| ホーム > 講話(メッセージ) 御心ならば 黒 田 浩 史 牧師
神の御心は、人間には完全に理解できるものではありませんが、それでも私たちは御心が知りたくなります。 重い皮膚病に掛かっている人が主キリストのもとに来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました(マルコ1:40-45)。 「御心ならば」と条件をつけているところが重要です。原文(ギリシア語)は「もし、あなたが願うならば」となっています。「願い」は心で行ないますから、 すなわち「御心」のことです。癒されたいという願いを訴えると共に、キリストの御心を尋ね求めているのです。 これに対し主キリストは、「私は願う」(新共同訳は「よろしい」)と答えられ、病気を癒されました。 この場合には、人間の願いと神の願い(御心)が一致しました。けれども、これらは果たしていつも一致するのでしょうか。しないこともあるはずです。 一致するかしないかはともかく、大事なことは、神様は私たち人間に対して何らかの願い(御心)を持っておられることです。 しかも、この病気の人の場合には、主キリストは彼の姿を見て、「深く憐れんで」から「私は願う」と御心を示されました。「深く憐れむ」と訳されている言葉 には、「お腹がよじれる思いがする」、「胸が張り裂けそうになる」という意味があります。地上の人間が毎日の生活の中でさまざまな苦労や悩みを抱えている 姿を見て、神様は胸が張り裂けるほど辛い思いをされた上で、何らかの願い(御心)を抱かれるのです。 御心を尋ね求めた重い皮膚病の人は、主キリストの前にひざまずいて懇願しました。神の前に謙虚にへりくだって助けを求める人の叫びに、神は耳を傾けてくだ さるということでしょう。 旧約の詩編にも、苦しみの中で神に助けを求めて叫ぶ詩が数多くあります。苦難の様子について、言葉を重ねて細かに描写し、神は何故助けなくてはならないか の理屈まで説明し、神に訴えています。 そうした詩編は大抵、最後に賛美と感謝で結ばれています。詩人は結局、助けられたのかどうか、分からない詩もありますが、祈りによって神と心が通じたこと を喜び、感謝をささげているのです。 神の御心と私の心とが祈りによって通じ合ったとき、実際の苦難はどうであれ、至福の喜びを感じるのです。神様は苦しみにある私たちを見て、決して見ぬふり をされたりはせず、何らかの御心を持ってくださることが分かってくるのです。 祈りによって神様の御心に触れたいものです。 (「教会だより No. 164」(2006年2月発行)より) |