1998年6月


「こちら葛飾区水元公園前通信356」送信日時98/06/02 06:37

 古谷三敏の「レモンハート14」を読んだら、お酒が飲みたくなってしまって、今、レモンハートというラム酒を飲んでいる。75度はけっこうきくなあ。

 一昨日、水元公園を散歩していたら、公園の池で泳ぐ青年を見てしまった。いやあ、あのきたない池(正確には小合溜という)で泳ぐかあ、と思ったりもしたが、実習で北浦で泳いだ事実を考えると人のことは言えないかもしれない。

 何となく、最近になってまた聞きたくなったので、ジョン・アンダーソンの「サンヒローのオリアス」を買ってしまった。大仰でいいなあなどとしみじみする。歌をすっかり思い出してしまい、娘の子守歌になっている。
 榎田さんは喜納昌吉はあつっくるしくて苦手だという。でも、けっこうこういう音楽って、好きです。手元にはベストしかないんだけどさ。人間にはリズム型とメロディ型とサウンド型があるというけれど、ぼくはリズム型なんだろうな。榎田さんはメロディ型だろうか。

 ぼくの場合、ものすごく英語が苦手であった。理由は、高校生のときに完全に学校で習ったものが破壊されてしまったからなんだな。そのまま現在に至っているというのが一つ。英文を読むときって、今ではあまり日本語に直さない。つまり文法がないってこと。それと、洋楽とか聞いてると、けっこう身の回りには英語があったんだなあって思うことかなあ。二年くらい前、ある国際会議があって、取材をしていたとき、ずっとインド人のジャーナリストとつるんでいたんだけど、その結果わかったのは、水野のようにむずかしいことを考えなくても、きっと必要があれば慣れるんだろうということと、中学から大学までの英語教育は一歩間違えば役に立つということだったな。ぼくのように怠慢な人は、強制されるように日常使わないとだめなんだろう。あいかわらず、何の努力もしていない。まあでも、英語でしか読めない本もあるから、四年に一冊くらいは読んでる。ムアコックのSFとかね。今はずっと、コリン・グリーンランドの「エントロピー展覧会」というニューウェーブSFについての評論を読んでいる。出張に行くときなどは、この本しか持っていかない。こうなると、この本を読むしかないのである。

 ぼくはよく生協、というより元生協で今では無農薬野菜なんかを専門にあつかう小さな店に買い物にいく。かみさんと違って、少し遠回りをしても、なるべく無農薬野菜とかを買いたいからだ。それに、生協の豆腐はこのあたりで買える豆腐のうちではいちばんうまいと思っている。だいたいは仕事の帰りに寄るので、ずっと独身だと思われていた。すっかり顔を覚えられている。ある日の土曜日、娘と一緒に買い物に行ったら、「あら、赤ちゃんがいるんだ」などと言われてしまった。生協のおばさんに抱っこしてもらいながら買い物をしたりしたんだけど、ここまではよくある話。さらに最近になって、かみさんも一緒に生協に寄ったら、「奥さんもいるんだ」ということで、実はそれまではずっと父子家庭と思われていたらしい。
 まあ、そうかもしれないなあ。

 実は今、吉本ばななの「アムリタ」(角川文庫)を読んでいる。相変わらず、人が死ぬところからしか話を始められない人だなあと思う。このあたりの芸のなさが、評価を低くしている。ほんとに思うのだけれど、吉本ばななはホラー作家になるべきだと思う。そういうおもいきりがあった方がいい作品が書けるんじゃないかなあ。ホラーとかダーク・ファンタジーとかさ。ジョナサン・キャロルって、ほんと、すっごく好きなんだよ、ぼくはね。


「こちら葛飾区水元公園前通信357」送信日時98/06/13 03:48

 夕べはノルウェー大使館に行った。まあ、石油事故関連の機器のセールスに来ているので、それを取材するというわけで、まあそういうビュッフェではある。といっても、ぼくの貧しい英語ではさしたる取材もできるわけではないが。
 とはいえ、ワインに混じって、日本酒も純米吟醸クラスのものが出ていたので、なかなか「日本酒に理解あるじゃん」とか思ったりした。大使館の人も「この酒なら頭痛くならない」と言ってくれたし。まあ、そういう記の遣い方もあるんだな。
 料理にはサケが使われていたのだが、これはもちろんノルウェー産。何が違うのかと大使にたずねたら、「日本のサケには寄生虫がいるけれど、ノルウェーはその点は大丈夫だから刺し身で食べられる」とのことであった。
 まああとは、「クジラの肉が輸出できなくて残念」とか、そんな話をしていたのであった。いや、これじゃ食べ物の話ばかりしてるみたいだな。いや、いちおう本題の話もしましたよ。
 また、今年一年分の英会話をしてしまったなあ。

 今年はプロ野球がつまんないので、ロスワイラーの「赤毛のサウスポー」(集英社文庫)とそのパート2を読んでいる。結論から言うと、おもしろいです。話はほとんど見えていて、弱小球団がヒロインの加入によってワールドシリーズで優勝し、果ては世界一をかけて巨人と戦ってしまうわけだから。まあでも、この本のいいところは、野球への愛情かなあ。ピッチャーとバッターの駆け引きや試合展開のワンシーン、そういうところがいいんだよな。
 ただ、女性が活躍するからフェミニズム云々というのは、あまりあたらない気がする。ロスワイラーにはそこまでのフェミニズムに対する理解の深さはない。意識はあるんだけどね。どうしてもヒロインをごくごく普通の男性作家が描く若い女性というものにしてしまう。というのも、けっこうヒロインは男性にひきづられてしまう部分があるし、そのことがトラブルを招いてしまうのだけど、それって見方によっては女性を軽く見ているんじゃないかという気もしないでもない。つまり、男性ならそんなに簡単にラブ・アフェアにつまずくかなあっていうことなんだけどさ。
 もっとも、セックスについては、そんなにウェットになっていないし、たぶん日本では少なくとも読者を想定するとそういう書き方はしないんじゃないかなあっていうところもあるんだけどね。これはほぼ同じ時期に書かれた「野球狂の詩」(水島新司のマンガ)の水原勇気と比較するといえることだな。そういうところで戸惑う読者もいるかもしれない。ヒロインももう大人なんだからさ、不思議はないはずなんだけどねえ。まあ、でも、ちょっと尻は軽いかもしれない。
 しかし、やっぱりつきつめれば、これは野球小説であって、その要素として主人公が女性だと、そういうものです。ヒロインも無敵ではなく、スランプも二年目のジンクスもあるし、そういうところもひっくるめて、これは野球小説なんだと、そんなふうに楽しめるわけである。ぼくはおもしろかった。斎藤はそう思わないかもしれないけど。

 今週はあとは保坂和志の「猫に時間の流れる」(新潮文庫)とかも読んだな。なんだか、あまりにも淡々としすぎていて、力が抜けてしまった。いいか悪いかは別にして。猫が好きだから楽しめるというものでもないんだろうけど。


「こちら葛飾区水元公園前通信358」送信日時98/06/18 00:40

 井手敏博の「酒と日本人」(三一新書)は勧めてしまおう。これは酒についての本というよりは、酒の歴史を通して見た、日本批判の本といえる。読んでいてなかなか痛快だな。あえて日本の酒としての清酒という言い方をしておくけど、この業界が護送船団方式によって守られ、堕落していったこと、このことと税金とのかかわり、その裏返しとしての明治以降の日本の戦争という過ち、等々。結論を強引に言ってしまえば、日本の酒がだめになったのは、日本人がばかだからだということになる。にもかかわらず、日本の酒を独自の技術を持った世界的に優れた酒だとして独りよがりになっているからだめなんだと。そのことは他の業界と官庁にも言えることだろう。その総体がバブルのはじけた日本であり、1945年までにもむちゃくちゃをやってきた日本であり、今なお反省しない日本なのだから。
 異論もないわけではない。日本の酒の将来を考えるにあたって、過去の歴史はどっかにやってしまってもいいと思っている。そのことは、ぼくが歴史を1945年を起点として、それ以前を紀元前と仮定していることと同じである。そこからは、むしろ清酒は吟醸酒を基準にすべきだという結論になる(つまり、吟醸が商品化することから、日本の清酒の歴史を始めようというのだ)のだが、井手はそれをとらない。この他にも筆(ワープロ)がすべっている箇所は少なくはないが、まあそれはいいしよう。
 井手は日本の酒が嫌いなのではない。ただ、あまりにもあんまりな状況を正直に書いているだけである。そして、実は酒業界に限らず、こんなに正直に悪く書ける人は少ない(例えば経済書のコーナーを見ると、いまだに不況が脱出できると思わせる本が並んでいることには驚く)。坂口勤一郎すら批判のやり玉に挙げられてしまう。
 まあでも、うまい酒を飲むためには、消費者も努力しないとだめという、そういうことになってしまっているのは事実だな。ぼくが今年になって、「純米吟醸の本」を企画した(いまだにGOサインが出ないが)のも根はそこにあるんだけどさ。うまい酒どころか、清酒の売上が落ちている。

 そんなわけで、次の日曜日には敦賀に行くのだが、宿は国民宿舎にしてしまった。近所には温泉もあるし。いやあ、仕事だよ、仕事。


「こちら葛飾区水元公園前通信359」送信日時98/06/27 12:31

 敦賀の国民宿舎は一泊二食で6700円と安かった。しかも温泉だということで、ずいぶんのんびりさせてはもらった。ただし、まわりに何もないところなので、することもなく、ぐっすり眠らせてもらった。まあ、食事は期待できるものではないが、ビールも飲んだし、そういうところである。

 そういうわけで、今週は町田純の「草原の祝祭」(未知谷)とプトゥ・ウィジャヤの「電報」(めこん)を読んだ。けっこう満足する本だったな。
 町田純については、とりあえず「ヤンとカワカマス」がおすすめなのだが、その続編で厚さも二倍以上の本書は、もうすこし込み入った本ではある。ネコのヤンがクリスマスを祝うために樅を探し、飾りをつける、それだけのことなんだけど、考えてみて欲しい。ネコにとってクリスマスとは何だろうか。ネコはクリスチャンではないし。だから、祝うことというのはもう少し別のことなんだけど、それは言わない。ぼくとしては、町田の本を読むというのは、なかなか幸せな気持ちになれるというものでもある。至福というのかねえ。
 「電報」は70年代のインドネシアの小説。一言で言うなら、ポジティヴなインドネシアのポール・オースターといったところである。冒頭、主人公のデートの場面、結婚しようと思っているのだが、やはり恋人のままがいいと諭される。その章の最後に10歳の養女が出てきて、主人公である父親の手を引いていく。「電報」が届いているのだが、その内容もなかなか読者には正確に教えてくれなかったりして、書かれていることの何が本当で何が主人公の妄想なのか、混乱してくるのだけれど。
 どちらの本も、あえては勧めはしません。「草原の祝祭」は「ヤンとカワカマス」がおもしろいと思ったら読めばいいし、「電報」はポール・オースターなんかが嫌いではないという人向けですね。

 最後に。ワールドカップをやっているのだが、日本はすっかり負けてしまいましたね。野球ファンから見ると、結局は確率の問題で負けたんだなということなんだけど、というのも、アルゼンチン戦やクロアチア戦を見ていて思ったのは、ほんとうにディフェンス重視できたんだなということ。その場合の方が勝つ確率が高いとふんだだけの話であって、じゃあオフェンス重視できたらどうなったかというと、別の負け方をしただけだったのかなあとも思う。まあ、結果というのは、でも今回はさておいて、考えてしまったことがある。ナショナリズムのことだ。
 所沢高校の生徒だってワールドカップの観客席に行けば日の丸をふっているのではないかという話がある。あまりにも短絡的だろうは思うのだけど、この問い掛けは考えるものがないわけじゃない。産経新聞みたいにどうしてもナショナリズムを復活させたい人は、おかげで意気揚々としているのだけれども、ちょっと待ってよ、と思うのだな。
 ぼくたちのうち多くは日本を応援してしまったのだけれど、それは何故なのか、考えてみたい。ワールドカップというのは、事実、ナショナリズムを高揚する装置であるのは事実だ。二度の地区予選から始まって、ドラマを作っていく。ドーハの悲劇とかさあ。そうした中で、いやでも日本という国があるのを思い知らされてしまうのだけれども、でもその本質って何だろう。日本という国を国家という形にしてしまうと、これは簡単に崩壊する論理になるだろうとも思う。そうではなくって、どうしてイングランドやスコットランドとしての参加があり得るのだろうか。それは、身近に感じる共同体幻想(高校野球も同じだよね、嫌いなんだけどさ)とか、そんなことなのかなあ。あるいはよく知っているから。であれば、ストイコビッチやエムボマ、ドゥンガのプレーももっと見てもいいしね。あるいは、日本にとって呂比須ワグナーの存在って何なのだろうか。いや、もっと別のスポーツということで見れば、なぜNBAのように海の向こうのスポーツのファンでいられるのか、どうしてスキーのジャンプで日の丸飛行体という気持ち悪い言葉が使われなくてはならないのか。
 ワールドカップはナショナリズムを商業的に使い、消費者はうっかりそれに乗っているのだろうか。もっとも、それでは、共同体幻想としてのアイデンティティを超えることができるのだろうか。
 もちろん、所沢高校の話があまりにも短絡的なのは、「日の丸・君が代」の強制ということが、国家が個人の上位にくるという関係だからだし、しかもその上位にくるものが不愉快な歴史・くだらない内容をもっているからこそ、拒否したくもなるわけで、そのことと日本という地域における共同体幻想が矛盾するとは思わないのだけれども。よく考えてほしい。ワールドカップに参加する選手は国旗のために試合をしているのではないということを。そんなのつまんないじゃない。ファンはカズが見たかったからこそ、メンバーから外されたことを落胆したはずだし、そこには「国」というものはなかったでしょ。
 ほんとうに、正直なところ、ワールドカップのナショナリズムも気持ち悪くて、だから早く終わって欲しいというのはあるのだけれども、そういったこととは別にアメリカや日本といったお金持ちの国がぼろぼろ負けて、ヨーロッパはともかく南米やナイジェリアなんかが勝っているのを見ると、痛快ではあるな。でも、ほんとに、ここまで巧妙にナショナリズムを悪用(そもそもナショナリズムが悪しきものなんだけど)されると、とても困ってしまう。どっかで線を引いておかないと、とは思うんだけどなあ。


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