《マリンさんの記録》 〜右人工置換術〜  1    2へ

   両大腿骨壊死の原因
突然の意識不明の状態で病院に担ぎ込まれたのは、花の18歳の誕生日直前の17歳と10ヶ月、尿に大量の蛋白が混じっており、小児(18歳未満だったので)ネフローゼ症候群を発病しました。(県指定の難病疾患)
2週間にも及ぶ意識不明状態からの奇跡の生還をしましたが、その時に治療薬として、現在も主流で、これ以外はほとんど治療方法がないと言われる、ステロイドホルモン剤の大量投与があり、8ヶ月の入院生活後にも約2年間1日に50mg−10mgをほとんど毎日服用しておりました。
この薬を飲むと不思議に体が「シャキ」として元気に動き回ることのできる、青春時代の私には「奇跡の薬」で「命の恩人」でした。
しかし、この頃には、将来におそらく発病するだろう「骨頭壊死」の副作用を知る余裕もありませんでしたし、もしも、知っていたとしても「私は大丈夫」などと使っていたと思います。


   右足に激痛が!
体育だけは、病気のこともあって養護クラスでしたが無事に大学を卒業し、社会人になり、すっかりネフローゼ症候群のことなど忘れて仕事やスポーツ・旅行・結婚・子供の誕生・仕事の独立と人生のおおよその至福を手に入れ順風満帆の生活を送っておりました。
しかし、「奇跡の薬」は突如と私に代償を求めてきました。
四半世紀の25年後になって「あれ、右足どうしたの」と聞かれ、私も人から言われて、スポーツをした後、太腿部に痛みがあることに気がついたのです。
「筋肉痛かいな、年を取ったものだ」とあまり気にはしませんでしたが、最近(平成15年4月)になって痛みが夜になっても「ズキン!ズキン!」と続くこともあり、一度病院で見てもらうことにしました。


   病院での検査
関西地区でも整形外科で評判の良いR病院へ診察を受けに行きました。
専門医の揃っている方が2度手間もないだろうし、すぐに元の状態に戻るだろと思いつつ、単純レントゲンを撮影し診察を受けました。

股関節で専門家のS先生の第一声は頭から今でも離れません。
レントゲン写真を見ながら、「この部分(大腿骨頭)わかりますか?これ壊死と言って骨の部分が完全に死んでしまって、かなり潰れかかっています。 このままでは歩けなくなりますよ。この状態で走っていたことが不思議なくらいです」と、
私は絶句しましたが「どうすれば治りますか」との質問には、
「手術しかありません。しかも、選択は2つですね。人工関節と言って完全に人工物に入れ替えるか、悪い部分を移動させて骨の良い部分を使う、骨を回転させる方法です。詳しくはMRIの検査結果次第ですが、年齢的には人工関節は寿命があるので将来何度も手術しなければならないので避けたいですね」

この壊死の原因はすぐに判明しました。
それが「奇跡の薬」ステロイドホルモン剤です。
つまりS先生の診断によると発病時期は25年前ですでにこの骨頭壊死になっていた。
それを私は知らないで、人並み以上に股関節に負担を掛けていたのです。
先生の話では「この状態では、近く骨頭にクラックが入るか潰れて歩けなくなるだろうし、少しましな左側を残すためにも、今日からリハビリの診断を受けてもらって、ステッキを使用しましょう」と言われ、ロフストランド・クラッチ(腕にサポート分のある杖)をその日は購入して帰宅しました。


   MRIの結果はさらに複雑になっていた
2週間後、MRI検査。
結果は「右大腿骨頭での骨切回転術は不可能、人工関節置換術。左大腿骨骨頭は早い時期に骨切回転術をする。膝や肩にも将来同じような壊死があるので、経過観察必要あり・・・」の、なんとも無残な結果。
無念、ただ無念の言葉しか頭に浮かびません。

すでに人工関節・骨移植・回転術・RAOなど情報を集めて自分なりに情報を集めており、診断結果が何を指しているのかは理解できたのですが、次々に関節異常がわかるとさすがに「もう、いい、このままで」と、入院の手続きは保留して、そのまま帰りました。
S先生も私の顔を見て「もし、このままの状態で右足に激痛があった場合は、それは骨頭が潰れたことなので、119か直接病院に電話をしてくださいね。診察券を離さないようにね。お守りですよ」と優しく笑顔で言ってくれました。
さらには「もっと、ゆっくり話したいので、また、来てきください。予約もいりませんので、直接で構わないから」
その言葉には感謝してはいましたが、当時は聞く耳はなかったと思います。


   病院の選択
このR病院を選んだ理由は、実は人工関節の手術以外の方法がないかと2件他にも病院で受診したのですが、結果は、今回の病院と同じようなものばかりでした。
最終的に私の心情を理解してくれて、年齢的にも近く、「自分でじっくりと考えてください。私は全精力で手術をするし、同年代の者としてあなたにはもう一度動ける足になってもらいたい。治すのは私ではないのですから」とのS先生の会話で「信頼できる先生というのみ」で選びました。

これが私の病院選びの決め手です。
手術をするなら、設備や実績も重要ですが、なにより2人3脚の主治医とのコミュニケーションが最大のポイントです。


   手術の決断
右足の痛みは日増しに多くなり、痛み止めも服用では即効性もなく、座薬を使いはじめて筋力UPで痛みが和らぐかもしれないという、かすかな希望でハードトレーニングを始めましたが、結局は痛みという点での効果は期待できませんでした。

その間リハビリの先生やS先生との数回にわたる話の中から、最終的には1ヶ月後の手術をお願いしました。
いい大人が「私は先の人生、車椅子の生活で構わないし、何度できるかわからない人工関節でも、もう一度子供たちにスポーツの楽しさを教えてあげる指導者として、グランドに立たせてください」とお願いした時には、不覚にも涙が止まりませんでした。
先生たちも筋力UPのトレーニングは厳しいが、稼動範囲が大きくできるように工夫した関節を作りましょう」と缶コーヒーで乾杯をしました。

今は「25年間、よくぞ悲鳴をあげることなく、無茶な私に付き合ってくれた。ありがとう」と右の大腿骨頭に感謝を言いたいです。
この間の葛藤の中では、「散歩道の皆さんの激励やアドバイス」は私が忘れていた「勇気」をもらいました。
もし、このページの掲示板がなかったらこんなに早く手術を決断できなかったでしょう。
購入した松葉杖やロフスト杖のデザインは応援してくれている友人たちや家族の愛情・友情の証です。
それらすべてのおかげで毎日が前向きになれたのです。


   その後の「爆笑入院日記」 2003年【5月27日】
再度のMRI検査【膝・肩】の状態に骨頭壊死の程度を見るために検査がありました。
9:30分開始、狭いドームのような中に入れられた(阪神大震災の影響)狭いところが苦手でしかも「何かあったら、このボタンを押してね。検査をすぐに中止しますから、安心してくださいね」と検査担当員が説明してくれた。
逆に私の閉所恐怖症に拍車がかかってしまった。
耳栓をして、私も開始して5分も我慢して「今更このボタンで中止するわけにはいかないかな」と思いつつ5分の我慢が10分、「あー限界やんか」
説明員が「あと20分ですから、がんばってね」
「ななななーーんやて早く言ってくれー」と中止ボタンに手がかかってとうとう押してしまったが、担当検査員は「ボタンのスイッチが入っていませんでした」と笑ってごまかして最後まで検査を無理やり続けた。
やっと終わって、時間を見たら、40分間もかかっていました。

本日、入院に対する書類と手続きを終えた。
15時から早速の入院前検査があった。
胸部レントゲン、血液検査8項目、検尿、心電図など手術前の検査を終えたのが午後5時でした。
ひどい最悪の1日だった。
処方尖は痛み止め、ボルタレン10錠50mg。ロキソニン30錠。
後日、座薬は冷蔵庫に大量に保存されることになりました。
あの薬は入れる行為自体が恐ろしい!!


   【5月30日】
リハビリ外来で若い女性のPTの先生と話しをした。
人工関節によるスポーツ制限について聞いた。
やっぱり、長持ちさせるには、ゴルフ他制限をした方が良いと言われる。
後に同じ病気の方々に少しは希望が持てるようにと、密かにスポーツで現役復帰を果たすと意欲満々。


   【6月4日】 【6月6日】
【6月4日】
手術前の検査・第2回目。午前9:00から骨密度、CT撮影。

【6月6日】
再検診の結果は、関節の骨密度は70歳代だったのにはS先生も私も悲壮感が漂った状態になった。
MRIとCTの膝と肩の映像でS先生が、「あれれ、これ壊死の可能性もあるよ。だいたいは、股関節・膝関節・肩関節の順番だからね。やばいかもしれないね」とまたまた、頭から冷水をぶっかけられたような気分だった。
はじめは、右の股関節だけが、左股関節・今度は膝・肩???
「どうなるんや!スポーツどころではないやんか!」
「これもできない。あれもできない」など色々と出来ないことが増えてきそうだと思うと寂しくなる。

入院は6月30日か7月7日(七夕)に決定。
それまで、左足の股関節をカバーするために、ロフストランドを両手にするか、松葉杖を使用することを薦められた。
松葉杖はすでに購入しているので、これも少し派手に改造することにした。
せめてこのぐらい目だってやろうと遊び心で気分を晴らす。


   【6月13日】
午後5時:病院から携帯に電話があった。
6月23日午前9時30分に入院することになりました。
手術は7月2日の予定だとのこと。
「決まったか」と思ったら急に不安になってきたので、明日から入院グッズを揃えて紛らわすことにしました。


   【6月20日】
入院前の最終診察。
最終的に病院スタッフのカンファレンスで、「膝は20年前に発病後、検査結果は、完治している。膝の関節は大丈夫だ」との判断でした。
その日に手術の詳細な日程が分かり、右股関節の人工関節は2ヶ月、つまり、8月末までの入院、その後3ヶ月以内に左の骨頭骨切り術を行い、その間、両足の負担を掛けることをなるべく避け、ロフストランドクラッチを使用することと週3回の筋力UPリハビリをすることになりました。


   【6月23日】入院当日
9時10分の病院に到着。
1階の入院者用待合室はさすがに大きな病院で混雑していた。
受付を通らずに待合室へ向かったので、「来ていない」と担当病棟看護士は自宅まで電話をしたと言うアクシデント。
自宅では、土曜参観のために休日で待機していた息子がパニックになっていたらしい。
10時10分に8階の5人部屋に入院。
担当の看護婦はMさん。
TMRのスケジュール(入院治療計画書)の説明および「股関節の人工関節の手術を受ける方へ」のしおりをもらう。
完璧に手術の準備や必要なものを持ち込んだつもりでしたが、靴が術後のリハビリには不向きだということが分かったので、不細工きわまりないリハビリ専用のシューズを購入。
あと自助具(ドレッシングハンド・米国製)とT字帯2つを購入。
自助具の木の取っ手が気に入らないので、ペイントを依頼した。
自己採血は400ccとのことで以外と少ないことに驚く。

午後からは、股関節の横からのレントゲンを撮影した後に車椅子の移動の仕方や自助具の使用方法などを教えてもらいましたが、以外と難しいので技術試験みたいな感じで結構楽しめました。
16;00、S先生に談話室で出会った。
今週の土日は一度外泊をしても良いとのことでしたが、逆に2日間も外泊では、「やっぱり先が長いので温情なんだろうか」と返って気になってしまった。
食事は常食IV米飯大盛と書いたカード通りに、かなりヘビーな食事。
フェロミア錠50mg2錠・朝夕食後処方(鉄分を補給し貧血を防ぐ)7日分。

  <自助棒>  <車椅子に取り付けたマジックハンドと自助具>


   【6月24日】入院2日目
朝午前3時に目がさめた。
「やっぱり眠れないぞ!」朝6時10分に採血にきたのだ。
おまけに救急が早朝2回きていたので、音に敏感な私には先が思いやられる。
8時10分整形病棟の部長回診。
一言、私に「アルコールかステロイドが原因か」をストレートに聞く!「酒じゃないぞ」と一蹴しました。

8時30分から手術もしていないのに術後用リハビリが始まる。
足のウェィト4kgで足上げなどの基本動作、松葉、右足免荷で2kmの走行(体重をかけないこと)腹筋を含め20回5セット。
「ウッシャー!」気合の声があっちこっちでする。
まるでトレーニングジム状態のようなリハビリルームで、スポーツ選手も多いのでマシンもすごいのが揃っている。
これでは、転院するころには「シュワちゃん」状態になるかもしれない。
追加のロフストランド・クラッチに病室でウレタンラバーの改造、2個目なので前作品より、出来栄えはよいので「ニンマリ!」

午前10:00に輸血用の採血を処置室で採血開始、400CCを約5分で完了。
血圧116−80と低めだった。
「先生気分が悪いよ」と訴えると「検査では、血が多い位なんだから、気のせいだよ」と訴えを却下、完全に無視される。
「くそー牛乳をもらいそこねた?」15:40分、体位変換の練習。
術後は2時間おきにこの体位変換をするらしい。看護婦2名が体を支えてくれたが、「赤ちゃんのようで」かなり恥ずかしい。
自助棒を使っての着替えや車椅子でトイレをする方法など看護婦なしでは2週間なにもできない状態になることを知る。
午後5時ごろに終了。17:40分、シャワー入浴。
18:00夕食。結構旨い!
金曜日の夜から外泊決定、土日と自宅へ戻り、夜に病院へ戻る。
26日木曜日の17時から手術の説明が日程に追加。


   【6月25日】入院3日目
朝6:00起床。しかし、今朝から右足が痛む。
かなりひどい状態だったが、S先生に言うと一時帰宅がキャンセルされようなので、手持ちのロキソニンを服用し痛みを抑えた。
午前8時30分にリハビリルームでトレーニング。
(以後、リハビリは8時30分開始)午前10:00病室に戻る。
13時にレントゲン撮影。
昼から、床上排泄の練習。
これって、看護婦さんに後始末させるのは悲しいと「恥ずかしい」の極み。
「4日間のベッドの上では我慢してやる」と心に誓う。
15時から車椅子の練習。(ついでに、前方を上げて走行するウィリーも練習したが、後側にひっくり返ってしまった。
看護婦に見つかり、頭部レントゲン撮影!要注意人物に指定されてしまった)


   【6月26日】入院4日目
朝6:20分起床。

昨日車椅子で転倒したことが看護婦に引継ぎされたようで、笑われてばかりだった。
11:30抗体検査・皮下注射をして10分後にチェック。
17:00から手術の説明があった。以下は説明書と同意書の内容です。

【手術説明・同意書】
1、病名:大腿骨頭壊死 
2、手術名:全人工関節置換術:術中術後自己回収術 
3、麻酔方法:腰椎麻酔:硬膜外麻酔 
4、手術の必要性、手術をしないときの経過予想痛および歩行能力の改善目的には、人工関節の手術が必要と考えます。
6、手術自体の危険性および合併症:出血、神経血管損傷、骨折など
  7、予後(経過予想)および考えられる後遺症痛みの残存、感染(表層、深部)脱臼、脚長差、ゆるみ(15−20年)など。 
8、通常は発生しないが起こり得る重大な危険性深部静脈血栓症、肺梗塞、人工関節の破損など。
9、その他、自己血輸血を行います。非常時に限りいわゆる輸血(同種血)を行う場合があります。

 と、書面に書いてあった。
良く判らないが「えーい」と同意書に一発サインする。
左足の骨頭壊死は、「レントゲンでは壊死の状態があるが、MRIでは、一部の壊死しか見られない。いくらかの可能性で手術は回避できるかもしれない」との判断があった。
「飛び上がって喜ぶ」その時に机に思いっきり、膝をぶつける。

S先生から「人工関節の種類は年齢的にセラミック製でジャック・ニクラウスと同じ型のものを使用するから」と説明があり、「なんだかゴルフが上手になるような関節なんやね。ええやんか」と私が喜んでいると、隣にいた研修医が「S先生これって、昨年割れたんですよね」といらんことを言ってくれた。
一同「シーン」と冷凍庫状態になった。
S先生は「いやー、気にしないで行こうやセラミック製は持ちは良いが衝撃に弱いから、二クラウスさんはコースで崖からでも落ちたんやろ」と引きつって訂正しにかかった。
誰もが「崖から落ちたら死ぬやろ」と思ったが、笑ってごまかしました。 


   【6月27日】入院5日目(外泊)
朝5時起床。
リハビリPTの指導も元5セット+背筋・腹筋を加える。所要約1時間30分。
13時より麻酔科へ診察。
手術中ぐっすり眠る点滴を行うように決定。全身麻酔回避。
かなりビビッている怖がりの私にちょうどよい。

15時に外泊許可書を受け取りましたが、外泊許可条件に「飲酒は禁止」と書かれていた。
「しまった、先制攻撃を受けてしまった」と本音がぽろり。
午後外出。「うーん外の空気が旨いと感激」


   【6月28日】入院6日目(外泊)
朝からスケジュールがばっちり詰まっていた。
松葉杖用のバッグとTシャツなどを買う。
午後1時帰宅、子供と古いゴジラVTR他でくつろぐ。
夜は友人達の主催で「激励会」があり、普段の半分以下で飲んだ!
21時ごろR病院の看護婦から携帯に電話があった。
「あのー自宅ですよね」
私は「はい、自宅でおとなしくしておりますが・・・」
「それにしては賑やかですね」
「ああ、私の自宅はオープンで友人たちが集まるものですから」と苦しい言い訳。
「明日は時間通りに戻って来てくださいね。血液検査は2日後に変更しておきますから」ちょっと意味ありげな会話だった。
電話中、友人の経営するお店で「いっき!いっき!」などと騒いでいたのですっかりばれていたのだが・・・。


   【6月29日】入院7日目(日)
フリマへGO!9時50分。
買い物天国!入院グッズに関係ない買い物も含め自動車のトランクにぎっしり買ってしまった。
ほとんどやけ買い状態。
14時に帰宅。仕事のかたづけ。
17時にケーキ屋さんへ、部屋のメンバーへお土産のケーキを購入。
ついでにコロッケとちらし寿司のお土産も買う。
20時に病院へ戻る。21時から病室で小宴会。
看護婦さんから「ちょっと騒がしいよ!あんたら、修学旅行ちゃうねんよ」とケーキを羨ましいそうに見て行きましたが、やはりその晩は、30分置きに見回りに来られてしまって、ほんとに中学生の修学旅行の夜になってしまった。                              


   【6月30日】入院8日目
朝6時起床。
手術前の最後のリハビリへ行くと「脱臼にはくれぐれも気をつけて、3週間で歩けるようにしてあげる」と激励を受ける。
体位変換やトイレ・車椅子になったら、がんばってリハビリに来るように指導されました。
「サボりはできない」
10:30検温と血圧測定中「いよいよですね」の看護婦さんの一言にまたまたビビル!
「明日1日の猶予なんだな」と実感する。
車椅子の練習を行う。
ソックス・エイド(ソックスを履くための道具)黄色にピンクの可愛い仕上がりです。
「これって可愛いですね」と冷やかされる。

15時喫茶室にてコーヒーを飲む。
喫茶室は情報交換の絶好の場所で変なやつが多い。
夕方からは入院メンバーと会談。
今週退院になるメンバーが多く、この病院は約1ヶ月の入れ替えだそうだ。
私も手術後3週間で転院することになっている。

私は若い入院している連中のなぜか相談役になってしまって、私の後ろを3、4人が必ずくっついてくるので、その後は何かあると私が首謀者に思われる結果になってしまいました。
(後日、手術後車椅子になってからは、私を先頭に「かるがも隊」と看護婦から呼ばれるようになった。私を隊長と呼ぶ看護婦さんもいたが、私に「隊長は体調が悪い??」としょうも無い「しゃれ」を言ってすべっていた看護婦さんもいた)
22時、外来病棟で極秘の年齢別の車椅子レースを開催した。
6人1レースで20代・30代・40代の3レースだが、結構楽しめる。
優勝賞品が豚曼とえびせんべいで必死になる姿がすごかった。

<自作の靴下履き>


     【7月1日】入院9日目
手術前日、起床6時、外泊の宴会がばれたためのお約束の採血が午前6時になった。
「まったく異常なし」の結果だったので、いよいよ手術の準備が始まりました。
15時看護婦さんがやってきて剃毛。
人生最悪の恥ずかしい経験でした。
無理を言って自分でやったのですが、足とその他はチェックが入って最終的には処置室で再度剃られてしまった。

午後16:20、S先生がわざわざ喫茶室へやってきて「明日の予定が30分早くなって、12時になった」と伝えてくれました。
喫茶室に私がいることを知っているS先生もすごいが、それを聞いていた周りの患者仲間からは「おー!決まったね!おめでとう!痛いぞ!」などと拍手とともに沸きあがった。
喫茶室の私のコーヒーはお店のおごりだった。
「なんじゃ!この連中は?」

17:30分から麻酔科の診察。
可愛い女性の先生で麻酔の最後の説明をしてくれました。
23時に睡眠導入剤を服用、なかなか眠れないため、ついに看護婦さんから無理矢理の点滴をされてしまった。
心臓が破裂しそうな緊張感がある。


   【7月2日】(手術当日)入院10日目
朝5時起床。今日は、絶食と絶飲。
昨晩飲んだ下剤は効果なしだったために、浣腸処置。
9時からベッドで安静の指示。
10:30分。病棟処置室より、尿管を入れ、術足の滅菌処置(足を丁寧に消毒して、滅菌のズボンを履く、さらに足袋を装着してベッドに寝かされた)尿管に痛みと違和感がある。
違和感と激痛の中、12時に手術室から呼び出しがあった。
ベッドごと移動し、家族も同行した。

手術室前でお別れして、いよいよ手術室の中へ入ると、すごいベッド数が駐車場のように並んでいた。
中にまた長い通路があって、たくさんのドアが並んでいた。
まだ、時間があるようでしたので、看護婦さんに「ちょっと待った!心の準備が・・・」と叫ぶと「なんや、この後に及んで根性ないな」と背中にビンタ!
なんちゅう看護婦やねん。
私の闘志に一撃を加えてくれたが、体がガタガタ震えてきたのが自分でも判る。
なんとも、情けない限りだが大声で叫びたい「根性無しでもいいから中止にしてくれぇ」
手術用のストレッチャ―に移動すると、すぐに手術室の看護婦がやってきた。
名前と年齢、血液型を聞かれて、滅菌の手術室へ運ばれた。
そこはライトがズラリと並んで、モニターなどがやたらたくさんあるコンピュータルームみたいな場所だった。

音楽が流れている「蒼いうさぎ」「YAH YAH YAH」だ。
この2曲の歌はともかく、ドラマは好きではなかった。S先生の趣味がわかる。
「S先生、この曲が主題歌だったドラマは、いずれも医者のドラマで主人公が手術で死ぬんやで!」と曲の変更を求めた。
変更された曲が訳のわからんバラードだった。
麻酔医に「あかん!頭が痛くなってきたので早く眠らせてくれーー」と懇願したが、S先生の気分のよさそうな顔を見て、今度手術するときは「執刀医の音楽の趣味を聞こう」と心に誓った。
手術台へ移動すると右手に自動の血圧計・心電図・十字架のような格好ですでに体を動かせない状態になった。
麻酔医がはじめに点滴が痛くないようにと小児用の注射で点滴をする場所にチクチクと注射をして、次に点滴を入れた。
それまでは覚えているがすぐに意識がなくなった。

12:00分開始で病室へ戻ったときは、すにで18時30分だった。
その間、予定では16:30分頃と思っていた家族は随分心配したらしいが、S先生が「うまく行きました。完璧でしたよ」と言って術後のレントゲンを見せてくれたらしい。
時間延長のことについては、家族は「うまく行ったならええやんか。細かいことは聞かんとこ」との判断だったらしい。
病室で意識が戻りましたがベッド上で下半身は全く感覚がなく、足がなくなったような感じだった。
その晩は、体位変換を2時間おきにすることや、輸血用の自己血が余ったので、また私の体に戻すように点滴をしたりするために、処置室に特別に場所を用意してもらって一晩その場所を占有する。
電気毛布をかけてもらっても「ガタガタと寒さが尋常ではなかった」さらには、意識としては下半身が麻痺したままなので、何がどうなっているのか自分で確認することは全くできなくなっていました。
<術前>  <術後>


   【7月3日】(術後2日目)
昨夜はさすがに眠れず。
朝6時の起床時間に元の病室へ戻った時は部屋のみんなが歓迎してくれたのが嬉しい。

熱は39度と高くて、寒気が収まりません。
食事が取れないために栄養補給・抗生物質・化膿止めなどの点滴を連続して行っているし、背中には、フェニタネスト13.5ml:1%アナペイン30ml:生食210ml
少しずつの痛み止めのため、そのまま管を通って背中のチューブにつながっていました。
おかげで痛みはさほどなかったのですが、あまりにも体調が良くないためにベッドのヘッドアップも中止になり、1日中熱との戦いでした。
座薬ボルタレン50mを3回使用。

S先生からは、手術の経過を聞き、不明な所要時間の6時間以上かかったのはなぜかと聞くと「私は説明の時に3時間・3時間と2回言いましたよ。合計6時間じゃないですか!合っているね」とS先生は真面目な顔で言い放った。
「こりゃ、あかん」とまた、熱が上がってしまった。


   【7月4日】(術後3日目)
熱が38度近くあり、解熱剤点滴を使用して37度に抑えてもらいました。
夜になって「手術した場所からの血を抜く」ドレンプラグを抜いた。
背中の麻酔も外した。腕に入っていた点滴も常注はなくなりました。
点滴のたびに注射されるのは嫌でしたが、長くすると人工関節へのばい菌感染のためにできないので、熱は他の方法で下げることとになった。

15時、床上排泄をすることになったが、やっぱりできなかった。
ベッドは45度。足を少しずつベッドで動かす運動が開始。
食欲はまったくなく、少し食べるだけで吐き気が止まらない。
体を綺麗に拭いてもらっていた時に背中に入っていた麻酔を抜くのが1日早くなった理由を看護婦さんに聞いたら、「もう1日続けると、中毒になっても困るでしょう」と返事をされた。
なるほど、麻酔薬の入った楕円形のチューブを振ると頭の横に「花火のように、お花が咲いた感覚になった」
後日談では、3日でゆっくり入る麻酔薬が30時間ほどで無くなったほど大量に体内入ったらしい。
暖めて振り続けた私の行動が悪かったぁかな???「どうりでお花畑が頭に浮かぶ??」


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