「現代文学のフロンティア1〜6」
沼野充義、今福龍太、四方田犬彦編(岩波書店)
「旅のはざま」、「愛のかたち」、「夢のかけら」、「ノスタルジア」、「私の謎」、「怒りと響き」という六冊のアンソロジーである。しかも、フロンティアにふさわしい、世界中から集められた、小説、詩、エッセイ、紀行、評論、戯曲等々、刺激的な作品ばかりが集められている。はっきり言って、岩波書店の企画の勝ち。文学は終わったとか、そういうことを言う人はいつでもいるんだろうけれども、そうじゃなく、まだこんな可能性が残っているんだ、という意味で、フロンティアなのである。
どの巻もほんとうに甲乙つけがたいのだが、そういうわけで各巻ごとに見ていく。まず「旅のはざま」だけれど、その旅というのは国境を越えざるを得なかった旅、すなわち亡命や不法就労のための越境。とりわけ旧東欧からの亡命、あるいはメキシコからアメリカへの越境がテーマとなった作品が多い。国境が引かれ、その向こうとこちら側に差ができてしまうと、それを越えること自体がテーマになる。国境の持つ不条理である。旅というのは、終わりのない、帰ることのない旅なのだが、それこそがフロンティアだというわけ。ちょっとメキシコの国境が強い気がするなかで、ベトナム出身のトリン・T・ミンハも収録されていたりしてうれしい。
「愛のかたち」というのは、説明不要だね。ぼくたちはどのように愛を語るのだろうか。古くて新しいテーマだけど、今なお、愛を語ることの必要性はありすぎる。グロリア・サワイの短編がぼくのフェイバリット。こんなアンソロジーでもないと読むことないよなあ。ジャネット・ウィンタースンやアイサック・バシェビス・シンガー、ジェイン・ボウルズなどが収録されていて、一番好きな一冊かなあ。
「夢のかけら」も説明不要だな。残雪の短編やガブリエル・ガルシア=マルケスのジャーナリスト作品も収録されている。
「ノスタルジア」の解説は、四方田によるタルコフスキーの映画についての話から始まる。過去の話ではあるが、過去ではなく現在。郷愁と呼ぶにはまだまだつらいかもしれない。そういうノスタルジアである。
「私の謎」は、タブッキの作品ですっかり注目されるようになったフェルナンド・ペソアの詩から始まる。これも説明不要のテーマだけれども、自分は誰なのか、どういう存在なのか、しっかり考えてみるというのは、ぼくたちにとっても一つの手だろう。考えもしないで「誇りの持てる歴史教育を」などとわけのわからない人がいて困ったりもしているくらいなのだから。カレン・ティ・ヤマシタの作品はけっこうぶっとんでいるぞ。
「怒りと響き」はちょっと特殊かもしれない。もちろん解説はまずウイリアム・フォークナーの「響きと怒り」から始まるのだけれども、ここではむしろ、映画と文学ということに焦点が当てられる。文字と映像によるそれぞれの表現は、何らかの影響を相互に与えてきた。そしてこの二つの分野に跨がって創作していく作家もいる。それぞれの持つ圧倒的な力、それがこのアンソロジーで展開されていくことになる。その意味で、ピーター・グリーナウェイやジャン=リュック・ゴダール、ピエル・パオロ・パゾリーニの文章も収録される一方、そのサルマン・ルシュディの映画に関するエッセイ、映像と関係の深いジョナス・メカスやポール・ボウルズ、さらにパンソリをベースにした金芝河の大説(小説じゃないのだ)では、何か力でねじふせられる気もする。
という内容なわけだし、六冊そろえて読んでも絶対に損はしないと断言するのであるが、その上でちょっとだけ悪口を言うと、編者のせいかもしれないけれども、ヒスパニックやネイティブアメリカン、チカーノ、あるいは東欧の作品が充実する一方、アジアやアフリカの作品ももっとあっても良かったのでは。あるいは、SF畑にももっと変な作品がもっとあるはず。SFの入っていないフロンティアなんて、やはりSFのファンジンであるトーキングヘッズの特選街では、ちょっと悪く言ってみたくもなるじゃない。
ということで、編者を変えてあと三冊くらい出してもらってもいいなというのが、ささやかな願いなのである。まあ、この六冊に負けないものを一冊つくるというだけでも、たいへんなプレッシャーになるかもしれないけどさ。
「女たちのやさしさ」
J・G・バラード(岩波書店)
これはセックスについての小説である。しかも、かつてなかったほどやすらぎに満ちたセックスなのだ。
「太陽の帝国」は上海の収容所で過ごした少年時代が語られた作品だった。一方、「女たちのやさしさ」はこの少年時代から始まって、映画「太陽の帝国」が完成するあたりまでのバラード自身がモデルになっている。そのため、本書を「太陽の帝国」の続編ととる向きもあるが、少年時代が再び語られていることと、小説全体のテーマがまったく違うことから、これは続編ではないといえる。
この自伝的な体裁をとる小説は、上海の少年時代から始まり、医学生、NATOのパイロット、そして作家としてぼくたちがよく知っている作品の背景が語られていく。その中で、家庭教師、解剖実習に割り当てられた女性の死体、のちに妻になる恋人、妻の死と妻の姉との一瞬の情事、子供の同級生の母親とのセックス、等々が続いていくが、描かれるセックスは激しさやエロチックな描写を伴っていない。そうではなく、主人公は女性とのセックス、ないしはそれを感じさせる行為によって救われていくのである。例えば妻の葬儀のあとの妻の姉とのセックスは、主人公が辛い出来事に遭遇してしまったという、その傷が少しでもやわらぐように、惜しみなく与えられたというものである。やさしさとしてのセックスなのだ。この感触は、読者にも同じように伝わる。セックスというものが、やさしく女性に抱かれるという、やすらぎを与える行為だということが。すなわち、読書そのものが、主人公とともにやすらぎを感じていくようなものとして。
この本を読んでいて、高校一年のときの生物の先生の教えを思い出してしまった。彼女は女生徒に対して、「寂しい男性がいたら寝てあげてね」と言うのだ。まあ、逆もあるだろうということで、ぼくもその教えをなるべく守ろうとは思ってきたけど、まあ、たしかにそういうこともあるわな、というのが実感。別に誰とも寝るということはないし、ちょっとした誤解によって毎晩、男性から電話がかかってきて、別に話すだけなら対応してあげてたけど、そのうちゲイのハードコアポルノが送られてきたりして、しまいには男性恐怖症になるという経験もしたけどさ(いくら寂しくても、男性とは今までも将来も寝たりしません、というより、寝たくない相手とは無理に寝ることはないんだけどさ)。でも、愛とかさ、性的欲求とは別に、その場ではとりあえずセックスすることで異性の友達を楽にしてあげるとか、そういうことはあるよね。やさしく女性に抱かれる、あるいは同じことをしてあげるという快楽。表現としては別にこれがゲイのセックスでもいいんだけどさ。でも、どうしてそんなセックスについて、これまで誰も書かなかったのかなぁ。いわゆるセックスについての神話が、ぼくたちの考える以上に強力なものだったのかな。「こうあらねばならない」というような。だからこそ、ぼくはこの作品を読んで、「そうだ、こういうエロチックな感触のまるでない、気持ちのいいセックスがあったんだ」と膝を叩いてしまった。
バラードとセックスというと、例えば映画化された「クラッシュ」なんかがある。あの作品の中で、自動車事故にエクスタシーを感じ、事故とともにオルガスムスに達するという描写は、ものすごくエロチックだった。テクノロジーが原風景となっている人々にとって、機械を介在させるセックスは、むしろより自然なものとなってくる。機械によってこれまで行けなかった場所に行く、そこでのセックス、それが自動車事故のエクスタシーだったと思うのだけれど。そういえば映画は大きな劇場(例えば有楽町のマリオンの映画館)で公開されたせいか、みんなエンターテイメント系だと思ってしまい、ぞろぞろと「危険な愛の形」を見に言って、映画が終わったとたんに「これは何だったんだ」と観客席がざわめく、ということが繰り返されたらしい。ぼくが見たときもそうだったし、他の人の話を聞いてもそうだもんな。でもまあ、クローネンバーグ監督は「裸のランチ」よりも原作にストーリーがあるので作りやすかったらしいけど、逆に監督の解釈が少ない分、わからない人にはわからない映画になっちゃったのかも。まあでも、おかげでたくさんの人が「クラッシュ」を見るという貴重な体験をしたんだからいいか。
「女たちのやさしさ」は長年バラードを読んできたファンにとって、にやりとさせるような贈り物でもある。「狂風世界」から短編集の「第三次世界大戦秘話」収録の「夢の積み荷」あたりまでの作品が書かれた背景が描かれていることだ。とりわけ「クラッシュ」や「夢幻会社」につながる部分はなるほどなあってなところだし。あとは、映画「太陽の帝国」の撮影のシーンはこの映画のハイライトでもある。バラードが自分の役を演じる少年に挨拶されたりしてさ。作品はまさに大きなうねりを見せて、主人公を再び上海に導くことになるわけ。その綾というのも、読者は一緒に体験することになる。
でもまあ、バラードが岩波書店から出るというのも、時代が変わったなあって思った人も少なくないでしょ。
「恋をする身体」
ジャネット・ウィンタースン(講談社)
これまで邦訳された二冊「ヴェネツィア幻視行」と「さくらんぼの性は?」を読んだ人にとっては、このシンプルな恋愛小説は意外かもしれない。でもまあ、「現代文学のフロンティア」に収録された短編を読むと、ウィンタースンがレズビアンを扱った作品を書いていることがわかるので、面くらうことはないだろう。
主人公はすでにある女性と同棲をしているが、そこで夫のある別の女性と恋に落ちる。だが、彼女は白血病だった、と。そういう話なのだけれど、小説は恋に落ちたどうしようもなさに向かっていく。そして、読んだ感触としては主人公は女性であり、レズビアンだと思うのだけれど、正確に主人公の性別を明記した箇所はない。すなわち、読者が勝手に主人公を男性だと思ってもいいことになる。野中柊の訳業のせいか、主人公の言葉もまた、なるべく性別を感じさせないような言い回しを多用している。ある意味ではジェンダーレスのまま、恋愛小説の進行を経験していくことになる。
小説の中盤、主人公は別れた恋人の身体を一つ一つ思い出していく。この小説の白眉ともいえる部分。それは、恋においてもっともメンタルでフィジカルな部分。セックスしたいというのではなく、相手の身体をそばに置きたいという感触。病に侵された部分のその内部にまで思いを馳せるとき、読者もまた失ったやすらぎをすっかり感じることになる。
ジェンダーレスということは、飾ることがないということでもある。そうした裸の恋のどうしようもなさ、そうしたものを読者もまた自分の内に発見できればいいんじゃないかなって思う。
「オールウェイズ・カミングホーム」
アーシュラ・K・ル=グイン(平凡社)
二万年後のカリフォルニアに住む人々を考古学的に記述した本で、手記、詩、慣習についての記録などなどから成立している。丁寧に辞書までついているから、芸が細かい。
二十代のころ、いつもぼくは「いつかどこかに帰らなきゃいけないんだなあ」って思っていた。当時住んでいた場所も働いていた場所も、それは仮のものという気がしてしかたなかった。住む場所については、今の水元はけっこう気にいっているんだけど、まあそれはいいとして。タイトルにある「いつも家路にある」という感触は何となくわかる気がするのであるが、それが正しいかどうかは別だな。まあ何となく、人が生きるということは、いつも家路にあるようなものなのかもしれないんだけどさ。
本書は「石が語る」という中編とそれを支えるディティールから成立していると考えるとわかりやすいかもしれない。「石が語る」は大谷に住む女性の手記。彼女の父親は男性系種族のコンドル人。むしろ女性系ともいえる大谷の村で育った主人公は、だがある日父親とともにコンドル人の仲間になり、やがて再び大谷に帰ってくるという、ル=グインお得意の、人間がある地点から別の地点に行き、場合によっては戻ってくるというパターンなんだけれども。そしてこの世界を正確に見るために、読者は多量の情報に接するというわけ。
この作品ではコンドル人=男性系種族の批判をすると同時に、核廃棄物(多分)などで汚染された地域に住む後の世代への影響など、二〇世紀の人々をちくちくと批判していることも見逃せない。
ル=グイン自身、彼女の母親であるシオドーラ・クローバーの「イシ」という滅び行くあるインディアンについての著作を再発見するあたりかたら、フォークロアに大きく傾斜していったし、本書はその集大成ともいうべきものなのだけれども。ぼくはこの本の中で、その二万年後のカリフォルニアの住民の風習や詩などに触れるたびに、実は現在の男性系社会のその特殊さ、つまりたかだか二〜三千年という歴史しかもたない特殊さのなかにどっぷり浸っているぼくたちといたものを感じないではいられない。それは言い方を変えるならば、彼女が描いてきたハイニッシュ・ユニバースシリーズという未来史でもそうなのだけれども、そこで展開されるさまざまな可能性の、そのどちらかというと批判されるべきかもしれないのが、たまたまぼくたちが生きる現在であるような。その意味で、現在がすっぽりとSFという枠の中に入ってしまう。そういうふところの大きい本でもある。
ともあれ、読者としてはむずかしく考えなくても、ル=グインの用意した一つ一つの要素、パーツを素直に楽しんでいくのも手だろうな。考古学がその時代の生活に思いを寄せるように、大谷の生活を想像してみる楽しみがあるっていうもの。
「やがてヒトに与えられた時が満ちて…」
池澤夏樹、普後均写真(河出書房)
未来、人類は生殖能力を失いつつあり、健康な人間だけを宇宙空間の人工衛星に集める。その人口は約三〇万人、世代を追うごとに、過去は謎となる。主人公はこの謎のためにコンピュータと対話をする。
SFといえばSFなのだけれども、むしろこれは小説として、現在がほぼ袋小路に近い状況にあると感じている作者の、その意識を投影した、現代的な小説なのである。だからSFとして新しいアイデアが盛り込まれているというものではない。もちろんSFは現在を描くものだという言い方もできるが、そうであればあるほど、書かれた作品がSFから遠ざかってしまうという逆説すら含んでいる。一回り大きい時間の枠の中での、ヒトの種類としての孤独が描かれたこの作品は、すっかり現代小説なのだけれども。そう、一回り大きい時間の感覚こそが、池澤の小説をSFのように見せているのだけれども、その感覚を共有しないと、本書はSFに見えてしまうことになる。ということで、じゃあSFじゃないのかといえば、それはもう、SFと認識することで多くの読者が一回り大きい時間の枠を認識できるのだから、それはそれでいいのだろうけれどもね。でも、やっぱりこれはSFじゃないと言っておく。ついでに、そのことが何ら作品をおとしめるものでも持ち上げるものでもないとも言っておくけれど。
「アルカイック・ステイツ」
大原まり子(早川書房)
本書をSFたらしめているのは何かというと、SFからの無数の引用だったりする。火星の描写は「トータルリコール」を思わせるし、ルーディ・ラッカーの言葉も引用される。そんなこんなで、じゃあオリジナルのSFのアイデアは、などと野暮なことを考えてはいけない。SFをSFたらしめる要素を盛り込むことがSFなのだから、と言ってしまうしかない。
こうした小説の焦点は、行き着くところ美しい主人公の出産をめぐる生命力ということになる。生殖をめぐって語られるこの作品は、すっかり現代小説なのだと言える。かつSFである。二十八世紀という一回り大きい時間軸は、SFとすることでいったん切り離される。そのことこそ、池澤と決定的に違うことではないだろうか。
言い方を変えるなら、池澤は人間という種族に与えられた時間を考えており、一方大原は人間という個体の存在に与えられた時間を考えている。個体だからこそ、では女性という存在はどうなのか、問いかける事が可能となる。そこで、現在と切り離された未来を設定する。そこでSFになるというわけ。
もっとも、「文学界」に作品を発表する大原まり子にとっても、SFというレッテルはどういう意味があるのか、ということにもなるのだろうけど。