| ホーム > 講話(メッセージ) 神を愛し、人を愛す 黒 田 浩 史 牧師
主イエスは「第1の掟は神を愛すること、第2の掟は隣人を愛することである」と仰せになりました(マタイ22.37-39参照)。 旧約聖書の掟の総括とも言える十戒も、前半は神についての戒め、後半は対人関係における戒めに分けられます。そして、これらの2つは関連しており互いに切 り離すことはできません。 「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません」(一ヨハネ4.20)。神を信じ、神を愛していると言いながら、「Aさん、B さんは嫌いだから愛せません」というのはおかしいのです。 しかしまた、第1と第2の順序も大事です。神と出会い、神の恵みを感謝し、祈りを通して神と深く交わる体験があってはじめて隣人を愛することができるから です。 「愛する」とは、聖書の時代には心の中で好きになることではなく、困っている人や弱い立場にある人を実際に助けることでした。旧約聖書では寡婦や孤児など への暖かい配慮が勧められています。 愛の反対は憎しみではなく、無関心である、と言った人がいます。「私には関係がない。やりたい人がやればいいんじゃないの」という態度です。 しかし、信仰によって神と出会い、神に関心を持ってくると、隣人や困っている人たちへの関心が生まれてきます。神が彼らに関心を持たれ、大事にされている からです。 キリスト教では、貧しい人や病気の人の中に主イエス・キリストご自身の姿を見るという伝統があります。主キリストを大事に思う愛の気持ちがなければできな いことです。 ですから、隣人愛は、困っている人を助けるだけにとどまらず、赦し、人を受け入れる、理解する、謙遜などの形でも表れます。 この私が主キリストの十字架によって罪を赦されたので、他人をも赦すことができるのです。神であるのに僕の形を取られたキリストのお姿を見ると、私たちも 謙遜になります。 また、好意的解釈ないし善意の解釈も隣人愛のひとつと言えます。人間は罪人なので過ちを犯しますし、完璧なものなど、この世には存在しません。言葉にして も、語る人(書く人)だけでなく、聞く人(読む人)にも責任があります。反感や憎しみをもって聞くなら、憎しみがつのり、隣人愛からはますます遠のいてし まいます。 信仰によって、愛の心が広がっていきますように。 (「教会だより No. 124」より) |