サンランのページ
テーマを持って書く、コラムみたいなものです。

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 もとになるもの

自分の元になるものがないと感じてずっと探してきたように思う。自分が動くための根拠というのか。なんでこういう風になるんだろ?どうしてえもいわれぬ不安に襲われるんだろう?不安を全てなくしたかった。自分の不安の理由を考える事に全精力を注いできたように思う。それでその不安の理由が理解できれば自分は楽になれるのだと、考えていたように思う。ずっと考えずにはいられなかった。そして考え続けてきた。

友達にこの間宗教に誘われてから、自分の中で打撃が大きく、ずっとその問題について深く考えざるを得なくなった。向かい合わざるを得なくなった。
自分と宗教について考えるのはこれで2回目のシーズンだ。
1回目は大学3年のとき。大学に入学したとき、友達がまんまと宗教勧誘にひっかかって宗教サークルに入ってしまった。大丈夫かな〜?と個人的には悩んだ。でも、その子は大学二年で飽きた、といってあっさりそのサークルを辞めてしまった。一番最初に考えたきっかけになったのはその子のことだった。
大学3年?(だった気がするけど)のときにアメリカに語学研修のセミナーに行った。1、2週間くらいホームステイした家が牧師さんの家だった。そこの家は4人姉妹でまだみんな小さかった。そこで普通に塗り絵があったので、こっちの子もやっぱり塗り絵ってやるんだな…と思い、その絵をよく見るとそれはキリストの絵だった。ちょっとひいてしまった。こんな小さい頃から…洗脳してんなあ〜と思った覚えがある。そして、確か授業の一環でキリスト教の説明を礼拝堂みたいなところで聞いた覚えがある。やっぱりこうしてはいけないっていう戒律が多くて、抵抗を感じた。

そのころちょうど地下鉄サリン事件ぐらいの時期で、新興宗教はやばいとメディアがあおっていて、自分もそうだと思っていた。でも、自分がもし誘われたら、どうやって断ろうかわからなくて、断る根拠みたいなものがないと思って、何で嫌なのか知ろうとした。誘われたら断れないような気がして怖かったのだ。
必死で宗教関連についてうたっている本を読み、宗教に関する自分の考えを打ち立てようと頑張った。一応、自分なりの見解を得て、少しだけ安心した。

それから、その見解のまま10年ほど生きていて、自分がその窮地に立たされた。断りはしたけれどものすごい気持ちの揺れが起こった。怖かった。でも、実際新興宗教がどういうものなのか、どういう事を意図して行われているのか知らなかったし、知ろうとしていない自分に気がついた。自分が揺れるのが怖くて拒否していたのだ…、と思ったので、怖かったけど実際その教団のサイトに行ってどんなものなのか概要を見たり、教団の人が語っている本を読んだりした。そうしない方が危険な気がした。どうやらきちんとした人になる、とか、気持ちが安定する、とか、どの教団にも一応根本的な共通点はあるのかな、と思った。驚いた事に、教団の人何人かに聞いたインタビューを読んでいると、自分とよく似ていたり、共感する部分が意外と多かった。私が何で誘われるのかなんとなくわかる気がした。

私がここ近年悩んできた事をこの人たちはしているなあと思った。理想が先行しすぎて、実際の自分を無視している感じがよく自分と似ているなあと思った。
求めている事もよく似ていると思った。

でも、違うのは、行きたい方向性だな、と思った。
私はあまりきちんとした人になりたくない。
どちらかというと悪く見られた方が楽だ。
今まで実家でいわば宗教的な感じのことをやってきた。
祖父や母親がこうしてはだめだ、という事を盲信してきた。それで苦しくなった。
何かに自分の感情を押さえつけられるのはもう嫌なのだ。戒律もごめんだ。
そう考えると、私はむしろ宗教を抜けてなんとか自分をとりもどそうと思っている人に近いのかもしれない。

私が一番見つけたいものは、自分の感情なのだ。多分。
2006.12.7



 ワープしたい

最近、ずっと転職しようと思っていた。今の会社は仕事がなく、経営も危うい感じだ。会社には料金未払いの電話が絶えない。こないだは未払いの件で電話口で相手にストレスをぶつけられて腹が立った。給料も遅れる。来月、きちんと給料をもらえるのか正直不安だ。
仕事があって、しんどいのならばまだいい。仕事がないということが、自分を一番苦しませることなのだなあと思った。先週1週間は、全く仕事がなかった。仕事がなくて楽だなんてそんなの嘘だ。
そんな会社の状況や、考えなしの社長が嫌になり、私は転職のことばかりを考えるようになった。しかし、また、デザインの職を探すには、私には経験と自信が足りない。転職活動に耐えうるお金もない。八方ふさがりだった。自分がデザインを続けていってどうなりたいのかもわからない。続けたからといって、だからなんなのか。お金もない。貯金もできる余裕もない。借金は抱えている。自分は安定したい、そう思った。前の会社では、金よりやりたいことを選んだのに、今こういう状況に陥ると、金や安定した生活を望む。私はそういう奴だなあと思った。

自分の中でこうしたいというビジョンを描くのが好きだった。こうだったらいいのに。とか、もしこういうことをしたらもっとみんなが喜ぶだろうに…とか。でも、そういう理想は描くものの、実際どうしていったらいいのかわからない。
自分は考えることが好きだから、例えばものをつくる企画の仕事をしてみるとしよう。いい物が世に出せればそれはそれで満足だろうけれども、私はデザインに関われないことをきっと悲しく思うだろう。どこかでやっぱりデザインをしていたいと思う。
デザインをあきらめること。これは、好きだったのに別れて、ずっと忘れられない恋人に似ているなと思った。でも、その考えに行き着いた時ふと思った。いや、まてよ。仕事は関わり続けようとすれば、離れていくことはないのではないか…。恋愛と仕事は違うなと。

この間、会社の人と飲んだ時、同じ状況で、どう感じているのか聞いてみた。自分は、この先、どういうことをしていきたいのかわからないのが苦しくて、そのことを話した。会社の人は、今している仕事もこの先の仕事に通じていると思うし、はいったばかりでデザインらしいデザインはしていないけれども、それもデザイナーの仕事の一部だと思う、と言った。
目の前のことを1つ1つやっていくことがとにかく、大事なんじゃないかと言っていた。1歩1歩。このことは私が最も苦手としていたことだった。

先のことを考えるのもいいけれど、この先そうなるかなんてわからないのだから、自分の今できることを1つ1つやっていって、そこから生まれてくる気持ちを大事に進むのもいいのではないかと、そう言われた。

目から鱗だった。私はそういう風に考えたことはなかった。仕事は最初にビジョンがあって、そこに向かって進むものだと思っていた。(確かにその時そのときでビジョンは必要かもしれないが、もっと…なんというか、目標と言うか。やりたいことというのか…)

私は、歩かず、その場所にワープしたかったんだと思う。
足下も見ないとどうにもならんのだよなあ…。

2005.9.19



 サンラン途中。

自分が向かっている場所があいまいだ。みえそうで見えず、はっきりしない。
本を読んでいたら、10代20代で興味があってちょこちょこやっていたことは、30代40代になって1本につながると書いていた人がいた。今、自分は、自分が今まで興味があって手を出してきたことが、どんな風につながるんだろうかと考えている。
人間関係に対する興味。デザインに対する興味、絵や、書に対する興味、消費者に対する興味、販売、流通に対する興味、生活に対する興味。
前の会社に就職する前に、北海道に2ヶ月ファームステイをしていたことがある。牛の世話をするのだ。生き物を扱うとあって、牧場主は旅行にはいけないし、休みは取れない。雨の降った日は仕事ができないこともある。「晴耕雨読だ」と言っていた。毎日、牛にあげるえさのことを考え、配合し、えさをやる。牛を放して糞の掃除をして、寝床を作り直す。
乳しぼりをする。出荷する。ずっと仕事に根ざした生活だ。ある日そこの牛乳を使って売り出されたヨーグルトを食べた。ものすごくおいしかった。自分が毎日がんばって仕事していることがこんな風に人を感動させて、ファンをつけているんだなと思うと、妙に感慨深かった。いい仕事だなと思った。
 前の会社は小売業だった。普通の人たちの生活に携わりたくて、自分も店が好きで、そこで働くことにきめた。大きな組織だったので、簡単に商品を入れることができず、ある程度一般的に販売実績が上がった確実なものしか入ってこなかった。なので、お客さんが欲しいときには欲しいものは無く、欲しくなくなったときに店にその商品が並ぶという悪循環であった。欲しいものではなく、売りたいものを売場に並べ、それをどれだけ売るのか、という世界に疑問を感じていた。求められているものを売らなければ売れるわけがないじゃん、と思った。
ただ、面白さを感じたのは、小売業のジャッジはやはり、人間の習性にあると思ったということだ。たとえば、夏休みに学校で宿題がでる。毎日コンスタントに宿題をすることが好ましいとされていて、そうしろといわれる人も多いと思う。でも、小売業は夏休みの最後のほうに宿題をまとめてやったりする人に動かされているのだ。実際、文具売場の友達は、夏休みの最後のほうに日記をまとめて書く人のために、夏休み中の気温を表にして売場に貼っていた。正しいとされることではなくて、ついやってしまう、というような人間の習性や、基本的な欲望に応えるという点が小売にはある。
 糸井さんの「ほぼ日刊イトイ新聞の本」を読んでいたら、インターネットの可能性について書かれていた。自分が一日十万人が訪れるメディアを作ったら、それだけの人の意見をインターネットだったらリアルタイムで受け取ることができる、と。マーケティングでは遅いのだと。消費者がいつも一番早いのだと。それを読んで大いに納得した。
 今年の5月に佐藤卓(デザイナー)展を見に行った。ロッテのキシリトールガムや、明治のおいしい牛乳など、他にも幅広くデザインを手がけている人だ。それを見に行って、バーバーサインプロジェクトという企画があった。なんの変哲も無い路地裏などに床屋などにおいてある赤と青と白のネオンが置いてある写真が展示してあるのだが、これをみて、ああ、これだと思った。デザインというのは特別なものじゃなくて、こういう風に普通に風景に、日常に溶け込んでいるものなのだと思った。だから、そういうものを作っていくべきなんじゃないかと感じた。
 あったらうれしいと思うもの。こういうものが生活の中にあったらなんだかうれしいと思うもの。デザインものは高い。安くてもいいデザインのものを買うことはできないものなのか。毎日使うのがうれしくて、それがそこにあるのがうれしくなるような。
そういう風に社会と関わることはできないものだろうか。
2004.11.29


 焦り

「全体が見れてない。」
この間、スクールの授業のデッサンで、人物像を描いた。
そのときの講評会で私の絵は、先生にこう言われた。
「パーツパーツは描けているんだけど、全体がつかめてない」と。
それは自分の癖らしい。デッサンは、まず全体像をきめてから、細かいところを仕上げていく。全体、細部、全体、細部というように両方を見ていくことが必要なんだと思う。でも、私はできていない。

 今日は選挙に行った。成人して8年目にして初投票だった。会場の近所の中学校には、「大人」たちが絶え間なく投票しに来ていた。自分も大人、と定義されるんだけど、どうも投票に来る人たちと自分が、同じ社会で生きる「大人」とは思えない。なんだか投票所にいる自分に少し違和感を感じた。自分が社会とつながっていない、そう感じた。

 この感覚は、結構前からあった。初めて就職をしたくらいのときから、たまにその波がやってくる。
たとえば友達が役場で保健婦をしていると聞いたとき。
私は、当時転勤の多い会社で働いていて、ちっともなじみのない土地で働いていた。何年か働けば、そこの土地で一緒に働いている人と多少は仲良くなれるのだが、必ず転勤してしまうので、腰を落ち着けてずっと付き合うということはしなかったと思う。会社と家との往復の毎日で、サービス業なので、休みは平日。他の人たちと休みがずれることが多いので、休日に他の人たちをあんまり感じることもなく、すごしていた。
会社にずっと縛られていて、自分と会社。という感じで完結していた。ちょうどそのときに保健婦になった友達の話を聞いて、彼女は社会とつながってるんだなと、なんだかショックを受けたことを覚えている。

会社にいたとき、私は単なる平社員だったので、会社の中にいればよかった。一日中会社にしかいないので、天気はどうなのか、晴れているのか雨が降っているのかさえもわからなくてもやっていけた。小売業で、売場を任されているにも関わらず、職場の人間関係のことや、教育のことばかり考えていた。本来の商売という目的を忘れていたのだ。
ある日、クレーム処理についていったとき、お客様の生活のなかに販売していたものが大事におかれているのを知ったときに、初めて自分のしている仕事と、社会がつながったような気がした。
一部のものを見すぎて、全体像が見えていなかった。

今は会社を辞めたけれども、やはり知らない土地にいる私は、「つながっていない」。切れている。
実際一人で生活しているからかもしれない。
結婚したり、家族がいたり、その土地に根ざしていたらそうは思わないのかも知れないけど。
でも、要はきっと、自分が1単位として生きているかどうかだ。

一人前になりたいのに、中途半端になっている自分がもどかしい。
私は何とかして社会とつながりたい。
それには、今まで自分がこだわり続けてきた何かを捨てないといけないのかもしれない。
2004・7・11
 


 ホームページの力

 皆さん、はじめまして。サリヲと申します。
 いきなりですが、私は考え込む性格です。そして、頭の中だけで物事が整理できないので、今までは、ノートに思ったことを書き出したり、周りの人に自分の気持ちを話すことで考えをまとめていました。
しかし、周りに聞いてくれる人がいなかったり、自分の考えが客観視できないときはどうしたらいいのか?ノートに書くだけでもいいのですが、自己完結で終わってしまうのが寂しかったのです。
みんなに、自分がどんな風に感じているのか知って欲しかったし、それについての意見が聞きたいというのが、このホームページを立ち上げた目的のひとつです。
しゃべり場みたいなイメージです。もちろんそれだけでなくてもいいのですが。

 最近私の学生時代の友人TからもHPを開設したとメールが来ました。
早速アクセスしてみると、日記とBBSが主なページだったのですが、なかなか面白い。今は離れているけれど、その人がどんな風に今日一日を過ごしたか、何を感じていたかということがわかります。なんだか身近に感じました。
人のことってホントにわからない。でも、「日記」を通しての自己表現でその人を垣間見ることができる。なんだかつながれる気がしたのです。BBSにもかつての友達や、彼の今の仲間たちから書き込まれていて、「場」ができています。離れているけど、また会えたという。

インターネットの力でみんなとつながりたい!というのが私の願いです。
 



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