1999年2月


「こちら葛飾区水元公園前通信378」99/02/14 23:28

 このあいだ、娘と銭湯に行ったのだけれど、湯から上がって娘にパジャマを着せたあと、ぼくも服を着ていたときのこと。娘の身長はだいたい77センチメートル、大人の男性の腰よりも低い。脱衣所のロッカーの上の方に服を入れている人のちんちんがだいたい娘の目の前にくるようになる。そんなわけで、ふと横を見ると、娘は知らないおじさんのちんちんに触ろうとするではないか。おじさんはロッカーのある上の方に目がいっていて気づかない。「おいおい、それはさわっちゃだめ」ということで、幸いなことに触らずにすんだのだが、おじさんもそれにきづいて「いやあ、かまわないですよ」って、こっちはかまうぞ。

 そんなわけで、水田宗子の「ことばが紡ぐ羽衣」(思潮社)はなかなか良かった。
 女性が書いた文学作品を中心にしたエッセイなのだけれど、話はカトマンズから始まる。そこで彼女が目にしたのは、色鮮やかなサリーだ。西洋からやってきた近代は、女性の衣服を男性のように地味なものに変えてしまった。日本でも、和服は追いやられた。そして女性もまた、スーツに身を包み、会社に行く。
 もちろん、ネパールが良いと言っているわけじゃない。ネパールの女性はまたより強い家父長制の中にいる。でもその中で、色鮮やかなサリーを身にまとうという存在にもなれる。
 単純に言ってしまえば、抑圧の中で、羽衣のように鮮やかなサリーを身にまとい、ことばを紡いでいく。それがたとえば、シルヴィア・プラスの詩だったりする。
 単純すぎて、うまく伝わらないのかもしれないけれど、フェミニズムということで考えたときに、サリーとダークスーツの間に、何か置き忘れているものがないのだろうか、そういう疑問なのだ。
 カトマンズから始まったエッセイは、インドネシア人の血を引く、アフリカ系アメリカ人で日本に移住した女性の話で終わる。サリーとダークスーツの間に引き裂かれた、女性のアイデンティティを問題にしていたのだけれど、そうではなく、女性としての自分自身のアイデンティティを確立する強さって、それは必要だし可能なんだなって、そう思う。ぼくは当事者ではないけれど。でもそのために言葉が書かれていく。それをすくいとることで、女性のみならず、ぼくもまた何らかのものを得るのだろう。
 ところで、ぼくはスーツを買いに行くとき、まずグレーと紺以外の色と指定する。別に、水商売のような紫とかは買わないけどさあ。きれいなグリーンのスーツとかいいなって思う。でもすっかりバブル以降、地味なスーツばっかりになっちゃったね。

 以前からなかなか気が進まなくって、ずっと読んでいなかった、富岡多恵子と上野千鶴子と小倉千価子の「男流文学論」(ちくま文庫)を読んだ。かみさんが買って読んでいたから、うちにせっかくあるので。いままで読まなかったのは、あまり期待していなかったからなんだけど、まあ、その通り。というのも、男性が書いた小説の中の女性って、だいたいにおいて男性に都合のいい存在だし、そういうのって、ずっと批判されてこなかった。でもね、こうした作業って、当時すでに、三枝和子の「恋愛小説の陥穽」っていう評論があって、それで十分なんじゃないかって思っていた。
 いまだに男性にとって都合にいい女性はメディアの中で生産され続けているし、批判されてもいいんだけどもね。だからといって、同じ批評を繰り返すのでは、それはもはや批評とはいわないもんな。
 でも、小島信夫の「抱擁家族」って読んでみたいと思った。江藤淳もいろいろ書いていたし。というか、この本の中ではむしろ江藤の下りがいちばん面白かったな。ぼくは上野のように江藤の「自由と禁忌」を読んで泣きはしなかったけど。
 村上春樹の「ノルウェーの森」を取り上げたのはちょっとかわいそうかもしれない。その売れ方にもかかわらず、この作品は村上の主な作品とは傾向が違うし。まあ、それ以前に村上もまた、男性に都合のいい女性を生産してきたんだけども。そうじゃない女性が登場するのは、「国境の南、太陽の西」まで待たなきゃいけなかったもん。

 その村上の、「村上朝日堂」シリーズを読んでいないことを思い出して、今、ずっと読んでいる。ちょうど今のぼくと同じくらいの年齢のときのエッセイなんで、すごく感じるところもある。村上はヤクルトファンだとか、そういうのもあるけど。今月中に「うずまき猫」まで読むんでしょう。そうしたら文庫になった「アンダーグラウンド」も読みたい。

 明智抄の小説が読みたくて、レズビアン小説のオリジナルアンソロジー「カサブランカ革命」(イーストプレス)を読んだ。明智抄のまんがって、そのはっきりしない線で描かれているせいもあるのだろうけれど、読むがわの目がくもっている感じがする。描かれる主人公の疑問は理解できるのだけれど、それがふつうと少しずれているからなのかなあ。小説も同じ。ヒロインはどうしようもない夫に嫌悪感をいだいて、ぐうぜん知り合った女性の医者のもとにいくのだけれど、そこで性的に満たされるとまた夫を愛している状態に戻るという。それは夫婦がパーフェクトなペアではないというだけのことなのだけれど、明智の手にかかると、あれれっていう雰囲気になってしまう。
 全体としては、お遊び的な雰囲気の本で、それなりに笑えたけれど、読まなきゃそんっていうほどのものではない。
 もっとも、内田春菊の「あたしが海に帰るまで」(文春文庫)を読むと殺伐とした気持ちになるので、それよりはいい。こっちを読んだら最初は、「エレンディラ」かと感じてしまった。とにかく、出てくる男って、セックス以外考えていないどうしようもないやつばっかりだし、その一人が義父で母親はそれを黙認しているからなんだけど。
 ついでに、ガルシア=マルケスの「青い犬の目」(福武文庫、青いのは犬でしょうか、目でしょうか)も読んだ。

 レオ・レオーニの「平行植物」(ちくま文庫)も読んだけど、感想を書くと長くなりそうなのでこのつぎね(野分はレオーニの絵本「あおくんときいろちゃん」は好きじゃなかった)。あと、ユルスナールも読んだことない(中薗が好き)のに須賀敦子の「ユルスナールの靴」(河出文庫)とか、原田宗典の「あなたには買えないもの名鑑」(集英社文庫)とか、それなりに楽しく読んだ。村井吉敬の「サシとアジアと海世界」(コモンズ)については、別の機会にまとめてコメントすると思う。
 今は、実はまだ二巻以降読んでいなかった「ゲド戦記」なんぞに手を出したりしています。

 それからビデオで「フル・モンティ」も見たので書いておく。不景気で製鉄会社がつぶれて失業した男たちが、金をかせぐために男性ストリップをやるという話なんけど(中薗が狂喜していた)、演出がすごく上手だったので面白かった。キャラクターの掘り下げが不足する部分もあるのだけれど、それはアイデアでカバーされてるし。まあ、失業した男なんて、身体で稼ぐにしてもやさしくはないなんていう皮肉な見方、というか男性という性は仕事があってはじめて成立する、なんていう皮肉な見方もできるのだけれども、それはそれとして、面白かったです。


「こちら葛飾区水元公園前通信379」99/02/27 16:04

 今日はSHAKIRAの「Do’nde estan ladrones?」を聞きながら、これを書いている。コロンビアの女性である。でも、あんまりラテンっぽい感じでもないなあ。ボーカルの感じが、マリア・マッキーに似ていて、芯があっていいな。太い声じゃないんだけど、不安定そうでそうじゃない、そんな声。カバーは彼女の写真なのだけれど、なぜか手が汚れている。どうしてなのかなあ。
 今月は思わず、欲しかった古い。CDを二枚買った。一枚はTHE PIONEERSのベスト。パイオニアーズって、60年代末から活躍しているイギリスのレゲェコーラスグループで、「Starvation」というヒットもある。この曲は、「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」が流行ったころ、レゲェのチャリティレコードとして、UB40やなんかがたくさん集まって録音し、シングルとして出ていて、当のパイオニアーズも参加している。70年代始めには来日もしていて、その上レコーディングまでしている。という人達なんだけど、実はこういう素朴なレゲェのコーラスが気持ちいいので、一枚欲しかっただけなんだ。でもね、こういう昔のさして売れないグループのCDなんてなかなかなくってね。
 もう一枚はTOMORROWの再発。これは今ではどちらかというと、イエスに入る前のスティーヴ・ハウがいたことで有名なんだけど、リーダーはキース・ウエストという人。再発は前からされていたのだけど、今回は未発表のテイクやシングル、キースウエストのソロシングル(ギターはハウで、ベースはロン・ウッド)、それにトゥモロウのベースとドラムの人が作ったバンドのシングルまで入っていて、なかなかお買い得だと思った。とはいえ、これもどうして買ったかというと、ただ一曲目の「マイ・ホワイト・バイスクスル」が聞きたかったからなんだけど。まぬけかもしれない。音は60年代末、ビートルズの影響って大きかったんだなあと感じさせる、サイケでポップ。

 そんなわけで今月は、薄い本ばかりを読んでいた。又吉栄喜の「豚の報い」(文春文庫)を読んで、ソーキソバが食べたくなり、原宏一の「かつどん協議会」(幻冬舎文庫)を読んでかつどんが食べたくなり、芦原すなおの「松ケ枝町サーガ」(文春文庫)を読んで、メンコなんかをしてた子供の頃が懐かしくなり、田中哲弥の「やみなべの陰謀」(電撃文庫)を読んで、作者の苦労はわかったと言いたくなり、竹内久美子の「小さな悪魔の背中の窪み」(新潮文庫)を読んで、ほんとかなあって思ったりしていた。
 桜井亜美の「サーフスプラッシュ」(幻冬舎文庫)も読んだけど、あいかわらず、話がカタストロフィーしていて、それはそれでおもしろいなって思う。
 藤沢周の「サイゴン・ピックアップ」(河出文庫)は主人公が僧侶。鎌倉のお寺が舞台だけど、まあ、煩悩や借金があってとりあえず寺にはいるけど、寺に入るくらい煩悩が強いんだから、まあ、寺にいてもだめだよなっていう話なのだ。50m走を繰り返すような藤沢の文体って、それはそれでおもしろいけど、小説が面白いこととは別だな。でも、この二人については、機会をあらためて書きます。

 レオ・レオーニの「平行植物」はとても役に立ちました。というのも、水元公園は平行植物の宝庫だからなのだ。 平行植物というのは、成長をやめてしまった、言葉が実態よりも先に存在するような、そんな植物で、近くで見ても遠くで見ても大きさがいっしょだったり、わずか1平方センチメートルに太いのが40本も生えていたりする。成長しないから、増えもしないのだけど、そのくせ人が触ろうとすると、消えてしまう。そういう観念の存在。
 かくして水元公園では、バード・サンクチュアリにはいつでも真っ白の木があって、ウがとまっている。彼もせず、さりとて緑というわけでもない。そのほかにも、水元公園の森は人の関心が集中する要素と無視される要素が入り交じっている。そんなわけで、キララタケという半平行植物なんかもあるし。
 でも、読んでいてわかったことなんだけど、平行植物というのは、むしろ平行化した植物ということではないだろうか。これは化石化と似ている。つまり、現生の植物は言葉のポケットにはまれば、平行化するのではないかということだ。言い換えるなら、存在がいつしか言葉、あるいは観念に先行されるようになるということ。人が触ろうとすると、存在が観念に追いついてしまって、消滅してしまう。
 そういえば、現在はむしろ、建築物の平行化が進んでいるのではないかという気もする。あまりにも身近でだれも気づかないかもしれないけれど、東京タワーはそうかもしれない。どこにいても見えるのだけれど、どうやっても近づくことができない。試しに、まわりの人に聞いても、ここ数年の間に東京タワーに昇ったという人はいないはずである。いや、強引に昇ろうとすると、消えてしまうかもしれない。だれもそう思わないから、見えるのだけれど、そうなるとある日突然消えてしまうのかなあ。
 そう考えていくと、富士山もいつか平行化するかもね。すごいなあ。

 ビデオで「ベルセルク」を見おわった。でも、あの中途半端な終わり方は何なのだ。本を買って読めということだろうか。
 かみさんは面白かったというけど、ぼくは最後までのれなかったなあ。結論は見えているのに、そこまでくどくどと進んでいくっていうのは、ちょっと。


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