1998年7月


「こちら葛飾区水元公園前通信360」送信日時98/07/05 14:10

 毎日暑くてたいへんである。いや、ぼくはいいのだ。ビールはうまいし。問題は娘である。あせもができるし、昼間は散歩できないし。でもまあ、楽しそうに水浴びしてるからいいか。
 離乳食の毎日なのだが、最近の素材のヒットはナベラーである。これは実は未成熟のヘチマなのだ。ヘチマは食べ物なのである。皮を剥くと中はやわらかく、火を通すとちょうどいい離乳食になる。ナベラーチャンプルーをつくろうと思って買ってきておいたのが、みんな離乳食になってしまった。

 テレビ東京の「仮面天使ロゼッタ」は、ポワトリンと深夜にやるとこうなるかという見本みたいな番組である。主人公のアスカは女子高生で、ロゼッタに変身して戦うわけだが、その父親が神仮面ファラオに変身したりして、親子で悪と戦うってえのはめずらしいかもしれない。悪い方も変身してバケモノになるのだが、ふく着たままだったりして、なかなか正直でよろしい。とりあえず、主演の女の子がかわいいので許す。

 今週は角田光代の「まどろむ夜のUFO」(幻冬舎文庫)がおもしろくなかったのだけど、引間徹の「19分25秒」(集英社文庫)はそう悪くなかった。埋め立て地の公園で義足をつけて競歩をする人にひきつけられて競歩を始める主人公なのだが、場所からいくと日野啓一の「夢の島」(講談社文芸文庫)という傑作を思い出す。こちらは、すごく無機的な、バラードの小説のような生命感のない世界だったんだけど、「19分25秒」の場合、義足というだけでサイボーグを思い浮かべてしまう。日野がアンドロイドの小説だということとの対比ね。これは、引間にとって、埋め立て地の風景というのは、もはや自分の生命をとりこんだものだという自然さがなせることなのかなあ。そんなことを考えてしまった。
 ずっと読んでいたコリン・グリーンランドの「エントロピー展覧会」(RKP)をようやく読みおわった。これは、ムアコックを中心とするニューウェーブSFについての評論集で、洋書だったからずいぶんと時間がかかってしまった。出張のおともだちだったんです。くわしく話すと長くなるのだけど、どうしてぼくがニューウェーブにはまったのか、とてもよくわかる気がした。そういうことを、機会があればゆっくり書くかもしれない。構成はニューワールズの歴史にはじまって、ニューウェーブのテーマとしての新しさ、オールディス,バラード,ムアコックの仕事、最後はロブ=グリエやピンチョンやバースや、果てはレヴィ=ストロースまで登場してくるのだけど、そういうところもぼくの関心にはまってるし。ニューウェーブはアナーキーだし個人主義だし。


「こちら葛飾区水元公園前通信360.1」送信日時98/07/07 22:42

 7月11日から20日まで鹿児島にいることになる。しかし、10日もいて何するんだろうな。釣りをする、山に登る、あとは。きっと親戚のとこ行ったりして終わるんだろうなあ。ちょっと憂鬱。

 この二日間で横森理香の「エステマニア」(幻冬舎文庫)と町田純の「ヤンとシメの物語」(未知谷)を読んだ。
 「エステマニア」はすごい小説なのですすめてしまう。エステマニアというには、執念というか、いわゆる世の中のスタンダードに追い込まれた女性の話なわけで、けっこう悲しいものがあるのだが、とにかくラスト3分の2までは圧倒的な迫力で読ませてくれる。ラストはちょっと怒る。でも、エステって何なのか、よーくわかって勉強にもなるのである。
 「ヤンとシメの物語」はシリーズの3冊目、今回はネコのヤンと友人になるのはシメという鳥。渡り鳥で、コーカサスとパレスチナを往復している。ときて、ピンとくる人はいるだろうか。シメは渡り鳥であると同時に、約束の地と言われてイズラエドリにパレスチナを追い出されてしまった存在でもある。ヤンもまた定住しているようで、流浪しているようでもあるけど。でもさ、ぼくはこういう国境を超える存在にすごくあこがれてしまう。
 国境のことについて少し書かせてもらうことにします。
 結論は、ぼくにはよくわからないということ。身体感覚として日本という国があって国境というものがあって、それでぼくはそのことに対して自然さを感じない。国境はもうひとつあって、民族的国境というやつ。日本は具合の悪いことに、この二つの国境がほぼ同じだと思われている。そのことがぼくをすごく不愉快にしている。ほんとうに、身体的イメージとして日本というものを持てないし、もちたくないというのもあるな。そしてまた、国境は越えなくてはいけないんじゃないか、そんなことまで考えてしまう。考えてしまって、日本の中の国境を探して、新大久保まで行ったりもした。プールでバングラディッシュ人に声をかけられたりするとうれしくなる。本当のことを言うと、身体的イメージを持つのは可能なんけれど、それはどうもおかしいと思うようになってきたというのが、正直なところなので、その意味では、みんなを騙しているのかもしれない。
 ナショナリズムは悪いものだって書いたら、ちがうという反論がきた。くりかえすけど、ナショナリズムは悪いもんです。身体感覚として国を規定してしまったときに、そこに依存してしまうのは危険だからです。国という単位で見ていると多くのことを見落とします。多様な国があるのに、ぼくたちは選択がほとんど不可能だからでもあります。とりわけ日本の場合、地理的国境と民族と行政システムがごちゃごちゃになっています。そのことがナショナリズムをつくっているともいえるのではないでしょうか。
 国境の中の土地には思想はなく、民族としての国境は人間を窮屈にさせています。システムとして行政が届く範囲を国としたときに、ではそれは個人の利益を守るためのシステムであるべきです。そこにイズムはつく必要はないのです。国ではなく地方自治体というレベルで考えてみるといいと思うのです。
 結局、日本の将来というのは、日本だけを考えてもだめだし、その事が足を引っ張っているといえます。結局のところ、システムをどう動かすかには思想はないのですから。
 国家がなければ人権もないのではという疑問もよせられました。ぼくの考えは、人権は国家とは独立してあると考えています。もともと日本国憲法に人権のことが記されているのですが、これは誤解を恐れずに言えば、ピタゴラスの定理が書いてあるようなものです。国によって人権が違うのではなく、基本的な人権という発想はどこの場所でも保証されるべきであると思うのですが。国家という行政システムはそのことを保証する手段の一つを含むべきもの、だとしか言えません。そのことは、日本という国がどれほど人権を守ってくれないかを考えればわかります。アメリカの52番目の州(ひょっとしたら51番目はプエルトリコかもしれないからさ)になった方が人権が守られるのだとすれば、そこにナショナリズムと人権とは何の矛盾もありません。
 念のため書いておきますが、ぼくは国家が悪だとか、そんなことを書いているのではありません。それはシステムとして機能させればいいだけの話だし、善とか悪とか関係ないのです。そういうこととは別に、国境を越えるということが、とても大切に思える、それは海外に行くこととは別に、気持ちとしてでいいのですが、そう考えています。
 まあ最近はクレオールとかもはやってるしね。そんなことです。


「こちら葛飾区水元公園前通信360.2」送信日時98/07/11 06:47

 巽孝之の「日本変流文学」(新潮社)を読んだ。あいかわらず喝破したり幻視したり同時多発したり忙しい人である。英米文学と日本文学の間にむりやり共通点をつくってなにかを見いだすという作業は、むしろこの本自体をSFとして読ませてくれるほどスリリングではある。だからといって、人にすすめるわけではない。やっぱりこの人の限界は英米文学で止まっていることなんじゃないかという気がする。

 ヤシマベスの「シーマ」とマギー・ライリーの「エレーナ」を買った。
 「シーマ」は彼女のセカンドアルバム。デビュー作はすっごく歌のうまい女性だなって思う、レゲェのCDだった。今回はもっと力の抜けた、その分、女性としてののびやかでリラックスした、すてきな感触のR&Dになっている。
 「エレーナ」も、そう悪くない。もともとマイク・オールドフィールドのCDで歌ってた人で、ケルト系でもあるけど、まあ、そういうセンス。とくにすすめはしない。


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