ローザ・ルクセンブルグのこと

1984年11月4日、友達の誘いで大阪大学の学際に出演することになったヒカシューのライブを見に行くことになった。ヒカシューはデビュー当時からよく聴いていたのだが、なぜかライブは1度も見たことがなく、ちょうど良い機会だと思ったのである。他の出演者として先に出演したのがイン・フェイクとローザ・ルクセンブルグで、2つとも音は全く知らなかった。ローザのほうは同志社大学でのライブがかなり良かったという評判を耳にしたことはあった。イン・フェイクのライブが始まったが、変にお洒落っぽいところがあまりな〜という感じ。

続いてローザの番となり、ボーカルの前説と共に、めちゃくちゃ上手い爆弾のようなドラミングと歯切れの良いカッティングとエイドリアン・ブリューのようにフィードバック・サウンドを炸裂させるギタリストに圧倒されてしまった。ベーシストもファンキーながら確実なテクニックを持っていた。それにあのひときわ存在感のある自由自在なボーカル。ズボンをずり下げて下半身はパンツまる見えで歌いまくっていた。なんかライブそのものが壮大でアナーキーなお祭りのように感じられるものだった。トリで本来の目的であるヒカシューも昔のテクノっぽいサウンドではなくて分厚くてテクニカルでプログレッシヴなかっこいいバンドになっていたので大いに感動した。しかし頭の中はローザの興奮で一杯であることは誤魔化せない事実でもあった。

このライブですっかりローザ・サウンドにまいってしまった私は、それを生で聴く快感の為ならどんな手間でも惜しむまいと考えるようになり、ライブ予告のチラシを手掛かりにその後関西で行われるライブにかたっぱしから通うようになった。11月10日拾得、12月16日京都文化会館、12月31日西部講堂大晦日、1985年1月24日に行われた梅田バーボンハウスまで。個人的には84年11月10日に京都拾得で行われた2時間に渡るワンマン・ライブが人生の歴代ベスト10に入るくらい最高の雰囲気だったと確信している。バンド、観客ともにとてもリラックスした雰囲気でゆったりと、激しく、笑えて、興奮できた、あの時の空気の特別な感触は未だに忘れられない。

全てのライブをカセット・テープに録音して家でも繰り返し聴きまくった。至福の時とはこういうものだと思った。曲名を言わずに演奏されたものに関しては、タイトルが分からないままのものもあり、つい最近やっと分かったものもある位だった。最初に発表されたソノシートを入手することはできなかったが、1985年2月にローザの『おしり』と『遠き山々』の収録された巻紙公一プロデュースのコンピレーション・アルバム『都に雨が降る如く』が発売され、フル・アルバムに向けての期待は高まった。

その後ローザはメジャーな事務所と契約し活動の拠点を東京に移して、MIDIレーベルよりファースト・アルバムをリリースする。このアルバム『ぷりぷり』を聴いた私はライブと比較してあまりにも薄っぺらな音に心底がっかりしてしまった。ローザの私が好きだった部分がすっかり削ぎ落とされてしまっており、しかもライブで定番で「これだけは入れてほしい」と思っていた『くちゃ』を初め、拾得で演奏された曲の多くが収録されていないのも気に入らなかった。その時点で私のローザ熱は冷めてしまい、しばらく京都に来なかったこともあってライブに行くこともなくなってしまった。

今、ファースト・アルバムをCDで大音量で聴きなおしてみると、そんなに悪くない。先入観がなくなったせいかライブを最後に見て久しいからか、かなり名作と感じてしまう。しかし、当時はこのアルバムより、自分で録音した貧相なライブ・カセットのほうがよっぽど豪快で分厚いサウンドだったと感じていたのである。ライブ・バンドのサウンドの魅力をスタジオ・レコーディングに詰め込む作業の難しさを実感した。

数年たってメジャー・デビュー後のローザのファンであるという女の子と知り合って、ローザの近況などを聞き、セカンド・アルバム(これは新鮮に聴くことができた)を聴いてみたりもした。当時の私のバンド熱をローザから引き継いだのは巻上公一プロデュースのコンピレーションにもローザと一緒に入っていたパパイヤ・パラノイアで、テクニカルで歌のおもしろいこのバンドはローザ不在の私の心を大いに満たしてくれた。パパイヤのほうはアルバムもとても気に入り愛聴していた。そのうちローザは解散することになったと聞き、解散が決まってから出たミニ・アルバムは買ったりもしたが、とうとうメジャー・デビュー以降1度もライブは見ず仕舞いとなった。

88年7月10日、どんとと永井の新しいバンド、ボ・ガンボスのライブが京都磔磔で行われ、友人の女の子に誘われて一緒に見に行った。相変わらずカリスマたっぷりのどんとは金髪になっていたが、雰囲気はローザのままだった。しかしボ・ガンボスはローザとは全く違うバンドで、どんとが押し進めたかった音楽的方向性を理解できたが、私の聴きたかったものとはかなり違っていた。翌年に玉城の新バンド、プラウダを見に行ったらそちらのほうがかなり自分に合っているように感じた。その後、なぜかボ・ガンボスも玉城も全く聴かない年月が流れ、90年代初頭頃はパパイヤ・パラノイアの石嶋由美子が全面的に参加していたこともあり、三原がドラムを叩いていたことも知らずにアイドルの宍戸留美などを愛聴していた。

1990年には三原がドラムで参加したスターリンのライブを見た(その前に三原が参加したルースターズはライブを見ることができなかったのだが、CDは聴きまくっていた)。1991年10月20日バナナホールでの少年ナイフのライブには、どんとがゲスト出演して数曲共演し、ドラムを叩いたりした。ローザは85年1月のバーボンハウスのライブで少年ナイフの『昆虫採集』をカバーしており(これが最高のカバー・ヴァージョンだった)、懐かしい思いがした。その後、少年ナイフは何度か見たが、2000年1月27日どんとの死の知らせをインターネットで知るまでは、ローザのことを思い出すことはなかった。

このネットを見てくれたどんとファンの方に誘っていただき、2002年11月3日に西部講堂で行われた「どんと院祭り」を見ることができた。ローザのメンバーや、ローザゆかりのミュージシャン達を久しぶりに見ることができて本当に懐かしかった。玉城のマチルダ・ロドリゲスによる京都時代のローザ・ナンバーのメドレーには狂喜して踊ってしまった。18年前のあの雰囲気が少しだけ自分の中で蘇った気がした。

ローザの1980年代中期の京都時代のライブ音源がオフィシャルで出れば、どんなに凄いだろうかなと考えたりもする。あの時期にローザに出会え、ローザがいた京都の雰囲気を味わい、音楽の喜びを共有できたのは奇跡のような体験だった。多くの人がそう思うように私にとっても何物にも替え難い財産である。
(2003年10月24日)

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