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母 9 0 歳

あずけられて


前編 その1  2002/8/5
母の一言から、わたしはちゃんと書きとめておこうと思ったのです。

2002年正月、帰郷していた娘夫婦も息子も明日からの仕事始めでそれぞれの任地へ 帰っていった。常日頃小さい子どものいない我が家に孫の小さな椅子や壊れたおもちゃが 残されて、私は、にぎやかだった正月の名残りを楽しんでいた。風邪気味だったけれど どうにかみんなのいる間、もちこたえられていたのは幸いだった。
2002/8/2 vol.6
母の一言
2002/9/5 vol.7
三朝温泉
2002/10/3 vol.8
最後の電車の旅
2002/11/5 vol.9
ENDINGDORESS

をまとめたものです。

正月休みと決め込んでこたつでゴロゴロと気を緩めてしまったのがいけなかった。熱が ポッポッあがって行く。まぁいいや、これからわたしの正月休みにしよう。食べるものも一杯残っているし。 気楽さにたかをくくっていた。

「早うお医者さんにいって治してもらって。わたしアンタが倒れたら生きていかれへんから。」

熱で朦朧とした脳天にひびく強烈な一言だった。母90歳。こんな思いで日々を生きていたのか。
「あした朝いちばんに行くからね。さぁさ今夜は、おばぁちゃんとゆっくりお正月しましょ。」 お節料理の残りをきれいに盛りなおして、私は食欲のない分、熱燗を重ねた。「お酒のんでクーッと寝たら 風邪なんてイッパツで治るよ。」饒舌で母を励ました。
何年の仕事になるか わからないけれど、母の命をあずかる仕事「やってやろうじゃないの。」

腹を満たし息を整えるだけの命をまもることなら面白くもなんともないけれど、人間だから、ささやかでもいい 最期まで、「楽しかったよ。」と言えるまでと考えたらとてつもない大仕事を託された気がして、 この仕事、これは、張り切って精一杯取り組むことで私自身を元気にすることにつながるかもしれないと思った。 まだ、介護というには、早すぎるし、365日介護にあけくれる人にとっては、「甘い」といわれるのを覚悟で 介護のお稽古、準備開始としよう。
もう「わたし生きて行かれへん。」とは言わせたくない。



大正2年2月、5人兄弟の長女として生まれる。兄、妹二人はすでに他界。弟もすでに83歳。父の仕事の関係で 滋賀県内を転々と移住。ニュースなどで街の名前などが出ると「ハイカラな街やったなぁ。カネボウの女工さんのおおきな宿舎 があって、アコではじめてテニスを見た。」と懐かしがり、 「街道筋やったから、いつも鍵かけてのくらしやった。」と半世紀以上の昔の街を語る。 県内の行き来のためにまだ琵琶湖の蒸気船を利用していた時代である。
一番大きな日課。朝、昼、晩の血圧計り。薬を常用しているが、現在は安定している。
今年の年賀状

今年の母の年賀状。赤ちゃんの写真の年賀状の向こうをはって、おばぁちゃんで対抗してみました。 この歳になればメデタサもマケテヘンじゃろ。母は嫌がるかなと思いましたが結構喜んでました。ふるさとの数少なくなった母の知人に好評でした。
特筆すべき日課。

新聞のコラム欄をノートに写す。大学ノート丁度1ページ分である。 毎日毎日書き溜めて新聞の休刊日以外は、欠かしたことがない。「一日ひとつだけ決まったことをしよう。」 きっかけは、わたしの姉の提案だった。もう10年近くになる。50冊のノートが母の勉強 (この日課を母は勉強の時間と言っている。)の財産になった。
ノートの欄外にちょこちょことその日の日記を書き込んでいる。 うんと誉めてあげたい母の日課。

「世話になってる。世話をかけてる。」そんな負担を感じさせないで、 90歳の母が人間らしく生きるために、母が一人では出来ないことが何で、そのために 私が手をさしのべられることが何なのか、とりあえず箇条書きにしてみようと思う。

それを基本にじゃぁもうちょっと楽しい暮らしにするためにはどういうティストを加えれば いいか考えてみたい。

いま対象は、自分の母一人だけれど、これがうまくいけば周囲のたくさんの一人くらしの お年寄りに役立つようになるかもしれない。わたしの住んでいるこの地域は独居老人の比率が他の地域に比べて 非常に高い。持続が必要で地味で決して明るい仕事ではないけれど母に対する経験が、いつかちょこっと 外と関わりのあるくらしのスタートになるかも。

うん、うん「、、、、、ために。」という、うさんくささを 払拭するためには、そのことで自分がどう楽しめるかに置き換えて考えないと、いやらしくって自分の美学に反するし、 長続きはしないもんだ。わたし、自分のこういう大きく大きくふくらませて夢をみられるところイイと思ってる。 と、ここで自分をヨイショして。

現在、老人介護のほんの手前の状況だと思うが、 世間で聞く介護の悲惨な状況が明日から押し寄せてもおかしくはない年齢ではある。

森繁さんも新藤兼人さんも多分 おなじくらいの年齢である。あのレベルまでひっぱり上げることは出来なくても。



母 9 0 歳

あずけられて


前編 その2  2002/8/2

ダメかもしれない!旅行前々日の出来事です。

顔・土気色・息ずかい薄弱

さぁ朝ごはんというときに母は黙ってまたベットに行った。 寒いからかなと思ってしばらく待ってみたが、静か過ぎる。 ドアの隙間から様子をうかがう。

かけぶとんが、動かない。とびこむと、今まで見たこともない土気色の顔をした母。むくんでいるのか いやにつるっとした顔。呼吸をたしかめるが、うまく感じられない。脈もしかり。

体をゆりうごかすと、 やっと目を開けた。「ちょっと、、、」言葉もはっきりしない。ただ事ではない。自分のからだが硬直 するのがわかった。いましなければならないこと。口に出して自分に言い聞かせながら、、、。

往診を頼んで

かかりつけのお医者さんに電話をする。うまく状況が説明できない。先生の方からの質問にひとつひとつ 答えるかたちとなった。「それなら大丈夫だから、また、かわったことがおきたら、電話するように。」 メモを用意してつきそう。

お昼すぎ先生のほうから、来てくださった。「心配することはないと思うけど、あんたのほうが心配になったから。」 私の電話の声がうわずっていたのだ。

母も何事もなかったように先生と話をしている。「先生、話し出したら長くなりますよ。」「これもワシのしごとや。」 先生に熱いおしぼりをわたしながら、涙がこぼれた。あさってからの、旅行もOKをいただいた。


なんでこうなった。原因をさぐる。

昨日もおとといも別に変わったところはなかった。なんでこういうことが起こったのか。原因は、 私にあるような気がした。

松の内にかまけて、風邪がすっきりしないことをいいことに、だらだらとした暮らしが続いていた。食事の用意はしても食欲もなく あっさりとしたもので、こそこそとすませていた。

こんなわたしが母にとってたまらず、 母の気分をふさいでしまったのかもしれないと思った。それが高齢にひびいた。介護人たるものなかなか大変である。


息子からの電話

しょんとしてないとと自分を戒めているところへ息子からの久しぶりの電話。息子は旅行会社で団体旅行のお世話を している。一番多いのはお年寄りの団体だという。「おばぁちゃん、元気か?」今日の日にいきなり問われてびっくりした。 事情を説明して、お医者さんのOKもとったことを話した。「ところでアンタ、なんで電話してきたの?」 「歳いった人は旅行前によく調子くずす人がいるんや。」おおっ、それもひとつの原因やったんや。 おばちゃん張り切って、着てゆくものをあれこれ用意して、性分から、家を空ける前には、全部整理して、疲れがでたんや。 楽しみにしてるんやなぁと見ていたけど、考えたらいつもよりずいぶん動いていた。それに、期待と緊張も疲れを加えていたわけだ。
キチンと反応してるがな。まだ、ボケてへん。わたしも、息子の電話で、気分が軽くなった。


いざ、三朝温泉へ。 母晴れやか・わたしドキドキ

前日から帰郷した息子の車でいざ出発。90、61、27歳の3人連れ、約5時間のみちのり。車ののりおりを懸念して、おにぎりと お茶、それに毛布など積み込む。
連休の済んだハイウエイはすいているし、冬には珍しい日差しの暖かな日。母元気にドライブできる。 中国自動車道を岡山に入ると息子は、地道に降りた。むすこの狙いは、自分の営業エリアを母に見せたかったらしい。山陽の山あい のまちを走る。森林地帯を右に、左にみるからに肥沃な土地が広がる。「ここの自然薯やで。お正月に送ったのは。」「春は山菜の宝庫。」 話しずめで走る。
中国山脈を突っ切って北上、日本海が見えた。帰路は電車なのでここでお土産を調達。「往診に来てくださったし、 先生にかにを送りたい。」それからあこにもここにもと母は、元気である。
やがて、鳥取に。息子が、はじめて我が家をはなれて、研修を受けた本社がある。それぞれの建物を指差して、説明をしてくれる。 母はもちろんだけれどわたしも嬉しかった。
三朝温泉無事到着。母異常なし。やれやれである。
落ち着いた母がぽろっと涙をこぼした。90歳になってこんなに遠くまでこれたことに母もホッとしたのかもしれない。
いけない娘の私は、「お風呂見てくるね。」とラウンジに下りて、ひとりでコーヒータイム。 まだわたしには一仕事ある。ぬれた風呂場を杖なしでうまく入れるか。丹前で一杯までなかなかである。


母の記録

「Sちゃん(息子の名前)のおかげで、ええ冥土の土産をしてもらった。」
「Sちゃんは、優しい。こんな年寄りにやさしくしてもらって。ありがたい。」
母のノートのはしっこには、Sちゃんオンパレードです。
(いっこうに、わたしの名前はでてきませんがナ。)
(なんでも冥土の土産にして。冥土で大盤ぶるまいする気かいナ?)


行きはよいよい帰りは怖い。運転をしてくれた息子は 次の日早朝に仕事にもどっていきました。母とJRで帰ります。
深夜母を寝かせてから、一人の露天風呂に雪が舞っていました。

母 9 0 歳  命 あずけられて

前編 その3  2002/10/3
帰りは久しぶりの電車の旅です。

「温泉は体に効くよ」

車でしたが母は長旅のつかれも見せず元気にあれもこれもとご馳走を平らげます。 旅行業者の息子は、90歳の母のために料理の配慮を頼んでおいてくれたようです。 わたしは、久しぶりの新メニューの開拓とばかり写真とメモで張り切っています。 おなかが落ち着くのを見計らってお風呂につれてゆきました。 すべってころばないか、湯あたりしないかとちょっとこわいなぁという思いがありましたが、 それもクリア。母の背中を流しながら、「百姓で鍛えた体は、まだしっかりしてるなぁ。」 「戦争で苦労した人っていうのは、なかなかのものですわい。」母の来しかたに思いをはせていました。 「温泉は体に効くよ。けっこうなお湯でした。」母はご機嫌です。
脱衣所事件

けっこうなお湯もいいけどわたしゃひくりがえりそうになったんよ。でもまぁ、せっかくの旅行、悲しい思いだけは させたくなかったから、さりげなくしてたけどサ。
先に母をお風呂からあげておいて、ちょっとゆっくりしていたのが間違いだった。 他人様の脱衣かごを広げている。同じかごに同じゆかた、バスタオル。おっとっと! 「おばぁちゃんのは、これやんか。」そのあたりをキョロキョロ見ながら、それでも、さりげなく言うこのいい娘。 なおかつ、こいうときには、派手な風呂敷でも用意して、目印に掛けておくべきやったなぁと教訓にするこのいい娘。うんうん。
でも、いけない娘のわたしは、夜更けの地下のラウンジで、ちょっと一息いれたよ。

スーパーはくと物語

倉吉駅から始発だしウイークデーでもあるので、母のすきな時間に帰ったらと思ったが、母は早いので帰りたいという。 久しぶりの電車の心配があるのかも知れない。赤瓦の倉吉の町並みも散策したいし、倉吉絣も長いこと憧れていたから、わたしも楽しもう と期待していたけれどすべてお預け。「年寄り孝行」と言い聞かせて、9時15分、電車に乗る。京都まで4時間。 かにの駅弁を買う。トイレをどうするか。停車中に入れて、体を支えて、と思いをめぐらせる。車窓から見える日本海も昨日とは違って、 波が荒い。
やがて、鳥取から智頭急行になって、来るときに通った岡山を縦断する。谷あいの集落に斑れ雪が見える。
母はお弁当もお茶も要らないという。帰ってゆっくり食べるという。靴を脱いで、座席にちょこんと座っている。 母も母なりにトイレの心配をしているのかも知れない。それはそれでいい。自分をそうして、律する気持もまだ、 自立しようと思う意思があるものとして大切にしてやりたい。


母・冬のくらし

母の年になると思い出ができることは、すごくうれしいことらしい。そのあたりが、生活者として今を生きているものと違って ささやかな温泉旅行は、値打ちがあった。電話のたびに、「ちょっと変わって」と土産話をしている。出来上がった写真を毎日毎日眺めて まず、半日は持つ。しかし、たとえ、家の前の庭ですら、寒さで出られない冬の一日は長い。 コタツでうとうとする時間が長くなって、その分夜の不眠を訴える。
     去年の冬はコレができた。
     
模様編みのグラフ用紙の升目をひとつづつ消しながら根気よく編みました。89歳で、冬の間の仕事としては、上出来です。 ちょっと今年はもう無理みたい。

なにを思い立ったのか、母がものも言わずになにやらごそごそはじめました。 次回は母の冬仕事です。

母 9 0 歳

あずけられて

前編 その4

おもくくらい2月の空は心を晴らせてくれません。 母はなにで日々を過ごして行くのでしょう。

  • 食べて寝るだけでは生きているとはいえません。
  •         
  • テレビで一日は持ちません。
一日が長すぎます。夕方になると、ほっとするのです。
コレはやっぱり異常です。


「7時にお部屋あっためておくからね。」母の朝はほっておくとだんだん早くなります。 何をするということがなくても朝はきっちり起きる、大方コタツ暮らしでも、きっちり着替えて7時が待ちきれない様子です。 また、長い一日が始まります。新聞で午前中は、持ちます。 その後、元気材料がないのです。日本中のなんにもできなくなったお年寄りは、どんなふうに一日をすごしておられるのか、 特に日本の一番しんどい時期、戦前戦後をがんばって生きてきた、今のお年寄りたちが、満たされることのないまま 毎日を過ごしているとすれば、これは、かなり真剣に考えなければと思うのですが。姑は巡回バスで托老所に通っていました。 ゲームをしたり折り紙をおったりの話を聞きましたが、姑は「一日は追いやることができても、別に楽しくてって いうもんじゃないわよ。」そんな感想を漏らしていました。一日を追いやるという言葉に、切なかったのを覚えています。 10羽一からげでは無理があるようです。
  • ゆっくりペースで。
  •           
  • はなしかけを多く。

家の中で、元気になれることさがして。
意識して元気ぶってもだめです。


「一回のごはんに2時間かけてもいいのよ。」そのためには、食卓を豊かにすることで、はなしを弾ませる 材料になります。しかし、母は黙々と食べて早いのです。昔気質の人の長い習慣なのでしょう。これはうまくいきませんでした。
わたしは一人で遊ぶのがすきですから、途中で話しかけるのは、苦痛ですが、刺繍の最中に糸の色を「こんな風に考えてるの。」 だとか、「こんなのできたよ。」と話しかけてみました。母は補聴器をしていますが、このころ、それもめんどくさいらしく はめてないときがあります。大声で話すのはなかなかこちらがしんどくなります。それに、親子です。私が無理してることは お見通しのようで、母の方がつらくなっているなと感じるときがありました。 唯一、好きな野球放送も今はありません。ドラマは、「半分わからんから。」とこれもだめ。 こうして、むなしい一日が過ぎてゆきます。

母が動き出しました。 わたしはおよびがあるまで知らん顔しています。
香典返しにもらった綿毛布の空き箱、「具合いのええ人やったのになぁ。わたしより はよう死んでしもうて。」空き箱ひとつで楽しんでいます。母がどこか元気なのです。箪笥から、着尺の白生地。染めに出すのを気には していたのですが、もう着替えて出ることも無かろうとそのままにしていました。おもわくがあったのです。 私に白の絹糸を通すように言いつけて、 母は部屋にこもりました。一週間ほど母はなにやらこもっています。時折、糸通しや、白い封筒などと お呼びがかかります。肩をつまらせて、食べたものの収まりが悪くなったらと心配でしたがやりたいこと優先の方が 絶対いいと思うようにしました。
これ、あんたに渡しておくから。
「私になにかあったとき、これを開けてほしい。あんたの覚えのいいとこにかたづけておいて。」

○ ○ 死んだときの用意
箱の蓋には自分の名前を入れてこう書かれていました。開けないわけにはいきません。白い装束、共布の巾着、さきにもらっておいた戒名の書かれた封筒、 納骨のだんどり。よく、「これを作るときの気持ちを思うと、、。」という話は聞きます。私の心は、 そんなに穏やかではありませんでしたが 「一番写りのよい写真探して入れておくからね。」と言い、「貯金通帳とかも入ってるかと期待してたのに。」と 笑いとばして大切な箱を収めました。

9 0 歳 の 母 を ほ め て や り ま す 。
結婚式も誕生日も、それは人生の通過点 です。葬式は自分の人生の最大のまつりごとです。母はある意味では自分の葬式を自分で演出 できたのです。多分最後の一仕事になるであろう裁縫や記録を成し遂げたことを、私はうんとほめてやりたいと 思いました。 あっぱれという感じです。私もやろうと思わせたのですから。別に白じゃなくても、自分が一番すきだった洋服で、 たとえ、大きなものでなくても、ケープであったり、帽子であってもいいと思います。わたしは結婚式の服を取り出してきました。
ENDING DRESS と命名しました。
いいでしょ。ウエディングドレスと併せれば自分の2大儀式用衣装になるでしょう。 母ががんばって一仕事を完成させたことで、母もそして私はそれ以上に元気になっていました。
寒さは続きますが、春はもうすぐそこです。庭の沈丁花は、寒さを耐えたつぼみをふくらませています。


2002年10月末、母は寝込んでしまいました。 今度ばかりは本人もよほど自信を失くしたのか自分の方から往診を頼み、 点滴の毎日が続いています。看病をしながらの更新準備です。 このページを綴りつづけることがわたしの祈りです。

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母90歳命あづけられて、後半に続く