| ホーム > 講話(メッセージ) 聖なる方に触れて 黒 田 浩 史 牧師
汚れた人間同士で生活しているときは、自分の汚れに気がつきません。しかし、聖なる方に触れた時、自らの罪を知らされます(ルカ5:1-11)。 主キリストの最初の弟子は、漁師のシモン・ペトロとその仲間たちでした。 一晩中漁をしたのに何も捕れなかったペトロたちに対して主は、「網を降ろして、漁をしなさい」と仰せになりました。魚は夜には動きが鈍くなるので、晩から 朝方にかけて漁をするのが普通です。今は昼間ですから、捕れる筈はありません。プロの漁師が夜通し働いて全然捕れなかったのに、今さら網を降ろしてみても 捕れるでしょうか。 この姿は、人間の知識、能力、経験の限界の姿です。人生には自分の力だけでは乗り越えることの出来ない困難が必ず襲って来ます。 ペトロは、今さら捕れる筈はないと思いながらも、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言い、そのとおりにしました。 ここには、自分の考えから180度向きを転換して神に心を向けた姿があります。人間は自分自身では行き詰まっているのです。頑なに自分の主義主張に固執し ていては、どこにも行き着きません。「しかし」と言って心の向きを神に向けるところに、神を信じる謙遜な姿があります。 すると、2そうの舟が沈みそうになる程たくさんの魚が捕れました。 これに驚いたペトロは思わず主キリストの足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫びました。 捕れる筈のない魚が大量に捕れたことの中に、主キリストの神としての姿や力を感じたのでしょう。聖なる方の前に、自分の罪を自覚したのです。 「あれこれの罪を犯しました」というのでもなく、「あれとこれは犯しましたが、他は潔白です」というのでもありません。それ以上に「わたしという人間は罪 に染まった悪い人間なのです」という罪認識です。 人は聖なるものに接した時、自分の罪に気がつかされます。聖なる書物(聖書)、聖なる建物(教会堂)、聖なる人(マザーテレサなど)です。自分との違いに 本能的に気が付き、「わたしには近づくことすら相応しくない」と感じるのでしょう。 しかし逆に言えば、少しでも汚れを清められて、聖なる方に近づいて行きたいと願っている証拠です。 主キリストは救いの網を低く低く降ろされ、わたしのような汚れた人間をも救って(拯って)くださいました。この網はまた、魂の奧深くまで降ろされ、罪を赦 し、弟子としてくださったのです。 (「教会だより No. 140」より) |