうか。

 先日は出張で北陸に行きましたが、今回はばたばたしてろくに観光してません。帰りはできたばかりのほくほく鉄道経由で帰ってきたのですが、これを使うと富山は意外と近いという気がします。往復でジェフ・ヌーンの「花粉戦争」(早川文庫)を一気に読みました。
 「花粉戦争」は前作「ヴァート」と同じ未来の世界を舞台にしています。ヴァートとは羽の形をしたドラッグのようなもので、これによってヴァート界にトリップできます。ヴァートの最大の特徴はその現実感にあり、この夢の世界から物を持ち出すことすらできますが、交換法則があって、その代わり別のものをヴァート界に残さなくてはならないのです。前作は妹をヴァート界に残してしまい、これを救出しようとする話でしたが、今回がヴァート界からやってきた植物が花粉症をまきおこすという。登場人物も真正人間、シャドー族、ロボ族、ゾンビ、ヴァート族、犬族という人種に分かれていますが、今回はどうしてこんなに人種がいるのかという説明もされてはいます。SFというより、オリジナリティの強いファンタジーとでもいう作品で、なかなかはまります。60年代の曲ばかりかけるDJとか、犬のタクシーとか。好き嫌いはあるだろうけど。
 あと、最近では虹影の「裏切りの夏」(青山出版社)も読んだ。舞台は天安門事件の中国。主人公の女性は多くの男性を含めた仲間との間に翻弄されつつ、という話なのだけど、読んでいて思うのは、彼女による天安門の記述が同時に男性批判になっているという点にある。当時の学生は世界を革命するためには殻をやぶらねばならないと感じていたが、その殻の一つが男性支配だったということに気づいていたかどうか。そういう本だったような気がする。
 それからモーリス・ブランショの「明かしえぬ共同体」(ちくま学芸文庫)も読んだけど、むずかしくてよくわからなかった。
 ミステリ・マガジンの8月号(先月号)は買いかもしれなかった。何せ、ホラー特集なんだけど、収録されてる作家がジョイス・キャロル・オーツに「もしもし」のニコルソン・ベイカー、「ブル&コック」のウィル・セルフ、そしてポール・セルーだったんだから。おまぬけなジャガイモ・ホラーあり、謎の死んだ人の町あり、ってなもんです。
 今はブル─ス・スターリングの「グローバル・ヘッド」(ジャストシステム)という短編集を読んでいるんだけど、この人って、ほんとに小説を書くのが下手なのかもしれない。着想は刺激的だし、問題意識も強いし、それなのにって。そのあたりがダメっていう人はスターリングを読めないだろうなあ。

 最近、金町にスリランカ料理店もできたようなので、今日さ早速行ってみようと思う。前回のアフリカ料理に続いて、葛飾エスニック第三弾ですね(第一弾はやはり立石にあるタイ料理店)。

 そういや、ウイリアム・バロウズが死んじゃいましたね。実は特に思い入れがある作家ではなかったし、まだ生きていたんだってなもんではありますが。ぼくとしては彼の作品は「映画:ブレードランナー」(トレヴィル)だけ読めばいいと思ってます。とっても薄いけどバロウズのおきまりのものはだいたい入っているし、何より読んでいて何が書いてあるかわかるんですから。

 ますます夏ってなもんですね。雑誌の締切りに追われた反動で、今日はちょっと疲れ気味です。


「こちら葛飾区水元公園前通信315.1」送信日時97/08/10 09:30

 昨日(9日)は銀座の香水瓶美術館に行ってきました。ルネ・ラリックのデザインの瓶だたくさんあるという、小さな美術館でした。かみさんはその小ささにがっかりしていましたが、まあ、私設のこのテの美術館としてはこんなもんだろうってなもんです。シネスイッチ銀座と同じビルにあるので、時間があったらどうぞってなくらい。でもまあ、アール・デコとか嫌いじゃないので、いいんですけど。
 その後、うっかり山野楽器に入ったのがまずかった。「少女革命ウテナ」のサントラを買っちゃったのですから。「もくし しくも しくも もくし」ってな具合で、見てない人は何のことかわかんないでしょう。毎週決闘する学園アニメで、薔薇の花嫁をめぐって戦うのだけど、そのあやしいレズビアンの雰囲気とか、世界の果てに何があるかさっぱりわからないとか、画面ではひたすら薔薇の花がくるくる回ってるとか、そういうものなんです。音楽も宝塚なんだかプログレ・ハードなんだかよくわからないってな具合です。まあいいか。
 銀座熊本館では甘夏乳酸飲料ときなこ牛乳を飲み、プランタンで座布団カバーとバスタオルを買うというわけでした。

 さて、金町のスリランカ料理屋は、けっこう地元になじんでいる雰囲気でした。混んでたし。カレーはココナッツミルクが入っていて甘いのですが、他の料理は全体にスパ
イスが効いていて、ちょっと辛め。カシューナッツのカレーは絶品。ナンのかわりにお好み焼きのような発酵させてないパンです。土曜日の8時からは生バンドの演奏もありますが、パーカッションとシンセ/ギターの二人がトラディショナルな曲を演奏しているってなもんですけど。アルコールは日本のビールの他に、タイのシン・ハーとエレファントビール。シン・ハーはめずらしくないけど、象印ビールはタイ帰りの安藤によるととてもまずいということでした。でも、変な苦みがあっておもしろい味でした。あとは、アラックという椰子で作った蒸留酒。ラム酒みたいな味。なかなかいけます。
 でもまあ、こういう暑いときに辛いものを食べるっていうのはいいですねえ。

 今週の「ティガ」は、1965年にタイムトリップして円谷英二に会うというとんでもない話でした。やってくれるなあ。来週はいよいよティガの正体がばれしまうらしい。そろそろ最終回だもんなあ。


「こちら葛飾区水元公園前通信316」送信日時97/08/13 00:20

 世の中、夏休みということで、通勤電車なんかも空いてたりして、仕事をする気にならない。何だか、ぼーっとするために会社に行ってるみたいだ。いやいや、今日だって地球温暖化防止京都会議に関する原稿を書いたぞ。

 ブルース・スターリングの「グローバル・ヘッド」を読みおわった。読んでいて思ったのだけど、イスラムとかソ連がたくさん出てくる短編集なんだけど、そこには直観的な反アメリカニズムがあると思うのだな。これはヴォルマンで感じた政治的正しさに基づく脱アメリカではなく、グローバルに理性的に判断された、アメリカの限界というものなのではないかって思う。それはいとうせいこうがイスラムをテーマに「ワールズ・エンド・ガーデン」という小説を書いたことに似ている。単にアメリカや日本が閉塞的な状況にある、これを外から見ようとして、共産主義やイスラムを持ってくるという。そういう点で刺激的なものは含んでいるのだけど、「ワールズ・エンド・ガーデン」と同じく小説として下手なんじゃないかってつい思ってしまう。収録作品のうちでは「我が神経のチュルノブイリ」みたいに書評形式だったりするとかえって面白かったりするくらいだもんな。でもまあ、SFファンの話題くらいにはなるだろうな。

 ということで目立った話はないのですが、和久井とともに変なものを食べて過ごしています。缶詰のフェイジョアーダ(ブラジル風黒豆シチュー)やゴーヤーサラダ・フェタキューブ風味(チーズのハーブ入りオリーブオイル漬けのオイルのみをドレッシングに使う)とか、沖縄のタラコの缶詰とかインスタント・ミーゴレン(インドネシアの焼きそば)とか、謎のピータン(実は鶏卵)とか、バジル・シード入りジュース(バジルの種がまるでカエルの卵)とかフィリピン風みつ豆(牛乳をかけて食うが、小豆がぼりぼりと固くてうまい)とか、熊本の豆腐の味噌漬けとか、生の野菜パパイヤの千切りとか、きびごはんとかアマランサスごはんとかそんなもんです。和久井は和久井で今日は中華街で文化大革命のときに中国人全員が持ち歩いていたと言われている毛沢東語録の赤い表紙の小さな冊子を手に入れてきました。前の持ち主の書き込みがあったりして、なかなかのもんです。これからは毛沢東の思想について勉強するそうです。


「こちら葛飾区水元公園前通信316.1」送信日時97/08/13 21:31

 いきなりオアシスノートが壊れた。ということで、今は古いオアシスでこれを打っている。
 まいったなあ。
 ということで、これを機会に、やはりパソコンを買うしかないかなって思っている。
ノートであること。
 オアシスの文章がそのまま使いやすい環境であること。
 文章が書きやすいことが第一なんだけどね。
 なんて考えていたら、ビブリオかなあ。
 なるべく安くとは思っているけどさ。パソコンということで、FILLYに入っているイラストは見られるようになるだろうけどな。これはいいことだ。
 明日は盆休み(っていつのまにかそういうことになった)、18日は夏休みの代休、というわけで、仕事をする気にならない。といって、世間は夏休みで取材にもならないから、秋葉原をぶらぶらして、ついでに献血までしちゃった。


「こちら葛飾区水元公園前通信317」送信日時97/08/16 11:28

 死刑についての反論。
 ぼくは死刑は不要、どころか廃止すべきだと思っている。国家があえて殺人を犯すというのは、問題あるでしょ。
まず不要であることから。死刑は被害者にとって何の意味もないということ。なぜならば、被害者はすでに死んでいるわけであり、死刑を実施したところで、何も回復しない。
 では遺族というところから見てみる。この場合も不毛である。同様に死んだ人が帰ってくるわけではないし、受刑者が死んでしまうのでは、遺族と同じ苦しみすら味わうことはない。もし遺族が受刑者に同じ感情を味合わせたいと思うのであれば、受刑者の肉親などを死刑にすべきなのだが、そういうわけにもいかないだろう。
 犯罪の抑止効果と言う点でもすでに破綻しているのは、現実を見れば明らかだ。刑としては無期懲役(といっても、たいていは途中で出所するんだけど)でも十分ハードだと思っているし、抑止効果としては、こういう人たちを逆にいかに保護し、社会復帰させるかということなのではないだろうか。最低限の健康で文化的な生活をいかに保証していくかということ。
 受刑者の人権ということを見てみる。まず、国家がいかに犯罪者に対してとはいえ、生命を奪う権利があるのか、この点には確実に疑問がある。が、実はこの点についてはぼくも確実な反証はない。
 しかし、受刑者の人権をもう少し考えていくと、それは権利だけではなく、義務も含まれているのではないかと思う。死刑という制度は、受刑者の権利だけではなく義務も奪っていると考える。仮に受刑者に肉親がいたとしよう。その肉親から受刑者の存在を奪う権利は誰にもないはずである。とりわけ、子供がいる場合は深刻である。たとえ受刑者であっても、親はできるかぎり何らかの義務を子供に対して持っている。たとえ刑務所にいたとしてなお、生きている限りは子供にとっても何らかの意味はありはしないだろうか。まして、何らかの教えを受けることもできるだろう。それは、子供にとってはかけがえのない財産であるはずだ。これは子の権利である。この権利を奪う権利がいったい誰にあるというのだろうか。
 親子関係だけではない。というかそもそも、親子も多様な人間関係の一つにすぎないし、だからこそ親は偉いとかそういうことは言いたくない。親も子と同様、対等な人間である。そこで、受刑者の一般的な人間関係に拡張する。いずれにしろ、殺された人と同様の悲しみを、何の罪もない受刑者の周囲の人間も感じることになる。それどころか、日本の社会は平気で容疑者の家族のプライバシーすら踏み込むという。このことがいかに人権問題としてひどいものだったかは、記憶に新しいことだろう。
 さて、永山則夫の場合、ことは非常に明快である。実は永山氏の小説はまだ読んだことはないのだけれど、優れた作品を書いてきたらしいと聞いている。ということは、彼の作品を好んで読んでいる人もいるわけだ。ところが、その人たちはもう二度と永山氏の新作を読むことができなくなった。これは、無形の財産の喪失である。さきほどの論理でいけば、いったい誰にこの財産を喪失させる権利があるというのか。逆にこの論理を拡張すれば、ほとんどの受刑者を死刑にするということは、無罪の人の権利を奪っていることになる。
 受刑者が財産だということは、かなり深いものがある。受刑者のうち実際に犯罪を犯した人は少なくないが、そうした人が抱える闇はどうなるのだろうか。その闇は死刑とともに永遠に葬られる。たとえば、三菱重工爆破事件を考えてみる。この場合、なぜ爆弾テロに及んだかといえば、当時の日本が東南アジアで不当な搾取を展開していたからではなかったか。この事件の受刑者は死刑が確定しているが、彼らを死刑にするということは、こうした日本の企業への告発もまた死刑になることを意味している。死刑とは別に問われるべきことが放置されている。
 最後に、では被害者の遺族の場合どうなるか。それは何らかの救済措置が必要だというのが現実的だろう。生命の喪失の場合、十分な保障は不可能だとしてなお、航空機事故のような補償が必要かもしれない。だが、そうした必要性を放置したまま、感情論に訴えて容疑者を死刑にすることだけで済ませてきた国家というのは、これは政府の怠慢であるとしか言えない。

 昨日は映画「百貨店大百科」を見てきました。フランス映画です。身売り寸前の百貨店を新社長が立て直すという話で、まず社員の意識改革に乗り出すあたりは、「自己啓発セミナーか」と心配になりましたが、そんなことで簡単に染まるフランス人ではありませんから、なかなか笑えます。社長だって完璧ではありませんから、ぼけをかましてくれるし。決してハッピーエンドではないところがヨーロッパだなって思うのですが。そこまでの過程はなかなか飽きさせずに見せてくれました。

 黒孩の「惜別」(紀伊国屋書店)も読みました。現在日本にいる中国の作家。夫のいる女性が男性と出会い、目覚めるけど家庭があって、でもまあやっぱり夫も愛しているし、ってな、最初はウェットな作品でした。ただこうやって読んでいくと、文化大革命、あるいは共産主義は中国の儒教思想を壊したんだなっていう面が見えてきます。女性は男性の所有物ではない、そのことが女性を自立させ、共に共産党員として労働に従事した経験が、意識を変えた。それが文革以降、吹き出す。同じことがたとえば虹影の小説にも見られたし。その点は面白いなって思う。
 ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩集「橋の上の人」(書肆山田)も読んだ。わかりやすいけど、政治的な意味もこめられていて単純ではない、そういう詩です。けっこう気に入ています。


「こちら葛飾区水元公園前通信317.1」送信日時97/08/18 08:49

 死刑についての再反論
 まず、「死ななきゃ直らない人もいる」とのことですが、ではその判断はできるのか、疑問です。現実はそういう判断はしていません。犯した犯罪によって刑を判断しています。事実、永山則夫氏が死ななきゃ直らない人かどうかは疑問ではありませんか?
 先に殺したもん勝ちかどうかはどうでしょうか。殺したからといって、勝ったかどうかは考えてみる必要があると思うのですが。
 踏みにじられた被害者の人権といいますが、ではいったい何が失われたのか、この点も考えてみるべきです。失われた人生を他の人生を奪うことで回復できるわけではないし、結局被害者の人権は失われたままです。だとすれば、どうすれば被害者の人権が少しでも解決できるか。被害者にとってプライオリティが高いのは加害者の生命を奪うことなのかどうか。そうではないからこそ、まず被害者の関係者、残された遺族などに対する補償が必要だと言っているわけです。「すでに死んでいる被害者」は、何の意思表示もできません。その人に代わることなんてできないじゃないですか。
 加害者も服役という形で権利は限定されるものの、同時に多大な義務もあるわけです。これを少しでも果たしていく権利はあると思うのです。生命は尊いものだと言われていますが、それをさらに喪失させる必要があるのかどうか。たとえ重罪を犯したとして、その生命は価値がないものなのか。ないと言ってしまうにはあまりに乱暴すぎます。
 本質的には犯罪にたいして懲罰で対応するというのは、野蛮だと考えています。そうではなく、必要なのは加害者をいかに救済するかでしょう。話すと長くなるからやめますけど。


「こちら葛飾区水元公園前通信318」送信日時97/08/21 11:37

 死刑廃止って思う根本は、実はたとえ囚人であっても、人が死ぬのはいい気持ちがしなかったからです。ただ、後に麦の会という死刑廃止運動にかかわっている友達がいたりとか、そういうことがあって、自分の中でいろいろ考えてきたことなのですが。
 もう一つ、例えば手塚治虫のまんがに出てくる「間久部録郎」のような悪人の存在って何かなって。彼のまんがには絶対悪も絶対善も人格としては出てこないし、これに限らず、あるいは村上春樹でもいいのだけど、そういう人間の闇に作品を通して触れ、あまつさえ「フェリシア」でSFなどを書いていたりしていたから、やっぱり死刑で片づけられないなって。
 さらに、仏教徒ですから、発想の基本として、人は救われなきゃって思ってるし、悪人こそ救われるべきって、キリスト教もそうだけどさ。そういや、キリスト教の影響だと思うのだけど、死刑を実施している国の方が少ないしな。
 ただ、こうしたことは自分の中で論理的につながっていかないので、死刑廃止の強い根拠にはしませんけど。
 もう一つ、書いておきたいことは、死刑に限らず、しばしば人権がからむ問題では、議論をしていていらいらすることが多い。最近、「教師は聖職か」という論争をしたのだけど、そこでも、同じことになった。基本的人権と言うときに、多くの問題は思考することなく、慣習によって決めていないかって思う。聖職ということで人権がおろそかになっていないか、あるいはホームレスの問題も、外国人労働者の問題も、一方の人権を考えると他方の人権が成立しないという議論になってしまう。そこで論争が終るのが普通だけど、でも成立しないということはどこかに問題があるからで、そこになかなかたどり着けない。そういういらだちがあるのです。
 オウムの教祖も宮崎勤も安部英もすでに死んでいるヒロヒトも死刑にするべきではない、あるいはなかったと思っているし、この四人を挙げたのはランダムではなく、罪の犯しかたも考えられる、ないしは下された刑罰もさまざまなものを選んでみました。

 この最後の夏休みの日、矢野とかみさんとナンジャタウンに行ってきました。これは池袋のサンシャインシティにある、ナムコのアトラクション施設で、1955年頃をモデルにした雰囲気が特長。なかなかよくできているってなもんです。
 ここに「銭湯クイズどんぶらこ」というアトラクションがあります。これはたくさんの人がマシンに乗って、三択クイズをやり、得点を競うというものです。けっこうみんな見てたりして、おまけに施設内のモニタには中継されているしというものです。でもまあ、ということで、矢野と乗り込みました。さて、クイズ開始。その回のテーマを見て、愕然としました。テーマは「アニメ」だったのです。瞬間「これはまずい」と思いました。結果は、一等賞のワッペンをもらいました。まあ、アニメといっても、キャシャーンとかガッチャマンとかだしなって、苦手なものばっかだな。あとはハクション大魔王にタイガーマスクにタイムボカンか。
 すごく恥ずかしかったぞ。


「こちら葛飾区水元公園前通信319」送信日時97/08/25 10:46

 公園のセミもアブラゼミからツクツクホウシに代わってきた。いよいよ夏も終わりであるなあ。しみじみ。

 この22,23日と、福島県広野町にあるJヴィレッジに取材に行きました。サッカーの日本代表の練習風景とか、サッカー少年とかの写真を撮影してきました。でも、サッカーはやっぱりやるもんだな。天然芝の上を走るのはけっこう気持ちいいもんです。公園の芝生とちがって、手入れも行き届いているし。おまけのアスレチックジムのプールで泳いだら、ひさびさに脚がつってしまいました。まだ痛いな。

 福島往復で村上春樹の「レキシントンの幽霊」(文芸春秋社)と「夜のくもざる」(平凡社)、それに高橋源一郎の「ゴーストバスターズ」を途中まで読んだ。
 それと、アントニオ・タブッキの「フェルナンド・ペソアの最後の三日間」(青土社)読んだな。あまり語ることはないけど。
 あとは、紀伊国屋書店から出ているアジアの女性作家シリーズを読んでいるのだけど、これがなかなかおもしろい。というか、アジアの不倫シリーズってなくらいです。シンガポールの不倫にインドネシアにベトナム。まだ台湾と韓国が残っているけど、これに前回紹介した中国の作家、黒孩の作品を加えれば、なかなかアジアの不倫に詳しくなれそうです。これについては、この次に書きます。

 今日は事情があって、会社を休んでいるのだが、涼しい一日になりそうである。今年もエアコン無しで過ごしているが、まあ、やっぱり必要ないものだなあと思うのだが。エアコン一台でビールが何本買えるか計算してみよう。


「こちら葛飾区水元公園前通信320」送信日時97/08/30 09:11

 最近は夜はすっかりコオロギの声である。秋である。

 先週から今週にかけて、紀伊国屋書店のアジアの女流作家シリーズ5冊を一気読みした。別の女流ということはどうでもいいんだけど、こういうシリーズで女流っていうくくりはよくあるからな。
 全体から言うと、このシリーズはけっこう面白かった。おすすめしてしまう。
 シンガポールの作家、孫愛玲の「斑布曲」は、主人公が死んだ父親の経営するろうけつ染めの工場の跡を継ぐ話。主人公はいきなり工場を継ぐ羽目になるのだが、そこには父親の後妻と血のつながりのない二人の妹がいた。ここで四人で暮らすのだが、まあどうなるかは、想像できるでしょ。でもね、けっこう身の振り方が泣かせます。義理の母親は十歳上だし、マッサージは上手だし、妹たちもなかなか美人だしって。「緑緑楊柳風」は若くして夫を亡くした女性が香港に留学に行き、中国系インドネシア人を恋に落ちるのだけど、シンガポールやインドネシアのモラルって、けっこうしんどいかなって。
 インドネシアの作家、テーハ・スリ・ラハユ・プリハトミの「廃墟の上に」も禁じられた愛の話ってか。主人公の女性は夫の他に第二の夫がいる。というのも、夫がもう一人の妻を娶ったから、それならってことなんだけど。もっとも、インドネシアの上流でクリスチャンということなので、再婚とか複数の人間と婚姻できるわけじゃない。だが、インドネシアの風習で二番目の妻を得る人もいる。さて、主人公はどっちかというと二番目の夫のことが好きなのだが、なかなか教会は許してくれない。というなかで、いろいろ苦労する話なのである。
 ベトナムのグエン・ティ・フエの「魔術師」の主人公は少女。両親は仲が悪く、離婚の調停の最中なのだが、なぜか夜は裸で抱き合っているのを目撃してしまう。そんなこんなで大人は魔術を使えると信じた主人公は早く自分も魔術師になりたいと、とにかく大人のことはよくわからないってな話。でも、離婚しようとする両親がけっこうおまぬけで、このあたりはいいな。「麗しの人」は美貌ゆえに婚期を逃してしまい孤独な生活をしている女性が主人公。でも、ベトナムでもまた、女性にとって結婚は拘束されることだっていうことがよくわかると同時に、そうじゃない生き方を選択するという考えも出てくるんだなあってしみじみと思う。
 台湾の朱天文の「世紀末の華やぎ」は、記号として日本がたくさん出てくる。「ナイルの娘」の主人公は自分の別名を松田聖子からとってセイコと呼ぶし。メンズノンノにロマンスグレー(という日本語があるそうだ)、川久保玲にカラオケ。もちろんアメリカ映画も出てくる。そういう環境で生活しているから。台湾って沖縄のちょっと南にある島だしね。そういう海外から文化が急速に流入してくる中で、やっぱり何となく孤独な感じがしてしまう、というのは、侯孝賢や蔡明了の映画とよく似ている。まあ、朱自身、侯の映画「非情都市」の脚本を書いているくらいだからな。
 韓国のシン・ギョンスックの「或る失踪」はもうちょっと暗い。戦争で行方不明になった兄をめぐる話で主人公は妹。朱が現在の孤独を描くのに対して、韓国人であるシンはどうしても歴史をひきずってしまう。そのあたり、韓国の所謂「恨(ハン)」という考え方なのかなあ。描写が精緻なんだけど、その分全体がとらえにくくって、楽しめなかったけど。
 アジアの不倫について書くと言ったけど、朱とシンはそういう話でもないし。まあ、男女のモラルの違いっていうのはいろいろあっておもしろいけど、並べて書くのはやめた。
 あと、今週は高橋源一郎の「ゴーストバスターズ」(講談社)も読んだ。ブンガクするってことがいかに不可能に近づいているかという話である。ブッチ&サンダンスの登場で始まるこの小説、映画や漫画を記号としてどんどん取り入れて水膨れしていく。でもね。書くと長くなりそうだから、今日はやめよう。おもしろいかと言われると、ちょっと困るけど。


戻る