ホーム講話(メッセージ)

見えない者が見えるように

       黒 田 浩 史 牧師

神の御業は日々の生活の中に満ちています。信仰の目によって、それを見るか否かは、人生の分かれ目です。(ヨハネ9:1-41)

主イエス・キリストは病気の人を癒したり、パンを増やして飢えを満たしたり、数多くの奇跡を行なわれました。
しかし、パンにしても、満腹してそれでおしまいになるか、そこに神の業を見て畏れおののき信じていくか、皆さんならどちらでしょうか。

生まれつき目の見えなかった人が、主キリストによって目を癒され、見えるようにされました。最初は癒されたことが嬉しいだけで、主への感謝にまでは思いが 至りませんでした。
これは癒しという超自然的な現象に限ったことではありません。目の癒しには比べられないとしても、私たちの毎日の生活は、神の恵みの御業で満ちています。 自然にしても、神が造られた被造物です。春が近づくと雪が融けるのは当たり前と思うか、ここに神の不思議な御業を認めて、神を信じ、神の前にひざまずく か、の違いです。

神の御業を目の当たりにして、誰もがすぐに信仰に入るとは限りません。最初は、「ここには何かがある」と感じる程度かもしれません。教会に来ていなくて も、聖書やキリスト教の世界に僅かでも関心を抱いている人は、神の御業を認め始めている人です。

信仰の世界に少しずつ足を踏み入れていくと、周囲の価値観との間にズレが生じてきます。生き方が変わってきたのですから無理もありません。これまで夢中に なっていたことも、もはやそれほど魅力を感じなくなります。以前の友人とも話しが合わなくなります。神のおられる天に一歩近づいたのですから、当然なこと です。

そのようにして神のもとへ近づこうとする人に対し、主イエス・キリストご自身の方から近づいて来てくださいます。
目を癒された人も、最後には主イエス・キリストと再会し、「主よ、信じます」と言って、主の前にひざまずきました。
聖書の教えやキリスト教の歴史などを全部理解した上で信じるのではありません。ただ「信じたいのです」という気持ちだけで充分です。神は人の心をご覧にな り、受け入れられるからです。

それとは対照的に、ユダヤ教の指導者ファリサイ派の人々に向い、主は「あなたがたは『見える』と言っているので、あなたがたの罪は残る」と仰せになりまし た。
主は彼らの傲慢を咎められたのです。神のことを知っていると思っている私たちは、一人の罪人として神の前にへりくだり、赦しを請うて、できり限りの感謝を 神にささげなくてはなりません。

(「教会だより No. 153」(2005年3月発行)より)