金曜の午後になると自然に気持ちが浮き立ってきた。口笛でも吹きたくなる。自分で決めた定時にノートPCの電源を落とし、引き出しに放り込んだ。重い扉を押し開けると目には殺風景な建物の並びが飛び込んでくる。構わず、外の新鮮な空気を吸い込んだ。これで数日は忌々しい事務所とおさらばだ。うに色のクルマで壁打ちコートに向かう。大学生と思しき若いカップルが壁打ちに興じていた。ラケットとボールをバッグから取り出し、軽く挨拶してから隣で壁打ちを始める。カップルはベンチに微妙な距離を置いて座り、語らっている。しばらく経ち静かになったのに気付くと二人は立ち去っていた。ストロークからスマッシュやサービス練習に進む。一時間もするとうっすらと汗をかいていた。夕刻の風が心地よい。
米を手早く磨ぎ、ざるに上げる。味噌汁の具はもやしにした。メインはまぐろのかまだ。今日はちょっと甘目のたれを付けてスペアリブ風に焼いてみる事にする。豆腐の中華風炒め物と、プチトマトとレタスのサラダを添えると結構な食卓になった。赤ワインを開けて週末を祝った。
朝から初夏らしく湿度の低いからっとした良い天気だ。相棒を叩き起こしてコートに向かう。幹線道路の工事渋滞で時間に遅れて着くと、すでに練習は始まっていた。柔軟体操で体をほぐしてからラケットを握り、仲間に加わる。たちまち汗が吹き出るが、乾燥しているので不快ではない。スポーツドリンクで水分とミネラル分を補給しながら約2時間練習を重ねた。スポーツ用品店を2軒周り、新しい靴、ボール、ウェアなどを購入する。地方都市ではテニスの品揃えが豊富な大型店はなく、選択肢が少ないのが難点だ。事実、購入をもくろんでいた手ごろなサングラスはなかった。
夕方、日が延びてまだ明るい道を走り、街の西側から街の中心部方面に向かって灰色の車を走らせる。スポーツクラブのビルの最上階にあるコートで相棒と共にレッスンを受けた。このクラブにはジャグジーとサウナが付属しており、そこが大きなメリットになっている。ジャグジーでゆったりと足を伸ばし、サウナでたっぷり汗を流すと幸せな週末の夜に相応しい気分になる。
河川敷に広がる広い公園のコートには初夏の陽射しが溢れていた。レイバンのガラスレンズのサングラスはスポーツをするには重いが、シャープに陽光をカットして目に負担が掛からない。今日はミックスダブルスの大会だ。93組の出場選手が三々五々集まってくる。優勝するには7回勝たねばならない。7年間で大きく成長したこの大会を主催するクラブの一員として、全くアップ無しで望んだ第一試合は、そこそこの戦いを見せたものの、ノーアドバンテージで3っつ落とし、4−8で敗れた。第一ゲームのノーアドを落としてブレイクできなかったのが悔やまれる。
しばらく試合進行に従い、選手の呼び出しを続ける。広い河川敷に昔の運動会で使っていたような乾電池駆動の拡声器はやや役不足だ。第二試合は軽いボレーボレーでアップしてから望んだ。3−0のリードから、4−6の逆転負けを喫する。プレーが冴えずミスの多い一日だった。この日初めての缶ビールを開け苦い敗戦の味を噛み締める。もう試合はない。呼び出し業務を淡々とこなした。
素晴らしく晴れ渡った空から真夏の陽光が照り付けていた。しかし、湿度が低いので不快感はなく、風が肌に心地よい。うに色のオープンカーには最適の気候だ。いつもの通勤路をつかの間のリゾートに変えてくれる。きらめく陽射しを受けてうに色の車体が輝いた。乾いた排気音を奏でながら、田舎道を走って行く。トラブルが発生した為、帰りがやや遅くなった。昼間の熱気が去り、Tシャツ一枚ではやや肌寒い程だ。涼し気な月の光の下をうに色のクルマは滑るように走る。速度を上げると風の音や排気音にかき消されてカーラジオの音が遠のく。少し音楽のボリュームを上げてバイパス道を走った。スピーカーから出る音は屋根のない車内を満たす事は出来ず、後から後から出て来ては減衰して消える前に、風に千切られて後方に飛ばされていく。もしも、音が目に見えるなら、幻想的な月光に照らされ、まるでほうき星の尾の様に輝く音の尾をたなびかせながら走って行くうに色のクルマが、一枚の絵の様に見えたことだろう。
昨日発生したトラブルの後始末で一日が終わった。机の上を片付けて、PCの電源を落とすとホワイトボードに明日の出社時間を記して部屋を出た。闇に沈む建物の窓からはブラインド越しに蛍光燈の光が外に漏れ出している。建物の間の暗い通路を歩いてロッカールームに向かう。歩いているうちに徐々に気持ちが開放され始める。作業着を着替え、ロッカーの鍵を閉じる頃には、もう完全にオフの自分に戻っていた。灰色の車で走り出すと、フロントガラスに数滴、水玉が散った。雨だ。その夜一晩中降り続く事になる梅雨の雨は、こうしてごく控えめに訪れてきた。
鍵を開けて家に入ると先に帰っていた相棒が迎えてくれた。微塵切りの玉ねぎとソーセージなどを炒め、そこに残りご飯を加えて炒め飯をこしらえている所だった。生椎茸と半丁の豆腐とワカメを具にした味噌汁を作り、残った半丁の豆腐とレタスとプチトマトでサラダにした。ケチャップで味付けした炒め飯を型に入れてお皿にこんもりと盛り、上から薄い卵焼きを乗せてオムライス風にする。好みでケチャップを添えてスプーンで頬張った。美味い。
朝から雨が降っている。暗い空から間断なく降り注ぐ細かい雨。天と地が数え切れないほどの細い雨の糸でつながっている。心も濡らすような雨。外に出ると水溜まりにいくつもの波紋が出来ては消え出来ては消えを繰り返していた。よせてはかえす波のように後から後から永遠に続くとさえ思われる自然の仕草。この雨は今日一杯止まない、と予報は告げている。諦めきれずラケットバッグを灰色の車の助手席に積んだ。まだ薄明るい空を見上げる。弱々しく、しかし、静かな熱意を持って降り止まぬ雨。同じ雨が壁打ちコートもクラブのコートも濡らし続けているだろう。灰色の車の助手席に置かれ、一日中雨を見ていたラケットバッグが、散歩に行けないと知って寂しげにうずくまっている犬のように見えた。バッグに軽く触れた手をステアリングに戻し、アクセルを踏むと灰色の車はわずかに身震いして発進する。ワイパーを操作した。間欠動作で充分だ。まんべんなく濡れた路面でタイヤがほとんど聞こえないほどの水音を立てた。家に着き、部屋に上がって窓から外を見た。見渡す景色全てが水の底に沈んだ街のように揺らいで見える。この日、気象台が関東地方の梅雨入りを宣言した。
始まったばかりの梅雨だが、今日は中休みと天気予報は告げた。朝の陽射しがすでに夏の匂いだ。うに色のクルマで地下駐車場のスロープを上がって地上に出ると、途端に陽光の中に投げ出される。うに色のボディが光を反射してきらめく。乾いた排気音を後ろに置き去りにしながらいつもの田舎道を走った。昼過ぎには空が雲に閉ざされていた。夏の匂いは雨の予感に変わっている。遠くから雷鳴が聞こえた。灰色の空から雨粒がこぼれ始める。たちまち、路面が黒く濡れていった。昼過ぎに降り出した雨は夜まで続いた。駐車場までの並木道を、小さな傘を差して歩く。うに色のクルマに乗り込み発進した。布の屋根に落ちる雨の音はどこか懐かしい響きだ。小さなウインドウスクリーンを小さいワイパーが拭う。雨の日の視界はあまり良くないクルマだ。
ビデオに録画しておいた大事なサッカーゲームを再生しながら、豆腐と椎茸とニラの牡蠣ソースとトウバンジャン炒めを作り、別の鍋で作ったラーメンの上に乗せた。簡単な晩飯だ。この国の代表チームは豪雨の中で素晴らしい試合を作っている。PKからの雨を利用した美しいゴール。男達は輝いていた。
昨夜降り続いていた雨も夜半には上がったようで、カーテンを開けると薄曇りの空と、所々小さな水溜まりを残すだけでほぼ乾いた道路が見えた。今日もうに色のクルマに決めた。天気が気になって外に出る度に雲が黒く厚くなっていく。雨が降り出す前に帰りたい。その思いとは裏腹に仕事が終わらない。残業時間に入って少し経ったところで、一段落ついた。もう我慢できない。すかさず周りを片付けて事務所を後にした。外に出た途端、一滴の雨粒を頬に感じた。服を着替え、ロッカールームから出てくると、ぽつぽつと雨粒が落ちている。駐車場まで歩く間に雨足は次第に強くなってきた。急いでうに色のクルマに乗り込むと諦めきれず、壁打ちコートに向かう。途中で雨が激しく屋根を叩く。でも、コートの方は空が明るい。イケル。感がそう告げていた。
壁打ちコートにもパラパラと雨粒が落ちている。委細構わずに打ち始める。思った通りだ。コートの上空だけ雲が薄い。一瞬の通り雨の後、雨粒はそれ以上、落ちてこなかった。一時間ほど汗をかいた後、コートを後にした。
早朝、目覚ましのけたたましいベルで安楽な眠りの底から引きずり出される。この地方都市の空は薄暗く、雲に覆われていた。手早く顔を洗うと、昨夜のうちに用意してあった荷物を持って外に出る。アウトドア用のテーブルとパラソルをトランクキャリアに括り付けたうに色のクルマに乗り込み、発進した。国道のバイパス道路を南下していくと徐々に雲が薄くなり、隙間から陽射しが覗き始める。一時間ほどのドライブでサーキットのゲートにたどり着くと、本コースでもイベントが開催されるようで、すでに沢山のエントラントが集まり始めていた。うに色のクルマをサブコースの駐車場に向ける。仲間内では一番乗りだ。荷物を降ろし、テーブルを広げ、パラソルを立てると準備は整った。のんびりと皆の到着を待つ。
稀青のクルマを先頭に玉虫青の地面に張付くように平べったいクルマ、赤いクルマの3台が到着した。これで今日のレースを共に闘う仲間が揃う。稀青のクルマが競技車だ。皆を迎える為に立ち上がり、手を大きく振った。
宣誓書を書き、受付を済ませると準備に掛かる。競技車の稀青号から不要な荷物を降ろしていく。テーブルの横に広げたシートの上に荷物を置いた。クルマの準備が整い、荷物が片付くと、もう走行開始までする事はない。使用する無線のチェックをしながら、コースを歩いて下見する。路面上にはかなりのタイヤかすがこびりついていたが、まだ新しい舗装は荒れた所も無く、これまで通りに走れそうだ。
プラクティスが始まった。本選スタートの並び順を決める予選も兼ねているが、ルマン式スタートなので、ほとんど順位は影響無い。チームは、このコースを初めて走るドライバーにコースとクルマを慣れさせるのを主な目的にする。予想通り、プラクティスのタイムは9台中7位だった。これで良い。
本選スタートの前にガソリンを補給する。\145/Lというエントラントの足元を見た高価格政策に驚いた。高価なガソリンをほぼ満タンにした稀青のクルマをピットに並べると、最後の点検を行った。問題はない。後は走るだけだ。
グリーンフラッグが振り下ろされた。イグニッションキーを持ってクルマに駆け寄る。ドアを開け、タイトなバケットシートに体を押し込むと、ベルトを締め、キーをひねった。一発でエンジンが始動する。6番手でスタートを切った。全開でシフトアップしながら一コーナーを目指す。レースは始まったばかりだ。
気温が高い為タイヤのグリップは直ぐにタレ始めたが、ブレーキの効き具合、水温計、エンジンのパワー、どこにも異常は感じられない。タイヤをこじらない様にしながらレッドゾーンまで約1000回転を残した6000回転でシフトアップし、稀青のクルマを走らせた。残り1000回転は回してもあまり意味はない。むしろ燃費とエンジン保護の為には回さない方が得策だ。
エアコンを切った車内は暑い。汗が流れ始めるのを感じた。まさにスポーツ。追いついた前走車をパスするのにてこずりながらも周回を重ねていく。決められた30分は瞬く間に経過した。ピットインのサインに手を挙げて応える。ピットにクルマを止め、ヘルメットを取ると、流れる汗を拭った。
ピットインの時間は3分以上と規定されている。係員によってフェンダーに取り付けられたキッチンタイマーが時を刻む。次のドライバーが乗り込みシートベルトを締め、体勢を整えた。タイヤやブレーキをざっとチェックする何も問題はない。長い3分が過ぎ、稀青のクルマは再びコースに出ていった。
稀青のクルマは速いペースで周回を重ねていく。快調だ。30分が経過し、3番手にバトンタッチされる。ピットインしたクルマに異常はない。3分の休息の後に元気良くコースに戻る。再び速いペースで周回を重ね始めた。
無線にガソリン警告灯が点いたというドライバーの声が流れた。一瞬緊張が走る。しかし、大きな心配はない。コーナーの横Gでガソリンが偏り、警告灯が点灯してしまうだけだ。無線で大丈夫、問題ないと告げると安心したドライバーはさらにペースアップする。タンクが軽くなった稀青のクルマは驚くべきハイペースで周回を続ける。次々に遅いクルマを手繰り寄せ、パスしていく。人車一体の素晴らしい走りだ。
30分が経過し、このクルマのオーナーでもある最後のドライバーにクルマを無事返す。燃料がやや少ないものの完走には問題ないレベルだ。たすきは最後まで繋がった、後は大事にチェッカーの待つゴールへ導くだけだ。すでに一時間半を走りきった稀青のクルマのどこにも異常は感じられない。自信を持ってコースに送り出した。
応援に駆けつけてくれたテニス仲間達と息を詰めて見守る中、オーナーの手によって、稀青のクルマは順調に周回を積み重ねていく。一周、また一周。全てが宝石のように大切な経験だ。そして、耐久レースでは着実な積み重ねこそが最後に運を手繰り寄せる力になる。
残り五分でその時がやってきた。上位を走っていた赤い車がペース配分に失敗してガス欠を起こした。コース上に停まってしまう。行ける。各チームのピットが騒然となった。満を持してペースを上げるチームがある。稀青の車もラストスパートに入った。緊迫の5分が過ぎ、ついにチェッカーが振られた。まだ何位か判らない。だが、そんな事はもうどうでも良い。
ゴールしてきた稀青の車をチームの全員で迎えた。アンカーの重責を担って、見事責務を果たしたオーナーがクルマから降りてくる。汗が光っていた。感謝を込めて右手を差し出す。固い握手。それを皮切りにチーム全員で握手。そして歓喜のハイタッチを交わす。2時間走りきったのだ。力を出し切った素晴らしいレース。お互いの健闘を称え合う。
しばらくして総合結果が発表された。稀青のクルマは、スペックが優れる他の車達を差し置いて、3位入賞を果たす。ゴールの感動とはまた別の喜びが爆発した。素晴らしい一日、素晴らしい経験を共に過ごした仲間達に対する深い感謝で一杯だ。夏の陽射しが稀青の車体を美しく輝かせている。太陽の惜しみない祝福を受けて、走る為に生まれてきた、稀青のクルマが誇らしげにそう皆に告げているように見えた。
表彰式のシャンパンファイトに未練を残しつつ、サーキットを後にする。待っていてくれる人達がいるのだ。帰り道も静かな高揚感に包まれていた。
今朝も目覚ましで眠りを破られた。陽光は感じられないが、雨も降っていない布団の中でそこまで気配を感じた後、起き上がって確かめる。まず裏切られたことはない。灰色の車で昨日訪れたサーキットより更に少し南東に向かう。指定されたコートにはすでに数名が集まってアップを始めていた。準備を整えてから軽くアップに入る。相棒を相手にショートストローク、ボレーボレー、ストロークと進むと、蒸し暑いせいもあり、直ぐに汗が流れ始めた。
今日は久しぶりに親善的なゲームだ。4ゲーム先取の短いゲームで、次から次へと相手やペアを変えてゲームを繰り返す。2面で15名とやや大人数だったが、休み時間も長過ぎず、気温のせいで体が冷える事も無い。和気藹々とした4時間半はあっという間に過ぎ、近くの中華料理屋での食事会に移る。汗をかいた後の生ビールは格別だ。短い時間でジョッキ二杯が難なく胃袋に吸い込まれた。帰りのドライブは相棒に任せる。今日も素晴らしい一日だ。
仕事を切り上げ建物の外に出ると、既に日が落ちていた。まだ、ほんの微かに陽光の余韻が残る空に、星が光を増し始めている。頭上に雲はなかった。心配していた天気の崩れはないようだ。駐車場までの並木道をゆっくりと歩いていく。暗い歩道の向こうにガススタンドの灯かりがまばゆく見えた。ガススタンドの裏が駐車場になっている。水銀灯の妙に白っぽい光の下でうに色のクルマはうずくまるように停まっていた。
キーを使ってドアを開け、フロントウィンドウ上端のロックを二個所外すと幌を下ろした。ボディ同色のプラスチック製トノカバーを閉じると幌は外から全く見えなくなり、非常にスマートだ。低い位置にセットされたシートに腰を下ろし、発進する。
ゆっくり駐車場を出ると小気味良く決まるシフトを操作して次々とギアを上げていく。速度が上がるに連れて生き物のように風が入り込んできた。上空に冷たい大気が入り込んでいるせいで半袖Tシャツでは少々肌寒い。ごく軽くヒーターを効かせた。ヘッドライトの光が流れる川の様な幹線道路を、泳ぐように走っていく。柔らかいボサノバのリズムが風と共に空に溶けていった。
関東地方は一面の雲に覆われていた。しかし、梅雨前線は遠く南の海上に停滞していて天気が大きく崩れる心配はない。引き続き上空に寒気が入り込んでいて北の大地ではこの時期としては異例の雪が降ったというニュースが流れていた。半袖のTシャツと短パンでは肌寒い。だが、一度夏に切り替えたスイッチを元に戻すつもりはなかった。日の入りからだいぶ経ち、暗くなった並木道を駐車場に向かう。歩きながら何度も空を見上げたが、星は一つも見えなかった。街灯の光が明るくて雲の厚みがどのぐらいのものかも判らない。肌に感じる空気は、湿気を含んで冷たかった。うに色のクルマの幌を下ろす。途端に中も外と同じになった。頭上に何も無い感覚はいつもながら気持ち良い。
キーをひねってエンジンに火を入れると、吸気音、エンジン音、排気音が渾然一体となってキャビンに流れ込み、急ににぎやかになった。そこにカーラジオからの軽快なロックナンバーが加わる。通りに出てアクセルを少し開けると乾いた排気音が桜並木を微かに揺らし、跡形も無く消えていった。
昼休みが終わると、もう仕事は上の空だ。二日振りにラケットを握れると思うと思わず頬が緩むのを感じる。定時きっかりに机を片付けて広い事務所から外に出た。一面の曇り空だが雨は落ちてこない。うに色のクルマの幌を下ろした。いつもの壁打ちコートに珍しく人の姿が無い。バッグからラケットとボールを取り出すと、靴の紐を締め直してから、この日最初のボールタッチを楽しむ。ボレーとバックハンドを多めにして、壁との打ち合いに興じた。今日はコートを一人占めだ。最後の20分程度をサービス練習で締めくくり、一時間の壁打ちを終える。
スクールが始まる頃になって雨がパラパラと落ち始めた。また中止か?不安が集まった仲間の間に広がる。しかし、大した事はなく、雨は止んだ。久しぶりのナイターは照明が目に入って時々ボールを見失う。スマッシュの調子が悪い。特にグラウンドスマッシュの打点がなかなか良い所で取れない。ストレスを感じる。サービスは大分良くなってきた。リターンもまあまあだ。しかし、ボレーがいけない。いくら練習しても悩みは尽きないものだ。終了時間近くなって再び雨が落ち始めた。恨めしい雨。帰る頃には本降りになっていた。
覚醒した。先ず聴感が戻ってくる。耳を澄ましても雨の音は聞こえない。しばらく闇の中で待った。閉じた瞼を通して極弱い光が感じられる。ややあって通りを走る車の音が聞こえてきた。その音には、タイヤが水を叩く音が混じっている。雨が降っているのだ。しかし、強い雨では無い。ここまで認識が進んでやっと目を開くことが出来た。障子を通した弱々しい光が寝室の中をぼんやりと浮かび上がらせている。布団から抜け出して居間の窓に近付いた。カーテンを一気に開くと想像していた通りの濡れそぼった街が眼下に広がっていた。
道行く人が傘をさしている。まばらな雨粒が傘に当る鈍い音をBGMのように聞き続けているのだろう。傘に雨粒が当る音とうに色のクルマの幌に雨粒が当る音とは良く似ている。ハッキリとした雨粒がまばらに降る時は、そのどこか懐かしい音を楽しむ事が出来る。
灰色の車で出かけることにした。こんな日は、こちらも懐かしい音を楽しめる。昔住んでいたトタン屋根の家で聞くことの出来た音だ。信号で止まる度に、雨のリズムを楽しんだ。こんな雨は、悪くない。
昨夜から降り続いた雨は、朝になっても振り止むどころか、その勢いを増している様に見えた。窓から見下ろす町並みは水の底に沈んでいる。Macを起こしてメールサーバーに接続すると今日のテニスオフの主催者から本日中止のメールが入っていた。当然こうなるものと判っていながら、やはり辛い。しかし、有給休暇の一日を楽しむ術は他にも幾らでもある。今日は一日うに色のクルマと過ごすことにした。
作業着に着替え、屋内の有難みを深く感じながら、地下の駐車場に降りて行く。友人から格安で譲ってもらった、うに色のクルマには過剰な程の大口径のホイールを床に並べた。表面の傷を濡らした耐水ペーパーで気長に磨く。4本全ての傷を磨いた後に、深い傷をパテで埋めた。パテが乾く時間を利用して用意しておいたアース線でアースを強化する。配線の車体アースポイントや大電流が通りそうな場所をバッテリーのマイナス端子に太い導線で直接つないでやることにより、電気の通りをスムーズにする効果が得られる筈だ。
右フロントのアースポイントのボルトが固い。やっとの事で抜き出してみると、無理矢理ねじ込んだ為にネジ山が潰れていた。うに色のクルマが生まれた故郷での作業に違いない。いい加減なイタリア気質に思わず悪態をつく。ボルトを買いに行く仕事が増えた。
ひとまず手を洗い、作業に必要なものを近くのDIY店で購入する。戻ってから再びホイールを磨きはじめた。耐水ペーパーを使って丁寧に水研ぎしていく。余分なパテを取り除いて行くと徐々に滑らかな面が現われてくる。彫刻家は石の中に閉じ込められた像をただその形のまま取り出して行く、と言うが、この作業もそれに似ている。盛り付けたパテを取り除いて本来の美しい曲面を取り戻す作業だ。時々腰を伸ばしながら磨きに熱中する。表面が滑らかになった。
簡単にマスキングをして、シルバーの塗料を吹き付ける。塗装が乾く時間を利用して、買ってきたボルトでアースポイントに追加のアース線を共締めした。時間をおいて、シルバーを2回、クリアを3回吹いた。その他、パワーアンテナの分解、トノカバーオープン検知スイッチの調整などを行う。
全てが終わると満足感と心地よい疲労感に包まれた。仕事後のビールが、旨い。
朝いつも通りに目覚め、試合に出る相棒を送り出した。窓から駐車場を出ていく灰色の車を見送る。しばらくしてから身支度を整えラケットバッグを担いで地下駐車場に降りていった。うに色のクルマのドアを開け、乗り込む。キーを挿し、イグニッションをオンにし、次にスターターを回すべく更にキーをひねった。コンマ5秒にも満たないほど一瞬、セルモーターの回る音が響いた後、完全に沈黙した。何が起こったか判らず、瞬間的に思考が停止する。思わずもう一度オフの位置に戻して再度ひねった。スタート位置に回した瞬間メータの灯かりまで暗くなる。今度はセルはうんとも言わない。バッテリーの突然死だ。この外国製のバッテリーは構造上の問題があるようで、昨日まで元気に動いていたにもかかわらず一瞬にして駄目になると言う症例が数多く報告されている。諦める他はなかった。
またこうなるとバッテリー自体が大きな負荷と化す為、安物の50Aクラスのジャンプケーブルでは容量が足りずに他車の救援も頼めない。実際、試してみたが、セルは回らなかった。80A以上の大容量ジャンプケーブルが必要だ。
何もこんな朝に止まらなくても、、、思わず舌打ちしたくなる。しかし、これが現実だ。対応策を迅速に処理するしかない。JAFを呼び、到着するまでの間に、テニス仲間、近所のカー用品店に連絡した。仲間にはテニスに行けなくなった理由を述べて詫び、カー用品店でバッテリーの在庫を確認する。行き付けの店で在庫が確保できた。
到着したJAFのサービスマンが持参した携帯用バッテリーを借りて、うに色のクルマのバッテリーと接続する。祈るようにエンジンキーをひねると、いつも通りに、あっさりとエンジンが始動した。やはりバッテリーの問題だ。サービスマンに礼を言い、そのままエンジンを止めない様に走り出す。
行き付けのカー用品店までの道のりがいつも以上に長く感じられた。駐車場でエンジンを切り、試しに再始動を試みるが、もう息を吹き返す事はなかった。4年4ヶ月の一生を突然死で幕を下ろす結果となったバッテリーは負荷を外され、生まれ故郷から遠く離れた異国の地のカー用品店の片隅に最後の休息地を得た。新品バッテリーでうに色のクルマは息を吹き返した。少しでもボールに触る為、いつもの壁打ちコートに向かう。
今日も目覚ましに叩き起こされた。テニスバッグを担いで灰色の車に詰め込み、出発する。テニス大会のスタッフ業務をこなす約束になっている。試合が残っていないので、スタッフに専念だ。陽射しが強い。久しぶりに真夏の一日になるのは間違いない。試合は順調に消化されていった。午前中の試合が終わった時点でコートを片付けて第一会場に移動する。残り試合は少ない。移動途中のスーパーで購入したお弁当を広げ、冷えたビールを飲み干した。一仕事終えた後のビールは、美味くもあり、しかし、少しだけ苦かった。今日まで試合に勝ち残っていれば、気分はもっと違っていただろう。昨日、今日と貴重な梅雨の晴れ間にも係わらず、テニスがほとんど出来なかった。こんな週末は久しぶりだ。陽射しが容赦なく照り付ける。肌が火照る。テニスへの飢餓感が募るに任せ、あえてそれを無視した。梅雨はまだ一月は続く。その間に何度今日の様な素晴らしい天気が得られるだろうか。暗い瞳を空に向けた。
うに色のクルマは、土曜日の事件の事など忘れてしまったかのようにいつも通り僅かなクランキングで目覚めた。コンクリートに囲まれた地下駐車場にエンジン音と排気音が反響する。クラッチを繋ぎ、ゆっくりと動き出した。駐車スペースから出て270度右にターンすると出口のスロープと、その向こうに四角く切り取られた外の景色が見えてくる。暗い駐車場の枠から見える景色は陽光に満ち溢れていた。潜水艦が海中から浮上する様に、うに色のクルマはスロープを上がって、まばゆい光の中に躍り出た。蒸し暑い一日だった。しかし、夜になると北関東の地方都市には気持ち良く涼しい風が吹く。うに色のクルマに近づき、ドアロックを解いた。親指でプッシュボタンを押してビルトインされたドアノブを出させ、親指はそのまま、他の指でノブを掴み、軽く引くと思いがけない重厚な音と共にドアが開く。室内灯の淡い光と日中の暑さの余韻に迎えられた。幌のロックを外し幌を開け放つ。風が一瞬のうちに昼間の残滓を連れ去った。しばらく静かなコクピットで風の動きを楽しむ。足元まで夜の空気に入れ替わった。イグニッションキーを挿す。さあ、行こう。夜の中へ。
いつもより少し帰りが遅くなった。一日中ブラインドを下ろされた事務所の窓からは、外が明るいか暗いかしか判らない。扉を開けると思いがけず細かい雨の出迎えを受けた。地面には所々水溜まりも出来ている。大分前から雨が降っていたのだ。この雲は雨を降らせる雲ではないと天気予報は告げていたが、これが現実だ。ロッカーにいつも入れてある小さい折り畳み傘を開いて駐車場まで歩く。雨はほぼ上がりかけていた。うに色のクルマは雨粒を振るい落としながら暗い田舎道を走る。フロントガラスに張付く細かい水滴を時々ワイパーで拭った。遅いので軽い食事を作る事にする。ニンニクと玉ねぎとキャベツを軽くオリーブオイルで炒め、さらにピーマンを刻んで加えた後、チューブ入りのアンチョビーペーストと塩、胡椒で味を付けた。鷹の爪を一本細かく刻んで種ごと加えてみる。溶き卵とチーズを絡め、茹でたパスタと合わせた。熱々のところにパルメザンチーズを振り、タバスコを滴らして食べる。簡単だが、悪くない。ビールに合う。
朝から雨が降っていた。しかし、昼には上がるという予報を信じてラケットバッグを担いで家を出る。灰色の車の後部座席にバッグを放り込むとエンジンをスタートさせた。カーラジオからは雨にちなんだ懐かしいメロディーが流れている。予報通り昼に雨は上がり、時折雲間から日が射すほどに天気は回復した。地面の水溜まりがみるみる乾いていく。ここ一月余り週の半ばは雨に祟られていたが、今日は大丈夫なようだ。
午後になると再び雲が厚くなってきた。悪い予感がよぎる。空から最初の一粒が落ちてくると、しばらくして堪えきれなくなった様に降り始めた。たちまち水溜まりが出来ていく。今日も駄目か。絶望に崩れ落ちそうになるところを歯を食いしばって耐える。やがて事務所の屋根を叩く雨の音が聞こえるほどに激しい降りになった。希望が湧いてくる。激しい雨は通り雨のように速く通り過ぎていく筈だ。
予想通り、雨が上がった。空を覆っていた雲が千切れて少しずつ空が見えてくる。水溜まりを踏みながら気分は高揚していた。ナイターに照らされたテニスコートが待っている。久しぶりの球宴だ。灰色の車を走らせながら笑みが押さえられない。
涼しい朝だった。空はどんよりと重い雲に覆われて、陽光が感じられない。部屋の外に出ると半袖と短パンでは肌寒い程だ。間延びしたようにのろいエレベーターでロビーに降り建物の外に出ると、霧吹きで吹いたように細かい雨粒に全身をふわっと包み込まれた。窓から見た景色にも、部屋の外に出た時にも、雨の気配が感じられなかっただけに新鮮な驚きを感じる。灰色の車に乗り走り出すとカーラジオからはいつものパーソナリティーの声が流れ出した。昨夜のゲームでサポートするフットボールチームが勝利を収めたことで、声はいつもより誇りに満ちて車内に響いた。番組には同じチームをサポートする視聴者からメッセージが寄せられ、それらは次から次へと読み上げられた。そのどれもが勝利の歓喜に溢れている。熱いメッセージは電波に乗ってチームのある街、周辺、そして、その街から100キロ以上離れたこの地方都市にまで届けられた。
大きな川に掛けられた長い橋を渡っていく。橋を渡りきると左に折れて田んぼの中の田舎道を走る。夏になると水田で育つ稲の青々した匂いが清々しい素敵な道だ。今は雨の匂いが全てを支配していた。
仕事を切り上げ、机の上を片付け、一人外に出た。制服からTシャツと短パン姿に着替えると、壁打ちコートに向かう。木々に囲まれた静かな壁打ちコートには以前見かけたカップルが壁打ちを楽しんでいた。コートの後ろにあるベンチに荷物を置き、軽く準備運動をしていると、二人は帰り支度を始める。バッグからラケットとボールを取り出し、最初の一球を打ち込んだ。一時間ほど続けると程よく汗をかける。満足してラケットを仕舞い、再びクルマを走らせて自宅に向かった。地下の車庫にクルマを収めて、遅いエレベーターで最上階に昇る。誰もいない部屋に帰ると、軽くシャワーを浴びた。新しい下着とTシャツ・短パンに着替え、財布と携帯電話を持って家を出る。今日は食事会だ。歩いて7分ほどの小さな駅に向かう。
県庁所在地の駅で降り、5分ばかり歩くと、まず焼き肉の匂いが鼻孔をくすぐる。韓国焼き肉の店だ。右隣には、キムチ屋。左隣にはショットバーが並んでいる。ショットバーの前には、稀青のクルマが停まっていた。生ビールのジョッキをぶつけ合って、その日の酒宴は始まった。次々と運ばれる肉を焼いては食べ、生ビールで洗い流す。最高のひとときを友と過ごした。
久しぶりにいつもより遅い時間にゆっくりと目覚めた。ピーマンとトマトとチーズを賽の目に刻んで卵と少量のミルクを混ぜてオムレツを作り、トマトの櫛切りを添えて皿に盛る。熱いトーストにマーガリンを塗り、ミルクを入れた熱いコーヒーを食卓に並べた。季節のびわとさくらんぼをデザートに添える。朝食を終え、買い物を済ませて家に戻ると、ボール篭とラケットバッグを持って家を出た。いつものテニスコートに向かう。約束の時間に少し遅れてコートに着くと、すでにメンバーは半分以上集まっていた。ネットを張り、準備運動をしてから、練習を始める。ショートストローク、ボレーボレー、ストロークでアップしてから、4人でのボレーストローク、ボレーボレーと進んでいく。仕上げにサービスとリターンをしてから、ゲームに移った。色々なペア、相手とゲームが出来る様、4ゲームマッチ・デュース有とする。ゲームは最高の練習だ。
練習や試合の合間に、作ってきたハンバーグサンドイッチを頬張り、冷えたビールを飲む。蒸し暑いこの時期、最高のご馳走だ。サービスを打ち込む。ラリーの末1ポイント取り、Tシャツの袖で額の汗を拭う。風が、吹いた。
朝、車が跳ね上げる水の音で目が覚めた。しかし、今日は雨が降っているとしても恐れる事はない。インドアテニスコートでのゲームが組まれている。自宅から一時間ほど走った山間のリゾートホテルにあるコートを目指す。今日は初めてプレーする相手が多い筈だ。灰色の車で快調に走って行く途中で雨は上がった。相棒を相手にアップを始める。雨上がりで湿度が高く蒸し暑い。たちまち汗でTシャツが体に張付いた。コート横のシャッターを巻き上げているので、インドア特有の高く長く響く打球音はほとんど感じられない。コートのあるフロアを見下ろす形になる休憩所のデッキチェアに身を預け、眼下のプレーを見下ろす。優雅なリゾート気分だ。
交流を目的としたゲームなので、4ゲーム先取で次々に回していく。しかし、デュース有りなので、白熱したラリーが続いて長いゲームになることもあった。途中でシャツを替えながら6時間たっぷりゲームを楽しむ。1リットルのスポーツドリンクを飲み干した。蒸し暑い中で時折気まぐれに訪れる風が気持ち良い。6対戦をこなして勝ち越した。悪くない一日。シャワーの後に飲むビールは黄金の味だ。
朝、カーテンを開けると、マンションの最上階から見下ろす景色は、山頂から雲海を見下ろすように一面の霧に閉ざされていた。この下にはダムの底に沈んだ町のように、白い霧に包まれた家々が眠っている。神秘的な一日の始まり。霧のマジックは、ほんの半時ほどの間に薄れ、見慣れた町並みが戻って来る。しかし、まだ遠くは霞んでいて、見えない。うに色のクルマをゆっくりと走らせ、門を出ると路上に解き放った。静かな街に少しだけ太い排気音が響く。昨夜、交換したホイールとタイヤの感触を慎重に確認しながら走った。ステアリングから手に伝わる感覚、座席から体に伝わる感覚、フロアから足に伝わる感覚、耳に入ってくるノイズ、、、触覚と聴覚を総動員して探る。大口径の軽合金ホイールと薄く幅広いタイヤの組み合わせから心配されるような角のある衝撃や、足元のばたつき感は感じられなかった。それよりもステアリングのがっしりした手応えや俊敏さを増したレスポンスが好ましく感じられる。最新設計のエコタイヤのような滑らかで抵抗の無い転がり感は、イタリア製の中古タイヤで得られようもなく、走り出しには抵抗があった。しかし、想像以上にしなやかなシューズを引き当てたようだ。これなら、悪くない。思わず頬が緩む。幹線道路の流れに乗せてアクセルを踏み込んだ。
天気予報は今夜の雨に注意する様告げていた。それにも関わらず、昨日から17インチのシューズに履き替えたうに色のクルマで出掛けることにする。このクルマに17インチ40扁平のタイヤは過酷と思わないでもないが、装着した姿の美しさにかなうものはない。しかし、予想に反して中古のシューズは以前の15インチと変わらぬ快適性を発揮してくれた。いつもより遅く帰宅すると、相棒が晩飯の支度を始めていてくれた。鍋で炊く御飯と、豆腐とワカメの味噌汁を中心に、おかずは野菜たっぷりの冷しゃぶサラダだ。塩ワカメを水で洗い、軽く絞っておく。牛肉をたっぷりのお湯で湯がき、すかさず氷水に取って締める。キュウリの千切り、トマトの櫛切り、味噌汁に使った余りの豆腐の角切りを大皿に広げ、中心に牛肉を盛る。市販のゴマドレッシングや焼肉のタレをブレンドして作ったソースをかけて頬張ると、これは旨い! 冷やしておいたフランスのテーブルワインを開けると若くあっさりとした軽い味が夏らしく、蒸し暑さを吹き飛ばすような爽快な夕げを演出した。
朝起きて、リモコンでTVの電源を入れた。天気予報を告げるアナウンサーは折り畳み傘を持ち、傘の携帯を呼びかける。水曜日にこの予報は見たくなかった。それでもラケットバッグを抱え、ハードコート用のテニスシューズを履いて家を出る。うに色のクルマを選んで発進した。昼の天気予報で北関東の天気は曇り時々晴れに変わっていた。確かに雲が切れて陽射しが覗いている。この時期太陽が出ると暑い。もう真夏だ。定時になると同時に仕事場を出て、壁打ちコートに向かう。今日はこの暑さにも係わらず長袖シャツに長いパンツを着た中年男性が先客だ。その横で打ち始めると、直ぐに汗が噴き出してくる。一人になったのでTシャツを脱いで上半身裸で続けた。時々タオルで汗を拭いながら一時間ほど壁打ちに熱中する。
湿度は高いが陽射しがないのでナイターテニスは体への負担が少ない。しかし、驚くほどの大量の蟲が発生してナイターのまばゆい光に惹かれて集まってくる。殺虫灯が盛んに音を立てて対抗しているが多勢に無勢だ。無数の細かい羽虫に混じってカナブンやカメムシも多い。コート上は死屍累々の惨状だ。
今日も雨は降らない様だ。うに色のクルマに乗り込み、発進する。タイヤとホイールの組み合わせを変えてからやや長めの半クラッチが必要になった。カーラジオから、いつものパーソナリティーの熱い語りが流れている。このクルマは走行距離が5万7千キロに近づいていた。定期的な消耗品の交換が必要な時期だ。あれこれとプランを考える。しかし、考えるまでもない事だった。交換すべき物は交換するしかない。国産車の常識からすると理不尽なほど短いサイクルでの交換になるので理屈では分かっていても気持ちの上では、簡単に納得出来ない。全体としては物を大事にするのだが、その物自体の耐久性を上げるという感覚は欧州人にはないのだろうか。あるいはなかなか買い換えてくれない顧客を相手に利益を上げる為の車会社の策なのか。
確かに新車が売れないとなると、アフターマーケットでの点検、修理、部品交換などが車業界の主な収入になる。欧州市場は日本製の自動車をまだあまり多くは受け入れていないが、壊れない、メンテナンスも長期間必要ない自動車が、今後大量に持ち込まれると、自動車の保守を生業としている業界の人達は収入が減ってしまう。それはある面で不幸な事だ。
雨が落ちてきそうな雲行きだ。灰色の車に乗って出掛ける。今夜は高校時代からの友人と飲む約束になっていた。今日も蒸し暑い。壁打ちをして汗を流せばビールが一層美味い筈だ。しかし、こんな日に限って仕事が片付かず、壁打ちは30分弱しか出来なかった。それでも、なんとか一汗かく。帰り道で友人をピックアップした。一度自宅まで戻り、電車で再び街にでる。自宅から県庁所在地の街まで電車で一駅だ。最初は駅の近くで飲む事にし、駅前の百貨店のレストランフロアに上がった。適当にイタリアンレストランを選び、入る。入った途端、場違いな選択に気付いたが、他に良さそうな店もなかった。仕方なく、案内された席に着く。周りは女性の集団か、カップルだ。男二人はその場では異物に近い。
委細構わず、ビールとつまむものを頼む。最初に運ばれてきたビールで、久しぶりの再会を祝った。運ばれてくる料理で空腹を満たす。軟骨のフリットとサラダは悪くなかったが、ピザがいただけなかった。生地は汁を吸って少しもパリッとした食感がないのに、裏がこげていて焦げ臭く、舌に苦みが残るという代物だ。早々に退散し、結局、行き付けのピアノバーに移動した。ビールの管理と注ぎ方が良いのか別物の様に美味い。突き出しの茄子とキュウリと大根の漬物が美味い。その代償として何も食べなくても先の店の1.5倍の支払だ。
ウィンブルドンのテニス中継を見て遅目に眠り、ゆっくりと目覚めた。平日より2時間ほど多く睡眠を取った事になる。悪くない目覚めだ。TVでは遠くに海を見下ろす高台の原生林が残る土地に建てられた家を一人の男がつぶさに紹介していた。住人は毎日が足腰の鍛練ですと言って微笑む。景観とそこによく合う家を手に入れる代償として受け入れた、澄んだ笑顔だ。準備を整えたラケットバッグを担ぎ、ボール篭を持って家を出る。空は厚い雲に覆われているが、この時期、直射日光に照らされる晴れの天気よりは曇りぐらいがちょうど良い。河川敷に広がる広い公園は数週間前まで咲き乱れていたポピー畑が耕され、次の種が蒔かれたようだ。黒々とした土がいかにも肥沃に見える。
綺麗に整備された砂入り人工芝のコートでボールを打ち始めると、たちまち汗が流れる。蒸し暑い。おまけに2面のコートに8名ときっちりの人数だ。休む間もなくボールを打ち続ける。休憩を取り水を飲む。クーラーボックスから冷えたビールを出し、喉を鳴らして飲んだ。乾いた砂に水を撒くように冷たい液体が浸透し心身を活性化する。風が吹いてきた。雨の気配を感じる。