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母 9 0 歳

あずけられて


後編その1
2002/11/20 vol.10  母、倒れる

2003/1/1 vol.11   ゆったり生きてみませんか

2003/2/1 vol.12   母この一年

        をまとめたものです。

春、桜の木の下で。

桜の下で、母

 近くの土手に母をお花見につれてゆきました。片道は、たまたま来た友人の車に頼んで。 一日のうちほんの一時間でもいつもと違うことをと考えてましたから、今日は満開のさくらに助けてもらいました。

帰りは、20分のところを、途中コンビニで休憩。母のコンビニデビューです。 「なんでもあるなぁ。」といたく感動してました。


ところが、その夜、私はがっくり来てしまいました。「お花見につれってってもらったけど、 きれいな花を見せてもらっても、さびしいばっかりで、、、」母のノートの欄外がチラッと見えて、 そう書かれていたのです。

さびしい原因はありました。身近な人の死が伝えられました。しかも自分より年下の人の死でしたから、 つらいだろう事はわかります。 慰める言葉もないし、慰めに納得してもらえそうにはありません。これからは、こういう場合に何度も遭遇することになるでしょう。

90になっても、耐えてもらうしかないことってあります。ただ、からだに影響しないか、心配でした。 長生きして幸せと思えることも多いだろうけれど、悲しみを体験することもまた、多くなります。 しかも幸せだって、若い時代の躍動するような幸せは、もう期待できないでしょう。ささやかな幸せの中では 悲しみは、厳しすぎます。

どうしたらいいのか、なにをしてあげられるのか。つらい結論ですが、「最期まで幸せでした。」というのは、 そんなのウソのような気がしてきます。

 


2002年10月とうとう母は寝込んでしまいました。

予測はしながらも、突然こういう日が来たことに、それも、暑い夏を乗り切って、 一番いい気候のこの時期に。本格的介護の日々に突入です。

急 な 貧 血
「朝ごはん抜いてみる。」これが始まりでした。顔が真っ白。いつに無く自分の方から、往診を 頼んでほしいと言い出しました。「あのわたしの箱だしてきてほしい。そこに新しい寝まきが入ってるから。」 例の○○死んだときの用意と書かれた箱です。いつもと様子が違うのがわかりました。
急で強度の貧血状態。下血によるものか、血を作る機能低下か、血液検査の結果が出るまで、点滴で しのぐことになりました。自らを「野戦病院の医者」といわれる先生は、クリーニングの針金ハンガーを 伸ばし、天井からつるして、点滴スタンドができました。 検査の結果鉄分の不足が最大の原因であること、注射と、食物摂取で改善することになりました。入院も考えて 準備をしましたが、今、急にという状況ではなかったのです。そのことは、イコール自宅介護の長期戦を 覚悟をしなければならないことでした。
不眠を訴えます。昼はせいぜい起きていようと、座の低い長いすで、しばらく過ごしてもらいました。これは結構 良かったようで、何よりも立ち上がりが楽にできたそうです。トイレでふらついて、こけたりと気は抜けません。 日本の高齢化社会の真っ只中にいることを、実感していました。

楽しみは食事
食欲は落ちていましたが、幸いなことに胃腸が丈夫であったことが救いでした。ほかになんのも楽しみが無いから、 せめて、食事を楽しめられたら、それによって初めて栄養も取れると考えました。病人食にしないで、大胆にいろいろ作りました。

喜んでくれた食べ物
  • にゅうめん 消化のいいようにくたくた煮ました。ゆずの香りで。

  • 白味噌雑煮 とろーりとポタージュスープのようにして。のどを詰まらせないように注意はしてましたが、

  • 鯖のおろし煮 いつもはこっくりと煮る魚も、量が取れるように大根おろしで、あっさりと、 味も薄まります。

  • かにと豆腐の薄くず煮 うすい塩味で仕上げたら「きれいねー。」と喜んでくれました。

  • 豆腐白和え ほうれん草人参などのほかに、具にとりミンチを味付けして入れました。
  • とり肝の味噌漬け 鉄分、鉄分で必死です。しおゆでした肝を生姜をすりこんだ味噌に漬け込むと、食べやすく、そぎ切りにして。
ちょっと小康を得た母が言いました。

ねまきもサラに着替えたし、あしたの朝起きたら、地獄にいるんかいなぁと、まぁどうなってもええわと思って寝たけど、 朝起きてぐるり見渡して、ここは地獄の景色ではなさそうやなぁと、、、。
     
ナカナカ、オッカサントオツキアイハ、ツカレマス。


鉄分の注射

が効きつつ

あります。

 結局、母は一月あまり臥せっておりました。この状況が長引けばお風呂の問題も出てきます。清拭だけではかわいそう です。 介護で追いやっていた私の仕事も限界に来ます。

 2回目の血液検査で、血中鉄分の数値が上がった分、顔色も赤みを帯びて着ました。鉄分の注射は11月いっぱい でいったんやめられそうです。「そろそろ、お医者さんへ行ってみる。」最後の注射に自分の方から出かけました。

 お医者さんまで5分の道のりですが、15分、それに着替えなどに一時間。私の方が何度か、「やっぱりお医者さんに来てもらおうよ。」 と言いたくなりましたが、意欲があるなら、もしここで、やめてしまったら、それこそ寝たきりの暮しになってしまうという気持ちで、 恐る恐るの外出でした。

 「来ることができました。」「ようなってくれて、おばぁちゃん、よかったね。」母とお医者さんの会話を聞きながら、またひとつ峠を 越えられたとほっとしています。自分の足で歩いて出かけたおかげか、「ゆうべは、よう寝られて。」といいました。「疲れたからよ。」 といいながら、ちょっと無理だと思われることでも、がんばってやらせてみることが大切だと思いました。

 何度かこういうピンチを迎えることになるでしょう。久しぶりに、自分の治療に、私はお医者さんに行きました。 「もっと、肥えて元気にならんと、あんたが、おばぁちゃんを送らんならんにゃから。」お医者さんもなかなか私を放免は、 してくださいません。 たったひとつきほどの介護記録です。しっかり疲れました。


私は決して、いい娘ではありません。実の母ゆえに、血がつながっているばっかりに 腹を立てることがいっぱいあります。お姑さんだったら、こんなこと言われなかっただろうにと今、姑を 懐かしがってる自分もいます。いっぺん思いっきり母の悪口を書くつもりです。悪い娘であろうが、 何であろうが、母の元気なうちに書かないと、一生書けずに終わりそうで、胸のつかえが収まらないのです。 実の親子なんて決して平和な関係で、続けられるものでは無いと思います。もし、いつも平和であるなら、私はそれを、 気持ち悪いと思うたちです。老いた母のしんどさを挙げることで今後私自身が回避できる老醜をみつけてお きたいのです。おっかさん。反面教師としてのおっかさんもまた、親の仕事でしょう。



母 9 0 歳

あずけられて

後編 その2



かぁさん、意外と早い回復に、まだまだ、しっかりした体であることが証明されて、いいお正月を迎えることが出きましたね。 今年も、もうちょっとがんばって元気に過ごしましょう。かぁさんが寝込んだとき、いよいよ、介護の手続きをと考えましたが、 予想通り「私は国賊やから、これ以上迷惑を掛けたくない。」というかぁさん一流の論理で、拒否されてしまいました。

かぁさん、人に迷惑を掛けるんじゃなく不十分ながら国民として当たり前に受けられる権利です。かぁさんを人の手にゆだねたいと決して 思っているわけではないけれど、 個人ではどうすることもできない介護の部分を、少し助けてもらえれば、手の空いた分、解決した分、かぁさんに余裕を持って やさしくなれると考えたのです。

戦後のいちばん厳しい時代に縁の下の力になって、この国の復興を支えたかぁさんと同じ世代の人たちが、 今、社会的に満足な保護を受けられてはいません。たまたま、条件があったからかぁさんは不自由はないかもしれないけれど、 だからといって、自分を国賊などと古い言葉で卑下してしまったら、ほかのさびしいお年寄りたちが可愛そうです。 一ヶ月の介護を通して、厳しいようだけど、かぁさん、せっかく長生きしたことをみんな喜んでいるのに、もう一度元気になることを 祈ったのに、本人がそんなに長生きを罪悪視したのでは、たまったものでありません。

意識は、まだしっかりしています。ココでもうひとふんばり、堂々と生きてみませんか。100まで、生きるつもりなら、 もっとゆったりと何かひとつくらい、この国に生まれて守られているという実感を探してみませんか。

無謀にもかぁさんの意識変革なんぞ試みようと思ったりするのです。反論する力を期待しています。

許せ、いとしのおっかさん!

うなじのあたりに、かぁさんの目が、いつものっているから、肩を凝らしているのです。

 たとえば、ちらし寿司を作る私を、まるで料理長のようなまなざしで、見ています。 ご飯粒がとんで、もったいないからつまんで食べようかと思ったとき、「おっと!」私にそんな緊張が走ります。 自分の判断でお行儀の悪さを感じる前に、かぁさんの手前を意識するのです。

 かぁさんのいる卓袱台で、ちょこっと、手紙を書いている最中に、「ここでやるんじゃなかった。」と進まなくなってしまうのです。

 暮れのそうじで出てきた古いものを捨ててさっぱりしようと張り切っても、35年前の色のはげたカーテンですら、 「それ、捨てるの?」と驚かれてはたまらないから、古新聞で、こっきり包むひと作業に腹を立てたりするのです。

 かぁさん、私も60を超えました。何度か、はらはらさせたかも知れないけれど、そんなに無茶な人生を送ってきたとは 思っていませんし、進学も就職も結婚も自分で考えて、自分で結論を出して、自分で納得して生きてきました。しあわせでした。 これからだって、平々凡々、なろうことなら、穏やかに暮らしてゆきたいと思っています。

 「気のアカン子。」小さいときからかぁさんは、私をそんな風に心配していました。そのままです。だから、ある日急に大胆無鉄砲 に変わって、びっくりさせることもありません。

 大部分を家の中というかぁさんのくらしは、つらいだろうし、心が晴れることも少ないだろうと思うから、なるだけ、 いろいろ話すようにしています。 「これなら、きっと、よろこんでくれる。」かぁさんの喜ぶ顔見たさに、耳の遠くなったかぁさんにどうしたら、端的に理解して もらえるか、私も考えてはいるのです。

だからお願い。少し、かぁさんの視線をすこしはずしてほしいのです。
お返事やあいづちの打てない話は困ってしまいます。

暮れの新聞代集金にくばられた、「開運暦」。危ないなぁとは思っていましたが、案の定、 そして例年のごとく、かぁさんをとりこにしてしまいました。

「○○ちゃんはええ勢いやなぁ。厄年やいうのに家は建てるわ、子供は生むわ。」

○○ちゃんは、私の長女です。心配なら、かぁさんには負けません。心配はありがたいけど、お口に出してはいけないことって どんなに親しい仲でもあるのよ。

この一年この「開運暦」ことあるごとに私を悩ませカッカさせる原因にしかなりません。

食欲のないかぁさんにせめて、新米のおかゆをとがんばって炊いたのに「あんたのおかゆは、シンがある。」ときたもんね。そんなとき、姑さんをなつかしく思い出します。至らぬ嫁にどれだけ言いたいことがあったことか。

ごめんというには、けったクソ悪いし、さりとておかゆを食べる病人に腹を立てるわけもいかず、わたし、 なんにもいえないよ。



去年のお正月から一年、90歳の母を追ってきた。今まで経験したことのないことがおこって、 わりと、あわただしい一年だった。ひょっとしたら、母を見つめて、記録する作業で、今まで見過ごしていたものが 見えたから余計にあわただしさを感じさせたのかもしれない。

冷静に見てゆきたい、記録してゆきたいと思ったが、成功しているかどうかはわからない。実の母、血の一番近い 相手というのは、ある意味では、しんどい存在である。小さないさかいや、「こんなことくらいわかってくれればいいのに。」 という不満も日常的であった。大切にして最期まで、心安らかな日々であって欲しいと思っても、ひとつ屋根の下、なかなか穏やかだけでは 済んでくれない。

しかし、いずれ、わたしの行き着くところ、母を見つめることは、反面教師として自分の今後の生き方を見つめることになる。 いい年寄りになりたい。さらに願わくば、自立できているうちに、 身体処することができればとひそかに願うところである。



母  2 0 0 2 年 を 振 り 返 る 

1月 母の新年は、新しい大学ノートで、スタートします。今年も毎日、新聞のコラムを写します。母の日課のお勉強です。 久しぶりの旅行に、行きました。三朝温泉。おいしいおいしいとご馳走を食べてくれます。心配もありましたが、やってみれば できるものです。風邪で寝込んだ私に、「あんたが、倒れたら、私生きて行かれへん。」と 私には、厳しい発言でした。
2月 冬の一日は、長いです。自分の、endingdressを作って、 「死んだときの用意」と書いた箱に詰めました。 パソコンで、トランプのフリーセルゲームを楽しんでいます。
3月 実の妹が死にました。83歳。実家の近くにすんでいたため、すべてを、頼りきっていた母をどう慰めていいのか、 困りました。いとまごいにをすませたら、意外とすっきりとした顔だったので、助かりました。暖かくなって毎朝、 散歩を日課にするようになりました。付き添うことは、よくないと思いましたが、心配で、その時間私は、庭の手入れ をしながら様子を見てました。「お元気そうで、毎日、お散歩がつづきますねー。」と近所の方がほめてくださいます。 田舎暮らしをたたんで、我が家に母が来て丸3年になりました。
4月 お花見に行きました。半分は友達の車に助けられて。「お花見につれて行ってもらったけど、 きれいな花を見ても心はさびしい。」ノートの端に書き付けてありました。春の憂いでしょうか。 帰りにコンビニへ。母のコンビニデビューです。
5月 よい気候なので、車の便があるときは、京都の姉宅に行ったりと変化のある暮しを心がけました。 体調よく食後の洗い物はやってくれますが、驚くことに私がせいぜい使わないようにしている洗剤をよく使うことがわかりました。 そんな母ではなかったのにと思っていたら、洗剤を使うと仕事が楽だということがわかりました。 そんなにまでして手伝ってもらいたくないと思ったのですが、口癖の「何にも役立たずで、、。」を思うと取り上げるのもつらく、 痛しかゆしです。
6月 うっとうしく、早くから暑く90歳のからだには、きつい季節です。義理の妹ももう個人の介護では無理になって、 特老施設に入りました。もう半分会話もできなくて、お見舞いに誘いましたが、行きたくないようでした。しっかりした義妹で、 母は自分の葬式を一切お願いしていたので、また、ショックです。この年寄りに、まだどれだけ、つらい思いがのしかかるのでしょう。
7月 やりきれない暑さの中です。午後は長時間お昼ねしていますが、その分夜の不眠を訴えます。「眠られへん。食べられへん。」 といちいち言わんといてよ。と暑さで不機嫌になり申し訳ないです。
8月 お盆の月は人の出入りも多く、その分亡くなった人に思いを寄せて、懐かしがったり嘆いたり。早朝の散歩と草引きで、 お庭先をきれいにしてくれました。 人様がお見えになると元気に応対しています。お帰りになると、その分疲れるらしく、もろに引き受けるのは、私。 エライ割あわんなぁという感じです。
9月 義理の妹が死にました。「逆さまだわ。」と自分より年齢の若い人の死をなかなか受け止められず、落ち込んでいます。 「後事を頼んだ人」ノートの端にこう書き留めています。私一人で慰めようもなく、しばらく姉宅に預かってもらうことにしました。
10月 突然やってきた強度の貧血で、とうとう寝込んでしまいました。往診の毎日で、介護認定の準備を したかったのですが、母の答えは予測できたので、口には、出せませんでした。丸一月伏せることになりました。
11月 食欲が出てきました。点滴と注射だけの寝たきり生活では、母も退屈だろうし、こちらも疲れます。一時間以上の外出はできず、 私自身がつらくなってきました。たいがいの日常介護はできますが、これ以上長引けば、お風呂、洗髪など真剣に考えざるを得ません。 日本の高齢化社会の現実の中にどっぷり入り込んでしまいました。まだ、大丈夫、まだ、ネをあげられない。 これは私が自分に言い聞かせ続けたものです。
12月 出産のため、娘が帰って来るので、母が姉宅へ非難。おばァちゃん、ひ孫3人見られる人そんなにないのよ。長生きしてよかったじゃない。 生まれたての赤ん坊が、90歳の母を大きく励ます役をしてくれます。

おっかさんのことは、しばらくお休み。5年後にもう一度見つめます。それまでもつかなぁ。いえ、おっかさんじゃなくて、私の方がです。
春になったら、外へ出かけてカメラとペンでルポと参りましょう。 世の中には、いっぱい素敵なことや、新しい発見があると胸膨らませています。 外に出ようと思ったのは、正月以来の外出がすべて成功しているから、ますます、頭に乗ってるところもありますが。

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