「こちら葛飾区水元公園前通信346.2」送信日時98/03/01
15:28
今朝からいきなり雪なのでびっくりした。3月になったと思ったのに、また寒くなったりして。
それでも水元公園ではセリをとっている人がいたり、オオイヌノフグリやハコベの花が咲いていたりして、やはり春なのだろう。紅梅はとっくに咲いていたんだけど、白梅もずいぶん咲いていて、でも桜まではあと一月ってなもんか。
かみさんが飛騨高山ビールが飲みたいと言うので、薩摩ビールを買ってきた。デュンケルしか飲んでいないけど、そうたいしたもんじゃなかったな。いや、飛騨高山はおいしいんだけどさ。そういや御殿場高原ビールも飲んだな。安い価格で提供されてるから許す。
というわけで、夕べは香港─中国合作の「息子の告発」という映画を見た。NHK教育で放送されたもの。舞台は中国。当時14歳だった主人公には厳しい父親とその影で苦労する母親がいた。母親はある日、営林署の男と出会う。やがて父親が死んで再婚するのだが、主人公は母親が父を殺したという疑いを持っている。10年後、彼は警察に母親を告発し、検死が行われるのだが、という話である。
主人公は母親を愛しているし、母親も同様である。それなのにどうして告発するのは、ちょっと考えるとわからない。だからもうちょっと考えてみようというものだ。
重いし暗いし。でも中国の農村の風景がすごく印象的でねえ。雪ばっかり降っていてね。
最後はナショナル・ジオグラフィックの記事のこと。三回連載で、オーストラリア一周の自転車旅行の記事が載っている。この筆者がどうして自転車で一周なんてやることになったかというと、妻と別れたからである。いやあ、わかりやすくていいなあ。
まあ、彼はアメリカ人で結婚してオーストラリアに住むんだけど、15年間、実はこの国のことをよく知らなかったと反省し、別離をきっかけに、「何をしたらいいかわからなくなって」とりあえずオーストラリアを知ろうということなのである。
おおらかなのかただのバカなのか、文章はひたすら感傷的だし、こういうのは、好感が持てていい。載せてしまうナショジオもナショジオだけど。
「こちら葛飾区水元公園前通信346.3」送信日時98/03/03
22:08
最近は娘を寝かしつけるのに、ブライアン・フェリィの「スレイブ・トゥ・ラブ」を歌ったりして、ビデオクリップを知ってる人にはこれは笑われるかもしれない。
2月27日の産経新聞の3面を使ったウルトラマン特集は爆笑ものである。映画「ウルトラマン・ダイナ&ティガ」をやるんだけど、それに合わせて、するの剛士や吉本多加美、桜井浩子、ひそ美ゆり子などのインタビューなどなどで構成されているのだけど、それはまあいい。そこまでやって、最後は「ウルトラマンと日米安保」というコラムでしめくくってくれるあたり、さすが産経新聞である。
ようするに、日本が弱いからウルトラマンがいるように日米安保があると、そういう内容なんであるな。いやあ、今の製作スタッフが読んだら泣くだろうなあ。どう考えてもそういうところから遠いところで作ってるもんな。とりわけティガはねえ。
「こちら葛飾区水元公園前通信347」送信日時98/03/08
15:42
昨日から和久井が来ている。おみやげに松島ビールのエールをもらってしまった。なかなか深い味わいがあって、薩摩ビールよりもずっとおいしかった。
今日は散歩がてら、葛飾区の野菜直売場マップを持っていった。ネギと小松菜などを買ってきたのだが、やはり水元の野菜を和久井にも堪能していってもらいたいものである。
先週は元ジャーナリストによる本を二冊読んだ。
日野啓三の「台風の眼」(新潮文庫)は、ガンの手術をして回復途中にある著者が、育った戦時中の朝鮮や一高、そして新聞記者時代を回想しながら語るという、自伝的小説。でも、そうそう素直な記述をするわけではなく、記憶の断片が消えては現れ、感触だけが常に残っているようなせつなさでもある。最後はベトナムの取材の中で銃をつきつけられ、無事に帰ったら小説を書こうと決意するところで終わる。
こうして読んでいくと、ノーベル賞作家のクロード・シモンの「アカシア」(白水社)を思い出してしまう。シモンの場合も、戦争の記憶(ただし彼の場合は自分の従軍の記憶と父のやはり従軍の記憶が重なるのだが)から綴られていく。そしてラストは小説を書くことを決意して終わる。しかも、その感触だけが記述されていくから、筋が追えないといういかにもヌーヴォ・ロマンしているものなのだが、そう書いていくと、日野啓三の場合、わかりやすいヌーヴォ・ロマンともいえるかもしれない。書いているシチュエーションも、病後で毎日2〜3枚ずる書くのがやっとという状況だから、そのことの呼吸もまた作品に反映されている。
にもかかわらず、この小説は日野にしてはあまりにも自分にべったりしすぎていないかという不満が、読んでいる途中であった。でもまあ、最後まで読んで、その不満もどこかに消えたんだけど。日野の本としては、「夢の島」(講談社文芸文庫)のJ・G・バラードのような世界が好きだなあ。
辺見庸の「不安の世紀から」(角川文庫)は小説ではなく対談集。フアン・ゴイティソーロ(「サラエボ・ノート」の作者)やクリストッツァ(「アンダーグラウンド」の監督)らと、ボスニア=ヘルツェゴビナやオウムのことを語るというものである。語る中で、メディア批判などを展開していくのだが、サラエボに行った作家/批評家にはゴイティソーロやスーザン・ソンタグ(彼女はサラエボで「ゴドーを待ちながら」を上演した)しかいないこと、一方、辺見は地下鉄サリン事件のときに神谷町におり、人を助けないで報道に精を出す真面目なジャーナリズムや人を踏まないように早足で会社に向かうサラリーマンにオウム信者と同質の真面目さをみる。
おもしろいのは、辺見が人権とか共生という言葉がきらいだということ。言ってしまえば、そういう気分でことを済ましてしまう軽さ、そういうことなんだろう。正義というものが作られて、そこまではいいのだけど、何の説明もなしにそこにのってしまう市民感情、そのことがオウム信者と同質ではないかという。辺見はそうではなく、その奥底のもっと深い部分が重要だと考えているし、サラエボで上演された「ゴドー」にはそうしたことを越えたものがあるはずとしている。
そうしたことが、結局は辺見を共同通信を退職させ、作家として専業になる選択をさせたのだが。そのことは辺見も日野も一致している。
もっとも、ぼくの場合、たとえば地球温暖化問題なんかを見ていると、SFが不可能な時代なんだなあって強く思ってしまったりもするのだが、まあそれはいいや。
「こちら葛飾区水元公園前通信348」送信日時98/03/15
20:59
今週は火曜日に東京ガスの建設中の扇島工場と稼働している根岸工場に見学に行った。文部省の教科書調査官の先生方の引率である。
扇島には20万キロリットルのLNG(液化天然ガス)の地下タンクがつくられていて、中に入ったけど、なかなかでかかった。中はしわしわのステンレスが貼ってあるんだけど、というのもしわしわにしないとLNGの低温(マイナス162度)による縮みが吸収できないからなんだ。
でも、そんなことが書きたいわけじゃない。根岸工場の近くには、その低温を利用した冷凍倉庫がある。マイナス60度でマグロを保存しておく。三崎で上がったマグロを築地の手前で値上がりを待たせておくというわけ。で、この倉庫の先生がたと一緒に入ってみたんだが、いやあ、鼻毛も凍る寒さであった。ほんっと、鼻の穴がぱりぱりしてくるのがわかる。いくら目の前に巨大なホンマグロがあったとして、やっぱりいつまでもいたくはない場所であった。
そんなわけで、先生方と「社会科見学がなつかしいなあ」なんて言いながら、帰ってきたのであった。
文部省の教科書調査官はこのところ報告書をまとめるのに忙しいとか。学校が2002年から週休二日になるし、あわせて指導要領も変わるしってなもんだ。新しい指導要領は秋にはできるそうだし、小学校と中学校が同時に教科書が変わるということなので、なかなか教育産業の方々もこれから忙しくなりそうである。新しい歴史教科書をつくる会による教科書は、あんなスローペースでやっていたら、間に合わないんじゃないの、とか言ってたな。もっとも、出雲神話から始まる日本史の教科書は国書刊行会から出てるし。まあ、これは高校なわけで、中学はまた別なんだろうけど。
その翌日は、後学のため、政治家の政治資金パーティーを見学に行った。場所は赤坂プリンス、政治家は前環境庁長官の石井道子、そういう関係もあって招待状が来たわけである。だから、ぼくはお金を払っていない。だからあまりえらそうなことも言えないのだが。
政治家のパーティーというのは、まあ、人はたくさん来るのだが、その最大の特徴はあいさつがやたら多いこと。現職の閣僚や大物政治家が次々と来て、「参議院選は自民党よろしく」と言って帰っていく。乾杯まで約一時間、これが延々と続く。乾杯のあおさつのあとでも、自民党の幹事長がくればその挨拶が優先される。で、乾杯が終わるとぞろぞろと半分くらいは帰ってしまう。そのあいだ、来ている人は水割りだけである。もちろん料理とかは少しは用意されているが、まあ、残った人が、残った政治家のあいさつを聴きながら食べるということだろう。みんな高い金を払ってるはずなのに、こういう次第であるから、なかなか効率的でよろしい。普通のパーティーだったら怒るところだけど、目的が違うから、これでいいのだ。
というわけで、早く帰りたかったのだが、せめて乾杯くらいまでは見てようと思って、そこにいたのだった。いちおう、パーティーには名目というのがあって、今回は石井道子が環境庁長官時代のことを綴った本の出版を記念するというもので、いちおう発起人とかもいるわけではある。とはいえ、本といっても自費出版だし、まあ、そうたいしたものではない。あくまでも名目のような本なのであった。というわけで、この本は帰り際にみんなに手渡されるのである。
噂に聴く、政治資金パーティーというのはかようなものであった。
先週は桜井亜美の「トゥモロウズ・ソング」(幻冬舎文庫)をまず読んだ。HIVポジティブを知ったカップルの激しい愛、ということなんだけど、実はこれがサイキックSFだったりする。そんなことどこにも書いていないから、読んでびっくりである。それだけのことだけど。
イーデス・ハンソンの「南西斜面からのたより」(小学館文庫)は今週のわりとおすすめ。あくまでもわりと、ですから。
イーデス・ハンソンは和歌山県に住んでいる。その辺鄙なところがいいらしい。そこでの暮らしなのだが。いいところは、まず水がうまいこと。それから、人口が少ないから、プライバシーもないようだけど、みんな知り合いだから、そこはそれってうまくやってるし、変な勘繰りはないこと。それでも山の森は植林による針葉樹林で悲しいものがあるしってなもんだ。甥の娘が中学校に留学にくるあたりはなかなかいい話なのではないかとも思う。でも、和歌山の中学校でも制服は登下校のときだけで、あとは体操着なんだね。
中沢新一の「はじまりのレーニン」(岩波同時代ライブラリー)は、レーニンの思想がグノーシスの流れをくむという本。何で中沢がレーニンなのって思ったのだが、そういうことだったのである。そういうことで終わらせてしまうのである。
そういや、散歩をしていたら、延命幼稚園の前を通りかかった。名前からわかるように、延命寺というお寺が経営している幼稚園である。まあ、近所のお寺はだいたい幼稚園とかを経営しているし、柴又帝釈天も例外ではないのだが、それはまあいい。で、延命幼稚園なのだが、何でも門を改修しているらしく、裏口から入るようになっている。その裏口というのは、墓地を通っていくのであった。延命という気分には程遠い気もするし、まあ、何であるが、子供のころから、人もいつか死ぬということを教えるというのも、いいのかもしれないのだけれども。まあいいや。
「こちら葛飾区水元公園前通信349」送信日時98/03/21
15:36
ずいぶんあったかくなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。プランターのデイルとパセリはあいかわらずよく繁っています。娘の湿疹は、良くならないというか、あっちが治ればこっちから出るってな具合ですが、そういうこととは関係なしに元気なので、まあいいかってなもんです。いちおう皮膚科には通ってるんですが。
北斗晶も出産休暇に入るというのはびっくりした。日本最強の妊婦である。
田嶋陽子の「ヒロインはなぜ殺されるか」(講談社α文庫)を読んだのだけれど、これは専業主婦を当然と思っている人は目からウロコがぽろぽろ落ちるかもしれない。でも、今さらぼくが紹介する本でもないか。
「存在の耐えられない軽さ」や「ベティ・ブルー」など10本の映画を、フェミニストとして観なおすものである。軽い文体でさくさく読めるし、そうむずかしいことも書いてあるわけじゃないし。お手軽なネタによるフェミニスト入門編である。きっとこのメールを読む人のほとんどにとっては、あたりまえのことしか書いてない、けど、おもしろいからいいや。
ひさびさに上野千鶴子の本を読んだ。「ナショナリズムとジェンダー」(青土社)である。従軍慰安婦問題を中心に語っているものなのだが。関心がある人は読んでみてねって。
ポイントは、フェミニズムは国境を超えるかということ。上野は超えるべきだというし、超えることが可能だともいう。このことが、ぼくの関心を強く引くのである。
ぼくはこれから将来にわたって、脱ナショナリズムというのがキーワードかなって思っていたりする。というのも、南北問題ってあるけれど、これから日本はそのツケを支払う側にまわることになる。たとえば、外国人労働者や難民問題として、国境が日本の中にできることになる。このことをどうやってクリアしていくかが問われるのではないか。このことを、ナショナリズムを強くすることによって乗り越えようと考えている人もいる。でも、そのことがかえってまずい結果をもたらすのではないかとも危惧している。すべては合衆国のメキシコとの国境などで起こっていることだ。そして新しい歴史教科書をつくろうとしている人たちも、ナショナリズムを強固なものにしようとしている。
このことを書きはじめると長くなるのでこれでやめておくけど、例題として、在日外国人の人権ということを出しておく。キーワードは国民と市民。いまだに日本には、国民ではなくても市民であるという人が存在していることを理解していない人がたくさんいる。それでは、憲法で定められた基本的人権は誰に適用されるのか、とのことを問いたい。この設問には罠もあって、脱ナショナリズムでは日本国憲法は無意味ではないかというもの。
フェミニズムと南北問題は関係があるのかという人もいるかもしれない。では、フェミニズムは女性そのものが男性の植民地であったということからの回復という面もあったと指摘しておく。植民地の女性は二重に植民地化されていた。そのことが従軍慰安婦問題を数十年にわたって見えないものにしていた。
「こちら葛飾区水元公園前通信350」送信日時98/03/23
21:58
うちの母親からとてもいい話を聞いたので紹介してしまう。
母親は先日、友達のIさんと「六三亭」で料理を食べてきたとか言って、自慢してくれた。量はほんの少ししか出てこないんだよ、などと文句を言っていたが、母親は人工透析をしているので、もともとそんなに食べられるわけではないので、文句を言う筋合いはないのだが。
3000円のコースでIさんのおごりなのだが、彼女によると、お金をもっているとパチンコで使ってしまうので、うちの母親に料理を食べに行くお金としてあずけておくそうである。次は6000円のコースという約束だとか。
Iさんのだんなはタクシーの運転手。Iさんは再婚である。Iさんはパチンコが好きなのだが、最近のパチンコはギャンブル性が強く、おかげで借金を作ってからは、だんなに決まったお小遣いをもらえず、必要なときだけもらうという。
Iさんの前の夫は、かつて勤めていた会社の社長の息子だった。結婚して専業主婦になったが、お金にこそ不自由しなかったものの、子育て以外はすることがなく、しかも夫はいつも夜遅いという。そのうち夫の浮気も発覚するし、そんなこんなで、やがて離婚する。子供は一人娘なのだが、立派に成長して現在はアメリカに住んでいるとか。
どこがいい話って言われても困るのだけれど、こういう話って想像力をかきたてるんです。どうしてパチンコなのかな、とか、タクシーの運転手をしているだんなってけっこういい人なんじゃないかなあとか。
「ナショナリズムとジェンダー」の紹介をまともにしていなかったなあってちょっと思ってるので、書いておきます。
この本は三つの部分に分かれていて、最初は戦前のフェミニストの検証にあてられています。平塚らいてうとか市川房枝などが、戦争に協力したということで、現在の再評価の中で批判されていますが、ではどうしてなのか、何が問題だったのか、こういったことの検証です。言ってしまえば、女性も戦争に協力することで、男性と同じ立場に立てるということです。こうした設問の中で、問題として上野が考えていくのが、フェミニズムはナショナリズムを超えるかということです。第一次フェミニズムは、日本という国の枠を超えることができなかったから、こうした錯誤におちいったのではないか、と。
次に、従軍慰安婦問題を論じます。ここでは、もちろん政府の関与があったとか、そういった実証はしません。上野はあくまでも二次資料によって論理を組み立てます。従軍慰安婦がいたことは疑いのない事実だとして、そこでは何が問題としてつきつけられているのかということです。それは、従軍慰安婦が問題となるには、慰安婦であったということが恥でも何でもなく、ただ被害者であったという発想の転換が必要だったということです。そこには、女性に対する処女と売春婦という二重基準、女性の植民地化などの問題があるのです。韓国における家父長制が慰安婦を隠してきたという事実もややっこしくしていますし、慰安婦とセックスしてきた男性が、それを強姦だということを理解できず、ただいい思い出としてしか感じていないということも指摘されます。そこでは明確に、男性と女性では違う歴史を生きてきたということになります。
最後は、自由主義史観に対する反論です。これは言うまでもないでしょう。
引用の山をかきわけながら、結局上野は何を主張しているのかといらいらしつつも、勢いのいい文章がなかなか快感だということを付け加えておきます。
「こちら葛飾区水元公園前通信351」98/03/28
21:04
今週の本はまず、米田淳一の「プリンセス・プラスチック」(講談社)から。タイトルがいいのと、はしもとさんがほめていたので、読んでみました。
ガジェットとか、そういうのには困らない本でした。ワイドスクリーンバロックより大風呂敷というのは、まあ、はずれてはいないんだろうなあ。何たって、膨張する宇宙が収縮に転じるビッグストップが近づいているらしいし。でも、それがあんまり本筋と関係ないというのもすごいけど。
主人公のシファは戦艦。といってもみかけはただの女性アンドロイドで体重は57キログラム(「ヴァーチャルガール」のマギーはもちろん、エイミー・トムスンよりも軽い)。小さなワームホールをたくさんあけて、そこにマイクロマシンを送り込み、必要な兵器などはぜんぶそっちに入れているので(ドラえもんの四次元ポケットと同じだ)、見かけはこんなにコンパクトな戦艦なのである。しかもほとんど人間に近い感情を持った人口知能なので、これじゃまるで「歌う船」じゃないかってつっこんでしまったりして。さらに、じゃあ人間が作った知能かというと、何となく地球の意思でできてしまったような気もする、とか。
これでどういう話を書くのかというと、まるで「キューティーハニー」だったりして。うーん、これで説明がすんでしまったなあ。こういう話がおもしろいと思う人にはおもしろいんだろうなあ。もっとも、見方を変えれば、「エアフォース・ワン」みたいにハイジャックだけでそんなにひっぱるなよってなもんだからなあ。けつろんは、ぼくとしてはイマイチでした。
あと、竹田青嗣の「エロスの世界像」(講談社学術文庫)も読んだのだけど、いまひとつぴんとこなくってつらかったな。
「文学界」の先月号で残雪の「痕」などが載っているので、図書館で借りて読んだ。残雪は最近では山形浩生までがプッシュしているみたいなので、うれしい。中国の作家だけど、なかなか登場人物がキ○○イばかりで、すげえなあって思う。今回の50過ぎの主人公、痕は、むしろを作って生計を立てているんだけど、近所付き合いが少ない。むしろの仲買人ができの良くないむしろを買ってくれるので生活できるのだが、むしろができてなくてもお金はくれるし、お金があるから肉屋で肉も買えるけど、おかげで近所の人も変な目で見るし。あまつさえ、仲買人は寝たきりのおっさんだったり、友人が連れてきた親戚だったりして、誰が誰なんだかわかんなくなってきて、アタマオカシイ状態になっていくという。つまりは、密告者にはまって告発されるような文化大革命の状態みたいなのかなあとも思うのだが。人が人を信じられない世界を残雪は実際に体験してるんだよなあ。
あとがきで訳者の近藤直子が、「残雪は自分以外誰も読まない小説に行こうとしてるのかなあ」というようなことを書いているのだけど、「痕」はその点では読める小説。というより、饒舌で読めない大作(たとえば文藝春秋から出ている「突囲表演」を、さらに饒舌にしたものなんだろうなあ)の解説のようなものらしいのだけど。
戻って人が人を信じられない世界というのは、それなりに疑わしい世界として、幻想的かもしれない。この人の頭の中はどうなっているんだろう、というような人がたまにいるけど、そういう人ばっかりだったらってなもんだ。すごい世界だよなあ。まあ、よく考えると、現実は近いかもしれないんだけどさ。身の回りに変な人は多いし。
告白しておくと、「歌う船」は読んでいないし、「エアフォース・ワン」は見ていないんです。