★まちの人・まちの仕事★
『井之頭新報339号』2004年10月号
ノンフィクション作家
山下柚実さん


 『井之頭新報』にインドの旅行記が連載されたのは、今
から二十年ほど前のことである。
 山下柚実さんが、不特定多数の読者を対象とする媒体に
原稿を書いたのは、この時が初めてだった。当時、井之頭
町会長だった水墨画家の土端一暢さんが、それを読んで
「将来、物書きになる」と言った。
 それが現実となり、山下柚実さんは現在、ノンフィクシ
ョン作家として活躍している。
 1992年に、末期のエイズ患者さんを取材し、その出
会いから別れまでを克明に記した『ショーン、横たわるエ
イズ・アクティビスト』は、第一回小学館ノンフィクショ
ン大賞優秀賞を受賞した。まだエイズに対しての偏見が根
強い時代だった。
 取材を通して多くの時をともに過ごしたアジア系アメリ
カ人、ショーン氏は、強烈な痛みにひたすら耐えるだけの
時をのぞくと、五感をフルに生かして「今、ここにいる」
ことを全身で味わう感性豊かな人だった。その生きる姿勢
に、山下さんは衝撃を受けた。
 風に漂う花の香や、離れたキッチンで卵の殻が落ちる音
・・・行く所々で、いつもは意識していなかった匂い、音、
触感に気づかされた。一年ほどしてショーン氏は他界して
しまったが、その後、亡き人が残してくれた「五感」とい
うテーマを、山下さんは探り始めた。

           
 さまざまな取材を通して、奇妙な現象が見えてきた。自
分の匂いを完全に消そうとする人、自分の子どもに触れら
れない人、感覚の刺激を求めてボディ・ピアスをする人・
・・こうした歪んだ「五感」の実態をまとめたのが『五感
喪失』(文藝春秋/1999)だ。
 この本が出版されると「現場ではもっとひどい状況だ」
と、子どもの保育や教育に関わる人々から反響が次々と寄
せられた。
 すぐに疲れる、まっすぐに立っていられない、椅子に座
っていると身体がぐにゃぐにゃになる・・・子どもたちの
現場を取材し、今度は『五感の故郷をさぐる』(東京書籍
/2001)にまとめた。
 山下さんは、子どもたちの身体や感覚がのびのびと発達
していないと強く感じ、それは個々の特殊な現象ではなく、
社会的な大きな問題だと考えるようになった。「社会の歪
みが、子どもたちにひずみとして現れ、警告を発している」
と。

           
 「今」を五感で味わう術を忘れてしまっている大人たち
と、感覚を統合する力が充分伸ばされていない子どもたち
に向き合い、山下さんはどうしたら「五感力」を取り戻せ
るかを考え、いくつかのメソッドを提案している。そのひ
とつが、「五感の履歴書」。何歳のとき、どこで、どんな
五感体験をしているかを書き出すものだ。過去を振り返る
と、ひとりひとり固有の「五感の故郷」が見えてくると山
下さんは言う。
 「個性的に生きることがよいとされているわりには、学
校や社会から否定されることが多い世の中で、たくさんの
人が自分を肯定できなくて、“癒して欲しい”と悲鳴をあ
げている。だからこそ、「五感の故郷」を求め、自分らし
さを肯定的に捉え直すことは、生きる力を回復させること
につながると考えています。五感を探ることは、ワクワク
する楽しい体験で、自分にとっての心地よさの再認識にも
つながります」

           
 山下さん自身は、3才から井の頭に住み、井の頭公園を
くまなく遊び回って育った。どんぐりを拾い、坂道を自転
車で全速力で下り、池の周囲の手すりの上を歩き、雪が降
った冬の日にはスキーもした。どこに大きな木の根が張っ
ていて、どこを通ればそれに飛ばされず一番速く走れるか
も熟知していた。
「井の頭公園は、わたしの肉体の一部のようなもので、井
の頭の体験が、たくさんの五感の引き出しになっています」
 五感を生かすことは、今すぐやろうと思えばできること。
投資はいらない。ひとりでも、子どもとでも、友だちとで
も、楽しむチャンスはいつでも作れます。
 あなたも、ぜひ「五感の履歴書」を作ってみませんか?
 そして、山下さん提案のもうひとつのメソッドの 「五感
地図」も作ってみてはいかがでしょう。
 自らの五感の豊かさを再発見すれば、パワーがむくむく
湧いてきます。井の頭の地に育まれた山下さんの知恵を伝
受し、日々の生活に生かしていこうではありませんか。



山下柚実さん*井の頭5丁目育ち。現在は杉並区在住。
『五感生活研究所』を2002年に立ち上げ、ワークショ
ップや講演などで、「五感生活術」を広める活動も実施。
活動内容は、『五感生活研究所』のHPを参考に。

【山下柚実さんの著書】 *『〈五感〉再生へ〜感覚は警告する』
     (2004年9月刊/岩波書店)
*『「五感力」を育てる』
     (2002年10月刊/中公新書ラクレ/斎藤孝共著)
*『五感の歳時記』(NTT出版)発行予定。
*その他著書多数。
*メールマガジン「五感の歳時記」(無料)発信中。
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