1998年9月


「こちら葛飾区水元公園前通信364.1」送信日時98/09/04 17:07

 昨日は、お台場でプリウスに試乗しました。といっても、ぼくが運転したわけじゃないけど。低速のときにブレーキがききすぎるというのが難点だと、試運転した人がいってました。
 渋滞や信号待ちの多い都市部を走るには、ハイブリッドカーはいいみたいですけど、高速を走ると燃費はそうは良くないそうです。一方、直墳エンジンの場合は逆で、高速で燃費がいいけど、都市部はだめという。一長一短があるんですね。
 でも、プリウスに乗ってると、普通に走っている分には、そう変わらないのですが、信号待ちや低速時にエンジンが止まっているのは、けっこう変です。フロントのディスプレイにはエネルギーの流れが表示され、なかなか感心しますが、一般のユーザーはこのディスプレイはカーナビに使うそうです。
 トヨタの次は燃費のいい1リッターのエンジンだとか。でも、ぼくは車に縁がないから、関係ないな。

 川西蘭の「林檎の樹の下で」(集英社文庫)とか読んだけど、特に言うことはないな。
 それより、佐々木倫子の「おたんこなーす」(小学館)が完結して最終巻が出てしまったことと、伊藤潤二の「うずまき」の一巻が出たことかな。言いたいことはいろいろある。「うずまき」は、とにかくこじつけっぽくあっちこっちで不可解にうずまきがはびこって、人間守口大根の漬け物になったりとかする、ホラーというわりにはよく考えると笑える作品でいいです。


「こちら葛飾区水元公園前通信365」送信日時98/09/06 18:28

 「おたんこナース」の話だったな。どうしても感心してしまうのは、ほいほい人が死ぬような職場で、よくもまあこれだけ暗くない話がつくれるものだということ。おもしろいなあって思うのは、患者の死なんだけど、これが何となく、死ぬというよりどこかに旅に出てしまう雰囲気なんだな。ほんとに、遠いところに行ってしまうんだなあという。
 佐々木倫子の場合、スタッフがしっかりしてることなんかもあって、よくできた作品を供給しているといったことは確かなんだけど、それにしても、生命の軽さ、ふわっとした綿菓子みたいな感触を残していて、それはいいなあって思う。それでもなお、ぼくの日常生活よりもずっと死にリアリティがあるんだもん。
 死っていうのは、リアリティがない場所にいると、それはしのびよってくるものなんじゃないかって、そんな気がしてしまうんだけど。でもまあ、最近は考え方を変えていて、死ってずっと隣で仲良く付き添っているものなんじゃないかとも思う。うちの母親が人工透析をしているということは話したと思うけど、まあ、けっこう透析仲間が死んだりして、でもまあ本人は元気にしている。透析してたって20年とか生きる人もいるしってな。
 そんなわけで、うちの母親も「おたんこナース」は読んでいるのだが、これがけっこう看護婦とも話題にすると言ってたな。あたりまえか。
 吉野朔実の「ぼくだけが知っている」(集英社)も5巻が出て完結した。吉野朔実の場合、初期の作品に「月下の一群」というタイトルの作品があるように、何だかいい意味でも文学的な香りがあって、読むといつもためいきをついてしまう。たとえば、大友克洋の場合、見開きがあったとして、それは一枚の絵として見せてしまうんだけど、吉野朔実のそれはむしろ、行間として存在する、だからといって絵が下手なわけではない、むしろ見ていると気分が落ちつくような淡い手触りの絵を描いているんだけど、そういう感触の作品。
 「ぼくだけが知っている」の主人公は小学四年生の男の子、勉強はあまりできない。どっちかというと落ちこぼれている方だが、同時に体力があるわけでもない。ただ、そうした決して表面的には強そうに見えない存在が、やさしい母親とその影響で見につけた豊かな感受性を持って、小学校で生きていく、それだけのことなんだけど。逆に、そういった主人公を配して、人間の成長を描くっていうのは、受け取る側、つまり読者にとっても、純粋な成長を肌で感じることができる、そういった幸福感を与えてくれる。
 「ぼくだけが知っている」というタイトルの通り、たとえ勉強ができなくっても、自我はきちんと持っているし、だから彼しか知らないこと、彼だけが見ているもの、そういったものがある。成長するということは、自分の身体感覚をはっきりと持つ、そういうことなんじゃないか、勉強とか力とか、そんなんじゃなしに、自分がここにいる、誰かがそばにいる、そういう自覚を育てることなんじゃないか、そういったことが、主人公に豊かな感受性を与えることで、作品として形作られていくが、読者にとってもれば、そうした豊かな感受性などなくても、確実に内部にあるはずのものだから、作品からメッセージを受け取ることができる、そんな幸福なんじゃないかって、ずっと思ってしまった。それだけに、中途半端な印象を残す最終回のタイトルは「ぼくは地球」だというのは、意味が深いかもね。
 読者に幸福感を与えるのは、周囲に人物、母親をはじめ、主人公に好意をもつさまざまな同級生をバランスよく配置しているということもある。
 どちらかというと暗い作品の多い吉野朔実ではあるが、これはむしろ明るい方の、傑作ではないかと、おすすめしてしまう次第である。
 近藤ようこの「アネモネ駅」(青林工藝社)も読んだぞ。ひさびさだけど、いいなあ。離婚したりしなかったり、愛人の下から帰ってくるにしても生きていたり骨だけだったり、何となくふにおちないけど、ここまで生きてしまった、みたいな、そんな中年女性がたくさん出てくる。このあいだ、OLは名前のない存在って書いたけど、中年のおばさんも名前がない。○○ちゃんのママだったり、××さんの奥さんだったりする。あるいは、△△さんちの嫁さんだったりするわけだ。でも、ほんとうはそうじゃないんだっていうことで、ではその人生の断面をちょっと、という。フェミニズムってそういうもんだよね、と思わず言いたくなってしまうんだけど、それには理由があって、後述する。
 同じ青林工藝社から出所した花輪和一の「朱雀門」が出たけど、単行本未収録が一編だけという本。あとがきでは本人もそのことを詫びている。でも、出所祝いということで買ってしまった。全部、中世を舞台にした、10年くらい前にあった「COMICばく」という雑誌に掲載されたもの。とはいえ、上手だけど影の多い不気味なタッチの絵でホラーというよりはお笑いをやってくれる、ドライな作品で、ぼくは好きです。胸で巨大なおダニさまを育てたり、猿の脳味噌がおいしかったんで、つい眠っている仲間の脳味噌も食べたり、半魚人と結婚して子供ができたりと、何だかめちゃくちゃですね。

 かみさんが読まない方がいいよと言うのだが、せっかくうちにあったんで、小浜逸郎の「男はどこにいるのか」(ちくま文庫)を読んでしまった。前半はんフェミニズム批判で、その部分を読んで中薗が放り出してしまったのだが、たしかにそりゃ怒るような内容だ。というのも、フェミニズム批判というスタイルをとりつつ、実はそのフェミニズムに実態がない、わかりやすく言うなら、不特定としてあるイメージとしてのフェミニズムを批判しているに過ぎないから。勝手にフェミニズムはこんなものだときめつけておいて、それを批判するっていうのはないでしょ。よく「サヨク」を同じように批判する人がいるし、「人権や自由が学校をだめにした」などというぼけをかます人もいるけど、そういうのと同じで、批判されるものが特定されてない、イメージだけなんだよな。たとえば、「フェミニズムは男女同権を主張しつつ、母性を擁護する」って、何の話だっつううの。「男女が肉体的には同じではない」とか、そういうことじゃないでしょってば。あまつさえ、「女性には哲学者がなぜ少ないか」なんて言って、性差を認めるなんて、ひどいんじゃないですか。
 たとえば男女は基本的に同じ権利を持つ、そのことが前提なんだから。そこでジェンダーを見直していって、それでもあとに残るものがあればしょうがないけれど、そこまでは可能な限り考えましょうと、そういうことじゃない。たとえば、「女性しか子供を産めないから」なのではなく、「女性しか子供を産めないけれども、そのことを含めてどのように権利を平等にするか」という議論なわけじゃない。
 後半は中年男性論なんだけど、どうでもいいや。
 小浜の立場から男女関係をつくろうとしたって、不平等になるのは目に見えているし、それを不対称ということばにすりかえたくないね。だいたい、それでは同性愛の立場がないじゃない。
 あと、もうひとつ、「ポルノグラフィ論」もあるけど、女性がポルノを見ないなんてことはないだろ。感じるエロスはちがうけどさ、たとえば「ハーレクインロマンス」って、それはそれで女性向けポルノなんじゃないのかなあ。あるいは、やおい、JUNE、などなど。それから、たとえばかつての「ローリングK」というバーボンのポスターが問題になったように、男性の性欲をあおるような広告にノーという女性を批判しているけれど、そのこと自体はまちがっていないと思うし、批判されるのは「行動する女たちの会」のような一部だとは思うんだけどさ、でも確実に不快に思う人間はいるし、メディアの送り手はその責任をとらなきゃいけないと思う。それは、航空会社が女性のヌードを掲載した週刊誌を機内で貸与しないことのようなもんでしょ。不快に思った女性がステッカーを貼る権利くらいはある。こういうのって、小浜が言うほど理論なのではなく、もはやセンスの問題だと思うし、そういった意味であまり考えずに女性を出してしまう、これはもう公共の場所にある彫刻も同じだと思うけど、レベルが低いだけの話じゃないかと思うな。
 ぼくは基本的に表現の自由を認めるから、当時の「行動する女たちの会」には賛同しないし、「プライド」も上映することに異論はない(ただし、労組が上映中止を求めるのはまちがっていない。だって、それは自分たちの仕事に対する責任ということでしょ)。
 そんなこんなで、ひさしぶりに不快な読書ではあった。
 このあいだ、SAPIOを見ていて、「新ゴーマニズム宣言」を読んでしまったんだけど、この人をどうにか支持しようとする「文化人」がいるのは、この人が周回遅れで時代のトップを走っているからなんじゃないかって思った。大月某にしろ、米村某にしろ、いいのか、それで、ということになる。そういう意味では、小浜は周回遅れでビリを走っているようなもんだな。
 「ハハな人たち」って、原田宗典がいろんな母親と対談している本で、中島梓とか石坂啓とか内田春菊とか野中ともよとか真行寺君枝とか出てくる。おもしろいのは、たいてい30代で子供を産んでいること。何か、仕事してると、このあたりが適齢期なのかなあとも思った。育児してるだけに興味深かったし。あと、内田春菊の子供の名前が在波(アルファ)だというのにはたまげたな。

 娘はまだしゃべりはしないですが、カラスを見ると「カーカー」と言います。けっこうおもしろいです。今日は近所の公園にポニーを見に行きました。
 かみさんは今月16日から部分的に職場復帰します。


「こちら葛飾区水元公園前通信366」送信日時98/09/21 23:06

 今日(19日)はかみさんが会社に行っているので、ぼくと娘でるすばんである。
 お昼には葛飾区の新宿交通公園でミニSLに乗った。SLといっても、モデルはのぞみ号なのだが。でも、暑くって、あまり遊べなかったな。さすがにまだ、三輪車とかも乗れないし。
 早寝早起きの生活が続いていて、娘が寝るとぼくも眠くなってしまう。おかげで、ビデオすら見ていない。通勤と昼休みと取材の移動時間とアポの隙間に読む本だけが娯楽、といえばうそになるな。

 原田宗典の「平成トム・ソーヤー」(集英社文庫)を読んだ。けっこう、お話の構成とかしっかりしてるし、読む分には楽しめないこともないけど、キャラクターが平板すぎないかなってちょっ思った。あと、主人公って、原田がかくありたい、こんな高校生時代を過ごしたいという願望が少し露骨だったような気がしないでもない。
 「鍵のかかった部屋」(白水社Uブックス)を読んだ。基本的には「シティ・オブ・グラス」や「幽霊たち」と同じ話である。ぼくの知り合いで、オースターの「シティ・オブ・グラス」が好きで、ずっと持ち歩いていては無くし、8回も買ったという奴がいるが、ぼくはそこまではまらない。とりあえず、特集のときに何か書くので、今日はここまで。
 加藤典洋と竹田青嗣の「二つの戦後から」(ちくま文庫)を読んで、ちょっと反省もした。基本的には、同意しえない本ではあるが、
 村上龍の評価とかあるし、それに中島梓の「コミュニケーション不全症候群」なんかに感心されても困ってしまうのだが、まあいいか。何だか、どうして反省したんだか忘れてしまった。そうだ、思い出した。二つの戦後というのは、太平洋戦争と湾岸戦争のこと。ところでよくわからないのは、湾岸戦争後に日本の知識人といわれる人達が「国民国家」を批判しだしたということ。具体的には柄谷行人とか浅田彰のことなんかを含むんだろうな。そこのところ、もう少し自分でも考えてみたほうがいいのかなあって反省したんだっけ。ぼくも「国民国家」を批判する側なんだけどさ、どうしてなのかなあって。どうでもいいけど、加藤も竹田もフェミニズムに批判的だったりもする。だって、江原由美子と河野貴美代と小浜逸郎の座談会を読んで、小浜に理解があるんだもんってきめてもいけないか。
 もっとも、当時の知識人とよばれる人たちの間で、ドゥールズ&ガタリの「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」とかはやっていたから、関係あるかもね。ぼくも影響を受けているし。
 あと、松田道雄という小児科医の書いた「おやじ対こども」(岩波新書)も読んだ。これ、1966年の本。60年代の本を読んで、今とあまり変わっていないなって思う。戦後、民主主義社会となって、どうしたか。そこでは戦前の親の権威というものが欠落してしまったけど、松田はこれをポジティブに受け止めている。つまり、「こういう時代の子育ては自分たちで考えていかないと」、という。戦後、男女は平等になったが、実際にはそんなことはなく、女性の仕事はこしかけと思われていた。松田はこうした現実を指摘しつつ、フェミニストではないから、そうした二重規範の社会にとりあえず適応するように言う。とはいえ、父親の育児参加(朝、母親が食事をつくる間くらい父親は子供と散歩でもしてればいい、とかさ)なども言われているし、基本的にジェンダーを過剰に認めている部分は批判してしまうものの、同意することも多い。こういう本を読んでしみじみと思うのは、「戦後民主主義教育が子供をだめにした」のではなく、「戦後民主主義教育がいまだに未完成なんだな」ということだ。60年代から時計の針は進んでいない。どころか、「国民国家批判」をすると、ストレートに文句を言われたりするもんなあ。どうしてなのかな。
 あとは、池澤夏樹の「真昼のプリニウス」(中公文庫)とかも読んだけど、いまいち焦点がつかめなかったな。
 パスカル・ローズの「ゼロ戦」(集英社)については、別の機会に書いてみたい。
 ニーナ・ホール編の「カオスの素顔」(講談社ブルーバックス)って、右から読んでも左から読んでも同じタイトルになりそうな本。カオスについて、いろんな人が書いてる。イアン・スチュワートとかマンデルブローなんかもいる。宇宙も経済も天気もみんなカオスなのである。


「こちら葛飾区水元公園前通信367」送信日時98/09/22 22:55

 これまで病気らしい病気をしなかった娘だが、今日はかぜで熱を出して寝ている。今日はかみさんが医者に連れていったけど、熱があるといっても、食欲もあるし、多少元気はないけど、遊ぼうという意欲もあるし、心配はしてないけど、しみじみとしてしまう。早く寝てくれるし。

 今日のBGMはブラジリアン・ラブアフェアの新作「リオデジャネイロ・ブルー」である。4作目にしてついに、日本とイタリアの同時発売となった。出世したな。前の「ディレーネ」なんて、1年は遅れたもんな。
 ボーカルのディレーネはブラジル出身なので、イタリアなのにブラジリアンでも偽りはない。すごく洗練されたヨーロピアンラテンで、カバーもばっちり。今回はジュリア・フォーダムまでやっているし。夏はほんとのブラジリアンのサンバのシモーヌ・モレノを聞いていた人には、秋はこうした少し落ちついた音がいいなあと、今回も強力推薦してしまう。とりわけ、今回が前回以上にアダルトな雰囲気だ。

 明智抄までが小説を書いているというアンソロジー、「ハンサムウーマン」(ビレッジセンター)を読んだ。明智のそれは、まんがと同じ感触なんでびっくりしたけど、これがいちばんのおすすめ。「松茸狩りでオトナになる」のである。全体としては、女性の存在そのものが男性なしにも成り立つという、ただそれだけの単純なことが、いかに欠落していたかを思い知らさせてくれる作品が並んでいる。大原まり子の作品は途中で終わっているけど。この他、斎藤綾子、小谷真理(彼女だけ、ブードゥー教の女性のノンフィクション)、島村洋子などなど。斎藤美奈子が推薦しているので、ぼくは推薦しないでおく。

 今は海老沢泰久の「美味礼賛」(文春文庫)を読んでいる。面白いし、ぐいぐい読めるけど、何か中身の密度が低い気もする。それを言ってはわがままなくらい、辻クッキングスクール創立者の話は面白いのではあるが。ぼくは推薦しないでおく。

 日曜日は野球をしたのだが、最初の打席で走ったときにももを傷めてしまって昨日は一日、痛かった。もう平気だけど、トシのせいなのか、それとも当日はまだ風邪をひいていたせいなのか、どっちだろう。
 娘が生まれてからこっち、運動不足で、ずっと野球ではいいとこないのであった。いかんなあ。
 でも、肩の具合は、一度悪くしたんだけど、だんだん良くなっているんでうれしい。


「こちら葛飾区水元公園前通信367.1」送信日時98/09/24 23:42

 昨日(23日)にはさすがに娘も40℃を超す熱を出してくれて、さすがにびびったけど、今日はもうだいぶ下がってほっとしている。かぜではなく、突発性発疹ではないかというのが、医者の見解であるが、だとすればこれかた発疹が出ることになる。まあ、それはすぐに治るし、とりあえず安心ということである。
 でもまあ、明日も保育園は休みだなあ。今日はかみさんが休んだので、明日はぼくが休むことになるだろう。

 今日は、三井海上と日本原子力発電とのアポの間にひまができたので、明治大学の刑事博物館を見てしまった。江戸の拷問点であって、十手とかさらし首の台とかいろいろ展示してある。磔台もある。痛そうである。大岡越前と鬼平と遠山の金さんのそれぞれの年譜が示してあって、微妙に時代が重なるというのも面白い。鬼平こと長谷川平蔵は今大岡と呼ばれていたりして、その屋敷の跡地に遠山一家が住むことになるという。

 ついおもしろがって、娘に絵本を買い与えてしまう。でも、なかなかぼくの感性とは違うというか、どんな本が好きかは予想できないし、好みも移り変わるみたいでおもしろい。一般的には、だんだん複雑な絵本を見るようになってくる。「こどものとも012」という月刊の絵本があって、これを毎月、内容にかかわらず買い与えたし、バックナンバーも手に入るものを与えてみたのだが、そうした中で、傾向というのが出てくる。また、これ以前には、「ブルーナの0歳からの本」とかルーシー・カズンズの「ふわふわ絵本」という絵がかいてあるだけの布製絵本とか与えたのだけど、こっちはなんかもう、卒業という感じ。でもね、さるとかねことかくまとかだと指さす。それから、洋書のバーゲンで買ったペンギンの写真集なんか飽きずによく見てるな。星野道夫の写真を使った「かがくのとも」の「くまよ」はぼろぼろになってしまったど、これは最初に与えた本だからふりまわしたりかじったりしたもんな。同じくバーゲンで買ったエリック・カールの「はらぺこあおむし」人形付きはミニサイズだけど、穴があいてたりするから好きみたい。よくかじってる。あおむしの人形がなかなかいいんですけど。さすがに、原書でも関係ないみたいだな。こっちも読むとき、日本語だろうが英語だろうがそのまま読むわけじゃないから関係ないもんな。
 ということで、何が書きたかったかというと、林明子の「くつくつあるけ」の本を買いました。4冊セットで買ったんだけど、ねずみとうさぎとくまのぬいぐるみといっしょにスープを飲んでこぼしたのをふいてもらう「きゅっきゅっきゅ」が好きみたいで、こいつは食べるのが好きな奴なのかなあとしみじみと思ったということです。


「こちら葛飾区水元公園前通信367.2」送信日時98/09/26 10:15

 昨日(25日)はかみさんが会社に行って、ぼくが休んだ。娘を病院に念のためにつれていくと、「これは、典型的な突発性発疹だな」と言われた。とりあえず、熱も下がったし、医者には「明日から保育園に行っていいよ」と言われたけど、今日は土曜日なの、休みである(いや、正確に言うと、娘はお休みというおやくそくの土曜日で、実際には保育園に行っている子もいる)。
 そんなわけで、いろいろとレスをいただきましたが、ありがとうございます。
 でも医者に、「もう一回くらいかかるよ」と言われています。まあ、でも、しばらく
はかんべんして欲しいな。ポリオとはしかの予防接種も控えているし。

 今日もかみさんは仕事、明日も仕事ということで、この三日間は父子家庭である。
 午前中はNHKのおかあさんといっしょを見たりしているが、体操のおねえさん(松野ちかという人で、きっと石川の好みだと思う)がなかなかかわいいので好きである。歌のおねえさん(茂森あゆみ)も独特の雰囲気があって好きである。結果として、娘ではなくぼくが見たいのではないか、などということになるのだろうか。このさい、体操のおにいさんも歌のおにいさんもどうでもいい。でもこの人たち、音大や体育大とかを卒業しているのかなあ。
 まあ、でも、娘は体操なんかをやりたいみたいで、けっこうじっと見ていてくれるので、楽である。あんまりテレビは見ないのだが、おかあさんといっしょはじっと見ているので、やはりNHKの幼児番組はあなどれないなあとしみじみと思うのであった。

 まだ体力が完全に回復していないので、そのあたりを気遣いながら、散歩したりして一日を過ごしている。気分はトゥーサンの「ためらい」である。
 昼寝をさせるときは、ベッドに置いてもなかなか寝ないので、ベビーカーで散歩する。眠いときはすぐに寝てしまう。で、すぐに帰ってきて、ベッドに置くわけだ。しかし、この方法、暖かいうちはいいけど、雨の日とか使えないので、どうしようかと思う。難しいところだ。

 大澤真幸の「戦後の思想空間」について、ちょっと書いておく。
 この本、バブル崩壊と昭和恐慌、オウムと大逆事件や二・二六事件なんかを重ね合わせ、現在の日本は六〇年前とよく似ている、同じ流れを繰り返していると主張している。その単純な比較には、かならずしも納得しないのだけれど、大澤が大正デモクラシーのことを、天皇制を取り込んだ民本主義としていることに注意したいなって思った。
 くわしいことはどうでもいいんだけど、ぼくたちが戦後民主主義とよぶ以前のものに、確かに大正デモクラシーというものがあった。それが何なのか、どう評価されるのか、なぜ戦後の民主主義と断絶があるような感覚なのか、今のところのぼくの疑問。
 ぼくは歴史がすごく苦手ではあるのだけれど、ここは文学史を援用していくとするなら、その時代にどんな小説や詩が書かれたのか、思い起こしてみたいとも思う。

 昨日は娘は林明子の「おつきさまこんばんわ」を何度もぼくに読ませた。「くつくつあるけのほん」の中で、実はいちばん気にいってもらえないのが「くつくつあるけ」だったりする。
 今現在は、お昼寝中、今日はおかあさんといっしょを見ることもなく、眠くなってしまった。起きたらとりあえず、おやつ。今日はプルーンを用意している。それからどうしようかな。空はくもりだし、風が強いしなあ。

 何だか、専業主夫のような内容になってきたな。


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