ホーム講話(メッセージ)

救い主を迎えよ
       黒 田 浩 史 牧師

人は毎日眺めている人物の姿に不思議と似てくるものです。皆さんは普段、どういう人物を目にしていますか?

主イエス・キリストが宣教活動を始められる前、洗礼者ヨハネが人々に信仰の道を説きました。荒れ野でいなごと野蜜を食べ、粗末な身なりで祈りに励んでいた ヨハネは、一風変わった人物です。しかし、この姿は、人々にまことの信仰の気持ちを呼び起こさせました。富や権力や贅沢ではなく、神に仕える人生こそ、私 の求めていたものだ、と思ったのです(マルコ1:2-8)。
贅沢や快適な暮らしに憧れ、そういう人ばかり見ていると、欲が募るばかりで、自分もだんだん欲深い人間になっていきます。
ところが、荒れ野のヨハネの姿に接し、絶えずヨハネのことを考えるようになった当時の人々は、欲を満たすよりも、ひたすら神に仕えたいと思うようになりま した。

人々がヨハネの生き様から影響され、学んだことの一つに、謙遜があります。謙遜のついての教えを聞くだけでは、なかなか謙遜な人間になれません。謙遜な人 物に接してはじめて、自分も謙遜を身に付けていくことができるのでしょう。

ヨハネは大勢の人々から尊敬され慕われ、偉大な預言者か救い主であると思われていましたが、それを否定しました。「私こそ救い主である」と言えば、人々は 信じ、ユダヤ教の権威筋からも認められたことでしょうが、そうはしませんでした(ヨハネ1:19-28)。
神の前には一人の罪人に過ぎませんから、人の前で尊敬されたからといって、罪人でなくなるわけではありません。神の前でも、人の前でも同じ人物です。人と 接していても、常に神の前に立っているのですから、自分を偉く思ったりできる筈はありません。ヨハネは神の前でも人も前でも、ただありのままに自然に振 舞っただけなのでしょう。
しかし、そういう謙遜な態度を見て、人々は影響され、見倣っていきました。

ヨハネには数多くの弟子がいましたが、いよいよ主キリストが現われると、ヨハネは弟子たちを主キリストのもとへ連れて行きました。弟子を抱えた師匠という ものは、普通は弟子が離れるのを許さないものですし、他の師匠の所へ行ったりすると、その人物を妬んだり憎んだりするものです。
しかし、ヨハネは自分が偉くなるのではなく、主キリストが崇められることを願いました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言いました(3: 30)。
この後、当時のユダヤの王ヘロデに殺害されますが、主キリストによる救いの結果を見ずして世を去ったのも、ヨハネの謙遜をよく表しています。

待降節のこの季節、ヨハネのように自分を低くしてへりくだり、神様がすべてを良きに計らわれることに信頼し、救いの完成を静かに待つ心を養いたいもので す。
   
(「教会だより No. 162」(2005年12月発行)より)