| ホーム > 講話(メッセージ) 十字架のキリスト 黒 田 浩 史 牧師
復活祭(イースター)は、キリスト教の最大の祭りです。毎年、3月から4月にかけて、春の訪れと共に迎えます。 その一週間前は、棕櫚の主日を祝います。主キリストが十字架に掛けられるためにエルサレムに入城されたことの記念です。 棕櫚の主日の礼拝に参加する人は木の枝を切ってきて集まる習慣があります。エルサレムの人々が主キリストを凱旋の王のように迎えたようにです。 同時に、十字架へと向かう主キリストの行軍に連なり、共に十字架への道行を進むという意味があります。 多くの人は、自分も勝利の凱旋の王様の行列に連なりたいと願うでしょう。平和の時代であれば、お金、名誉、社会的地位、能力の正当な評価、などの行軍で す。キリスト者になっても、これらの欲にしがみついている人が多いのは、残念なことです。 けれども、主キリストを救い主と信じる人は、主の十字架の道を共に歩みます。人々から役立たずと思われたり、悪口を言われたりするのを甘受しなくてはなり ません。 棕櫚の主日には古くから、主のご受難の御言葉を聴く伝統があります。 四つの福音書にはいずれも、長い受難の記事があります。全体の流れとしては、主キリストはユダヤの裁判とローマの裁判によって死刑の判決を受け、十字架刑 に処された、というものです。 印象深い場面ばかりですが、最後に息を引き取られた時、ローマの百人隊長がそばで見ていて、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。無抵抗、非暴 力を貫いただけでなく、自分を十字架に付けた人々についてすらも、「彼らを赦してください」と祈られた姿を見て、信じたのでしょう。 十字架の主キリストは、人を赦す方であられました。 讃美歌第二編177番は、「彼らがわたしの主を十字架に掛けたとき、あなたはそこにいたのですか」という内容で始まります。十字架の下にいた、女性の弟子 たち、愛弟子ヨハネ、百人隊長などの気持ちと、自分の心を重ね合わせ、「あなたもいたのですか、わたしもいたのです」という気持ちです。「彼らをお赦しく ださい」の「彼ら」とは、ローマ兵士、総督ピラト、ユダヤ教の指導者たち、エルサレムの群衆だけでなく、このわたしも含まれているのです。 人間社会は裁くか裁かれるか、二つに一つの恐ろしい世界です。皆、自分勝手な尺度で人を裁き、自分の価値観を押し付けようとします。 けれども、十字架の下に裁きはありません。へりくだって主を信じる人には赦しが与えられます。十字架の下に立って赦しにあずかり、十字架の主を讃えましょ う。 (「教会だより No. 166」(2006年4月発行)より) |