ゆっくりと朝寝を楽しむことも出来る筈の休日の朝。むしろいつもより早く目覚める。素早く身支度を整えると、用意してあった荷物を担ぎ、外に出た。迎えの車はすでに到着し待っている。サンダルを脱いで乗り込む。濃い紺色の車は約220km離れた目的地に向かって走り始めた。
この國で一番高い山のすそ野にある湖のほとりに着いた。日はまだ頂点に達していない。この地の名物である「ほうとう」を食わせる店に入った。冷たいビールで口の中を冷やしながら熱いほうとうを食う。吹き出す汗を拭った。
宿に荷物を下ろすとコートに出た。土の感触が心地よい。初めは慣れないバウンドに手こずるが、次第にリズムがつかめてくる。練習が終わった後も仲間達とゲームをくり返した。宿に帰ると心尽くしの食事と冷たいビールが待っている。心を落ち着かせるようにゆっくりと風呂に浸かり、疲れを流した。
いつもと同じ時間に自然に目が覚めた。疲れは無い。個々に起き出した仲間達と朝露に濡れたコートに出た。軽くアップしてゲームに入る。朝食の前に気持ちの良い運動をこなした。充実感がみなぎる。宿に戻り、ゆっくりと時間を掛けて朝食をとった。合宿ならではの満ち足りた朝だ。食後の珈琲が意欲を高める。
午前中はコート6面に別れての練習だ。ストローク、ボレー、スマッシュ、サービス、レシーブと基本ショットをこなした後、ダブルス形式のボレー&ボレーの練習に入る。ボールを浮かさずコースを突くという、難しく集中力を要する作業に熱中した。気が付くとお昼だ。宿に戻り、昼食をとる。ここでビールを飲んでも誰も咎めるものはいない。乾いた喉にしみ込むようにビールが吸い込まれて行く。旨い。
午後は紅白に別れての対抗戦になった。しかし、自分の出番が来る前に無情の雨。コートは見る見る光り出す。仕方なく宿に引き返し、近くの温泉に向かう。檜で出来た浴槽の広い露天風呂に浸かり、山桜の花を濡らす雨を見た。消化不良の心を抱えたまま、風呂上がりのビール、そして晩餐、宴会へと流れて行く。酒は旨いが何故か心は満たされない。
宿のトタン屋根を叩く雨音が、まるで川の流れか滝の瀬音のように遠くから響いてくる。悲しい響きだ。その音を遮るように布団をかぶり、眠りの楽園に逃げ込む。その戦いは朝食の合図がかかるまで続いた。カーテンを引くと雨の幕の向こうに池のように水をたたえたコートが光っている。
ゆっくりと朝食を済ますと、もうこの宿で出来る全てのことが終わった。惚けた様に言葉少なく荷物をまとめると、宿を後にする。狭い山道を辿り、帰宅の途に着いた。時間が経つに連れ、空が明るくなり、雨は小降りに変わる。やがて、雨は上がり、わずかな雲の隙間から陽射しがこぼれるばかりになった。
こうしてニ泊三日の合宿旅行は日程の1/3を雨に祟られる結果で終わった。しかし、こうした合宿でしか出会えない人達との交流が心を暖めてくれる。再会を約束し合う人達を思い出しながら、ビールのグラスを傾けた。窓の外では街の灯がほのかに揺れている。暗い空には星が見えていた。
冬用のスタッドレスタイヤからダンロップの高性能ラジアルタイヤに交換した灰色の車は、陽射しに輝く名ばかりの高速道路を低速な制限速度で滑るように南下している。長距離トラックが巨大なボディを揺らしながら轟音と共に追いこして行った。この国の法律に従えば、今見渡す限りの車の運転手は皆犯罪者だ。犯罪者達に追い抜かれながら銀色の車は左車線をゆっくりと走る。
犯罪者だらけのチンケな国に相応しいチンケな首都高速に入って行った。設計上当然起こるべき渋滞の列に銀色の車を滑り込ませて行く。連休で人が集まる有名な臨海公園に通じるICを過ぎると車は流れ出した。前方にうに色のクルマが見える。幌を下ろしたうに色のクルマの運転席には男が、助手席には女が乗っていた。少し茶色を帯びた髪が吹き込む風になぶられている。そこだけがスポットライトを浴びたように輝いて見えた。
目的地近くで一般道に出ると、そこも車の群れで埋まっている。銀色の車は文句も言わず大人しく列に並んだ。南関東の強い陽射しは容赦ない。
疲れた胃が固形の食物を拒否する。昨夜の日本酒を追い出すようにマレーシア・カメロンハイランド産の紅茶を飲んだ。豊かな香りが鼻孔を満たす。
再び銀色の車を首都高速に乗せた。北西に進路を取る。この国の首都を挟んで対角線上にある県に向かった。一時間半程で河川敷に広がる埃っぽい公園に辿り着く。もう参加者のほとんどが揃っていた。テニスボーイ、テニスガールの群れに加わる。早速ストロークとボレーの練習からスタートした。アプローチからボレー&ボレー、ハイバックから4人でペアボレー、アンダーサーブからのサーブ&ボレーと練習メニューは進んでいく。一時間半程の練習が終わるとゲームに入って行く。半袖シャツと短パンでも汗をかける陽気になってきた。しかし、風はまだ冷たい。
近くの風呂で汗と埃を流し、マッサージ機で15分程のマッサージを受けると体がリフレッシュされ体力がみなぎるのを感じた。待ち合わせたレストランで晩飯を取りながら旧友と語らう。お互いのテニス環境を披露し合うと思わず笑みがこぼれた。再会を誓って別れ、それぞれの家路を辿る。銀色の車は暗い高速道路を北に向かった。周りの灯が少なくなる。空が暗さを増した。
しばらく続いていた休日も今日で終わる。その朝は久しぶりにゆっくりと目覚めた。目覚ましの音は聞かない。クオリティーシーズンに入って薫り高いスリランカの新茶を沸かし立てのお湯で入れた。大きなマグカップでたっぷりのミルクと合わせてミルクティーにする。目の覚めるようなフレッシュな香りだ。温泉に入るついでに近くの牧場で仕入れた酸っぱくて濃厚なヨーグルトをグラスに注いで飲む。トーストや煎り卵の朝食を摂った。
テニスウエアを着込むとラケットバッグ、ボール篭を持って家を出る。日差しが強くなってきた。すぐ近くの運動公園に向かう。雲間から陽射しが覗くと暑い。日が翳ると涼しい。一日その繰り返しになった。ラリーが続くと汗が流れる。プレーの合間に飲む冷えた缶ビールがたまらなく美味い。夕方には流れ出た汗の代わりに程よい疲労が体中に溜まっていた。熱いシャワーで体を流すと溜まった疲労や筋肉の痛みがお湯に溶けて流れて行く。長い休みの最後の一日が終わった。赤ワインのグラスを片手に窓の外を見る。初夏の夕暮れが窓一杯に広がっていた。
目覚ましが、鳴らなかった。ふと目を覚ますと時計の針は起きるべき時間の2時間後を指している。違和感と非現実感が重い霧に閉ざされ覚醒しきっていない頭を徐々に現実世界へ導いた。ゆっくりと起き上がり、キッチンで熱いミルクティーを入れると、それをすすりながら身支度を整える。麻で出来た春向きの軽いプルオーバーを引っかけて外に出た。うに色のクルマに乗り込む。
すでに出勤のピークを過ぎたようで、道は混雑が終わり空き始めていた。走る車たちもどことなくのんびりしている。うに色のクルマをその流れの中に滑り込ませた。
79.5MHzに合わせたカーラジオからは少し離れた街の渋滞情報が流れてくる。連休明けの月曜日はどこも少し気が抜けているようで、酷い渋滞が日常のその街も、今日は少しだけゆったりとしていると、その声は告げていた。そんなどこか緊張の緩んだ風景の中をうに色のクルマは走って行く。見上げると空が、青かった。
外に出ると霧の様な細かい雨が体をしっとりと包んだ。吸い込む空気に混じって肺の中まで湿るような気になる。灰色の車の窓ガラスにもじっとりとまとわり着いていた。ワイパーを操作して拭い取る。タイヤがたてる水音が大きく聞こえた。視界全体が乳白色に煙って見える。ヘッドライトを点灯した。
冷蔵庫を開けるとしなびたキュウリが目に付いた。アクが強くなっているので薄くスライスして塩もみにする。大量の生椎茸も悪くなりそうなので、多めに刻んで味噌汁に入れた。塩もみキュウリを絞って、甘酢で合えて叩きゴマを振る。メインにはソーセージを暖めてみた。後から帰宅した相棒が茹でたジャガイモにハムとチーズを加えて炒めた洋風の粉吹き芋を作ってソーセージに添える。赤ワインを開けてグラスで飲みながら、食べ始めた。
重い鉄の扉をゆっくり開けて外に出ると濃い灰色の雲が重く垂れ込め、何時雨が降り出してもおかしくない空模様だ。気温が低いので湿度の高さはさほど感じない。同じような車ばかりが止まっている広い駐車場を歩き、目立たない灰色の車のドアを開けた。低い速度を保ったまま駐車場を走り、門を出るとその道に許された速度まで加速する。雨はまだ落ちてこない。
壁打ちコートには初めて見る男が一人でストロークを打ち込んでいた。軽く挨拶してとなりで打ち始める。徐々に汗が吹き出してきた。汗の発散の悪さで湿度の高さが感知できる。気分も重くなった。男が帰り、一人になる。スライスサービスのトスと打点が徐々に分かってきた。
壁打ちを適当に切り上げ、途中のコンビニに立寄り軽い食事を取った後、テニススクールの駐車場に灰色の車を止めた。いつものボレーボレーから練習を始める。途中で細かい雨が降り始めた。中断せずにアングルボレーの練習に切り替える。ひとしきりコートを濡らして雨は上がった。コートの水を取り、さらにサービス、スマッシュと練習は進む。濡れたコートを考慮して足を大きく動かさない形の練習に終始した為、やや物足りなさが残った。
今日も霧がかかっていた。肌寒いほどの気温なのでまとわり付くような感じは強くないが、肌が湿っていくのが分かる。門を出て道路を渡り灰色の車を停めてある駐車場まで歩く僅かな時間の間に充分すぎる程の湿気が与えられた体をシートに滑り込ませる。エンジンを掛けるとエアコンを入れた。フロントウィンドウには曇りガラスの様に細かい水滴がついている。ワイパーを動かすとワイパーの通った場所だけが、外の景色を急にクリアに見えさせた。砂利の音を立てながらゆっくりと駐車場から灰色の車を出す。
外の見えない事務所に座っていても遠くから雷の音が聞こえた。表に出るとほんの数粒程度の小さな雨粒が顔や手に感じられる。遠くの空が光って一瞬空が明るくなる。灰色の車に乗り込み走り出してしばらくすると雨が落ち始めた。まだ道路は乾いている。あちこちで稲妻が光り、その度に瞬間的に空が明るくなり、雲の姿が浮かび上がる。雷鳴がかなり遅れてしかも遠くに聞こえる。雷の中心は遠いようだ。激しい夕立では、なかった。
濡れずに家に着いた。上着を取って廊下のクローゼットに掛けるとキッチンに行き、冷蔵庫からよく冷えたビールを取り出す。グラスに注いで、飲んだ。爽やかな苦みが舌を楽しませ、ホップの香りが鼻孔に心地よい。
大鍋に湯を沸かし、塩とパスタを投げ込んだ。多めのにんにくと赤唐辛子を刻む。フライパンにオリーブオイルを敷き、にんにくと唐辛子を炒め始めて気が変わった。レタスの葉を刻んでフライパンに加える。たまごを一個割って溶き、ナチュラルチーズを加え、かき混ぜておく。パスタが僅かに芯を残して茹であがった。トングでフライパンに移し、溶きたまごとチーズを絡める。ボリュームのある一皿に仕上がった。昨日開けた赤ワインの残りで口を冷やしながら、熱いパスタを頬張る。TVでは通り魔殺人の容疑者逮捕のニュースが流れていた。
暗い地下駐車場からスロープを上がって行くと、陽射しにうに色のフェンダーが輝いた。敷地内では回転を押さえてゆっくりと車を走らせる。アイドリング付近では猫科の獣が放つ低い唸り声のような排気音だ。出入口のゲートが電動でゆっくり開いて行くと、檻から放たれた野生動物のようにうに色のクルマが路上に飛び出して行く。
遠く雷鳴が聞こえる。今日も北関東の上空には寒気が流れ込んできて大気が不安定になっているらしい。まもなく、建物の屋根を叩く雨の音が、微かに聞こえてきた。早めに仕事を切り上げて外に出る。車の屋根とウィンドウに残る水滴と黒く光る地面が夕立の跡を残すだけで、雨は上がっていた。
いつもの壁打ちコートに着くと、一人の男が濡れたボールの跡を壁に記していた。男のラケットが弧を描く度に壁にも点が打たれる。しばらく経つと古い点は乾いて消えて行く。孤独な作業に加わる。コートの水たまりでたちまち球は水を吸って重くなって行った。しばらく壁に点を描く作業に没頭する。二つのボールが奏でる音だけが夕暮れの壁打ちコートを支配していた。
目覚ましの音が微かに聞こえた。早朝5時。もう障子窓を通して朝の光が感じられる。しばらく躊躇する体と挌闘しながらなんとか起き上がる。手早く身支度を整え、ヘルメットを小脇に抱えると家を出た。うに色のクルマを地下の車庫から引っ張りだし、車のほとんどいない国道を南に向かう。快晴の空が青い。
サーキットに着くとすでに数多くのエントラント達が集まっていた。顔なじみのスタッフ達に挨拶して受付を済ませる。今日は午前中だけの走行だ。トランクの荷物を下ろし、走行の準備を整える。やがてサーキットに軽やかな排気音が響き始めた。クルマ達の宴の始まりだ。日常の束縛から解き放たれたクルマ達は生き生きと路面上でダンスを披露する。派手なスキール音や凄みの聞いた排気音が快晴の空に吸い込まれて行った。気温はどんどん上がっている。
うに色のクルマをピットに並べた。ヘルメットをかぶり、グローブを付ける。スタートはまだ先だ。うに色のクルマの暑いコクピットに身をしずめたまま出走時間を待っていた。
前走車に続いてピットロードを加速して行く。ストレートエンドでコースに出て1コーナーに進入して行った。まだスキール音が出ない速度だ。徐々に速度を上げるとタイヤが悲鳴を上げはじめる。コーナー毎にスキール音を上げさせながら、コーナーの始まりから終りまで一定の音質になるように慎重にペースアップしていく作業に没頭した。
今日も色々なラインを試してみる。このサーキットは幅も広く、色々なラインが選べる。それだけに選択が難しい。感覚とタイムが一致しない。アクセルとブレーキ、そしてステアリングと挌闘しているうちに過ぎる10分という時間は濃密だ。ピットインして、タイヤに触れると、左フロントタイヤが特に熱い。時計周りのサーキットでほとんど右コーナーなのである程度は仕方ないが、ややフロントに頼り過ぎと言うことが分かる。
3セットの走行を終えるとすでにスリップサイン近くまで減っていたタイヤはほぼ寿命を終えていた。1年半、2万キロ弱のやや短めのライフだが、走行条件を考えると悪くない。気温の上昇とタイヤの寿命の為タイムは振るわないが、結果は満足できるものであった。昼前にサーキットを後にした。
再び地下駐車場にうに色のクルマを収め、しばらくすると、携帯電話が鳴った。ベランダから下を見ると鮮やかなイエローのクルマが停まっていた。乗っていた二人を部屋に迎え入れる。昼前に家を出て高速を走ってきた二人と共にお茶を飲む。しばらくして二人を連れ出した。うに色のクルマを引き出し、イエローのクルマの先導を始める。
この街の代表的ファーストフードの店に入る。注文できるのは「焼き」「水」の二種類だけ。焼き上がった餃子を喰らい、水を飲む。純粋に餃子のみを楽しむように設置された空間だ。
目を開くと、まだ目覚ましが鳴る30分前だ。起きてステレオの電源を入れる。地元FM局に周波数を合わせると、昔人気のあった女優がパーソナリティーを務める番組が流れてきた。日曜日の目覚めには悪くない。優しい声をBGMにスリランカの紅茶を入れ、冷蔵庫からヨーグルトを出してスプーンを使って食べた。
相棒を揺すり起こして身支度を整えると、ラケットバッグとボール篭を持って家を出る。灰色の車に乗り込み、走り出した。国道バイパスに出て30分ほどで広い河川敷の公園内にあるテニスコートに着いた。まだ9時前だが、陽射しが強く気温が上昇し始めている。暑くなりそうだ。
ショートストローク、ボレーボレー、ストロークと基本ショットでウォームアップする。1面に8名と予定より増えた為、途中に休みが入った。ボレーストロークを一通り回したところで休憩する。缶ビールを開ける快音を楽しむ。カップに注ぐとクリーミィーな泡が立った。口をカップに付けると、まず唇に泡を感じ、さらにカップを傾けると少しの躊躇いの後、冷たい液体が堰を切ったように流れ込んでくる。冷えたビールの爽やかな苦みと細やかな泡が醸し出すソフトな感触が口の中に広がった。
月末に試合を控えている為、ダブルスの練習を中心にする。攻めと守りの役割を決めた上でのボレーボレーでつなぐボレーと攻めるボレーの練習を繰り返し行った。その後はサービスからのゲーム形式で1ゲーム毎にメンバーを順繰りに交代させながら練習する。2時間半ほどの練習時間はあっという間に過ぎた。午後からのコートは取れなかったので昼で終わりだ。
参加したメンバーで近くの中華料理屋に行った。餃子とチャーハンが美味いと評判だが、ラーメンもイケる。少し待って席に着くと、チャーハンセットと餃子を注文する。チャーハンセットには、炒めた玉ねぎが甘く、米が軽やかに仕上がっているチャーハンと、さっぱりとした醤油味の半ラーメンに漬物が付く。先ず餃子が来た。家庭的な味の肉餃子だ。にんにくとにらが効いているが不思議と後に臭いが残らない。酢を多めに作ったたれを付けて空腹を満たしてやった。
地下駐車場に降りる階段に踏み込むと、冷たく少しかび臭い空気に包まれた。低い天井に足音が深く、響く。青白い蛍光燈の下で交換したばかりのタイヤが濡れるように光っている。ドアを開けて乗り込み、キーをひねってエンジンに命を吹き込むと、そっとクラッチをつないだ。少しの躊躇もなく、流れるように発進する。最新のタイヤ理論を駆使して作られた抵抗の少ないタイヤの効果は絶大だ。表通りに出ると、うに色のクルマは路面の上を滑空するように滑らかに速度をあげていった。
帰宅途中に無口で気の弱い主人が一人で経営する小さなパン屋で評判の焼き立てパンを1斤買った。助手席に置いたパンの包みから甘い酵母の香りが立ち昇る。
新鮮なはまぐりを鍋に入れ水を張り火に掛けた。キャベツを千切りにする。粉を溶いて肉、チーズ、焼き蕎麦、お多福ソース、マヨネーズからし、青海苔などを用意するとお好み焼きの準備が整った。ホットプレートの上に材料を重ねると香ばしい匂いで食卓が一杯になる。焼けるのを待ちながらはまぐり吸いを飲んだ。肉厚のはまぐりから出た旨みが口に入り、潮の香りが鼻孔に抜けていく。どうしようもなく食欲が、刺激されるのを感じた。
紙袋を開けると昨夜焼き立てだった食パンが冷めて心なしか縮んで見えた。手を入れて取り出す。表面がやや固く感じられた。パン切りナイフを立て、細かく前後に動かしながら徐々に力を加えていくと、先ずキツネ色の皮に刃先が噛み込んでいく。皮の直ぐ中には柔らかくて木目の細かいパンが隠されていた。抵抗なく刃先が入っていく。最後に再び少しだけ力を加えて皮を断ち切ると、食パンは綺麗にスライスされた。
トースターに入れてタイマーをセットする。上下のヒーターが赤熱するに連れて香ばしい匂いが台所に立ち込めた。ヒーターが切れると直ぐにトースターに手を入れ、軽く焼き目が入ったパンを取り出す。焼かれた表面は程よく水分が飛んでパリッとした手触りに変わっていた。そのまま口に運ぶと、甘い香りが鼻孔一杯に広がる。歯を立てた。カリッと音を立てて焼けたパンに歯が食い込むのを感じた。その下から柔らかなものがじんわりとした弾力で歯を押し返してくる。委細構わず噛み切った。口中はしっとりした重量感のある食感に満たされる。パンが溶けていった後にはほのかな甘みが舌に残った。無口な主人に似ず饒舌過ぎるほどのパンだ。美味い。
昨夜から細かく降り続いている雨が路面を濡らしていた。灰色の空の下、灰色の車を走らせる。目的地に近づくに連れ雨がやや強くなってきた。駐車場に車を停め、建物までの少しの距離を傘をさして歩く。雨はまた小降りになった。
昼過ぎに雨は上がり帰る頃には路面もほぼ乾いている。灰色の車に乗り込み、壁打ちコートに向かった。いつものように一時間ほど壁打ちで汗を流す。再び灰色の車に乗って練習仲間とコーチが待つテニスクラブに向かう。空は今にも降り出しそうな重い雲にびっしりと覆われ、暗い。
ナイター照明に火が入った。昼間に比べてボールは見にくい。ストロークから始まった。ハードコートの速い球にてこずる。ボレー&ストロークに進んだ。冷たい風が急速に流れ込んできた、と気付いてまもなく遠く雷鳴が聞こえてくる。気温が下がり稲光が時々空を明るくするのが見える。雷鳴が近づいてきた。まだもう少し...微かな願いを嘲笑うように最初の雨粒がコートにまがまがしい黒い染みを落とした。
急いでボールを拾い集める。コート上の染みが徐々に増え始めた。メンバー達がクラブハウスに戻って振り返ると、急速にコート上の染みが広がり、瞬く間に乾いた部分を埋め尽くす。次の瞬間、激しい音と共に大粒の雨が堰を切って溢れ、コートはたちまち水面のように光り始めた。稲妻が何度も暗い雲の姿を瞬間的に浮かび上がらせる。クラブハウスは滝壷の様な轟音に包まれていた。
わずかに雨足が弱まった瞬間を逃さず、駐車場までの短い距離を走る。ドアを開けてラケットバッグを放り込み、後を追って素早く乗り込んだ。それほど濡れていない。エアコンを入れて窓の曇りを取り、発進した。屋根を叩く雨音が大きい。
目の前が白くなり思わず目を閉じた。間髪を入れず弾けるような激しい雷鳴が轟く。白い光の柱の残像が網膜に焼き付いた。近い。また光った。そして腹の底に響く轟音。ヘッドライトの中で、路面を叩く雨の飛沫がまるで路面から生える白い草に見える。時折一瞬だけ明るくなる空。激しい轟音、炸裂音。戦場のような光景の中を灰色の車は走った。家に着き、扉を開ける。"00:00"表示を点滅させるビデオデッキが今年初めての停電を教えていた。
カーテンの隙間から差し込む光が外の好天を想像させる。カーテンを一気に開くと予想通りのまばゆい陽光が居間にわだかまっていた夜の残滓を追い払った。窓の外には昨夜の雷雨が嘘の様な穏やかな青空が広がっている。遠い山並みが朝日に輝いていた。
うに色のクルマの中は暖かな春の陽射しにあます所無くさらけ出されている。回転を上げず早めシフトアップで滑らかに流れに乗せていった。柔らかな排気音がハミングのように車室を満たす。流れ込む風は、まだ、冷たかった。
鍋に湯を沸かし、塩とパスタを放り込む。にんにくと玉ねぎを炒める香りが台所に立ち込めた。豆腐とスープを加え、煮込む。塩・胡椒で味を調え、最後ににらと溶き卵を加え、片栗粉でとろみをつけた。醤油の香りも加える。ご飯に添えるべきメニューだが、あえて茹で上がったパスタに載せた。これも美味い。
日が暮れる前に会社を出た。並木道を歩いて駐車場に向かう。うずくまるように待っているうに色のクルマに近づき、幌を下ろした。セル一発でエンジンを起こすと、カーラジオからは金曜のパーソナリティの陽気な声が流れ出す。FunkyFriday
いつもの壁打ちコートには人影がなかった。一人で始める。ほんの数分ほどでうっすらと汗ばんできた。ボールと壁とラケットが織り成す対話に耳を傾けながらそれらを上手く調整する作業に熱中する。一時間ほどで切り上げた。
冷蔵庫の中の少し疲れた野菜達を、ひとつの鍋の中に美味く共存させる手を思い付く。まとめ役は港の市場で仕入れてきたキングサーモンの切り身だ。玉ねぎ、にんじん、ジャガイモを切ってサーモンと共に煮込み、シチューに仕立てた。脂が乗ったサーモンの風味が鍋全体に広がって、しみじみと美味い。
朝相棒を叩き起こして紅茶とトーストの軽い朝食を摂り、灰色の車に乗り込んだ。車で一時間ほど北東に走ったところにある町営のコートに着く。すぐに練習が始まった。曇っていて陽射しこそ無いが湿度が高いらしく、蒸し暑い。汗が体に執拗にまとわりついて離れない。
昼になり、コート近くのレストランに移動する。今月末にサークルで主催するテニス大会の打合せだ。今回は過去最高人数が参加する為、手際の良い運営が要求されることは間違いない。いつになく入念に打合せが行われた。打合せと食事が終わって外に出た頃、雨が落ち始めた。市内に戻ると激しい雨と雷が迎えてくれる。たらいをひっくり返したようなという形容が相応しい土砂降りの雨にワイパーが追いつかない。2時間ほどで気が済んだのか雨雲は去っていった。
昨夜のシチューの残りを暖め、別の大鍋で茹でたパスタに絡める。煮込んで二日目のシチューはさらに旨みを増していて、思った通り絶妙の一皿に仕上がった。甘口の白ワインで口内を洗いながら平らげる。
今朝も早く目覚める。トーストと紅茶で簡単に朝食を済ませると、灰色の車を走らせて、会場に向かう。毎年春と秋に開催される懇親的な夫婦対抗ミックス大会だ。アップもなくすぐ試合に入る。最初に強いペアから一勝を上げた。4ゲーム先取という短い試合なので一つの流れで全てが決まってしまう。これで今日は3勝2敗になるか、、、参加メンバーの顔ぶれから予想された結果だが、それが大きな誤算になる。相棒の調子が悪い。ボレーがガシャポトだ。ミスがミスを呼び、自滅のあり地獄に吸い込まれて行く。必死にもがいても崩れていくのは自らの足元。サービスゲームをキープできないと4ゲームはあっという間だ。思わず天を仰ぐ。
強い陽射しが容赦なく降り注ぎ、気温はすでに夏だ。ゲームの内容は悪くとも、林に囲まれたリゾート地の様なコートサイドで飲むビールは格別の味だ。もう楽しむしかない。スナックをつまみに喉を鳴らして冷たいビールを飲み干した。
昼過ぎに大会は和やかな表彰式で終了する。1勝4敗で6チーム中6位という成績はいかなる基準を持ってみても納得出来るものではなかった。このままでは帰れない。
もどかしくも満たされない気持ちを抱いたまま大会コートを後にし、次なるコートを目指す。自宅に程近いクレーコートがようやく確保できた。狂ったストロークとボレーののタイミングを調整する為の二人の孤独な練習は夕暮れまで続けられた。今日流した汗が報われる日が来る事を信じて。
灰色の車で30分強走ると、小高い丘の上にある小さな牧場に隣接した小さな温泉に着いた。露天風呂に横たわり空を見上げると心のわだかまりが疲労と共に洗い流されていく。さらにサウナで入念に汗を絞り出した。風呂上がりに畳み敷きの休憩所で体を休める。小さな牧場で作られている名物のヨーグルトは濃厚で酸味が効いていて、渇いた喉と疲れた体に深く浸透して癒してくれる滋味深い味だ。相棒と二人でヨーグルトを飲み、再起を誓う。
憂鬱な週の始まり。入念なストレッチのお陰で体に痛みはないが、睡眠不足で疲労が抜けきらない。冷たい牛乳を大き目のマグカップに一杯飲み干し、ヨーグルトを食べた。スリランカ紅茶のティーバッグをマグカップに放り込み、沸騰したお湯をたっぷりと注ぐ。紅茶の香りが脳細胞を活性化させてくれるのを期待して熱い紅茶を飲んだ。
日が落ちると北関東のこの地ではまだTシャツ一枚では肌寒い。幌を下ろしたうに色のクルマで走り出すと昼間の暑さが嘘のように涼しい。サイドウィンドウを立てて家路を急いだ。
米を研ぎ水分を含ませている間に、だしを取り味噌汁を作る。具は大根の葉と油揚げにした。キャベツをざく切りにし、にんにくを叩いてから細かく刻む。中華鍋に油を熱し、にんにくを炒めて香りを出してから豚肉を放り込む。続いてキャベツ、シメジを加え、キムチの素で味付けした。最後ににらを5cmほどに刻んで加え軽く火を通す。簡単な豚キムチ炒めの出来上がりだ。
一日中蛍光燈の灯かりの下で昼も夜も判らない。重い扉を押し開けて外に出ると暗い空からぽつりぽつりと雨滴が落ちていた。風は、無い。駐車場に停めておいた灰色の車で仕事場の敷地を離れる。雨は時折ワイパーを動かす程度だ。
相棒が僅かに早く帰っていた。米を研ぎ、その研ぎ汁で大き目の乱切りにした大根を軽く茹でる。出汁を取り、味噌汁の具にはシメジを使った。水で戻したワカメと薄い輪切りにして塩もみしたキュウリを合わせて酢の物にする。トッピングにシラスと摺りゴマを散らした。米を鍋で炊いている間にメインに掛かる。中華鍋に油を敷いて、にんにくとしょうがを炒め、香りを出す。挽肉を加えて更に炒める。火が通った所で、茹でた大根を加える。塩・胡椒・トウバンジャンで味付けし、水溶き片栗粉でとろみをつけるとマーボー大根の出来上がりだ。肉の旨み、トウバンジャンの辛み、大根の甘みが見事なバランスで一皿にまとまった。炊き立てのご飯に良く合って、すこぶる美味い。
まだ日が落ちる時間ではなかったが、外がはっきり見えない網入りガラスの向こうはすでに薄暗くなっていた。鉄の重い扉を開けるとたっぷりと水を含んで重たそうな黒い空から細かい雨粒が間断なく落ちてきて水溜まりにいくつもの波紋を広げている光景が目に入る。
この日の雨は特別な意味を持つ。壁打ちもナイターテニスも不可能にさせる非道の雨だ。しかし、そんな人々の生活など意にも介さず無情の雨は静々と降り止まない。
地下駐車場に降りていくと届けられたタイヤとホイールセットが駐車スペースの端に積んであった。台所用の油汚れ落し洗剤をスプレーして、一個一個丁寧に磨いていく。二人のオーナーの手を経たタイヤとホイールはかなり使い込まれ傷ついている。多少の補修が必要となりそうだ。ウエスを取り替えながら汚れを落とす単調な作業に熱中した。
ぼんやりとした弱々しい光。レースのカーテンを通して部屋に入り込んでくる。陰影のない平板な眺め。カーテンを目一杯開いた。力のない淡い光がのろのろと部屋を満たしていく。細かい雨が外の景色をけぶらせていた。雨の朝。
日中上がっていた雨が、夕方になって再び地面を濡らし始めた。いつもの帰り道。灰色の車は頼りないライトの光を頼りに田舎道を走る。カーラジオからは懐かしいロックナンバーが流れていた。ワイパーの音。雨の匂い。宵闇に滲むテールライト。隣を走るトラックの轟音が全てをかき消していく。
帰り道の途中で寄り道して本屋の駐車場に灰色の車を滑り込ませた。隣の敷地のホームセンターまで歩き、アルミパテとバッテリー補充液を買う。思い付いてトランシーバーのヘッドセットをショーケースから出させて買った。再来週のレースでピットと車との通信に使う予定だ。さらに本屋に立寄り、バックハンド特集をメインテーマにしたテニス雑誌の最新号も購入する。雨は止んでいた。
コンパイルを終え、簡単に動作確認すると今日の仕事は終わりだ。手早く片付けロッカールームへと急ぐ。作業着から短パンに着替えると、灰色の車を走らせいつもの壁打ちコートに向かった。珍しく低いヒールの靴を履き、普段着のままのOLが壁打ちを楽しんでいる。その横で軽く短いストロークから始めた。徐々に距離を長く取り、またスライスを多めにストローク中心の練習を続ける。気がつくと一人になっていた。さらにスマッシュやサービスの練習に入る。一時間ほど経ち軽く汗ばんできたところで切り上げて帰宅する。
冷凍庫から鶏肉を出し電子レンジで解凍する。玉ねぎとにんにくを微塵切りにし、オリーブオイルを敷いたフライパンで炒めた。解凍した鶏肉を一口大に切り、そこに加える。さらにトマト缶を一つ開け、中身を良く切り混ぜてから加えてそのまま煮込んだ。アンチョビーのペーストで塩味と風味を加え、塩胡椒で味を調える。煮立った所に賽の目に切ったピーマンで色味と食感を足した。たっぷりのお湯で茹でたパスタに熱々のソースをからめて頬張る。美味い。少し冷やした赤ワインを飲みながら、顎をフルに働かせた。
いつもより大分遅い時間に掛けた目覚まし時計の音で起きた。晴れていれば淡い色のカーテンを貫いて注ぎ込んでくる筈の陽射しはなく、窓全体がぼんやりと明るくなっている。だがこの時期スポーツをするにはこのぐらいの方が都合が良い。軽い朝食を摂るとうに色のクルマで家を出た。
広々とした河川敷の公園は、ポピーの花に溢れている。コートではすでに4人の男達がゲームに興じていた。なかなか良い試合だ。昼を過ぎるとコートが二面に増え、人も増えてくる。しかし、ぎりぎり8名。良く冷えたビールで喉を潤しつつ、休みなくゲームを続けた。
さらにスクールで練習を終え、ジャグジーとサウナで疲れを取ってから帰宅する。牛肉とにんにくの芽と玉ねぎとピーマンを炒めたものとレタスとトマトのサラダと赤ワインで簡単に夕食を済ませると直ぐに吸い込まれるように深い眠りに落ちていった。
5月27日(日)曇り時々雨
休日の朝も目覚ましで叩き起こされる。外を走る車の音に微かな水音が混じっていた。布団を出てカーテンを開けると五感が示すように路面は濡れている。雨がまばらに降っていた。しかし、この程度なら試合は中止にはならないだろう。灰色の車に荷物を積み込んで、家を出た。コートに向かう途中で雨が断続的に強くなる。中止・延期の不安を拭うようにワイパーを動かした。
コートに着くとすでにテントが張られ、大会の準備が進んでいた。参加者も集まり始めている。大会スタッフに合流して準備を急いだ。折畳式のテーブルを開きパラソルを立てる。夏の陽射しを避けるべく作られたパラソルだが、雨をしのぐ役目も充分担ってくれていた。
弱い雨が降ったり止んだりを繰り返している。大会はスタートした。最初にコールされた参加者達がコートに散らばっていく。サービス6本の練習だけで直ぐに試合が始まった。たちまちコートは球音で満たされる。
大会の進行を手伝いながら、自分の出番を待つ。ドローの都合上2回戦からのスタートになるが、相手も同じ事なので、実質上は一回戦だ。ついに控えに呼ばれる。進行はやや遅れてすでに10時を回っていた。ペアとボレーボレーで体を温める。コートが空き、ゲームを始めた。相手はまだ経験の少なそうな大学生。つないでいると先にミスをしてくれる。難なく勝利を収めた。
3回戦で当る相手を決めるゲームを見ながら、ペアと缶ビールで取り敢えずの祝杯をあげる。どちらが勝ち上がってくるか良く判らない同レベルの戦いを繰り広げている。左利きの回転系と右利きでまあまあ速いサービスを持つペアが勝ち上がってきた。レベルは同じ程度だ。今度は厳しい勝負になるのは間違いない。
3時近くなってやっと3回戦に入った。試合がコールされる。冷えた体を再びボレーボレーでアップして待機した。コートが空き、やっとゲーム開始だ。ノーアドでのリターンミスで1ゲーム目を失う。これが流れを失うきっかけだった。前に詰めた所をドライブロブで抜かれ2ゲーム目も落とす。同様に3ゲーム目も失った。しかし、渾身のサービスで4ゲーム目を奪う。1−3。
まだ流れを引き戻せなかった。チャンスボールのミスなどもあり、さらに2ゲーム落としてしまう。1−5。劣勢だ。流れを断ち切らないとこのまま持っていかれる。恐怖に歯を食いしばって耐え、リターンを打つ。相手の左利き特有のスライスサービスがフォルトになり、甘いセカンドを叩き込む。2本のリターンエースで、やっとブレイク。2−5。
丁寧にコースを狙ってサービスを打ち込む。ロブに備えて引き気味に待つ。リターンをドライブを掛けて相手コートに打ち込む。角度を付けて追い出し、空いたコートにペアがボレーを決める。良い形が出来てきた。3−5。
相手のサービスがブレーク出来ない。まだ流れが来ない。3−6。しかし、ペアがサービスをキープすると流れが変わった。4−6、5−6、またサービスが回ってくる。これを取れば追いつく。先にゲームポイントを掴むが、追いつかれノーアドの一本勝負になった。痛切にファーストが欲しい所で、来なかった。セカンドサービスのリターンをスライスで返し、ネットに詰める。しかし、ここで痛恨のボレーミス。決定的とも言えるミスだ。5−7。
まだ終わらない。今までキープされてきた相手のサービスに必死に食らいつく。相手もプレッシャーを感じている。スマッシュミスを誘い、ついにブレーク。6−7。ペアがサービスをキープして7−7。
本来なら9−7か8−8タイブレークで勝負が決する所だが、天候不順の為、試合進行を優先して、ルールは8ゲーム先取に変わっていた。これまで2回ブレークしている相手のサービス。行ける。しかし、相手は最後に吹っ切れたように良いファーストサービスを打ち込んできた。これまでほとんどフォールトになっていた速いファーストがラインぎりぎりに乗ってくる。リターンを押し込まれてしまう。全てファーストが来た。7−8。最後は大事な所でファーストサービスを入れられるか入れられないかの差で決まった。
良い試合だった。しかし、負けなければならない相手ではない。ペアと苦いビールで再起を誓った。雨が強くなってくる。再びスタッフとして試合進行を心配しながらの仕事に戻った。押さえても口惜しさは胸の奥で燠火のようにくすぶり続ける。
昼休みを告げる音楽が流れた。誰かが遠隔操作のスイッチを入れたかのように広い事務所のあちこちで人影が一斉に立ち上がり、歩き出す。網入りの曇りガラスが嵌まった重い鉄の扉を開けて外に出ると、あちこちに散在する建物から人の群れが吐き出され食堂に向かって押し寄せてくる。その光景はまるで食物に群がるアリの大群だ。たちまち長い行列が出来ていく。その先は食堂の建物の中で外からは見えない。オートメーション工場のベルトコンベアに乗ったかのように人々の列は中に吸い込まれて消えて行く。
同じように人の流れに身を投じた。屠殺場に導かれ従順に死を待つ羊の気分になる。こうして毎日毎日少しずつ自分を殺して行く。緩慢な屠殺。建物に入る直前にふと空を見上げた。どんよりと重く黒ずんだ雲が低く垂れ込めている。次の瞬間、流れのままに開いた扉に吸い込まれた。たちまち周囲が蛍光燈の人工的な光に満たされた空間に変わる。人の列は壁の角を曲がってさらに奥に続いていた。終わりはまだ見えない。
プログラムの入ったフロッピーディスクとノートを持って別棟にあるテスト室に向かう。灰色の扉を開けて2階の踊り場に出た。目に飛び込むのはクリーム色の建物の群れと、その上に低くのしかかるようなどす黒い雲。歩き出すと、微かに赤い光が瞳を射る。顔を上げると建物に切り取られた空の一部が赤く染まって見えた。夕焼け。茜色の夕焼け。この時間に西の空を見た者だけが出会うことの出来る太陽が演じる壮麗なフィナーレ。透き通るような赤光と紅に映える雲が織り成す華麗な天空の絵巻きに、しばし足が止まった。
すっかり暗くなった田舎道。ヘッドライトの黄みがかった光で先を照らしながら灰色の車を走らせて行く。小さな商店の灯かり、妙に白々しいコンビニエンスストアの灯かりが暗い道にこぼれ出ていた。いくつかのアップダウンを繰り返しながら全体としては徐々に高度を下げて大きな河べりにでる。長い橋を渡ると田んぼの中に民家が点在しているエリアだ。交差点のガススタンドの周りだけが明るく浮き上がって見える。少し走ると幹線道路に突き当たった。側道に入り、左側から車の流れの中にそっと灰色の車を挿入していく。暗い空に星はなかった。
一日中天候の事が頭から離れない。思っていた以上に晴れ上がっていた空は、気になって外に出る度に雲の厚みを増していく。昼過ぎには陽射しは弱々しく力を失っていた。午後に突然風が吹き荒れるような激しい音が事務所を包む。驚いて外に出てみると、瞬間的に激しい雨が降ったようだ。止めてある車は大粒の水滴に覆われ、路面も斑に濡れていた。この辺りは冷たい空気と暖かい空気がぶつかり合う潮目にあたるのか、大気の状態が著しく不安定だ。
定時で仕事を切り上げうに色のクルマでいつもの壁打ちコートに向かう。先客がいたが、数分で軟式の中学生達が帰った。ゆっくりとイエローのボールを壁に向かって打つ。荒いアスファルトの地面が直ぐにボールを傷めるので、ノンプレッシャーの練習球を使った。ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。ラケットバッグをベンチの下に避難させる。一時間ほどで切り上げてテニスクラブに向かうが、雨が激しくなってきた。今夜の球宴はもう終わりだ。ナイター照明が消されて輝きを失ったコートを離れ、家路につく。無情の雨。
昨夜から細かい雨が降り続けている。梅雨のように鬱陶しい。傘を持って家を出た。灰色の車に乗り込み、走り出す。カーラジオからは今日もパーソナリティーの熱い語りが流れてきた。今日はこの国の代表チームの大事な試合がある。そして、そこにはこのパーソナリティーがサポートするチームからやがては世界に進出するであろう若き名選手が出場する筈だ。朝からボルテージが上がっていた。
データを前に今後の実験の進め方を議論する。ちらと壁の時計を見上げた。キックオフから30分が過ぎようとしている。もう少し考えてから再度検討しよう、と話をまとめて、議論をひとまず切り上げた。問題先送りだ。しかしかまう事ではない。急いで着替え、灰色の車に乗り込むと、前半終了5分前で、スコアは0−0。代表チームは相手国に攻め込まれていた。前半の最後は相手国チームの時間だ。左サイドのスペースから崩される。しかし間一髪ゴールを守りきる。思わず安堵のため息が漏れた。ギアを入れ、走り出す。
信号で止まると画面に見入る。後半は代表チームの時間だ。ベテランのFWが献身的なプレイで敵陣深く切り込む。良い位置でFKを奪った。蹴るのは代表の若き指令塔だ。息が止まる。一瞬、右足が閃いた。放たれたボールは生き物の様に高い壁を越えゴールの左上隅に吸い込まれていく。ゴール。美しいゴール。気がつくと握り締めた拳を突き上げていた。信号が青に変わってた。再び現実に戻る。灰色の車の中にはまだゴールの余韻が漂っていた。
もうすぐ自宅という所で長い信号に捕まった。画面を注視する。前半途中から投入されたベテランのFWの動きが良い。相手DFの裏に走り込む。ライン際で長いパスを見事に受けた。長身のDFをかわし、時間を稼いでから逆サイドのスペースへ。意図を見抜いたFWが走り込んでいた。さらにゴール前に折り返す。飛び込んできたもう一人のFWがダイビングヘッド。今度は右上隅にボールが吸い込まれた。ゴール。素晴らしい流れのあるゴール。勝利を確信する。自宅に戻りTVを点けると缶ビールを開けた。3点目は祝杯を傾けながら迎えた。ただの缶ビールが勝利の美酒に変わる。格別に美味い。