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前回の更新から2ヶ月、サッカー・ワールドカップ・ドイツ大会は日本代表と応援するファンにとって残念な結果に終わってしまいました。
私たち夫婦は、特にサッカーファンというわけでもなく、1度だけもらったチケットで雨の三ツ沢競技場へJリーグの試合を見に行ったことがあるだけです。なかなか点が入らない試合によそ見をしていたら、突然空席の多い場内に歓声がわいて、ピッチを見たらゴールが決まった後でした。「スロー再生してくれ」と思ったけど、競技場では試合は進んでしまうのでした。
それでも、日本代表にとって今回のワールドカップ最後の試合になったブラジル戦は、夫婦で午前4時に起床、テレビの前で声援を送りました。当日の職場は、午後の生産性が低かったですよね。
ところで、「日本代表予選リーグ無勝敗退」という結果を、皆さんはどうお感じになったでしょうか。もちろん「嬉しかった」という人は少ないでしょうが、「よく頑張った」「ありがとう」とファンとして暖かく迎えますか、それともマスコミや評論家のように「もっと頑張れたはずだ」「プロ意識が足らない」と批判的でしょうか。
そうした批判的なメディアも、試合前には「予選突破も無理ではない」とか「目指せ、優勝!」なんて言っていたような気がします。そして、他国チームの選手も実力も知らない素人にわかファンは、期待を膨らませていきました。もしかしたら、多くのファンは、代表選手ではなくメディアに裏切られたのかもしれません。
ところで、そもそもなぜ私たちは、国際大会や海外で活躍する日本人選手の成績に一喜一憂するのでしょうか? 米国大リーグ・マリナーズのイチロー選手が、年間最多安打記録を更新した時の街の声に、「日本人の優秀さを見せてくれた」という趣旨のものがありました。しかし、イチロー選手の活躍で、日本人全体の価値が上がるとも思えません。異なった文化や環境の中でも、不断の努力を続け記録達成のプレッシャーと戦ったイチロー選手のおかげで、テレビ中継を見ていた人まで優秀だということになったら不公平です。
では、成績が悪かった選手を批判することはどうでしょう。プロ選手の場合は、音楽や演劇と同様に、入場料を払って競技場やコンサート会場に行ったのに満足いく内容の試合や演技が見られなければ、観客は選手や出演者に対して「もっとしっかりやれ」「金返せ」と批判して当然です。目の肥えた批判の上手な観客が、良い選手や俳優、演奏家を育てるでしょう。この点で、批判的な行為を自制する日本の観客は、ちょっとプロの選手や芸人に対して甘いのかもしれません。成田空港に帰ってきたサッカーの日本代表が、「もっと走れ」「パスばかりするな」という怒号のなかで生玉子やトマトでもぶつけられれば、もっと強いチームになるでしょうか。
ジーコ監督は、日本代表の敗因のひとつにプロ意識の欠如をあげていますが、意識だけで試合に勝てるわけはありません。プロとしての能力や経験、責任感によって、他チームの戦力を分析し、対策をたて、自ら練習に取り組み、体調管理をし、試合ではチームとして協調するといった具体的行動が、勝利につながるのでしょう。この意識は、単なる精神力ではありません。
ブラジル戦を前にして、メディアは「奇跡」を望むようになっていました。確かに、現実の試合では何が起こるか判りません(反則や負傷で主力選手が退場することもあります)。しかし、冷静に分析すれば、日本が勝利する可能性は、期待ほどには高くなかったのではないでしょうか。試合前の解説でも、「ここでFWが...」「DFが...すれば」「最後は気持ちで」と仮定と精神力で、「日本が3点差で勝つ」という予想を導き出していました。もちろん、試合が始まってからも、仮定がひとつ崩れたら、それを修正し新たな作戦で望めばよいのですが、それはできずに精神力も通じなかったようです。
太平洋戦争中の旧日本軍の作戦と行動を分析した、テレビ番組を見たことがあります。その中で、旧日本軍の作戦は、都合の良い分析結果を採用し、楽観的な作戦をたて、その作戦の結果予想に基づいて次の作戦をたてていた、と紹介していました。そして、作戦行動が不可能だということが判明した後も、新たに都合のいい仮定をたてては、それを修正することができずに、泥沼にはまっていったということです。
なかなか都合の悪いことは認めたくないものですし、奇跡を信じて猛進することは、気分が高揚して気持ちのいいものです。しかし、政府の政策判断や、企業の方針決定では、そうしたことがないように願いたいものです。
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