2000年2月


「こちら葛飾区水元公園前通信409」送信日時:2000/02/11 08:31

 かみさんから聞いた話。
 鹿児島から帰ってきて、駅からうちに向かう間に、レンタルビデオ屋がある。娘はビデオ屋に入っていって、「おとうさんとくるんだよ」と言いながら、アダルトコーナーに向かっていった。
 うーん、君を連れてアダルトコーナーに行ったおぼえはないんだけどなあ。

 今回はおすすめを二冊。
 ひとつは、マーヴィン・ピークの「行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙」(国書刊行会)だ。ピークといえば、ゴーメンガースト三部作だが、本書はやっぱりヘンテコな本だ。白いライオンを探しに北極まで行った伯父さんの手紙なんだけど、これだけでも十分に変でしょ。本は絵本というか、文字も活字というよりは、壊れたタイプライターだし、伯父さんの相棒のウミガメのようなジャクスンもなぞだし、まあそのヘンさがたっぷり堪能できます。
 もうひとつは、ティム・オブライエンの「ニュークリア・エイジ」(文春文庫)、別に新刊というわけじゃない。積ん読だったものだ。
 主人公は現時点(1995年)で49歳、かみさんとこどもを部屋に閉じ込め、核戦争に備えて穴を掘っている。平行して語られるのは、主人公の60年代、核戦争の恐怖を感じた少年時代を過ぎて、大学からキューバの秘密工作員になり、というわけだ。背景として、キューバ危機やケネディ暗殺、そしてベトナムが語られる。
 言ってしまえば、アメリカ合州国において、リアルな核戦争の恐怖、そしてベトナムがどれだけ深い傷を残したのかということなんだけど、タイトルはもはやその傷から逃れられない世代を示している。その重みが伝わる本なんだな。
 まあ、訳者の村上春樹が同世代ってこともあって、親切な訳注も読んでいてとっても参考になる、というか空気を伝えてくれるんだけどね。でも、何か村上の文章になっているっていうのは、ちょっとなっていうのもあるけどさ。
 ウィン・リヨウワーリンの「空劫の大河−タイ民主革命綺談−」(燦々社)を読んだ。タイの小説である。1933年(仏暦2467年)から1992年(仏暦2535年)にかけてのタイを舞台にした短編小説が11篇、いずれも主人公は反体制活動家と体制側の警察官。現在の時制は1992年で、この二人の老人が回顧しているわけだ。短編とはいえ、その内容は、もっとウェットな民主革命の話かと思っていたんだけど、実際は活劇なんだな。主人公は二人とも拳銃の名手だし、タイの政治の世界でわけのわかんない人があっちこっちで暗躍してたりして、まあ、たいへんってなもんだ。でも、タイに半年ほど行ったことのある安藤に言わせると、タイはあいかわらずしょっちゅうクーデターがあって、誰もおどろかないようになっている場所だという。
 こういう小説の中で、積極的に民主主義が語られるのは面白いって思う。主人公は、結果として二人とも政治に中立だし、背景となるタイは、それなりに近代国家ではあるんだなって思う。
 この本、文字はほとんどワープロだし、印刷はタイだし(だから値段も330バーツとしか書いていない)、でも訳者は金町在住だし、こういうあやしい本も、たまに読むのもいいもんです。とくにおすすめはしないけど。
 あとは、ミルハウザーの「バーナム博物館」はとても面白かったんだけど、とりあえず言うことはないな。荻野アンナの「笑うっきゃない」(王様文庫)はどうでもいいよな。今は竹内久美子の「BCな話」(新潮文庫)を読んでる。

 そうそう、先日、アズリエルという日本のバンドのCDを買った。内容はドライブ感のあるメタルというか、あんまり好みじゃないんだけど(かみさんはこういうのが好きみたい)、ジャケットはT's studioがかいてたりします。この絵じゃプログレじゃないのかってなもんですが。

 正月過ぎの朝日新聞の「はてなテレビ」という欄で、御正月のフジカラーのコマーシャルに質問がきてて、その内容はというと、田中麗奈とドリフが七福神をやっているんだけど、それだと6人しかいなくって、毘沙門天をやってる人は誰?ってなもんでした。「あー、荒井注が元ドリフだっていうことは、すっかり忘れられてるんだなあ」って、しみじみと思ったもんでした。その荒井注が亡くなりました。今となっては、あのフジカラーのコマーシャルはメモリアルなものになってしまったようです。


「こちら葛飾区水元公園前通信410」送信日時:2000/02/26 05:40

 今日、というかもう夕べなんだけど、娘と二人で「ドラえもん」を見た。しずかちゃんがのび太と結婚する前夜をタイムマシンで見に行くという話なのだが。二歳の娘と見てしみじみするほうもするほうなのだが。
 気がついたんだけど、ドラえもんに出てくる子供って、一人っ子が多いよな。そうじゃないのは、ジャイアンぐらいか。

 ジェイムス・サリスの「コオロギの眼」(ハヤカワミステリアスプレス)は、ほんとうにおすすめ。ハードボイルドなんだけど、事件そのものよりも、主人公の行方不明の息子のことをはじめ、過去の女性のことや、現在の主人公を回復させるロマンスなど、そういうことが丁寧に語られていて、なんだか文章ひとつひとつを読む行為が、ものすごく心に響くというもんです。駒田の「スナブランケン」もこういうものをめざしてほしいなって、ちょっと思った。読めばきっとはまるよ。
 これは前にも書いたことなんだけど、ジェイムス・サリス、ニューウェーヴSFの人なんだって思う。この本の中でさまざまな文学作品が引用されるんだけど、そういうスタイルが通じるものがありそうだし、何といっても「新しいSF」に収録されていた短編のタイトルが「コオロギの眼の不安」だったりする。登場人物の重要な一人はサム・ディレーニという名前だし。しかしまあ、癒されるハードボイルドって、めずらしいのかもしれない。ぼくはよく知らないけど。
 ダニエル・ペナックの「子ども諸君」(白水社)もおすすめ。ペナックはほんとうに好きな作家の一人なんだけども。これは、三人の悪ガキが教師に「君たちが突然大人になり、両親が子どもになってしまったらどうするか」という内容の作文を、いたずらの罰として宿題に出されたら、ほんとうにそうなってしまったという話なんだけど。教師そのものも子ども時代にトラウマを抱えていたり、子どもたちもそれぞれ家庭の問題を抱えていたりするわけなんだけど、そんな話が巧妙に描かれていて、笑いもたっぷり含まれているという本。怒涛のハッピーエンドには唖然とするし、まあ、とにかくおもしろい。
 今回もあやしい本を一冊。ウラジーミル・サンギの「サハリン・ニブフの物語」(北海道新聞社)は、何とまあ、サハリンのネイティブの作家による短編集だ。ロシアといえばそうなんだけど、北海道にも近い、というよりアイヌにも近いっていう文化が背景にあって、いろいろ感じることもある。また、イヌイットの話にも似ているんだけど、でもそこは旧ソ連、民族の生活はコルホーズにとりかこまれたりする。食糧は配給だったりとかね。そういう文化的な軋轢もあるし、そういう中で書かれた小説。興味、あります? ぼくはけっこう楽しんだけど。
 ソフィー・マルソーっていう女優は、実はけっこう好きなんだ。「ラ・ブーム」こそ見たことないけど、彼女が30歳前後で出演した映画ってけっこう見ていて。なんか、安心する顔というか、見ていてほっとするんです。派手さはないんだけどさ。で、彼女の「うそをつく女」(草思社)も読んでしまいました。フランスのタレント本なんか読んでどうするって言われそうだけど、そうですね、その通りですね。中味は自伝のような虚構のようなスケッチのようなフィクションです。

 桑田乃梨子の「1+1=0」(白泉社)も読んだよ。けっこう好きなんです、この人。でも、そのオチはちょっとなってね。

 このところ、毎週土曜日は、娘と児童館で遊ぶのが習慣になっている。広いしいろいろおもちゃはあるし。そこで、勝手に遊ばせつつ、こっちは週刊金曜日を読んでいたりする。といっても、彼女もいろいろやってくれるので、相手もしなきゃいけないんだけど。ドラえもんのお面を一緒につくったりとかさ、おままごとの相手もしなきゃいけないし。
 このあいだ、びっくりしたのは、たまたま児童館で人形劇「王様の耳はロバの耳、他一編」をやっていて、それをいっしょに見たんだけど、娘は1時間近く、ずっと集中して見ていたんだよね。もう、そういうことにも対応できるんだって思った。
 児童館はまわりにけっこうあって、それぞれ個性がある。庭があるとか、おもちゃの種類とか、遊ぶスペースの広さとか、そういうことなんだけど。で、気分や午前中の予定(通院)などで変わるわけだ。
 児童館は日曜日はやっていなくて、それが不満。でもまあ、そのかわり散歩したり図書館に行ったりするわけだが。
 幼い子どもがいると、いろいろと新聞を読んでいても、悪いニュースに対してとても感傷的になるんだ。


「こちら葛飾区水元公園前通信411」送信日時:2000/03/11 17:00:

 先日の日曜日(3月5日)、ちょっと不幸だった。かみさんが娘を連れて、ぼくの定期券を持って青砥まで買い物に行ったので、これ幸いとばかり、ひさびさにプールに行った。そうしたら、清掃工場のパイプが破損したとかで、臨時休業だったのだ。まったく、ついてない。で、うちでゆっくりしようとか思っていたら、すぐに中薗たちは帰ってきた。青砥のユアエルムというショッピングセンターは改装中だったのだ。
 これにはおまけがあって、ぼくの定期券は月曜日の朝までに返してもらえなかった。忘れていたのだ。

 そんなわけで、今日も父子家庭である。今、娘は昼寝中。まったく、ぼくといると、簡単には昼寝してくれないもんな。さっきまで、公園に行ってて、馬といっしょに散歩したりしていた。

 今月は、大阪出張があって、その往復と今週1週間かけて、ジョン・アーヴィングの「サイダーハウス・ルール」(文春文庫)を読んだ。買ったのはだいぶまえなんだけど、なんたって、上下巻合計1000ページを超す本だから、つい、手がだせなくって。それでも、ディケンズ(アーヴィングが好きな作家だ)よりは薄いって言われそうだけどさ。
 話は1940年代から50年代にかけての、妊娠中絶をめぐるドラマなんだけど、主人公は孤児院で生まれた男性。この孤児院には医者がいて、彼は出産だけじゃなく、非合法で妊娠中絶もしている。主人公もその教えを受けるわけだが、いろいろあってりんご農園に行ってしまう。サイダーハウスっていうのは、りんごを絞ったりする小屋のことで、ここでは季節労働者が宿泊もする。そのため、ルールが貼ってあるんだけど。
 「ガープの世界」を読んだ(あるいは映画を観た)人は、アーヴィングがフェミニズムに造詣が深い作家だということに気づいていると思うけど、この本もテーマがテーマだけに、その通りなんだ。もちろん、ルールというのは、この本では妊娠中絶のことだし、あるいは男女関係のことでもあるんだけど、そういうルールの縛りの中で展開するドラマはけっこう緊張したものだし、とりわけ細かい伏線がいろいろはられていて、ラストあたりはそれがすべてつながっていくあたり、快感ではあるのだけど。
 アーヴィングにとってのフェミニズムっていうのは、とりたてて強く主張するものなんかじゃなく、人間の本質を受け止めていく上では、そんなのあたりまえのはず、なのになんでそうじゃないの、っていうもんだんだろうな。そう考えていくと、アーヴィングは本書でも「特定の男性が作ったルールはルールだとして、それは別のルールによって破られる」ということなんだろう。あまりにもフェミニズムにとらわれると、軽く聞こえてしまいそうだけど、本当に、ただ、生きるということに肯定的になっていくとき、フェミニズムというのは、ただのあたりまえのこと、だっていうのがアーヴィングの立場なんだと思う。だから、逆にフェミニズムという言葉を使わなくても、アーヴィングについて十分に語れることでもあるんだけど。
 で、本書なんだけど、個人的には「ガープの世界」の方が面白いです。やっぱり、ガープの人生をまともに受け止めてしまう重さというのに比べると、本書は軽いのかなって。それと、「ホテル・ニューハンプシャー」はとりわけそうだったんだけど(ぼくは映画でしか見てない)、これらの本は、よく人が死ぬんです。それはそれでとても疲れるんだけど、本書ではなかなか死なない。孤児院の医者をはじめ、このあたりが、これでもかっていうくらい長生きなので、それはそれで疲れるものだなって思いました。
 しかし、アーヴィングの本って、みんな厚くってさ。次に読むのはいつになるやら。まだ文庫の「ウォーターメソッドマン」も読んでないし。当然、新潮社のハードカバーなんか手を出していない。村上春樹は「ニュークリア・エイジ」のあとがきで「オウエンに祈りを」にしつこく触れていたので、文庫になったら読みたいとか思ってはいるのだが。
 あとは、島田雅彦のヒコクミン関連とか、辺見庸の「独航記」なんかを読んでいた。まあ、おすすめするほどの本ではないので、そういうことで。

 小さい娘がいると悪いニュースに感傷的になると書いたら、ちょっと誤解を受けたので、説明しておきます。まあ、これはぼくに対して「死刑反対とか言ってたけど変わった?」っていう質問だったんだけど、それは変わりません。たとえばぼくが娘を殺されるとかそういう立場だったら、犯人を「殺したい」と思うけど、これは思うだけで実際に殺すわけじゃないし、そうすべきじゃないって思ってるということです。
 実は前回、感傷的になった悪いニュースって、宇都宮市でおきた幼女凍死という事件です。先週のしんぶん赤旗の日曜版なんか、女性週刊誌並にくわしく書いていたりもするんだけど、ここでは説明しない。たださ、母子でとても貧しい生活だったんだけど、その二人だけの生活の中で何らかの幸福も感じていたんだろうなって想像するから、すごく感傷的になってしまうんです。事実、日曜版で「この子さえいれば幸せだった」と話しているんだけども。もちろん、子どもさえいれば、幸福だとは思わないし、生きていくことっていうのは、そういうことじゃないと思う。
 それでね、もっと一般的な形で言うと、ぼくは不幸な立場に追い込まれた子供、あるいは母親に対して、もっとなんとかならないものかなって思う。たとえば、御受験殺人事件でも、殺された子供はかわいそうだとは思う。でも同じように、犯人である母親を持った子供もすごく不幸だ。その子供の健全な成長が、阻害されていると思うといたたまれない。あるいは、オウム信者の子供が学校に通えないということも何とかならないかって思う。彼らは「何も悪いことはしていないのに」、教育を受ける権利が阻害されている。そういうことが、ぼくをすごく感傷的にさせている。
 もちろん、柏崎市や神戸でのような事件は絶対に二度と起きて欲しくない。でも、それ以上に、はるかにたくさんの子供が親から虐待されているということを何とかして欲しいと思う。そして同じ意味で、肉親の問題によって自らの罪でもないのに社会的制裁を受けている子供たちを何とかして欲しいとも思っている。ぼくは、少なくとも、お受験殺人やオウムを単純な眼でしか見ていない人は、事実上、児童虐待をしているということを自覚して欲しい。
 そして、実は社会はかように暴力的だし、そうした中で例えば母親が追いこまれることで、御受験殺人や児童虐待のようなことが起きている、そう思っている。そこでタフに生きていくこと、それは実はジョン・アーヴィングの小説に通じているものでもある。


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