午後になると事務所の中にいても、遠くに雷鳴が聞こえた。総務課が全館放送で停電の注意を呼びかける。夕立になるかも知れない。停電でもしばらくは大丈夫なノートパソコンで作業を続けた。事務所の中に居ると外の様子は音でしか分からないが、夕立の音は聞こえてこない。時々時計をにらみ、定時になると机の上を片付けた。うに色のクルマの幌を下ろして壁打ちコートに向かう。雨の心配は無くなった。借り物のヘッドのiプレステージ(mid plus)をバッグから取り出す。今使って居るラケットと20g程しか違わないのにずっしりと重く感じた。初めての試打だ。期待が高まる。最初のボールを壁に向かって打った。スイングしても重さを感じるが、打球感はハッキリしない。しばらくゆっくりアップした後に段々ペースを上げて行く。突如突き抜けるような気持ちの良い打球感が右手に伝わってきた。しっかり打って初めて真価が出るラケットだ。ぐっとボールを掴んでから弾き返すような感触が素晴らしい。ボールが”乗る”感覚だ。早く生きたボールを打ちたい。1時間で壁打ちを切り上げるとテニスクラブに向かった。
まだナイター照明が必要でないほど明るいコートに着く。軽く準備体操をすると先ずフォームが狂っていたサービスの矯正を始める。ラケットの重み、飛びが良い感じだが、サービスのフォームは上手く戻らない。他の人が現れたので乱打を始める。思った通り、悪くない。スライスが面に良く乗る。心配していたスイートスポットの狭さも自分のラケットと変わらないようだ。
スクールが始まった。先ずはボレーボレーだ。ボレーも気持ち良く打てる。しっかり打った時は長いボールが返るし、ドロップやアングルのタッチが素晴らしく、長さのコントロールがしやすい。自分のラケットと同じメーカー、ほぼ同じラケット形状だから違和感は無いと想像していたが、その通りだ。しかし、重さと打球感の違いは強く感じられる。その重さがかえって良いのか、スピンショットもあまり浮かず、スライスは良く回転が掛かり深く打てた。
スクールが終わった後も他の人と20分ほど乱打に付き合ってもらう。アプローチからボレーが良い感じだ。結局一度も自分のラケットを出すことがない。久しぶりに手に馴染むラケットに出会えた。
小さな手提げ鞄を持ってドアを開けると通路に出た。通路は北関東の県庁所在地である地方都市の市街地方面に面している。周りに高い建物が何もないので、7階建てのマンションの最上階からでも遥か遠くまで見渡す事が出来た。しかし、今朝は遠い景色はすべて濃厚なクラムチャウダーの様な霧の下に沈んでいる。太陽が見えないせいだろう、昼間の暑さが嘘のように涼しくて半袖Tシャツから出した腕が風になぶられると心地よい。午前と午後に長い会議が入り、やっと開放されたのは日付が変わる2時間ほど前だ。月が雲に隠れて暗い駐車場から家路を急ぐ車達が次々とライトを点灯して走り出し、門を目指す。走り去って行く車の横を歩いて門を出た。歩道橋を昇って広い道路の対岸に渡り、さらに暗い歩道を数百メートル歩くと敷地外駐車場の入口がある。駐車場には既に数えるほどしか車が止まっていなかった。うに色のクルマが一番最初に目に飛び込んでくる。幌を下ろし、エンジンを掛けると静かな駐車場に控えめな排気音が響いた。ライトを点けると正面に駐車場の隣の建物の壁が立ち上がり、手前の暗闇にはメーターが浮かび上がる。
定時に事務所を出ると、空は水分をたっぷり含んで重たそうな黒い雲に所々覆われていた。風も湿り気を含んでいるが、涼しいのでそれほど不快ではない。駐車場まで5分程度掛けて歩いた。うに色のクルマの幌を下ろすといつもの壁打ちコートに向かう。雨の気配に遠慮したのかコートには誰もいなかった。一人でコートを占有出来る機会は少ない。左右に振る練習も加えた。夏の夕方にしては涼しかったが、たちまち汗が滴り落ちてくる。いつもより早目に40分程度で切り上げた。
帰り道で行き付けのガソリンスタンドに寄り、うに色のクルマのタンクを満たしてやる。スーパーと酒屋を廻って食料や酒類を買い込むと自宅に戻った。荷物を部屋に降ろすと、バケツに水を汲んで地下駐車場に戻った。明日からのツーリングに備えて車体を洗ってやる。コーティングを施してあるボディは水洗いしてから簡単なクリーナーをタオルにつけて拭ってやるだけで輝きを取り戻した。トランクの余分な荷物を下ろす。
1時間ほどの作業で再び汗まみれになった体をシャワーで洗い流すと気分がさっぱりした。冷えたビールを飲みながら出発の準備を整える。
早朝、目覚ましの音で目覚めた。昨夜のうちに準備しておいた荷物をうに色のクルマに積み込む。トランクに大き目のクーラーボックスを突っ込むと着替えなどを詰めたラケットバッグは助手席に入れるしかなかった。出来るだけ邪魔にならない様に助手席の足元に深く突っ込む。構う事はない。気楽な一人のツーリングだ。屋根を下ろして走り出す。早朝の風が髪をなぶって行った。気分は爽快だ。自宅近くのICから南に向かう高速道路に乗る。30分程度走り、二つ先のICで高速を降りた。ここからは下道を使って走る。早朝の国道はまだ混雑から免れていた。
バイパス道路と高速道路が出来てから、めっきり交通量が減少した旧道に入ると、今は廃線になった鉄道の美しい石橋を横目で見ながらつづら折れの峠道を昇っていく。峠を越えるとこの国の代表的な避暑地の街に入った。もう少し時間が遅いと観光客でごった返す小さな街も今はまだ人気も少なく静かだ。テニスの合宿で良く訪れるこの土地だが、今日は用が無い。目的地はまだ先だ。速度を落とす事無く通り過ぎる。国道は小さな街を繋いで伸びていた。朝の混雑が始まり出す。止まっている時間が増え始めた。
ついに雨が降り始める。しばらく走り続けたが、車の流れが悪いので車内に雨が降り込んで来た。手近なファミリーレストランの駐車場にクルマを乗り入れる。ちょうど良い。雨宿りを兼ねて早目の昼飯を摂る事にした。幌を閉じて降りると雨が激しくなってくる。入口に駆け込んだ。空が光り、雷鳴が轟く。北関東名物の雷雨がうに色のクルマの後を付いてきたようだ。ランチを頼むと熱いコーヒーをもらって飲んだ。運転に集中していた神経が開放されていくのを感じる。柔らかい椅子に深く腰を落としてリラックスした姿勢を取った。時折コーヒーカップを口に運びながら、通りを走る車をぼんやりと眺める。
近くで雷鳴が轟いたと同時に店内の明かりが消えた。苦笑が口元に浮かぶ。停電は5分程度続いた。雨は激しさを増している。しばらくはここで過ごそう。覚悟を決めるとゆっくりと時間を掛けてランチを平らげた。コーヒーや紅茶をお代わりしながら待っていると、次第に雨が小降りになってくる。まだ目的地までは時間が掛かりそうだ。コーヒー、紅茶も飲み飽きた。勘定を済ませ、店の外に出る。雨はまだ降り止まない。幌を上げたままのうに色の車に乗り込み、混雑が続く国道に出た。
夕方近くなって目的地である高原の側に着いた。雨はとうに上がっている。途中で幌も降ろしていた。近くにある湖の湖畔に出てみる。この湖畔からはナウマンゾウの化石が発掘された事で有名だ。湖に突き出た桟橋にはボートが繋がれ、避暑客と思われる太った白人が家族で水遊びに興じていた。湖畔の狭い道をうに色のクルマでゆっくりと進んでいくと、まるで港に係留された船の間を縫って小舟を操る船頭になった気分だ。
今夜の宿に向かって山道を登っていく。山に向かって伸びている道は何本かあり、最初に選んだ一本はハズレた。別の道を登っていくと宿のカンバンが現れた。予想以上に山の中に入っていく。心配になるほど登った挙げ句にやっとそのロッジは見つかった。クルマを止めてロッジの玄関に近づくと悲しそうな顔をした雑種の白い犬が不安そうな表情で迎えてくれた。
一番風呂に入り、風呂上がりのビールを飲んでいると、仲間が続々と到着し始めた。初めて会う顔、懐かしい顔。挨拶を交わす。晩飯の時間になった。宿の女将が一人で準備した食事がテーブル一杯に並ぶ。ビールで喉を潤しながら、仲間と語りながら食べると実に美味い。宴は始まったばかりだ。
窓からの光で目覚めたが、朝食の始まる時間まで布団に包まり浅い眠りを楽しむ。渋々布団から出て窓の外を眺めると、裏の路上に舫ってある小舟達の鮮やかな色が眼を射る。レモン色のクルマが多い。次がうに色、蒼、銀と続く。食堂に降りていくと、顔に昨夜の宴の気だるい余韻を張付かせたままの仲間たちが集まっている。メニューは、コーヒー、ミルク、ジュース、たっぷりの野菜サラダ、ゆで卵、トーストだ。疲れた胃に酸っぱいドレッシングを掛けたサラダが嬉しい。熱いコーヒーをすすると頭がはっきりとしてきた。
しばらく休憩した後、各自荷物をまとめ、それぞれのクルマに乗り込む。ロッジを出ると更に上を目指して木立に囲まれた狭い山道を登った。昼なお暗い林の中にうに色のクルマの心地良い排気音が吸い込まれていく。前後を色違いで同じ形のクルマに挟まれて曲がりくねった坂道を登っていくと、途中で突然林が途切れ視界が開けた。空気の澄んだ高原に相応しいキラキラした陽射しが降り注ぐスキー場だ。今は雪の代わりに鮮やかな緑に覆われた斜面の向こうに、美しい水を湛えた湖とそれを囲むように立ち並ぶ玩具の様な家々が見える。素晴らしく爽快な眺めだ。
山の頂上付近に作られた公園の駐車場に次から次へと同じ形のクルマが集まってくる様は、何度見ても一種異様な感動を与える。気持ちの良い陽射しが降り注ぐが、不快な暑さは全くなかった。
クルマから降り立った者達は思い思いに広い駐車場に散らばっていった。個性的な改造を施されたクルマを観察する者、クルマを換えて交換試乗したり、違うクルマに試乗したりする者、自分のクルマを草原に連れ出し撮影を始める者、それぞれが自分達のやりたい事をして楽しむ。そして、仲間同士が互いに交遊を深めていった。
誰かが声を掛け、全員で記念撮影する事になった。Barchettaの旗の下に集い、思い思いのポーズを取る。この日、この時、この場所を共有した想いまでを切り取って残そうとするかのように、何台ものカメラで何回もシャッターが切られた。
解散の時が来る。信州蕎麦、ラズベリー狩り、テニスなど、ここからは三々五々散らばって、それぞれの今日を過ごし、それぞれの住む町に帰って行く。こうしたイベントで最も寂寥感が漂う瞬間だ。あちこちでエンジンが始動される。途端ににぎやかになった。手を振り、軽くホーンを鳴らし、一台一台走り去っていく。
うに色のクルマで登ってきた道を今度は速いペースで下って行く。木立の隙間から今度は正面に湖が見えた。このまま道を飛び出してスキー場の斜面をうに色のクルマで駆け降りていけそうだ。辛うじて思いとどまった。ステアリングを切ると湖は横っ飛びに視界から消え、再び薄暗い林の中に入る。
テニス組はロッジに集結した。駐車場にクルマを入れ、ラケットバッグを用意する。一人でロッジを切り盛りするおばさんが運転する7人乗りのワンボックスに乗り込んだ。定員の7名でテニスコートに向かう。森に囲まれた公園の中にテニスコートが12面用意されていた。10面を使って大学のサークルがゲームを楽しんでいる。残りの2面を押さえた。こちらは2面だけ別の金網で囲われていて都合が良い。
早速7名が2面に別れてボールを打ち始める。高原の特徴でボールが良く飛び、良く弾む。だが、初心者の女性を始め、誰もが素人だ。大した事ではない。2時間ばかりボールを追いかけると満足できた。ロッジに戻り、シャワーを使わせてもらう。風呂上がりのビールが例えようもなく美味い。しばらく風の吹き抜けるラウンジで憩う。このままここで夕暮れまで過ごしてもいい。
楽しい時間は夢のように過ぎてしまった。このロッジにいつまでも止まるわけには行かない。出発の時が来た。ロッジを出ると、少し離れた街の蕎麦屋に向かう他の仲間と別れて、近くの温泉街に向かう。友人の親戚がやっているお菓子屋が目当てだ。友人に勧められた白餡のまんじゅうときんつばを買い込む。味は昨日自分の舌で確認済だ。お土産屋で観光客相手に売られる大量生産のお菓子とは一線を画する爽やかな甘みが堪えられない。店番の人の良さそうなお年寄りと会話を交わす。うに色のクルマが記憶に残っていたのか、昨日尋ねた事も覚えられていた。手を振ってクルマを出すと蕎麦屋に急いだ。
いかにも田舎の食堂と言った風情の店内で働いているのは近所のおばさんのようだ。食券を買って席に着くと、先に到着した仲間たちが既に食事を始めている。昼飯には遅すぎる時間なので、他に客はいなかった。少し待った後に出されたざる蕎麦は、食通を唸らせるようなものではないが、量がたっぷりとしていてずっしりとした満腹感を味あわせる。店の前で仲間たちと別れると、後は無事に帰るだけだ。まだ夕日と呼ぶには早い陽射しの下、うに色のクルマは快調に田舎道を走った。
目が覚めると週末のツーリングの疲れはすっかり消えて、微かな残滓だけになっていた。ラケットバッグを担ぎ、歩いて10分程の駅に向かう。電車に乗り込むと早速追加の睡眠を貪った。乗換駅の二駅手前で目覚める。乗換えて一駅行くと、目的地だ。駅前のコンビニでおにぎりと缶ビールを買う。駅前を歩いて大きなバイパス道を越えると歩道に人影も無い田舎道だ。ゆっくりと歩きながら、おにぎりと缶ビールの朝食を取った。テニスコートの近くのコンビニで今度はスポーツドリンクを買い込む。30分弱でテニスコートに到着した。小さなテニスクラブだ。主催者が到着する。主催者と参加者の二人しかいない、小さなオフの始まりだ。10時ごろから昼食休憩の1時間を挟んで、17時半程度まで、二人っきりの濃厚な練習は続けられた。その間にスポーツドリンク3Lとビール1L程を消費する。素早く汗を発散させ体を涼しく快適に保つ筈のシャツが許容量を越え乾く間が無い。サーブ&ボレーを1時間半、ボレーストロークを2時間など、各ショットをみっちりと練習する。一日の終わりには、体から余分な力を抜くと、より鋭く回転の掛かったボールが打てる感覚を掴む事が出来た。
朝から曇っていた。窓を開けて扇風機を点けっ放しで寝ていたせいか、体がだるい。昨日の疲れもあるだろうが、久しぶりの涼しさが原因だ。重たい体を抱えたまま、うに色のクルマに乗って家を出た。明日から夏休みに入る者達が今夜の飲み会を企画している。誘われていたが会議が入っていたので仕方なく断る。体調も不良だ。くしゃみと鼻水が酷い。友人が、この地方都市でコンサートを楽しんでいる間も不毛な会議は続いていた。
うに色のクルマに付けたカーナビゲーションシステムが不調だ。頻繁にDVDディスクの読み出しが出来なくなる。DVDドライブ用のクリーニングディスクを入れてみたが効果が無かった。それどころか、何度もディスクの抜き差しをしている内にディスクを飲み込まなくなる。いよいよ修理に出さざるを得なくなった。お盆を挟んで修理には時間がかかるだろう。勿論、お金もだ。思わず舌打ちする。定時に机を片付けるといつもの壁打ちコートに向かう。今日は珍しく混んでいた。曇っていて涼しい気候が壁打ちを誘うらしい。待っている人がいる程だ。一時間程壁と挌闘すると満足する。
スクールのコートに着いた。まだ時間は早い。独りでサービス練習を始めた。少しラケットが振れてくる。しばらく練習しているとコーチが到着した。コーチを相手に軽く乱打する。時間だ。ナイター照明に火が入ると目映い灯を目掛けて無数の虫が集まってくる。殺虫灯が迎撃するが多勢に無勢でどうにもならない。
家でシャワーを浴びると、冷たいビールを飲みながら、オリーブオイルで、叩き潰したニンニクとナスとトマトとピーマンを炒め夏野菜のパスタを作る。冷やした赤ワインを開けた。
うに色のクルマの純正オーディオは4スピーカーで、悪くはない。ヘッドユニットをパナソニックに変えており、そこそこの音を聞かせる。しかし、ライン装着されるスピーカーのコストは厳しく抑えられていて、良い物は付けられないのも事実だ。音の出口をチューンアップすると高い効果を生むことは良く知られている。アメリカの普及型民生用として有名なメーカーのスピーカーをインターネットの通信販売を利用して購入した。どれほどの効果が有るか判らない。しかし、期待は高まる。交換の作業も楽しめるだろう。家に帰ると米を研ぐ。小鍋に水を張り火にかけた。塩蔵ワカメを水で戻す。茗荷を刻んで味噌汁の具とした。キュウリを薄く輪切りにして塩揉みにする。しんなりしたところで良く絞った。メインは餃子だ。この地方都市で良く知られた店の冷凍餃子を冷凍庫から取り出す。鍋に米と適量の水を入れ、火にかけた。御飯が炊けるまでの間に、茗荷を小鍋に入れ、味噌を溶く。戻したワカメは刻んでお椀に入れておいた。油を熱した鍋に冷凍餃子を並べ、熱湯を注ぐ。御飯と味噌汁、餃子とキュウリの酢の物が食卓に並んだ。冷たいビールで熱い餃子を流し込むと、痛烈に美味い。
いつもの様にうに色のクルマに乗り込む。カーラジオからは耳に馴染んだパーソナリティーの張りの有る声が流れてきた。いつもと変わり無い朝だ。だが、明日から10日間の夏休みだ。思わず口笛を吹きたくなる。今週休みの会社もあるのか、心なしか道も空いている。通常より早いペースで駐車場に辿り着いた。幌を上げると並木道を歩いてロッカールームに向かう。すでに気温が上がり始めていた。定時を待ち構えるように机を片付け、ホワイトボードに10日先の出勤予定時刻を記入した。この季節も時間感覚も麻痺する事務所から10日間離れられる。開放感につい鼻歌がでた。着替えて外に出ると、まだ明るいが、ラケットバッグを忘れて来たので、壁打ちコートには寄れない。少々浮かれ過ぎだ。うに色のクルマの幌を下ろし、走り出す。
雨が降り始めた。まだ小降りだ。途中で大手カー用品店に寄り、幌を上げ、不調になったDVDカーナビを修理に出した。メーカーが休みに入るので、実際にメーカーに送られるのは休み明けの20日になる。しばらくはナビの無い生活になるが大きな問題では無い。外に出ると雨が強くなっていた。雷鳴も轟く。久しぶりの激しい雷雨だ。
目覚ましの音で起きる前から、雨の気配を夢うつつに感じていた。雨音と車が水を跳ね上げる音が遠い意識の彼方から微かに聞こえてくる。起き上がると、雨の気配は一層ハッキリした。カーテンを開けると景色は水の都になっている。大きな水たまりに無数の波紋が穿たれる。午前中のテニスは絶望的だ。キーボードのパワーキーを押してMacを立ち上げた。メールのチェックをする。昨夜届いた交換用スピーカーと工具を持って地下駐車場に向かった。テニスが出来なくなって空いた時間でうに色のクルマのスピーカーアップグレードを済ませることにする。プラスのスクリュードライバーと六角レンチを使用して既存のスピーカーを取り外した。交換用スピーカーと比べることが無意味な程、マグネットの大きさ、重さ、フレームの質、コーン紙の剛性感が全く異なる。既存のツィーターに付けられたネットワークはコンデンサー一個というお粗末さだ。音を出す前から充分期待させられる。新しいスピーカーを多少の工夫を加えて取り付けた。早速音を出してみる。予想通り、中域が充実した、より分厚い音が飛び出した。音の立ち上がりのキレも良い。ボーカルを気持ちよく鳴らしてくれる。
昨夜から降り続いていた雨がまだ街を濡らし続けている。憂鬱な目覚めだ。すでに一週間も夏らしい陽射しを見ていない。まるで梅雨に逆戻りしたかのようなそぼ降るこぬか雨が霧のように大気中を漂っていた。呼吸をすると肺の中まで湿気に満たされるような錯覚に陥る程だ。昨日宅配便で届けられたホイールスペーサーを持って地下駐車場に降りた。ホイールをうに色のクルマのサイド一杯に張り出させ、ワイド感を強調するドレスアップだ。トレッド幅がオリジナルの設定より増えてしまい本来の走りでなくなる可能性も有るが、すでに簡易的なスペーサーで片側15mmのトレッド幅ワイド化の影響は確認してある。フロントの軽快なターンインの動きがより強調され、その後の踏ん張りも強くなっている。アクセルオフやトレールブレーキングでのタックインは弱くなっていた。小さなサーキットではもっと流れた方が扱い易いのだが、一般道では安全マージンになるので悪くは無い。
作業を始めると、不具合に気付いた。車体とスペーサーの間には若干のガタが有るのに対して、スペーサーとホイールの間はきつくて入り難いのだ。念のため作業を中止して店に問い合わせることにする。
昨夜セットしておいたアラームのベルで目覚めた。準備しておいた旅行用のスーツケースを灰色の車のリアシートに詰め込むと、南に向かって走り出す。田んぼの中の単調な道をひたすら走って行くと、弘法大師を祖とする大きな寺院を中心に栄えた街に近づく。郊外には巨大なショッピングモールが出来ていて昔とは様変わりしているが、遮るものが少ない平野の中で小高い森に囲まれた大塔は、かなり遠くからでも目に入ってきた。寺から程近いホテルにチェックインする。荷物を降ろすとすぐに寺に向かった。参道にはお土産屋、漬物屋、ウナギ屋などが軒を連ねている。店頭でオヤジが次々とウナギをさばいている店を選んで入った。冷えたビールを飲み、突き出しの漬物をつまんでいると待望のうな重が出て来た。肉厚の身がほくほくして、美味い!
公園になっている広い寺の境内を散策すると腹ごなしにちょうど良い。暑くもなく空いていて具合が良い。本堂の前で旅の無事を祈っておいた。ホテルに戻り、ホテル付属のテニスコートで相棒を相手に2時間程汗を流す。シャワーを浴びてから灰色の車で街に出た。今夜は近くに住む高校時代の友人と食事をしながら旧交を温める予定だ。
ホテルのロビー脇のレストランで何の変哲も無い和食と洋食のバイキングの朝食を摂る。ゆっくりとコーヒーを飲むと心が和む。スーツケースを送迎バスに押し込むと、バスは走り始めた。ホテルを出ていく時に、駐車場に残された灰色の車をちらと振り返る。お盆休みの国際空港は旅行者で賑わっていた。カウンターには長い列が出来ている。うんざりするような眺めだ。しかし、空港到着から1時間も掛からないうちにスーツケースを預け、座席券を手にする事が出来た。早速ゲートをくぐり、出国審査を終える。わずらわしい出国カードの記入が無くなったので、審査はスムーズだ。ロビーで缶ビールを飲みながら出発時刻を待つ。
定刻に搭乗ゲートに向かうと、ミッキーマウスのイラストが大きく書き込まれた気恥ずかしい機体が搭乗ブリッジの向こうで待っていた。乗ってしまえば通常の機と何ら変わる所が無いので構う事はない。エコノミーの狭い座席に体を落とし込むとすぐに眠気が襲ってきた。ビールや赤ワインを飲み、寝たり映画を見たりしているうちに、機はジャカルタを経由してデンパサールに到着する。スーツケースを拾い、外に出ると初めてのバリ島の風は意外に涼しかった。
南国のホテルのベッドで自然に目覚めた。アラームは持って来ていない。顔を洗うとコーヒーショップに向かった。ウエイトレスの笑顔に迎えられ、席に着くと、まずバリコーヒーを味わう。苦みが強い。朝食はバイキングだが、インドネシア料理も有った。日本ではヤキソバ、チャーハンと呼ばれる料理だが、味付けが異なる。大皿に色々な料理をのせ、最後に目の前で焼かれたハムと野菜入りのチーズオムレツをのせてもらうと、強烈に食欲が刺激された。ゆっくり時間を掛けて味わう。オープンな店内を風が優しく通って行った。暑さは感じない。デザートに取り掛かった。パパイヤやパッションフルーツ、スイカ、マンゴ、など熱帯の果物が豊富に並ぶ。パパイヤにライムを絞って食べると実に美味い。朝食をじっくりと楽しんだ後、水着に着替えてプールに繰り出す。ホテルの中庭を歩いていくと、遠くにインド洋が見えてきた。その手前に白いデッキチェアやパラソルが並ぶ。ホテル自慢のプールはインド洋に浮かんでいるように見えた。ゴミ一つない奇麗な水が、そのままインド洋に続いているような錯覚に陥る。プールサイドで本を読んだり泳いだりして過ごした。陽射しに体を晒すと暑い。
午後になると、タクシーでクタの街に向かう。お土産屋まではタクシー代をお土産屋が払ってくれるシステムなので買い物客は無料だ。もちろん、その分以上にたっぷりと巻き上げるつもりなのだろう。一通り見て廻るが、たいした物がないので、歩いて街の中心を目指した。熱帯の太陽は容赦無いが、日陰に入ると意外に涼しい。車の音、バイクの音、クラクションの音が錯綜する喧燥に溢れかえる街道沿いに歩いていくと、地元民向けの小さな商店が並んでいて、興味深い。少しは地元の人達の生活に触れられたような気がした。
いい加減な地図で道に迷う。ヤシの木より高い建物が規制されているこの街では、目印になるような建物が見当たらなかった。周りを見回してもヤシやバナナの木で先が見通せない。道端の商店のおばさんに道を聞くと、道は間違っていない様だ。そのまま行け、と進んでいた方向を指差してくれた。何度か道を尋ねて確認し、塀の角を曲がると、突如、街に出た。栄えているのは通りの両側だけだ。ファーストフードでコーラを飲み、休んでから地元のスーパーで色々買い物をする。地元のビールを買い込んで、ホテルのシャトルに乗り込む。これだけで満足だ。
風がやや強い。涼しいというよりも肌寒いと言った方が良い。朝食はオープンテラスではなく、室内側に席を取った。並んでいる食物は昨日とほとんど変わらない。少し早目に朝食を終え、支度を整えると迎えのバスに乗り込んだ。今日はバリ島の中心の山岳地帯、キンタマーニ高原を巡る一日のツアーだ。先ずはバロンダンスを見学する。これは原住民の間に伝わる伝統舞踊で、終わりなき善と悪との戦いを表現している。ガムランなどの特色有る楽器による演奏が異国情緒を色濃く醸し出していた。バリ島の人々が信じる世界観は、この世には善と悪が有るが、どちらが完全に勝つという事はなく果てしなく戦い続けている、というものだ。善の象徴であるバロンは家の守り神としてあちこちで見る事が出来る。
田んぼが広がる農村地帯を抜け、熱帯の木々に囲まれた森を抜けてマイクロバスは次第に高度を上げていく。一層気温が下がり、雲が近づいてきた。曲がりくねった道をディーゼルエンジンを唸らせて登ると、今も活動を続ける火山と、遠い昔の噴火で出来たカルデラ湖を見下ろす高原に出る。時折霧雨が降るような天気だが、雲間に見え隠れする山と湖の風景はかえって幻想的で美しい。
インドネシア料理のバイキングを食べさせてくれるレストランに入った。湖を見下ろす絶好のロケーションだ。ナシ・ゴレン、ミー・ゴレン、サテーという代表的な料理を始め、野菜炒めや、鳥のカレー、魚料理など様々な料理が並ぶ。どれも良い味で、つい何度もお代わりしてしまった。
高原を降りていく途中でライステラスを見る。日本で言う棚田だが、一枚一枚の田んぼが驚くほど小さい。山の斜面に沿って小さな田んぼが無数に張付いている。恐ろしく非効率的だが、美しい。足元を透明な水が音を立てて流れていった。
山の中を走っているとこんなところに、と思うような大きなホテルが現れた。斜面に張り出すように建っていて、レストランからは遥か下にアユン川の流れが見える。コーヒーを頼んでくつろいでいるとラフティングに興じる旅行者の歓声が聞こえてきた。それ以外には鳥の鳴き声しか聞こえない。静かだが生き物の気配が濃い。
聖なる水が湧き出す寺院を訪れた。入口で足を隠す腰布を借り、石造りの寺院を歩いていく。奥の山肌から豊富な水が流れ出している。聖なる泉の池には鯉が優雅に泳いでいた。水の透明度は高い。水汲み場では地元の子供が水浴びを楽しんでいた。
マイクロバスは見学の合間に、木工細工屋、果物屋、銀細工屋、バティック屋、絵画屋、などを訪れる。見て廻るのは興味深い。相棒は銀細工屋で罠に落ちた。
辺りが薄暗くなって来た所で小屋に入り、原住民の伝統芸能であるケチャックダンスをみる。昼間のバロンダンスと違い、伝統楽器による演奏はない。男達の勇壮な声だけだ。ステージの中央のかがり火の周りに男達が3重の輪になって座った。リーダーの掛け声で舞踏が始まる。「ケチャッ!ケチャッ!」という叫びと裏でリズムを刻む声とが絡み合って独特のうねるようなリズムを作り出す。それをバックに語るような唄うような声が物語を被せていく。輪の中央では民族衣装で着飾った男女の踊りが繰り広げられる。最後には恍惚状態の男が火の上を裸足で踊りクライマックスを迎えた。
砂浜に出ると潮騒の音と満天の星と遠い入り江の灯りだけの闇に包まれる。テーブルの上にはキャンドルだけだ。入口でイカ、エビ、ハマグリを選ぶと、グリルして出てくる。料金は重さで決る。取れ取れを塩焼きしただけだが、それゆえ美味い。冷たいビールが喉を、潮風が火照った肌を優しく冷やした。見上げると天の川にさそり座がくっきりと見える。
爽快な目覚めだ。朝食はいつものメニューだが飽きる事はない。パパイヤにライムを絞ると幾らでも食べられる。ゆっくりと食後のジャワティーを楽しんだ。水着に着替え、本を一冊持ってプールに向かう。タオルカウンターで大き目の分厚いタオルを2枚受け取り、デッキチェアのクッションの上に広げた。Tシャツを脱いで、その上に横たわると、タオルの肌触りが気持ち良い。午前中はパラソルの影が上手くチェアを覆ってくれる。昔読んだSFの大作を読み返す作業に没頭した。気が付くと日が昇ってきてパラソルで守られていない肌を焼いている。体を冷やす為にプールに飛び込んだ。水は少し冷たい。だが、熱帯の太陽に炙られた体には心地良かった。
寝転がって本を読むのも悪くないが、少し体を動かしたくなる。着替えて靴を履き、ラケットを持ってホテルのテニスコートに向かった。ローランギャロスの様な赤土のクレーコートだ。相棒と打ち始めるとボーイがタオルとミネラルウォーターを持って来た。さらに球拾いもしてくれる。リゾートならではの優雅なテニスを一時間ほど楽しんだ。
夜は無料の送迎バスでDFSでの買い物を楽しむ。早いものでバリ島最後の夜だ。
今朝もインドネシア風ヤキソバとチャーハン、ソーセージに野菜入りオムレツなどの朝食をたっぷりと摂る。フルーツが美味い。食後のジャワティーを楽しんだ。今回の滞在で最後の朝食と思うと感慨深い。水着になってプールに出る。このホテルにはプライベートビーチもあるが、プールの横にあるエレベーターで崖を降りないとビーチに出られない。エレベーターは透明のプラスチックで覆われていて、降りていく途中もインド洋と眼下の珊瑚礁が見える。ビーチは遠浅だが、ごろごろした石とサンゴの残骸が多く、砂浜は少ない。水は澄んでいて小さなカニや小魚が泳いでいるのが見える。どこから入り込んだのか物売りが近寄ってくるが、一度追い払うとしつこくないので不愉快ではない。毎日プールと海を楽しんできたが一向に飽きる事はなかった。
日が傾いて迎えのバスの時間が近づいてくる。南の楽園で過ごす4日の滞在期間はあまりに短く、儚いものだ。しかし、日常の喧燥を離れ、プールサイドで過ごした夏は確かに命の輝きに満ちていた。いつまでも忘れることはないだろう。マイクロバスはバイクや他の車の群れに混じってひしめき合いながら空港への道を辿った。
8月19日(日)晴れ
浅く細切れの眠りを積み重ねているうちに、機は何時の間にか着陸態勢に入っていた。海の上から田畑の上、ゴルフ場の上を通り、国際空港に着陸する。入国審査を通り、ベルトコンベア上に流れてきたスーツケースを拾い上げると外に出た。お盆を海外で過ごした脱出組の帰郷ラッシュをニュース映像にするためか、TV局のクルーが出口で待ち構えていた。ホテルのシャトルバスを待って乗り込む。赤道直下の熱帯とは空の色が違う。木の植生が違う。新鮮に見える景色の中を灰色の車が待つホテルに向かった。ホテルのロビーでサービスのコーヒーを飲む。4日間馴染んできたバリのコーヒーとは全く違う上品な味だ。しばし和んだ後にスーツケースを灰色の車に積み込み、北に向かって走り出した。6日前の高揚した気分とは異なり、気だるい倦怠感が車内に漂う。
田んぼの中の空いた国道を淡々と走り北関東の地方都市に帰ってきた。まだ午後に入ったばかりだ。自宅に着くとスーツケースを下ろし、荷物を解く。久しぶりに自分で作る食事は、夏らしくそうめんにした。氷をたっぷり使って冷たく冷やしたそうめんを氷を落としたつゆに浸けてすすり込むとだしの香りが広がった。
早く寝たがどことなく倦怠感が残る目覚めだ。起きてもウエイトレスの笑顔も無ければ、オムレツを焼くコックの手際を楽しむ事も出来ない。その現実を認識するのは疲れた心には辛いことだ。今日一日を掛けてゆっくりと現実に適応する事にする。一週間振りにキーボードの電源ボタンを押し、Macを起動させる。溜まったメールを受信し読み始める。必要な返事を書いていると何時の間にか時間が過ぎていった。グラスに氷を落とし、麦茶を注ぐ。冷たい麦茶で喉を潤しながらしばらく作業を続けた。
メールの相手が終わると、工具を持って地下駐車場に降りる。うに色の小舟と対面するのも一週間振りだ。ホイールナットを緩めてからジャッキアップし、ホイールを外す。16mmのスペーサーをハブに取り付けてから、再びホイールを組み付けた。スペーサーのフランジがホイールのハブ穴に対してやや大きいので、手の力では奥まで入らないが、4っつのナットを少しずつ均一に締めていくと、きっちりと収まった。フロントはほぼフェンダーとツライチになる。リアはもっと外側に出さないとツライチにならないが、これ以上は求めない。満足して手を洗うと、うに色のクルマを外に連れ出した。
大型で勢力の強い台風がゆっくりと日本列島に近付いてきていると、天気予報のアナウンサーは告げていた。北関東の地方都市でも夜には雨になるらしい。野外駐車場で大雨に打たれるうに色のクルマの姿を想像すると、うに色のクルマで出かける気が無くなってしまった。灰色の車に愛用の緑色のデイバッグを放り込む。長い休みの後の久々の出勤だが、ドライブは苦にならない。小一時間ほどのドライブのお供はFMラジオだ。10日振りに聞く馴染みのパーソナリティーの声は、いつも通り張りがあり力がみなぎっていた。贔屓のチームから最近海外に移籍して活躍を期待されている選手の話題だ。好みの選手の話題にいつもより気合が入っていた。聞いていて話し手の気持ちの躍動が伝わってくる。公式戦に途中出場した選手は2得点に絡む働きをしていた。デビュー戦でこの調子なら、もう心配ない。思わず口笛を吹きたくなる。
自作アーシングを施してやった灰色の車は快調だ。僅か1.5Lのちっぽけなエンジンは頼もしい力を発揮してワインディングロードのきつい登りを苦にせず上っていく。坂道を登り切ったところの交差点を右に曲がると長い直線だ。アクセルを踏み込んだ。
大型で強い台風は広い範囲を暴風域に巻き込みながら日本列島を縦断している。紀伊半島に上陸してから駿河湾の海上を進み、近畿、東海地方に大雨を降らせた。上陸してからもなかなか勢力は衰えず、しかもその速度が遅い為、長い時間風と雨が続いている。午後には関東を直撃するという予報を聞きながら灰色の車に乗り込み、家を出た。雨は短い周期で強くなったり弱まったりを繰り返している。台風のもたらす雨の特徴だ。ラジオから流れるパーソナリティーの声は、台風の接近そのものよりも、その影響で中止に追い込まれそうな今夜の試合を心配していた。今夜台風の通り道に当る地域のスタジアムで贔屓チームのゲームが行われる予定だ。昼のニュースの話題も台風がメインだ。台風はやや勢力を弱めながら次第に速度を上げ、昼には熱海を通り、その後、東京湾を抜け、夕方には千葉に上陸して、なおも北東に進む予定だ。しかし、その勢力は目に見えて衰えてきている。爪と牙を抜かれて、温帯低気圧になるのも時間の問題だ。定時で家に帰る時も雨は弱まってところどころ雲の切れ間から明るい空が見えていた。それでもナイターテニスは中止となる。辛い雨だ。
会議会議の連続で帰りが遅くなった。外の様子も分からない建物の中で14時間も過ごすと息が詰まる。ロッカールームでTシャツと短パンに着替え、外に出ると、やっと新鮮な空気が肺に入って来た。駐車場に向かう足取りは重い。帰宅する車が信号で長い列を作っていた。赤いテールランプの光で埋められた通りを眺めながら薄暗い歩道を歩く。朝には一杯だった駐車場は、すでに車の数もまばらで、むしろ閑散としていた。残り少ない車達の中にうに色のクルマも含まれていた。ドアを開けると室内灯がいつもの景色を浮かび上がらせる。フロントガラスの上の二個所のロックを外すと幌を畳みながら下ろした。イグニッションキーでエンジンを始動させて走り出す。夜の中へ。カーステレオをCDに切り替えボリュームを上げると、換えたばかりのスピーカーからは弾けるように切れの良いビートが飛び出し、開け放たれた屋根から外の闇の中へ消えて行った。遅い時間になってしまったが、鍋にお湯を沸かし、パスタを茹で、冷蔵庫にあった茄子をたっぷりのニンニクとオリーブオイルで炒め、トマト缶を開けて中身を全部フライパンに放り込んむ。冷やした軽い赤ワインと共にぱくついた。
定時にPCの電源を落とし、机の上を片付けると建物の外に出た。ハッキリしない天気の日が続いていて、今日も晴れとは言えず、8月後半の残暑も厳しくない。いつもの壁打ちコートに向かった。先客は一人だ。軽く挨拶して半面に入り、最初のボールを軽いタッチで壁に向けて打った。最初の一球はいつも新鮮な気持ちになる。壁は変わらずに、そこに、あった。涼しいほどの気温だが、連続して打ち続けているとすぐに体温が上昇してくるのを感じる。Tシャツを脱いで、フェンスに掛けた。肌に直接当る夕暮れの風が心地よい。スピンのストローク、スライスのストローク、スマッシュ、サービスと、一時間ほどの練習で気持ちが開放された。吹き出した汗をタオルで拭い、水を飲む。しばらく体を冷ましてからTシャツを着て、停めてあった灰色の車に乗り込んだ。今日は建て替えで新築された実家に帰る約束になっている。
灰色の車の鼻を南に向け、200番台の空いた国道を走っていった。壁打ちコートのある運動公園からほぼ南に真っ直ぐ行って海に突き当たる手前辺りに父母が住む街がある。3時間ほどのドライブで江戸時代には海だった土地に着いた。エンジンを止めると静寂が訪れる。
残り物で食事をして風呂に入りビールを飲んでベッドに潜り込んだのは昨夜日付が変わって今日になってからだったが、朝5時に起こされた。朝食前の一仕事で、もうすぐ取り壊される前の実家に残った荷物を取りに行く。実家のぶどう酒色の軽バンと灰色の車の二台で早朝の空いた道を10分ほど走って古い家に着いた。すっかり馴染んだ外観だが、中に入るとすでに荒れ果てた廃屋の雰囲気を漂わせている。家と一緒に取り壊され廃材として捨てられる運命の家具や道具が、すでに抜け殻のように薄暗い中にうずくまっていた。捨てられる運命から一転して新しい家で使われる事になった箪笥を二階から降ろし、二台の車に積み込む。隙間に小物もいくつか積み込んだ。主を失った家の荒廃は想像以上に早く、もうここは少年期を過ごした懐かしい家では無くなっている。荷物を積み終わると、もう名残は無かった。足早に引き返す。箪笥を新しい家の二階に運び上げると仕事はほとんど終わった。朝飯を軽く食べ、道が混み出す前に再び北に向かう。眠気に勝てず途中の道の駅で仮眠を取り、近所の農家が出店している直売所でジャガイモや枝豆などを仕入れた。予想より速く、昼前には自宅に戻る。
朝相棒を起こし、コーヒーとトーストとヨーグルトの簡単な朝食を摂ると、ラケットバッグと飲み物を入れたクーラーボックスを灰色の車に積み込んで家を出る。近所のテニスコートで久しぶりにテニスオフだ。木陰にシートを敷いて陣地を作り、相棒と簡単にウォームアップを済ませた。曇っていて気温は高くないが、湿度は高く、湿気がまとわりつくような気候だ。すぐに4ゲーム先取の親睦を目的とした交流戦が始まった。集まっているのは上手な人ばかりだ。特に女性はレベルが高い。最初のうちは負け続けたが次第に調子が出てくる。悪い試合もあったが良い試合が多かった。湿度が高いせいで汗が大量に流れ、体が水分を要求する。用意した3.5L程の飲み物を相棒と二人でほとんど消費し尽くした。終了時間の30分ほど前に、不意に一陣の冷たい風が吹き抜けた。黒い雲が近づいている。夕立の前触れだ。皆に夕立が近い事を告げ、荷物を片付け始める。車にたどり着く直前に、夕立はやってきた。大粒の雨が激しくシャワーのように降り注ぎ、瞬く間に周りを池に変えていく。車に飛び込んだが、頭や肩はすでにびしょ濡れだ。着替えてから近くのレストランでお茶会を楽しんだ。
朝からハッキリしない天気だ。一瞬躊躇したが灰色の車を選択する。カーラジオから流れる耳に馴染んだ声を聞きながら、これまた目に馴染んだ通勤路を走っていく。何のドラマも無いが、オートマティックトランスミッションを備えた灰色の車は過不足ない性能を発揮してくれた。セレクトバーはDレンジに入れっ放しだ。会議は遅くまで続けられる。今日も後2時間で終わる頃になってやっと解放された。ロッカールームで着替えると駐車場に急ぐ。沢山の車が駐車場から出ていき、赤いテールランプを瞬かせ、夜の闇の中に消えていく。灰色の車もライトを光らせ、出ていく列に並ぶ。すぐに門を抜け外に放たれた。
家に戻ると相棒と食事が待っていた。茸御飯と豆腐の味噌汁、ニラと挽き肉と卵をキムチの素で味つけて焼いた物がおかずだ。茸の醤油漬けの良い香りが暖かい御飯の香りと供に立ち上り、食欲を刺激する。
昨夜も雨が降った。朝起きると路面は湿っている。久しぶりにジーンズを身に付けると、ヘルメットとグローブ、長袖シャツを持って家を出た。サーキットでは長袖、長ズボンが義務付けられている。うに色のクルマの屋根を下ろすと駐車場を出た。一時間ほど走ると田園に囲まれたサーキットに着く。受付を済ませると先ず座学を受けた。主宰はひょうひょうとした老人だ。話は面白く、蘊蓄に富んでいて飽きさせない。一時間が瞬く間に過ぎた。次はジムカーナ場に移動する。定常円旋回だ。加速、減速、旋回とクルマの基本的な挙動の全てを学ぶことができる。何度かアドバイスを受けながら周回を重ねるとリズムが掴めてくる。太陽が顔を出し、気温が上昇してきた。クーラーを止めた車内は暑い。午後はミニサーキットに移動する。二輪のけたたましい排気音を聞きながら昼飯をとってしばしの休憩だ。午後のサーキット走行が始まる。加速、減速、シフトチェンジ、様々な曲率のコーナリング。全ての要素が過不足なく盛り込まれた走り甲斐のあるコースだ。悦楽の時を満喫する。
全てのプログラムの終了後、スタッフ達と近くのレストランでお茶を楽しむ。クルマ談義に花を咲かせた。
今朝も路面は濡れていた。うに色のクルマを車庫から出し、外に出ると爽やかな風が吹き抜けていく。気温は高くない。気象庁の調べに拠ると、今年は8月の平均気温よりも7月の平均気温の方が高くなる可能性があり、これは非常に希有な事例との事だ。すでに秋の気配すら感じられる。定時に事務所を抜け出しTシャツと短パンに着替えると、うに色のクルマの幌を下ろし、走り始めた。いつもの壁打ちコートに着くと、誰も居ない。早速ラケットバッグから愛用のラケットを取り出し、壁打ちを始める。短い距離でストロークでウォーミングアップを終える頃、常連の一人が現れた。一面分の壁打ちコートを二人で分けて使う。スマッシュ練習とスライスのストローク、サービスを重点的に一時間ほど汗を流した。タオルで汗を拭うと、あらかじめ脱いでフェンスにかけておいたTシャツを着て、再びクルマに乗りこむ。
すでに暗くなり始めた道を、テニスクラブに向かった。ナイター照明が迎えてくれた。2週間振りのナイタースクールの始まりだ。胸が踊るような高揚感に包まれる。ボレーボレーを始めると、汗が吹き出してきた。しかし、気持ちの良い汗だ。ひとりでに笑みがこぼれる。
夜の田舎道をうに色のクルマで走る。外灯が少ない暗い道は頼り無いヘッドライトの灯だけが頼りだ。最近増えてきたHIDの目映い白い光が欲しい。暗いライトにぼんやりと浮かび上がる景色に舌打ちしながら、うに色のクルマを走らせた。大きな道に出るとやっと外灯が視界を広げてくれる。しかし、これも所詮無駄な電力の浪費に過ぎないと皮肉な苦笑が唇の端に浮かんだ。帰りがけに大手カー用品店の駐車場にクルマを入れた。20日ほど前に修理で預けたDVDナビゲーションの修理が上がっていると電話が入っていたのだ。長い夏休みが間に入ったので遅れたが、実質は1週間ぐらいの修理期間に過ぎない。DVDのドライブを交換し、サービスで最新の地図ロムを添付されたナビゲーション本体をうに色のクルマにインストールすると、イグニションをオンにする。懐かしい画面がディスプレイ上に現れた。近所をサラッと見ただけで、新しい地図がさらに充実度を上げているのが判る。新しい道やコンビニなどの情報量が増えている。修理代は、別に新しい地図を定価で購入するよりは安かった。故障した事を補う処置だ。初期のディスクにはバグもあったのだろう。満足し、家に戻る。
協力メーカーとの打合せが長引いて昼飯を食べ損ねた。こんなことは珍しい。だが一食程度の空腹を無視するのは容易かった。定時を少し回ってから事務所を後にすると、空が暗くなり始めている。いつの間にか勢力分布は夏の独壇場から、秋に重みが移りつつあった。風や雲や空の色などのちょっとした変化が少しづつ積み重なって、全体としてはすっかり秋の気配に覆われている。驕れる者は久しからず、だ。いつもの壁打ちコートには初めて見る白人と、常連の中年が居た。ラケットとボールを持って近付いていく。白人の方が目を合わせてきた。挨拶を交わす。もう帰るからと、場所を譲られた。会釈してこの日最初のボールを壁に送る。いつもなら終了して帰る時間に始めたが、30分ほどで辺りはすっかり暗くなった。常連の中年が日が短くなった、と嘆く。大袈裟に同意してから、コートを後にする。
家に帰ると米を研ぎながら献立を考える。味噌汁は茗荷とワカメに決めた。レタスをちぎってトマトを刻んだだけのサラダに、メインは牛肉とピーマンの中華風炒め物にニンジンの千切りを加えたものにする。普通は牛肉とピーマンだけだがニンジンを加えると彩りが鮮やかになった。